被爆者の声を世界に届けた記者魂


ルポ「ヒロシマ」

- ジョン・ハーシーと「ニューヨーカー」 -
<核兵器廃絶へのスタート>
 2017年、国連においてICANの主導によって提案された核兵器禁止条約が、120各国以上の賛成によって可決されました。その中心となったサーロー節子さんはアメリカを中心に世界中で自らの被爆体験を語る活動を続けた語り部の草分け的存在です。
 もちろんそうした被爆体験を世界に発信したのは、彼女が最初ではありません。戦後、アメリカの占領下だったことから日本国内で禁じられていた被爆体験の生の声をいち早くアメリカ国内、そして世界へ発信したジャーナリストがいました。ジョン・ハーシーというフリーのライターと雑誌「ニューヨーカー」の編集者たちです。
 彼はマッカーサーが指揮する占領軍によって、徹底的に抑え込まれていた広島の被害について、直接現地で取材を行い、それを「ニューヨーカー」の特別号として発表しました。しかし、それは様々な検閲や妨害を乗り越えた実現した困難な作業でした。改めて振り返ると、当時のアメリカに真実にこだわるジャーナリズムと民主主義が存在していたからこそ可能になった偉業だったのかもしれません。
 2020年になって発表されたその記事「ヒロシマ」の誕生秘話から、その時代を振り返ろうと思います。そこには、なぜ彼がその真実に迫まれたのか?なぜ、その記事を誰も書こうとしなかったのかが書かれています。
 その記事「ヒロシマ」は書籍化もされ、世界中に核兵器の恐ろしさを伝え、核兵器の使用に対する大いなる抑止力となりました。
 ではなぜ、そこまでの影響力を持てたのか?について、著者のハーシーはそれが「その記事が特定の兵器がもたらす恐怖心をもたらした」からではないと語っています。
「それはむしろ、記憶だ。広島で起きたことの記憶を伝えているからだ」そう語っていました。

<禁じられた原爆取材>
 1945年8月15日に日本が降伏し、第二次世界大戦は終わりました。そして、その戦争を終わらせたとされる米軍の最新兵器「原子爆弾」は、多くのアメリカ人に称賛されていました。原爆の投下後、アメリカで行われた世論調査では85%がその使用を是認し、23%は日本が降伏する前にもっと核兵器を使うべきだったと答えています。
 戦後、アメリカは広島、長崎において原爆がもたらした恐るべき被害を公表しなかっただけでなく、その取材活動も許しませんでした。そして、ほとんどの記者もその情報統制に従い、あえて広島、長崎についての取材を行っていませんでした。そこにはアメリカ人の多くが持つ反日感情や日本人への差別意識もあったようです。
 終戦直後、従軍記者だったウィルフレッド・バーチェットは、密かに広島を取材し、その調査結果を「デイリー・エクスプレス」に「原子力の疫病」というタイトルで発表しました。彼は被爆者がその後苦しんでいる放射線の影響による病についてその深刻な状況を明らかにしたのでした。
 しかし、原爆開発における軍の責任者グローブ中将はすぐにその記事に反論しました。
「もし、それが真実だとしても、人数はとても少ないだろう」さらには「あそこに永遠に住んでいられる」とまで言い放ったのです。
 その後、日本に派遣され調査を行ったトマス・F・ファレル准将は帝国ホテルで記者会見を行い、こう発表します。
「8月6日の爆発でガンマ線の影響で死にかけている日本人は数名で、報道は誇張されている」
 さらに彼はバーチェットの記事は、被害を大きく見せかけ同情をかおうという日本の宣伝活動に騙されていると完全否定。彼は撮影したフィルムを没収され、記者としての資格を取り消されることになりました。
 グローブス中将は、原子力に関する上院の特別委員会で医師たちによると「放射線障害はとても快適な死に方」と確証されたと述べています。

<疑惑の検証>
 原爆・放射線に関する政府の説明には明らかに疑惑がありました。しかし、当時アメリカではそのことを追求しようという空気はまったくなく、それが大きなネタになるとはどのマスコミも考えてはいなかったようです。でも雑誌「ニューヨーカー」のチームは違いました。
 「ニューヨーカー」の副編集長のウィリアム・ショーンと記者のジョン・ハーシー John Hersey は、「建物への被害ではなく、人間への被害」について、現地日本で調べる必要があると考えます。そこには間違いなく見逃されている大きなネタがあるはずだ。そう考えました。
 記者のジョン・ハーシーは、太平洋戦争の激戦地ガダルカナルなどでの戦場取材も経験していて、日本人に対する差別意識があることを自覚していたと言います。当時は「タイム」の記者とした従軍していました。

