明日に向かって走り続けた伝説の女性アスリート


- 人見絹江 Kinue Hitomi -
<伝説のアスリートたち>
 日本のスポーツ史において、以前から僕は気になっていたことがありました。最近でこそ、日本人アスリートの世界的活躍は珍しくありませんが、それよりも遥か昔、日本がスポーツの世界で日本がトップの位置にいた時代があったことです。
 例えば、1920年のアントワープ・オリンピックにおける熊谷一弥のテニス・シングル、ダブルスでの銀メダル。1924年のパリ・オリンピックでレスリング・フリー・スタイルでの内藤克俊の銅メダル。1928年のアムステルダム・オリンピックにおける織田幹雄の三段跳びの金メダル、鶴田義行の平泳ぎの金メダル。
 当時、日本におけるスポーツは、誰もが楽しめる娯楽ではなく限られたエリートや学生のためのものでした。まだその時代は、国家が国威発揚のために後のヒトラーのようにスポーツに力を入れていたわけでもなかったようです。彼らは自費でオリンピックの会場へ行き、なんのサポートもなく競技会に参加し、そしてメダルを獲って帰って来たのです。今とは違い、当時は船で何週間もかけなければ、ヨーロッパへは行けず、開催地に行くだけでも冒険と呼べる旅立ったはずです。
 そんな環境下で普段以上の力を発揮してメダリストとなった選手の人間力は、選手としての才能、努力だけでは計れないレベルにあったはず。日本のスポーツ界は戦争によって、その勢いを失い、東京オリンピックまで長きにわたる低迷の時期に入りますが、それだけに戦前の日本人アスリートの輝きは驚きです。なぜ、彼らはあそこまで世界で活躍することができたのか?
 なかでも、女子アスリートの活躍が世界的にもまだ珍しかった時代にオリンピックでメダルを獲得して来た伝説のアスリート、人見絹江の活躍は今考えても驚異的です。テニスの熊谷選手や馬術のバロン西などは、商社マンと軍人というエリートだったからこそ、メダリストになれたのですが、彼女はそうしたエリートのアスリートとはまったく異なる人生を歩んでいます。
 なぜ、農家に生まれた普通の少女が伝説のアスリートとなったのか?彼女の人生を振り返ってみようと思います。

<天才少女現る>
 人見絹江が生まれたのは、1907年(明治40年)1月1日に岡山県岡山市の農家に生まれています。農家ではあったものの、進んだ考えを持っていた彼女の父親は、女子もこれからの時代は学問が必要と考えていたことから、彼女を岡山高等女学校に入学させます。しかし、父親の願いに反して、学問ではなくスポーツに熱中してしまいます。最初はテニス・プレイヤーとして大活躍しますが、学校にテニス・コートが二面しかなかったことから、練習時間があまったことから、彼女は空き時間に陸上競技に挑戦し始めます。体格的に恵まれていた彼女は、すぐにその才能を発揮し、卒業を前にした秋の陸上競技大会に出場。走り幅跳びでいきなり日本記録を塗り替えてしまいます。
 元々彼女は、当時の女性としては珍しく170cmを越える身長をもっていると同時に並外れた運動センスを併せ持っていました。(身長だけでは、一流のアスリートにはなれなかったはずです)その才能を生かすため、高女の校長は、父親に後に日本女子体育大学となる二階堂体操塾に彼女を入学させるよう説得します。(当時、卒業後は花嫁修業というのが普通でした)校長は、父親に卒業後は体育の教師にもなれると説明し、納得させます。(父親は、あまりに背が高い彼女は結婚より、職を持つべきと考えたのかもしれません)
 こうして、彼女は東京へと旅立ち、それが世界進出につながることになります。

