1979年

- ルッホラー・ホメイニ Ruhollah Khomeini -

<世界を変えた革命>
 20世紀、世界の歴史を変えた革命がいくつもありました。なかでも有名なのは「ロシア革命」「キューバ革命」などの社会主義革命と、その逆向きの革命ともいえる「東西ドイツの統一」「ソ連の崩壊」は、特に重要といえるでしょう。これらの事件は、特に西欧社会にとっては重要な出来事であり、世界中に大きな影響を与えました。しかし、20世紀の後半、正確には1979年に後の世界史に大きな影響を与えることになるもうひとつの革命が起きています。それは一般的に「イラン・イスラム革命」と呼ばれている宗教革命です。この革命については、「ロシア革命」のような社会主義革命に比べると、あまり語られることがありません。それはこの革命が西欧人、日本人にはあまり関わりのないイスラム教という宗教における革命だからかもしれません。しかし、21世紀に入って起きたあの同時多発テロ事件やそこから始まったアフガニスタンやイラクへの多国籍軍による攻撃、そして終わりのない紛争のことを考えるとき。それらの原点ともいえる「イラン・イスラム革命」のもつ重要性は改めて考えるべきことのように思えます。そうでなくとも、日本人、西欧人はイスラム世界について知らないことが多すぎます。理解のないところに、平和は生まれないのですから・・・オバマさんというイスラム教を理解できる大統領の登場は、神様による素晴らしい配慮だった。・・・そうなることを祈りたいと思います。
 先ずは、そうした理解のきっかけとなるように「イラン・イスラム革命」とその主役となったホメイニ師について少しだけ調べてみました。

<宗教革命家ホメイニ師の誕生>
 「イラン・イスラム革命」について語る前に、先ずはその革命の精神的指導者となったホメイニ師について、そしてイスラム教の基本知識について書いておきます。
 後のホメイニ師、ルッホラー・ムサヴィー・ホメイニは1902年ごろ(正確な生年月日は不詳)に生まれ、彼の名前の由来でもあるイラン西部海抜1800mの高地にある街、ホメインで育ちました。彼の父親はウラマーと呼ばれる厳格な宗教学者で、地元の地主の暴虐ぶりを批判したために虐殺されたといわれています。ミドルネームのムサヴィーは、預言者ムハンマドの男系の子孫であることを示すものでした。(「ルッホラー」は「神の啓示を受けた者」のこと)
 預言者ムハンマドの言葉を絶対的なものとするイスラムの人々にとって、ホメイニ師はその直系の預言者ということですから人々が信頼するのは当然のことでした。ただし、ホメイニ師はイスラム教の預言者とはいっても、イラン人をその中心とするシーア派に属しています。問題はそのシーア派がイスラム教における少数派で、主流派であるスンニー派の90%に比べほんのわずかしかいないということです。では、シーア派とスンニー派とは、どう違うのでしょうか?

<シーア派とスンニー派>
 シーア派とスンニー派は、同じイスラム教の教えに従うという点で戒律などの違いはほとんどないそうです。ではなぜ対立しているのでしょう?どうやらそれは戒律とは別のもっと泥臭い「血」の問題にあるようです。
 かつて偉大な預言者ムハンマドがこの世を去った後、宗教指導者たちの間で後継者争いが起き、その直系の子孫が暗殺されるという事件が起きました。この時、後継者の座を奪った(継いだ?)人物を中心に現在のスンニー派(主流派)が誕生することになりました。(もちろん、その後継者は血がつながっていませんでした)それに対し、暗殺されたムハンマドの血を引く生き残りが作ったとされるのがシーア派(反主流派)となったわけです。(ただし、本当に生き残りがいたのか?本当に血を継いだ者なのか?それもまた明らかではありません)
 どちらも、歴史的な根拠はいいかげんなようで、実際にはペルシャ系(白人系)の血を引くイラン人とそれ以外アラブ系(アジア系)の人々が、それぞれ我こそはムハンマドの直系であると言いたいがために起こした分裂と考えるのが一般的なようです。