 戦争 - 広島と長崎の爆撃で頂点に達した -によってハーシーは、”人間の腐敗”と、仲間である人類をおとしめることが自分にもできるという事実を思い知らされた。彼は「もし」文明に何か意味があるとしたら、悪の道に引き込まれた凶悪な敵にさえも、”その人間性を認めなければならない”と気付いた。

 こうして広島への取材旅行が決まりましたが、問題はそこでの取材がオーケーになるかどうかでした。まだ当時は日本は完全なアメリカの占領下にあり、原爆に関する取材や調査は厳しい統制のもとにありました。それでもハーシーには、それを可能にする見込みもありました。

 ハーシーの戦時の記録から考えれば、ハーシーは認可される見込みが大きかった - <ニューヨーカー>の視点からは、彼は完璧なトロイアの木馬のような記者だった。彼は戦争中ずっと規則に従って行動していた。彼の仕事は全体的に、従順な愛国的記者という印象だった。

 彼がピュリツァ―賞を受賞した3作目の作品「アダノの鐘」は、第二次世界大戦の英雄パットン将軍の誇大妄想的な一面を描いたルポでしたが、軍にとってもやっかいな存在だったパットンへの批判は軍には十分許容できる範囲でした。
 こうした実績のおかげで、彼は当時ほとんどの記者が取材を行っていなかった広島での取材が可能になったのかもしれません。もうひとつ終戦から1年が過ぎ、世界の関心は広島の悲劇よりも戦犯に対する判決が下される「東京裁判」に移っていたことも幸いしたのかもしれません。
 ほとんどの報道機関にとって、原子爆弾のネタは古いものに見えていたのです。

<ビキニ環礁でのデモンストレーション>
 ハーシーが日本入りする直前の1946年7月1日、アメリカは再び核実験を公開で行います。それはある種マスコミへのデモンストレーションでもあり、招待されたマスコミは陸軍省の船から爆発の瞬間を目撃。遠くから見た爆発は、音も小さく恐ろしいはずの放射線も感じられませんでした。あまりのあっけなさに記者たちの多くは、広島、長崎の被害は過大に報告されたのだろうと考えたと言います。実際、海に浮かべた5隻の船を沈めただけの実験から広島の悲劇を想像することは不可能だったでしょう。
 このままだと広島の被害は闇に葬られるかもしれない。ハーシーはそう考えながら日本へと向かうことになりました。

<「サン・ルイス・レイ橋」>
 日本に中国経由で入国したハーシーは、その途中の満州でインフルエンザにかかり、日本行きの船の中で寝込んでしまいました。その間、船の乗組員が図書室からソーントン・ワイルダーの映画化もされている名著「サン・ルイス・レイ橋」(1927年)を持ってきてくれました。
 それは峡谷にかかる吊り橋を渡っていて、偶然、その橋が壊れて転落死した5人の被害者の物語です。なぜ5人はその日、その場所にいて死ぬことになったのか?それぞれの事故までの物語を描くドキュメンタリータッチのその手法にハーシーは、今回の取材にぴったりだと気が付きました。
 今こそ、数字や映像だけではなく、人間の物語として体感できるような原爆の描写をするべきである。そのためには、「読者に登場人物そのものになってもらって、いくらかでも痛みを感じさせる必要がある」そう彼は考えました。こうして来日した彼は、先ずは東京で広島での取材先についての調査・準備を開始します。

<証言者たち>
 東京でハーシーが紹介されたのは、広島で軍の指示で記録映像を撮影したハーバート・スサン中尉でした。彼が撮影した映像は、その後、何十年もの間機密扱いとなりますが、スサン中尉はそれを公開するべきと考えていました。
「この壊滅状態、この大虐殺を人々に見せることができれば、重大な平和の主張になるはず」と彼は考えていました。そうした思いから彼はハーシーへの協力を決心し、広島で活動しているヨハネス・シーメス神父に会いに行き協力を求めるよう助言してくれました。現地で自分自身も被爆し、その後、救済活動に奔走しているシーメス神父なら、他の取材可能な人物を紹介してもらえるということでした。
 こうして広島入りしたハーシーは、シーメス神父からハーシーのために通訳もしてくれることになるクラインゾルゲ神父を紹介されます。
<ウィルヘルム・クラインゾルゲ神父>
 ドイツ人の神父。彼はハーシーと日本人証言者の間で通訳を担当しただけでなく、証言をしてくれる被爆者を彼に紹介してくれました。
<谷本清牧師>
 広島の街が原爆によって炎に巻き込まれる中、被災者を助け続けたアメリカ帰りの教会の牧師。彼はその後、被爆者の皮膚移植のために再びアメリカに渡り、そこで後にノーベル平和賞を受賞することになるサーロー節子と出会い、彼女にも大きな影響を与えることになります。
<佐々木輝文医師>
 原爆投下当日、広島の病院で勤務中だった医師。多くの医師が命を落とす中、彼はかろうじて生き延びただけでなく、何百人もの患者を治療し続けました。
<藤井正和医師>
 個人病院を営んでいたが病院は原爆により倒壊。そのため、広島の崩壊した街の外で治療活動を行いました。
<中村初代>
 夫を戦争で亡くし、3人の子供を一人で育てていた母親。3人の子供は倒壊した家の下敷きになりましたが、彼女がそこから助け出しました。
 被爆者でありながら、3人の子供を育て上げた。
<佐々木とし子>
 当日、職場で事務作業中に被災。倒れて来た本棚の下敷きとなり、左足を骨折。48時間にわたり救助されず、その後、佐々木医師の治療を受けることになりました。かろうじて命は救われたものの、左足は曲がったままになってしまいました。