<二階堂体操塾にて>
 東京に出た彼女は、優れたアスリートたちと共に二階堂体操塾で体育について基礎から学び直すことになります。当時の日本では、身体の鍛錬の価値を心の鍛錬と同様に重んじる傾向を強めていました。これもまたヨーロッパからの輸入でしたが、日本においてはその広がりはちょっと異なっていました。ヨーロッパでは、スポーツは貴族と学生の娯楽であり、戦闘訓練の延長にある存在でした。そのため、スポーツを学ぶのは、そうした上流階級出身者に絞られていました。それに対し、日本では明治維新時点で、身分の上下を差別せずに仕事を与えることが認められるようになっていました。そのため、彼女のように才能に恵まれた人ならば、たとえ農民出身でもその才能を生かせる土壌があったわけです。実は、この差別なきスポーツ参加、実力主義のやり方こそ、当時の日本が多くの世界的アスリートを生み出す理由の一つだったのです。
 ただし、彼女が入った体操塾は、オリンピックのメダリストを育てるための学校ではなく、日本各地の学校で体育教育の指導者となるためのものでした。そのため、彼女はそこで陸上のスペシャリストになるための教育ではなく、ダンスや体操など様々なジャンルのスポーツを体験。同時により強靭な基礎体力をつけることができました。そうした総合的な訓練はさらに彼女の能力を向上させ、非公認ながら三段跳びで世界新記録を出し周囲を驚かせることになりました。こうして彼女は世界での活躍に向け動き出すことになります。
 その活躍の場こそ、始まったばかりの女子オリンピックでした。

<女子オリンピック開催>
 1896年にアテネで開催された近代オリンピックは、その後も4年に一度のペースで開催され続けていました。しかし、女子が参加できる種目は、テニス、ゴルフ、アーチェリー、水泳など限られてもので、陸上競技への参加は許されていませんでした。元々男たちが戦争に向けた訓練の一環として始めたスポーツは、娯楽であると同時に軍事訓練でもあり、そこに女子が参加する必要はないと考えられていました。それに、女性が人前で肌、肉体をさらしたり、必死の形相を見せるなど、はしたないとも考えられていました。
 しかし、20世紀に入り、女性たちの意識が変わり始め、男性と同じようにスポーツを楽しむ人が増えると、女性もオリンピックで活躍するチャンスが与えられていいはずと考える人物が登場します。中でもフランスのアリス・ミリアは、オリンピックの陸上競技にも女子を参加させるよう国際オリンピック連盟に働きかけますが、それを拒否されます。そこで彼女は自ら国際女子スポーツ連盟を立ち上げ、1922年にオリンピックとは別に女子オリンピック大会(公式には国際女子競技大会)をフランスのパリで開催します。そして、より多くの国から参加してもらおうと、世界中に参加を呼びかけます。その呼びかけは、ヨーロッパだけでなくアジアの新興国日本にも届けられました。
 アリス・ミリアの活動が実り、1928年オランダで行われたアムステルダム・オリンピックから、女子の陸上も競技種目に選ばれることになります。

<世界の舞台へ>
 二階堂体操塾を卒業した彼女は、体育の教師ではなく記者として大阪毎日新聞に入社。そこへ、彼女に第二回女子オリンピック(1926年)への出場要請がきます。しかし、この時、実際にオリンピックに出場することになったのは、彼女一人だけでした。そして、まだ19歳の彼女はたった一人で船とシベリア鉄道を乗り継いでオリンピックの開催地となったスウェーデンのヨーテボリに向かうことになりました。まさに冒険です。かつて、クーベルタン男爵はオリンピックについて「参加することに意義がある」といいましたが、当時のオリンピックならその言葉も納得です。開催地にたどり着けただけでも、達成感がありそうですが、彼女はそこでたったひとりで戦い、世界を驚かせることになります。
 その大会で彼女は、走り幅跳びと立ち幅跳び二種目で優勝。円盤投げで2位。100ヤード走で3位となりました。この大会では、種目別だけでなくその総合成績も評価の対象となり、彼女は見事に個人総合優勝(国際女子スポーツ連盟名誉賞)を成し遂げました。彼女は初出場にして一気に陸上界の女王の座を獲得したのです。
 残念ながら、国際オリンピック連盟はこの大会をオリンピックとは認めていなかったため、彼女の記録はオリンピックの歴史に刻まれてはいませんが、その快挙は日本中を驚かせました。

