- 映画草創期のヒーローたち -

<ハリウッド建設>
 この年、アメリカのロサンゼルス郊外に映画製作のための街、ハリウッドが建設されました。今や「映画の都」であり、すべての映画人が目標とする夢の土地でもあるハリウッドは、映画を作る街として20世紀に誕生した人口の街なのです。しかし、それがアメリカのカリフォルニアに建設されたのには大きな理由がありました。その理由を知るために、もう少し歴史をさかのぼり、映画誕生の瞬間から話を始めてみたいと思います。

<映画の誕生>
 映画の誕生については、昔から複数の説があり、未だにその決着はついていません。それはいくつかの国がその発明に関わっており、「おらが国こそ映画発祥の地である」と主張しているからです。
 1893年、アメリカの発明王エジソンがキネトスコープという映画の原点ともいえる装置を発明し、一般に公開しました。これが最も古い映画のかたちなのですが、これは小さな穴から覗き見をする一人用の映像装置だったため、映写機と映写幕からなる現在の映画には直接結びつかないとされ、一般的には最初の映画とは認められていません。
 1895年11月1日、ドイツのストラダノフスキー兄弟がベルリンで映画の上映会を行いました。これこそが世界で最初の映画上映会だったといえます。ただし、この数週間後12月28日にパリのカフェで映画の上映会を行なったフランス人のリュミエール兄弟こそが、現時点では映画の発明者といわれています。
 それは技術的にストラダノフスキーのビデオ・スコープ方式より、リュミエール兄弟のシネマトグラフの方が優れており、現在の映画に近いとされているからです。1891年、エジソンは自らの開発したキネトグラフとキネトスコープの特許を登録しましたが、海外での登録は行いませんでした。それでもキネトスコープは娯楽に飢えていたアメリカで大いに受け、その後はヨーロッパ各地へも広まって行きました。この成功で満足したのか、エジソンは多数の観客を前に上映する映画の開発に着手しなかっただけでなく、特許申請の際、彼は映写幕(スクリーン)の使用について記述することをしませんでした。これは彼にとっても、アメリカの映画産業にとっても、大きなミスで、そのおかげでアメリカの映画界はヨーロッパの映画界に対して、当初は大きな遅れをとることになります。

<リュミエール兄弟とジュルジュ・メリエス>
 オーギュストとルイのリュミエール兄弟は発明家であると同時に写真乾板製造工場の持ち主でありました。そして、彼らはそれ以上に優れた経営手腕をもつと同時に先見の明をも併せ持つ起業家でもありました。だからこそ、彼らは大勢の観客から入場料を取って見せるという映画の興行システムが必ず成功すると予想できたのかもしれません。元々ヨーロッパの場合、演劇やオペラなど劇場を中心とする文化が根付いていたため、劇場で大勢の観客の前で上映するのはごく自然な発想だったともいえます。
 こうして、彼らはパリの名所グラン・カフェの地下に100席の上映会場を設置し1フランの入場料を取って映画を見せるという最初の映画館を自らの手でオープンさせました。すると、すぐにこの映画館はパリ中の話題となり、多くの観客が訪れるようになります。その中には、当時パリで人気の奇術師ジョルジュ・メリエスもいました。彼は映画を見てその魅力と秘められた可能性に気づき自ら映画製作に乗り出します。
 当時公開されていた映画のほとんどは、単に日常生活をフィルムに写し取った記録映像にすぎなかったのですが、メリエスは自らの手で映画の新しい可能性を切り拓いて行きます。特に彼が奇術師だからこそ生まれた「特殊撮影」の技法は、その後映画の概念を一新することになり、映画史に残る世界初のSF&SFX映画「月世界旅行」を生み出すことにもなりました。
 しかし、メリエスもリュミエール兄弟も、どちらも職人気質の人物だったため、映画を「産業製品」としてとらえるのではなく、手作りの「工芸品」ととらえる傾向にあり、安価なコストで大量に作って利益を得るという発想には欠けていました。もちろん、まだまだ市場規模が小さかったヨーロッパの映画市場ではそれで十分だったのかもしれません。ところが、大西洋の向こう側の新大陸では映画の市場が、誰もが予想できなかったほど急速に拡大しつつありました。

