- ザ・ヒットパレード、ザ・ピーナッツ、加山雄三 -

<歌謡界を変えた人々>
 終戦後、日本の歌謡界はアメリカからの影響を受け大きく変わり始めます。それは先ず進駐軍が持ち込んだジャズの洗礼を受けるところから始まりました。しかし、ジャズのブームは以外に短いもので、すぐに時代は次の展開へと進みます。アメリカン・ポップスのカバー曲が次々にヒットしたことも、新しい時代の始まりを象徴していました。そして、そのきっかけとなったのが、人気テレビ番組「ザ・ヒットパレード」でした。その番組に関わった歌手や作曲家、訳詞家、作詞家らは、その後日本の歌謡界をリードする存在となります。ここでは、そうした歌謡界を変えることになる人々について書いてみようと思います。

ザ・ヒットパレード 翻訳家から作詞家へ ザ・ピーナッツ 加山雄三

<「ザ・ヒットパレード」の功績>
 1959年(昭和34年)から10年間続いたフジテレビの大ヒット番組です。
 洋楽のヒット曲に日本語の訳詞をつけて歌うカウントダウン形式の番組としてスタート。出演者の多くは、渡辺プロのアーティストたちで、坂本九、ダニー飯田、弘田三枝子、九重佑三子とパラダイスキング、ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、伊東ゆかり・・・などでした。
 当初は、ほとんどの曲がアメリカン・ポップスのヒット曲でしたが、時代の変化とともにカンツォーネ、フレンチ・ポップス、映画音楽も登場しました。もちろん、時代の変化に合わせてビートルズやビーチボーイズなど、リヴァプール・サウンドやサーフ・ミュージックなど、ロック系の曲も登場するようになり、そのために出演者の顔ぶれも変わってゆきます。
 スリーファンキーズ、ジャニーズ、内田裕也、寺内タケシとブルージーンズからタイガースなどGSのグループなど、ソロではないバンド・スタイルのアーティストが登場。時代の流れを映し出しつつ、日本に洋楽を浸透させてゆきました。

<日本人と洋楽>
 戦争中、英語どころか欧米の音楽をすべて禁じられていた日本人にとって、進駐軍としてやって来た英語の歌は、すぐに受け入れられるものではありませんでした。当時、最初に受け入れられたのが、唄のないジャズだったというのは、そこに英語の歌詞がなかったからかもしれません。ただし、洋楽を日本人が受け入れられなかったのは、反米感情からくるものだけではありませんでした。それよりも、メロディーとしての洋楽スタイルが日本人の耳になじまなかったことの方が理由としては大きかったはずです。
 日本人が昔からなじんできた「ヨナ抜き音階」は、民謡や演歌に受け継がれていて、それを心地よいと感じる遺伝子が日本人には埋め込まれていたのです。こうした日本人の耳を、先ずは日本語に翻訳した歌詞で慣れさせ、少しずつ洋楽に慣れさせたのが、「ザ・ヒットパレード」だったといえるかもしれません。(これは、映画と同様、アメリカによる親米意識植え付けの作戦だったと考える見方もあるかもしれませんが、それは必然だったとも考えられると思います)

<翻訳家の活躍>
 洋楽の日本語化において、最も重要な役目を果たしたのは、やはり翻訳家の仕事でした。まだほとんどの日本人が英語を知らず、アメリカの生活や文化についても何も知らなかった日本人が、アメリカのヒット曲を訳するのは、今は楽でも当時は大変なことだったはずです。第一、コカコーラを飲んだことがなく、サーフィンも見たことすらない人間たちが翻訳するのは、基本無理なはずです。(それ以前に当時の日本は著作権を無視した今の中国よりも悪い国でしたが、アメリカはその点でもあえて見て見ぬふりをしていたのかもしれません。その付けは後に回ってくることになります)
 毎週送られてくるそうした西欧のヒット曲を次々に翻訳していたのは、漣健児、岩谷時子、安井かずみらの若手翻訳家たちでした。彼らが、洋楽ポップスの魅力を日本語に移し変えることができたからこそ、日本人に洋楽が受け入れられるようになったわけです。そして、彼らの多くはそうして掴んだ翻訳のテクニックと洋楽の作詞センスを武器にオリジナル曲の作詞家としても活躍してゆくことになります。
漣健児「ルイジアナ・ママ」(訳詞)
岩谷時子「ふりむかないで」「恋のバカンス」ザ・ピーナッツ、「ウナ・セラ・ディ東京」和田弘とマヒナスターズ、「君といつまでも」加山雄三、「逢いたくて逢いたくて」園まり、「恋の季節」ピンキーとキラーズ、「いいじゃないの幸せならば」佐良直美、「男の子女の子」郷ひろみ
安井かずみ「おしゃべりな真珠」「恋のしずく」伊東ゆかり、「シー・シー・シー」ザ・タイガース、「私の城下町」小柳ルミ子、「小さな体験」郷ひろみ、「小さな恋」天地真理、「危険なふたり」沢田研二、「赤い風船」浅田美代子、「激しい恋」西城秀樹、「花はどこへいった」(訳詞)、そして後に加藤和彦と運命的な結婚をし、その死まで幸福な夫婦生活を続けることになります。