 広島での取材時、彼は過度に被爆者に同情的にならず、相手と対等の立場であろうし続け、それが被爆者たちに信用される理由でもあったようです。そうした彼の姿勢が証言者たちに信頼感をもたらし、6人の証言者たちから「生きた証言」を得ることを可能にしたと言えます。

 こうして彼は6人の被爆者から得た情報をそれぞれの立場でまとめ、6つの体験記としてまとめました。そして、その背景ともなる様々な情報を集めます。広島市では占領軍によって禁じられていた被爆者たちの健康情報や九州帝国大学により行われていた放射線の影響調査の結果などが密かに保存されていました。そうした情報を彼は入手し、それらが占領軍によって隠ぺいされていた事実も確認しました。

<発表の方法>
 こうして彼がまとめた記事は3万語に及び、当初は「ニューヨーカー」に何度かに分けて連載する計画でした。しかし、その内容の素晴らしさと重要性に気が付いた「ニューヨーカー」編集部はハーシーの記事を分けることをせずにまとめて掲載することを決断します。それどころか、通常必ず掲載され固定ファンもいるはずの「街の話題」「連載小説」「マンガ」などもその号からは排除することにしたのでした。これは多くの読者だけでなく雑誌のスポンサー、広告主たちにも秘密に行うことも、彼らは決めました。
 そもそも「ニューヨーカー」という雑誌は、「陽気でユーモラス、時に風刺的メッセージをこめた雑誌」として、20年を超える歴史を持っていました。それから都会のインテリ層を中心に売り上げをのばし、ユーモアとお洒落さを売りにした雑誌として、他のハードな報道雑誌とは一線を画するものでした。
 ただし、「ニューヨーカー」の創刊第1号の趣意書には「恐れることなく事実を、事実のすべてを提示する」と書かれていました。
 こうして「ニューヨーカー」の特別号は、社員でもほとんど知らない中、静かにその準備が進むことになりました。そして、そのタイトルは「ヒロシマ」に決定しました。

<情報統制の変化>
 1946年8月1日、トルーマン大統領が原子力法に署名。この法律により、原子力関連の情報は国家にとっての最重要情報に指定され、その漏洩やスパイ行為を行った者への罰則は、死刑や終身刑までありうる厳しいものとなりました。
 ハーシーらは自分たちの記事もまた部外秘にあたる可能性があり、発表することに危険が増したと感じていました。そこで彼らは記事を発表する前に政府からの許可を得る決断をします。そこで彼らはあえて原爆関連のトップに位置していたレズリー・グローヴス中将に提出し、検閲を仰ぐことにします。その時点で彼らはある程度の記事の変更はやむを得ないと考えていたようです。6人の被爆者の体験談が掲載できれば、被害や放射線の影響についての数字的な部分を削除することも受け入れる覚悟だったようです。
「アメリカは他国の一般大衆に対して人類史上先例のない規模の破壊行為をおこなって苦しめ、その新しい兵器に対する人類の代価を隠そうとした」
 彼らはこの本質さえ伝わればよいと考えたのでした。
 ところが意外なことに、グローヴス中将による変更指示はごくわずかでほとんどそのままの掲載が許可されました。その内容が、世界に衝撃を与え、大きな問題に発展するとは彼には予測できなかったようです。

<「ヒロシマ」発表>
 発表が近づくとハーシーは自分の記事が「ニューヨーカー」に掲載され、多額の収入を得ることに罪悪感を感じるようになり、「ヒロシマ」の再掲載による収入はすべてアメリカ赤十字に寄付することに決めていました。そして、発表後の混乱や取材を受けることを嫌がり、発表直前にニューヨークを離れ、田舎に逃げ込んでしまいました。
 1946年8月29日木曜日の朝、「ニューヨーカー」の特別号が発売され、何も知らない多くの読者に届けられました。
「ヒロシマ」特集号の最初のページにはこう書かれていました。

