- 本多猪四郎 Ishiro Honda & ゴジラ &円谷英二 -

<「イノさんのトランク」>
 先日、NHKBSのドキュメンタリー番組「イノさんのトランク」を見ました。本田猪四郎監督(イノシロウではなくイシロウと読むそうです)が第二次世界大戦中に書いた手紙や日誌などを収めた革製のトランクを死後20年を前に初めて開け、当時の彼の思いを明らかにするという内容。さらに彼が盟友として生涯付き合い続けた世界の巨匠黒澤明監督との交流を共通の友人から本多氏の妻となった方のインタビューをもとによみがえらせるというものでした。
 番組の最後にかかったキャロル・キングの名曲「You've Got A Friend」にはしびれました。「遠く離れていても、いつでも僕はいる・・・」という歌詞は、本多が戦場に行っていた時期に日本で映画を撮っていた黒澤にあてた手紙を思い起こさせます。彼が黒澤最後の5作品すべてに監督補佐として関わっていて、撮影を進める上で重要な役目を果たしていたことはほとんど知られていないはずです。
 彼が監督した歴史的反戦エコロジー映画「ゴジラ」も含めて、改めて本多猪四郎監督の仕事と人生を振り返ろうと思います。

<本多猪四郎>
 本多猪四郎は、1911年5月7日山形県で生まれた後、小学生の時に東京に引っ越しています。(黒澤明より1歳若かったことになります)当時、時代の最先端だった映画の世界に憧れていた彼は、開設されたばかりの日本大学芸術学部の映画科に入学。そこで講師を勤めていた東宝の前身PCLの森岩雄に薦められ卒業前の1933年に入社。そこで黒澤明や谷口千吉らとともに働き始め、巨匠山本嘉次郎の助監督をしながら修行を積みました。

<戦場へ、苦難の時>
 映画業界はまだまだ人材を必要としていましたが、残念ながら時代は戦争へと向かいつつありました。そして1937年に日中戦争が始まると彼のもとに赤紙(召集令状)が届きます。こうして彼は三度の徴兵により8年もの長きにわたり戦地で戦うことを余儀なくされました。その間、彼は戦地での日々を日記に書き残しながら、映画の仕事に戻ることだけを目標に日々を過ごしていたといいます。多くの仲間が命を落とし、正気を失って行く中、無事に生き延び満州で終戦をむかえた彼は戦争中、黒澤明らと手紙のやりとりを続けていました。(この時期も黒澤は戦場に向かうことなく、「姿三四郎」で監督デビューし、成功への第一歩を踏み出していました)もしかすると、無事戦場から戻ることができたのは、こうした手紙のやり取りをすることで「映画への愛情」を保ち続けることで「生き残る意志」を失わなかったからかもしれません。

<終戦、映画界への復帰>
 終戦後の1946年、彼は満州から日本に帰国。その時、すでに35歳になっていました。映画業界はまだ復活にはほど遠い状況でした。そのため、東宝からは彼に別の道に進むようにとの勧めがあったようですが、映画監督になることしか考えていなかった彼は、助監督からの再スタートを願い出ます。ところが30代半ばの助監督を多くの監督は敬遠してしまい彼には仕事がなかなか回ってきませんでした。そんな中、彼を救ったのは親友の黒澤明でした。彼は自身が監督する映画「野良犬」に本多を参加させ、終戦後の東京の混沌とした街を撮りまくることを指示。こうして、「野良犬」にはリアルなやみ市の映像が加えられ、他の映画とは一線を画するリアリズムの傑作という評価を得ることになります。
 1951年彼は40歳にして、ついに初監督映画「青い真珠」を撮りました。この作品は、日本映画初の水中撮影を用いた映画で、この後の彼の特殊撮影との関わりを暗示していたのかもしれません。
 なんでもこなせる職人タイプの監督として評価されるようになった彼は、1953年の戦争大作「太平洋の鷲」を大ヒットさせ、人気監督の仲間入りを果たします。そしてこの映画の戦闘シーンで特殊撮影を担当した円谷英二とともに次なる作品の企画に入ります。

<「ゴジラ」誕生>
 世界の映画史に残る作品「ゴジラ」が生まれたのにはいくつかの理由がありました。
(1)円谷英二が特撮の技術を生かした怪物の映画を企画していたこと。(彼の特撮技術なくしてこの映画は生まれなかったといえます。実際、この映画は本編班と特撮班、二班に分かれて撮影されており、映画の半分は円谷の作品といえます)
(2)アメリカのSF映画で「原子怪獣現る」という作品が公開され話題になっていたこと。
(3)南太平洋で行われた水爆実験により第五福竜丸が被爆するという事件が起きたこと
(4)満州から帰国し東京へと戻る途中だった本多が見たヒロシマの惨状。
 これらのことが重なることで、それまでの怪獣とは全く異なる複雑な生物「ゴジラ」が誕生することになりました。
 ゴジラが東京湾の大戸島(架空の島)に上陸したのが3月13日。その直後に東京に上陸しています。偶然かもしれませんが、第五福竜丸が焼津港に寄港したのが3月14日でした。