<ザ・ピーナッツ>
 こうした洋楽系の歌をヒットさせたアーティストの中で特に重要なのは、歌手としてだけでなく「ザ・ヒットパレード」の司会としても活躍していたザ・ピーナッツです。彼女たちは、デビュー当初は、やはり洋楽のカバー曲を専門に歌うデュオでしたが、その後、洋楽風のオリジナル歌謡曲を歌うようになり、「ウナ・セラ・ディ東京」や「恋のバカンス」などを次々にヒットさせ歌謡界を代表する存在となりました。
 ザ・ピーナッツの音楽の特徴として独特のコーラス・アレンジがあります。普通のコーラスの場合は、主旋律がありそれにハモリを加えることになりますが、二人の場合は、セカンド・ライン(副旋律)も主役に聴こえるように計算されていたといいます。なるほど、だからこそ彼女たちの歌声はあんなにも美しく聴こえていたのです。
 こうした歌い方は、エヴァリー・ブラザースやビートルズが洋楽の世界でいち早く行っていたもので、それをいち早く取り入れていたのが、ザ・ピーナッツの育ての親の一人、宮川泰でした。この宮川泰や中村八大、そしてこの番組の構成・演出を担当していたすぎやまこういちなど、洋楽の影響を強く受けていた作曲家たちが活躍を始めることで、日本オリジナルのポップスが次々に作られるようになり、歌謡界を少しずつ変えてゆくことになります。
 「ザ・ヒットパレード」は、洋楽から日本語による洋楽へ、日本語による洋楽から日本製オリジナル洋楽(歌謡ポップス)へという流れにおける重要なつなぎ役だったといえます。

<加山雄三は元祖シンガー・ソングライター>
 加山雄三の存在は、若大将と呼ばれた映画スターとしてのイメージが強いのですが、日本の音楽界における彼の存在は実は非常に大きいといえます。それは彼こそ日本初のシンガー・ソングライターであり、エレキギターを用いた洋楽バンド・スタイルのオリジナル曲をヒットさせた先駆者だということです。
 彼の大ヒット曲「君といつまでも」は、100万枚を売り上げる特大ヒットとなり、1966年度のレコード大賞は当然と思われていました。ところが、レコード大賞を受賞したのは橋幸夫の「霧氷」。当時、この審査はおかしいと審査委員会は大きな批判を受けることになりました。しかし、当時の歌謡界は、レコード会社とその専属の作曲家、作詞家、そして歌手によってヒット曲が作られるという構図があり、歌い手自らが作曲した曲が賞を取ることは、プロの作曲家の存在を否定することにもなりかねない、業界ではそう考えられていたようです。当時の加山雄三人気が物凄かったこともあり、批判を恐れた審査委員会は急遽レコード大賞特別賞を創設し、彼にその賞を与えて批判に備えました。この賞は今でも続いていますが、元々は彼のために作られたものだったようです!
 加山雄三が、当時から作曲者のクレジットに自分の名前ではなく「弾厚作」というペンネームを用いていたのはそうした業界のしきたりに対する配慮だったのかもしれません。実は彼の登場自体が業界の常識を覆すものでした。しかし、彼のような存在は当時はまだ異色の存在で、歌謡界のシステムを変えるほどの影響を与えることはありませんでした。とはいえ、彼の活躍をきっかけにして、レコード会社が作り上げたヒット曲の生産システムは少しずつ変更を余儀なくされることになります。

<規格外の若者>
 加山雄三は、日本を代表する大物俳優、上原謙の息子でした。しかし、彼はそうした家庭環境を表に出さずに育てられ、昭和35年に慶応大学を卒業した後はそのまま一般人として大手商社に入社することが決まっていました。しかし、子供の頃から両親とヨットに乗り、海を舞台にした生活を送ってきた彼は、普通の社会人では考えられない大型のヨットを持つという目標を持っていました。そんな時、上原謙の息子である彼の卒業を知った芸能界から映画界入りのオファーが来ます。
「芸能界入りすれば、一気に稼げてヨットだってすぐに買えるんじゃないの!」という友人の言葉に彼は、芸能界入りを決意したそうです。(もちろん、それは後に彼が語ったことです)もちろん芸能界ナンバー1のサラブレッドは、芸能界入りした時点で、その話題性から別格扱いを受けることは必然でした。
 彼にとっての音楽活動はそうした芸能活動の一つではあっても、与えられてやる仕事ではありませんでした。それは彼が昔からやっていた楽しみのひとつであり、自分が作った歌いたい歌を歌うことは必然的なことでした。エレキギターを手にするのも、ヨットに乗るのも、それは彼にとってごく自然な趣味のひとつだったわけです。彼のファンは、そんな彼の私生活を知ることで、彼のライフスタイル全体への憧れを感じることになったわけです。加山雄三のファンは、彼のファンであると同時に、日本人全体が憧れていた新たなライフスタイルのファンでもありました。
 こうして、プロの歌手がプロの作曲家、作詞家、そしてプロのバンドと共に作る歌謡曲の世界に、そうした歌謡界の枠からはずれた存在が現われたのでした。

<時代を代表するアイドル>
 この後、彼は映画界、音楽界のアイドルとして、神奈川、湘南を代表するアイドルとして、海とヨットを愛する男たちのアイドルとして、高度経済成長下の日本人全体にとってのアイドルとして、圧倒的な人気を獲得することになります。
 彼は現在でいうと湘南を代表するバンド、サザン・オールスターズの桑田佳祐の先駆であり、バブル時代のアイドルでもあった松任谷由美の先駆であったともいえます。
 僕が1980年代にスキューバ・ダイビングにはまっていた頃、僕が通っていたダイビングショップのオーナーは、やはり加山雄三の大ファンでした。加山雄三に憧れてエレキギターにはまった人、シンガーソングライターを目指した人、ヨットマンになった人、サーファーになった人、スキーにはまった人、とにかく、多くの若者たちが彼に憧れて新しい何かにはまることで日本人のライフスタイルは少しずつ変わることになります。
 加山雄三と石原裕次郎、二人の若者は再スタートを切った日本の青春時代の象徴となりました。

<参考>
「歌謡曲」
 2004年
(著)林哲司
音楽之友社

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