読者のみなさんへ。
今週号の<ニューヨーカー>は全誌面を使って、一発の原子爆弾によってほぼ完全に消されてしまった街について、そしてその街の人々の身に起きた出来事についての記事を掲載します。この兵器の途方もない破壊力を理解している者がほとんどおらず、誰もがその使用の恐ろしい意味を考える時間を持つべきだと確信してのことです。
編集部より

 「ニューヨーカー」特別号は発売後、すぐに話題となり、あっという間に売り切れました。ABCラジオは、6人の俳優を使って、「ヒロシマ」を4夜連続で朗読した特別番組を放送し大反響となりました。

<政府の対応>
 アメリカ政府は、「ヒロシマ」の話題が予想外に大きくなったことに衝撃を受け、対抗策を考えます。先ずは「ニューヨーカー」に対抗し、ライバル誌「ハーパーズ・マガジン」にヘンリー・L・スティムソン前陸軍長官による原子爆弾の使用についての説明を掲載。
 日本との戦闘をより早く、より少ない被害で終わらせるためには、原子爆弾の使用は最良の判断だった。広島で10万人が死亡したという数字に対しては、もし日本が無条件降伏をせず、アメリカ軍が上陸作戦を行っていたら、アメリカ軍だけでも100万人の死傷者を出したと推測されるという数字を発表。そう考えれば、原爆による犠牲は少ないと説明。(原爆の使用が決まる以前に日本軍から降伏の意志が伝えられていたことが後に明らかになります)
 ただし、この記事には原子爆弾がもたらす放射能の影響やその事実を隠ぺいしてきた政府の工作についての説明はなく、世論への影響は限定的でした。逆に「ニューヨーク・タイムズ」にはこう皮肉たっぷりに書かれていました。
「もっとも野蛮な戦争はもっとも情け深い、なぜならそれはより早く終わり、その終わり方が方法を正当化する」

 スティムソンは広島の出来事を無味乾燥な統計値に戻そうとしましたが、そうはなりませんでした。ハーシーが書いた「ヒロシマ」により核戦争の顔は、実在の6人の顔としっかりと結びついたいたからです。彼らの顔写真は、読者の目に焼き付きアメリカの多くの人々の脳裏に刻まれることになったのです。
 この後、「ヒロシマ」は書籍化され、世界11か国で出版され、各国でベスト・セラーになりました。ただし、核戦争のライバル国であるソ連と被爆国である日本での発売は当初はありませんでした。日本での発売は2年後の1949年8月25日のこと。6人の被爆者の一人でもあった谷本牧師の共訳によって出版され、ベストセラーとなりました。


「ヒロシマを暴いた男」 Fallout 2020年
(著)レスリー・M・M・ブルーム Lesley M.M. Blume
(訳)高山祥子
集英社


<雑誌「ニューヨーカー」に捧げられた映画>
「フレンチ・ディスパッチ  ザ・リバティ、カンザス・イブニング・サン別冊」
The French Dispatch of the Liberty, Kansas Evening Sun 
(監)(製)(脚)(原案)ウェス・アンダーソン(アメリカ)
(製)スティーヴン・レイルズ、ジェレミー・ドーソン(原案)ロマン・コッポラ、ヒューゴ・ギネス、ジェーソン・シュワルツマン
(撮)ロバート・イェーマン(PD)アダム・ストックハウゼン(衣)ミレーナ・カノネロ(編)アンドリュー・ワイスブラム(音)アレクサンドラ・デスプラ
(出)(ナレーション)アンジェリカ・ヒューストン
「確固たる名作」
ベニチオ・デル・トロ、エイドリアン・ブロディ、ティルダ・スウィントン、レア・セドゥ、ボブ・バラバン
「宣言書の改訂」
ティモシー・シャラメ、フランシス・マクドーマンド、リナ・クードリ、セシル・ドゥ・フランス
「警察署長の食事室」
ジェフリー・ライト、リーヴ・シュライバー、クリストフ・ヴァルツ、マシュー・アマルリック、ステフェン・パーク
エドワード・ノートン、シアーシャ・ローナン、ウィレム・デフォー
<編集部>
ビル・マーレイ、オーウェン・ウィルソン、エリザベス・モス
「ザ・ニューヨーカー」がモデルでその記者や執筆者に捧げられています。
ハロルド・ロス(創設者・編集長)、ウィリアム・ショウン(編集長)メーヴィス・ガラント、リリアン・ロス、ジョセフ・ミッチェル、E・B・ホワイト・・・
絵画、アニメ、建築、衣装、グルメ・・・豪華すぎる動く雑誌「フレンチ・ディスパッチ」の最終号 
画面構成、登場人物、俳優、衣装、部屋の配置、カメラの移動など
画面ごとの情報量が多すぎて見る方も大変です。(作る方も大変でしょうが・・・)

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