<ライバルのトラブル>
 彼女の活躍により女子スポーツへの注目度は高まり、彼女のライバルとなる女子アスリートたちが現れることになります。特に有名なのは、双子の姉妹ランナー、寺尾正(きみ)と文(ふみ)です。文は、絹江の記録を破っただけでなく100mの世界記録を出し、1927年の全国大会で50m走と100m走で姉妹は2,3位となります。(もちろん1位は人見です)
 3人が1928年開催予定のアムステルダム・オリンピックに出場すれば、個人走だけでなくリレーでもメダルを獲得できるかもしれない。いよいよ日本中で3人は注目の的になります。そして、背が高く男勝りの体格の人見と違って見た目もかわいらしい姉妹は、国民的なアイドル・スターとなってしまいます。まさかそれが二人のオリンピック出場に待ったをかけることになるとは・・・。
 姉妹の人気に目を付けた雑誌「婦人倶楽部」が双子の美人スプリンターを主人公とする小説の連載を始めます。一応、フィクションとはなっていたものの、モデルが寺尾姉妹であることは明らかでした。そのうえ小説の中の姉妹は恋多き女として描かれ、スポーツ根性小説どころか濃厚な恋愛小説として描かれていたのです。そして小説が話題になるにつれ、姉妹は小説の主人公のように見られ始めます。スキャンダラスな姉妹での恋人の奪いが描かれる内容に姉妹の父親は激怒。嫁入り前の娘をこれ以上世間のさらし者にしたくないと、陸上競技から引退させてしまいます。これで姉妹はオリンピックどころか陸上界からも消えてしまいました。

<孤独な戦い>
 せっかく女子オリンピックに出場できることになった彼女ですが、女子選手はまたも彼女一人だけとなります。そうなると、彼女は女子スポーツの未来を一人で背負うプレッシャーと戦う必要が生じてきました。なぜなら、せっかくできた陸上女子の出場枠で彼女が活躍しなければ、再び女子の参加が無くなる可能性もあったからです。そのうえ、それまでの彼女の成績から彼女へのメダルの期待は大きなものになっていました。現地のマスコミも彼女を優勝候補として注目していて、そのプレシャーに押しつぶされるように最も自信を持ち力を入れて臨んだ100走で彼女は準決勝で敗退してしまいます。
 このままでは日本に帰れない。彼女は悲愴な覚悟で今まで練習すらほとんどしたことのなかった種目、800m走にエントリーし勝負を賭けます。中距離走は、短距離とはまったく異なる走法を必要とする競技で、そこにはペース配分も含め、しっかりとしたゲーム・プランが必要でした。経験もなく、作戦を示してくれるコーチもいない彼女がどう作戦を立てたのか?
 決勝で彼女はスタートと同時に先頭に立ちます。しかし、その後、トップの走りを確認するようにしながら後方へと下がります。800mという距離をトップで走り続けることは無理と判断した彼女は、後ろからレース展開を伺いながら走り続けます。そして、最後の一周、一気に勝負をかけて後方から追い上げると先頭に迫る2位でフィニッシュ。見事銀メダルを獲得しました。それは、彼女の能力が体力だけではなくメンタルと頭脳にも支えられていることを証明したレースとなりました。

<偉大なる遺産>
 帰国後、彼女は一度は引退を決意しますが、アリス・ミリアからの手紙によって励まされ、1930年に開催されることになった第3回女子オリンピック(国際女子競技大会)に向けて再び活動を開始します。しかし、それは競技者としての練習だけではなく、日本の女子選手の今後の遺産を残すための活動でもありました。チェコのプラハで開催される大会に参加するには、それぞれの選手が高額の旅費を必要とします。そのため彼女は本業の新聞記者としての仕事以外に、候補選手たちのための合宿、遠征費のために資金を集めようと奔走します。その努力のおかげもあり、プラハでの大会にはついに彼女以外にも中西みち、村岡美枝ら5人の選手が出場することが可能になりました。そして、競技者としての練習量が大幅に削られたにも関わらず、彼女は本大会で実力を発揮。走り幅跳びでの優勝を含め、総合でも2位となりました。
 帰国後、国民の期待はあくまでも総合優勝や100m走での金メダルにあったことを知り、彼女は失望します。肉体的にも精神的にも大会のために全力を出し切った彼女は、そこから体調を崩し、翌年、肺炎を患い、あっという間にこの世を去ってしまいます。強靭な肉体の持ち主が、享年24歳というあまりにも早すぎる死でした。
 多くの才能を背負ってしまった彼女は、女子スポーツ全体の重荷を一身に背負い、走り続けました。彼女の活躍のおかげでその後も日本の女子スポーツは発展を遂げ、第二次世界大戦によって一時はストップするものの、その後、東京オリンピックでは見事に復活を証明し、今やオリンピックの日本選手団の半数以上は女子選手となり、メダルの獲得も日本は女子頼みと言って良い状況になりました。
 多くの女子アスリート、特に陸上の選手たちが人見絹江にリスペクトを捧げるのは、当然のことです。

「公評」 2016年7月号

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