<青年ホメイニの選んだ道>
 若きホメイニは当然偉大な父親のようなウラマーになることを目指し、イスラムの学問を学び始めます。シーア派の偉大なウラマーであるハーイリー・セズディーを師とした彼は、1930年代半ばには、若くしてウラマーの地位を得ます。そして、その後1960年代半ばまで、教育者として多くの学生に哲学、倫理学、神智学、法学などを教えました。1944年、彼は政治的な主張を盛り込んだ初の著作「秘密の暴露」を発表。その中で彼は当時の王朝による圧制を批判しています。
 1963年、イランで起きた反政府運動の盛り上がりにおいて、その影響力の大きさを恐れた国王は、彼を国外追放処分としました。彼はその後イラクにあるイスラム教の聖地ナジャフに住み、そこで弟子たちを育てながらイスラム教による革命の思想を確立してゆくことになりました。この時の彼の弟子が後にイランの政権を担うことになり、ナジャフの街は、イラン・イラクのシーア派を結ぶ革命勢力の拠点となります。
 1970年、彼は王制を否定し、イスラム教に基づく国家体制の必要性を主張した著作「法学者の監督」を発表します。イラン革命の理論的な基礎は、ここでほぼ完成されたといえます。そして、1978年、イランで反体制の民衆運動が起きると、彼はそこに精神的指導者として登場。一躍、その名を世界中に知られることになりました。
 この時、国外にいたホメイニ師の説教がカセットとして密輸され、それがイラン国内で大量にコピーされて、多くの人々の手に渡りました。放送や出版活動が検閲によって厳しく規制されている状況で一般家庭にも普及していたカセットは非常に大きな役目を果たし、この「イラン革命」は、後に「カセット革命」とも呼ばれることにもなります。
(実は僕が昔働いていた会社で、コーラン時計というものを作り輸出していました。それは定時になるとカセットに録音されたコーランが自動的に流れるようになったイスラム圏向けの時計でした。密かに売れていましたが、いやあ、怪しげな商売でしたね)
 政府は武力によって運動を鎮圧しようとしましたが、殉教することを恐れない民衆を前にそうした弾圧はまったく効果がなく、1979年2月長い歴史をもつイランの王制は崩壊しました。

<革命の成功から海外へ>
 革命政府は当初、原理主義派、穏健派、左翼などバラバラな主義主張をもつグループの集合体でした。しかし、亡命していたホメイニ師が帰国すると、すべては彼を中心に動き出すようになりました。宗教指導者をトップとする宗教から成り立つ原理主義国家がこうして誕生することになりました。それは世界を驚かせる出来事でした。なぜなら、世界の歴史において、宗教はどの国においても政治から切り離され、年々その影響が衰えつつあることは誰の目にも明らかだったからです。その世界的な常識が見事にひっくり返されたことで世界中が衝撃を受けることになったのです。
 そのうえ、その革命の主役たちは自国で革命を成功させただけではなく、その動きを広めるかのようにイランのアメリカ大使館を占拠するという事件(1979年)までも起こします。それはかつて連合国がイランを占領して国王を自分たちの都合で交代させた1941年の事件や同じようにモサデク政権の時代に追い出された国王をCIAが復帰させた1953年の事件などに対する報復であると同時に、反米の旗の基にイスラムの国々、イスラム教の人々が結集し、新たな時代を築き始めようという呼びかけであったようにも思えます。
 ただし、こうしたイスラム原理主義の広がりは周りのイスラム諸国の多くに受け入れられなかったのも確かでした。特にスンニー派のイラクはその間にイランへの侵攻作戦を実行し、イラン・イラク戦争が起きることになります。ここから、あのフセインが登場し、さらなる世界危機が生まれることになるのです。
 この時、米ソが対立していた冷戦時代以来、再び世界は二つの勢力圏に分けられることになったといえます。ホメイニ師は、この時、アメリカにつくか、イスラムの教えに従うかを世界の国々に問いかけ、その判断を迫ったといえるでしょう。それは、9・11同時多発テロ事件の後、ブッシュ大統領が世界中の国々に「我々につくか、二者択一だ」と迫ったのによく似ています。
 こうして、世界は西側東側というイデオロギー対立ではなく、宗教による対立の時代に突入することになったのでした。

<なぜ原理主義が?>
 イスラム教、それも過激な思想をもつ原理派がなぜそれだけの力を持ちえたのか?それは、間違いなくそれまでの歴史において西欧キリスト教諸国が行なってきた反イスラム的な政策に対する復讐であり反発であることは間違いありません。ホメイニ師の登場と世界へのメッセージ発信を受け、世界各地でそうした思いを抱き続けていたイスラムの青年たちが立ち上がることになります。その中から、後にアルカイーダに発展することになるイスラム教信者の組織ムジャヒディンのとその設立者アッザームとあのウサマ・ヴィン・ラディンが登場してくることにもなります。
 なぜ、青年たちはそこまで西欧諸国に反発を覚えることになったのか?そこが理解できない限り、イスラム諸国とキリスト教その他の国々との相互理解はありえないはず。イスラムの人々の多くは日本に対して、かつて日露戦争ではロシアを倒し、第二次世界大戦でアメリカに戦いを挑んで敗れたものの、その後経済によってそのアメリカに勝利した素晴らしい国というイメージがあり、けっして悪い印象ばかりではありません。それと、日韓ワールドカップ・サッカー以降、あれほど険悪だった日本と韓国との関係において、国民レベルでの相互理解が急激に深まったという素晴らしい例もあります。
 僕自身もトルコやモロッコを一人で旅したことがあり、その際、イスラムの人々の正直さと誇り高さに感動。かつて日本人が持っていたであろう懐かしい「我が家」の感覚にウルウルきたものです。人間一人一人のレベルなら、間違いなく相互理解は可能だと僕は思っています。
 願わくば、オバマ大統領というイスラム教を理解する人物が登場したことで事態が好転することを願いたいものです。

20世紀事件簿へ   トップページへ