<映画の国、アメリカ>
 アメリカにおける移民の急激な増加は、それだけでも映画の市場拡大につながりましたが、世界各地からやってきた異なる言語を話す移民たちにとって、映画=「動く映像」というわかりやすい娯楽は願ってもないものでした。こうして、ヨーロッパのように芸術の伝統をもたない寄せ集め民族集団のアメリカでは、誰もが楽しめる共通の娯楽として映画が広まってゆくことになったのです。こうして、アメリカは世界最大の映画市場として発展をし続けることになり、そのために増え続ける映画館の数に対応できる映画業界の再構築が求められることになりました。
 この時期はまだアメリカの配給会社によって公開される作品数の倍以上をフランスの配給会社パテ社が公開しており、映画業界はほぼフランスの一人勝ち状態でした。しかし、アメリカの映画業界は積極的に映画産業の拡大に挑戦します。それは投資家から巨額の資金を調達することからはじまり、業界を「製作」、「配給」、「公開」、「宣伝広告」などの分野に分けることで業界の分業化を進め、より効率的で拡大可能な企業を作り上げようというものでした。ただしこうした企業の拡大路線は、映画産業だけに限ったことではありませんでした。この後、音楽業界も、やはりこの拡大化路線に巻き込まれてゆくことになります。アメリカの巨大な市場に対応するためには、企業は大きくなればなるほど生産、流通、広告宣伝、販売にかけるコストも巨額になり、失敗した時のリスクもまた大きくなります。例えば、アトランティック・レーベルのようにロック、R&Bのナンバー1レーベルにまで登りつめながら経営的にはかえって厳しくなり、ついには大手に株を売却し、経営権を譲り渡した企業がどれだけあったことか。レコードに比べ遥かに大きな投資を必要とする映画の世界ではさらにその傾向が強いわけです。

<ニッケル・オデオンの登場>
 アメリカに映画を普及させるきっかけとなった大きなきっかけのひとつとしてニッケル・オデオンの登場があります。「ニッケル」とは5セント玉のことで「ニッケル・オデオン」とは5セントで入場できる映画館のことです。アメリカのピッツバーグでハリス兄弟が始めたのがニッケル・オデオンの原型とされ、そこでは週に6日、朝から夜中まで15分毎にプログラムと観客を入れ替えるという方式により上映されていました。この方式で、わずか5セントづつとはいえ、毎日7000〜8000人もの観客が入場したそうですから、それだけで40000ドル近い売り上げになったわけです。もちろん、このタイプの映画館は長編映画が一般的になるのとともに急速に消えてゆくことになりますが、映画人口の急増に果たした役割は非常に大きなものがありました。

<ニッケル・オデオンが生んだ業界人たち>
 「ニッケル・オデオン」の黄金時代はごく短かいものでしたが、そのおかげで次なる映画界のリーダーたちが数多く生まれることになりました。そしてその多くはヨーロッパからやって来た若いユダヤ系の移民たちでした。
 ポーランドからやって来てペンシルヴァニア州で自動車のセールスマンをしていたハーリー・ワーナーとその兄弟は、ニューカッスルで映画館をオープンさせました。その後、彼らは映画の製作にも乗り出してゆきます。これがワーナー・ブラザース社の誕生です。
 ドイツからやって来たカール・レムリは、映画館どうしでフィルムを交換することで、より安価により多くの映画を公開できることに着目、フィルムの交換・レンタル業を始め、その仕事をする中で映画の作品数が絶対的に不足していることを痛感。エジソンのもとで映画「大列車強盗」を監督したエドウィン・ポーターを引き抜いて自ら映画製作会社を立ち上げました。こうしてユニヴァーサル映画は誕生しました。
 ハンガリーからやって来て、毛皮商として稼いでいたアドルフ・ズーカーも映画館を始めた後、配給業に乗り出し、アラスカのゴールドラッシュで一攫千金を成し遂げたジェシー・ラスキーとコンビを組んで「パラマウント映画」を立ち上げました。その他、「20世紀フォックス」、「MGMメトロ・ゴールドウィン・メイヤー」もまたこの時期に設立された企業です。アメリカ映画の黄金時代を築いた企業は、みなこの時期に誕生したのです。

<バビロンからの脱出、ハリウッド誕生>
 元々映画産業の発展と特許の問題は、大きな関わりがありました。映画に関しては、エジソンの立ち上げたキネトスコープ社やリュミエール兄弟のシネマトグラフだけでなく世界各地で数多くの特許が登録されていて、1900年代の前半はその権利問題に関する法廷闘争が無数に発生し、映画の発展を阻害していました。
 1905年になると、それらの問題は一段落しましたが、再び新たな法廷闘争が発生します。それは、この時点で次々に淘汰された中で生き残った勝ち組2派の勢力争いでもありました。一方はエジソンを中心とする数多くの特許をもつグループMPPC(Motion Picture Patents Company)、そしてそれに対抗していたのが、ユダヤ系のプロデューサーを中心とする独立系映画会社たちのグループでした。
 こうして、前述の新興映画会社が次々に映画業界に参入し始めると、面白くないのは映画の特許を数多く持つエジソン社とそこから分かれて立ち上げられたバイオグラフ社でした。彼らは、MPPCのもつ特許権を盾にとって、新会社の映画製作を妨害するようになります。そして、訴訟だけならまだしも、撮影用のカメラやセットを壊すなど、ヤクザ顔負けの方法をとるようになって行きました。そのため、独立系の小さな映画会社は映画の撮影を秘密裏に室内のスタジオで行ったりするなどの苦労を強いられました。そんな状況から脱するために考えられた方法が、ニューヨークを遥かに離れた土地、カリフォルニアへの移住だったわけです。
 彼らによって、新しい映画の街として白羽の矢が立てられたのは、まだほとんど未開の地だったロサンゼルス郊外のヒイラギ(Holly Wood)林でした。当時、ロサンゼルスの人口はわずか1万人でした。しかし、一年のうち350日は晴れるという気候条件は映画を撮るには最適で、人件費も大幅に安くすみました。こうして、この年1907年には、早くもハリウッド製の映画が作られるようになり、1918年の第一次世界大戦終了時には、世界で製作されている映画の80%近くがハリウッド製になっていたといいます。「映画の都」ハリウッドは、アメリカ開拓史の最終章として誕生した街だったともいえそうです。

<スター誕生>
 ハリウッドの誕生と同じ時期、映画界に「スター」が誕生しました。実は、映画が誕生して以降、1910年ごろまで映画俳優とは匿名的な存在でした。アレグザンダー・ウォーカーの「スターダム - ハリウッド現象の光りと影」にこうあります。
 スターの第一の特性、つまり一個人としての識別性(アイデンティティー)はお客には隠されていた。これはすべて、有名になった俳優から知名度にふさわしい高い俸給を要求されて悩んだ劇場の興行主の轍を踏むのを恐れた映画製作者の強制によるものだと思われがちだが、決してそうではない。映画の俳優の間にも喜んで責任から逃れようとする気持ちがあったに違いない。というのは、映画での演技は長い間職業としてはかなり不名誉なものとみなされていたからだ。

 さらにいうと、当時誕生した「スター」はみな女性でした。「イル・トロヴァーレ」(1909年)のフランチェスカ・ベルティーニ、「ルクレチア・ボルジア」(1910年)のマリア・ヤコビニ、「王家の虎」(1914年)のピナ・メニケッリはイタリア映画界の三大ディーヴァと呼ばれていましたが、同時期にイタリアだけでなくどの国にも男性のスーパー・スターは存在しませんでした。基本的に映画界の観客の多くが男性だった影響はあるでしょう。
 映画界に最初の男性アイドルが誕生するのは1920年代のこと、ルドルフ・バレンチノまで待たなければなりません。

 ハリウッドにおける有名な金言にこんなのがあります。
「Focus on the Money ! 金に焦点を合わせろ!」
 ここでいう「Money」は、「Star」と言い換えが可能でしょう。
   
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