「ゴジラ」 1954年
(監)(脚)本多猪四郎(原)香山滋(脚)村田武雄(撮)玉井正夫(特撮)円谷英二
(音)伊福部昭(この映画の素晴らしい音楽もまた成功の要因のひとつでした)
(出)志村喬、宝田明、平田昭彦、河内桃子

「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへ現われてくるかもしれない。」
映画「ゴジラ」の中の志村喬の科白

 この映画の世界的なヒットにより監督の本多以上に有名になったのが、特殊撮影担当の円谷英二でした。彼こそ、怪獣特撮の元祖とされますが、それまでも特撮映画は存在しており、技法の新しさだけが評価されたわけではありません。実は、「ゴジラ」の撮影を行う前年、円谷はドイツが生んだ巨匠ジョセフ・フォンスタンバーグの助監督をつとめていたのです。作品は日本で撮影された貴重な映画「アナタハン」。当時、日本が負った莫大な戦勝国への借金を減らすため、日本を舞台した映画が何本も撮られました。その一本が「アナタハン」でした。当時すでにアメリカに移住していたスタンバーグは、ハリウッド映画の監督として、来日し映画を撮っていったわけです。(ちなみに、そうした戦勝国によるロケ映画の大傑作があの「ローマの休日」です)
 マレーネ・ディートリッヒの名作「嘆きの天使」でみせたドイツ映画ならではの「光と影」の美学。その技術を彼は直接そばで見ることになりました。「ゴジラ」のあの不気味な「モノクロ映像」の美しさは、ドイツ映画の影響を強く受けていたと考えるとなんだか納得です。

<アメリカ版との違い>(追記2014年7月)
 「ゴジラ」がアメリカでも大ヒットしたのには、秘密があったことを最近知りました。アメリカ版の「ゴジラ」とはかなりの編集がなされていたようです。先ず、アメリカ人にそれが日本製の映画だと思わせないための工夫。当時「Made In Japan」といえば、少し前に「Made In Chaina」に多くの人が持っていたイメージと同じく、「安かろう、悪かろう」でした。そこで、アメリカ版では新たにアメリカ人の記者が主人公として追加され、彼が日本でリポートを行いながら危険に見舞われるという設定にしています。その記者は「刑事アイアンサイド」で有名なレイモンド・バーでした。アメリカ公開の際のポスターも日本映画だとわかる部分はまったくありません。
 さらに重要なのは、アメリカ版においてはゴジラ出現の原因とされる「水爆実験」についての言及がまたくないことです。もちろん、ラストの志村喬による重い原爆批判のセリフもカットされていたようです。アメリカの少年たちが見た「ゴジラ」は単なる特撮怪獣映画だったわけです。

<円谷英二の創造的特撮技術>(追記2014年3月)
 映画の中の国会議事堂はなんとお菓子のウエハースを組み合わせて作ったものだそうです!そして、その中に小さな棚が隠されていて、その上に灰が乗っていたそうです。それをゴジラが壊すと、建物の中から「灰」が粉塵のように出てくるという仕掛けでした。
 空撮された東京湾の映像は寒天に青く着色し、その表面をブラシで荒らして波が輝く模様に似せています。これもまたどう見ても光り輝く「海」そのものというか、本物以上に「海」らしい映像です。
 こうした特撮のアイデアを生み出した円谷英二は、この映画の成功により「特撮監督」(特技監督)という世界初の職業名を与えられることになります。彼は、その後、特撮が主役となる作品を撮るために自らの制作会社「円谷プロ」を設立。映画の衰退に対応して、テレビの世界に進出。日本初の特撮が主役のテレビドラマ「ウルトラQ」を制作。その成功を受けて、伝説的テレビ・シリーズ「ウルトラマン」が誕生することになります。当時の「円谷プロ」には、特撮映画に憧れた若者たちが集まり、ものすごい熱気だったようです。その熱気は、20世紀末の「スタジオ・ジブリ」を思い浮かべると近いでしょう。当時の円谷英二は「特撮の神様」と世界中から高き評価を受ける存在で、宮崎駿の存在とそっくりでした。ただし、宮崎駿のそばに鈴木敏夫氏がいて、スタジオ・ジブリの手綱をしっかりと握っていたのに対し、円谷プロは神のワンマンだったため、その後「ウルトラマン」の時代には巨額の赤字に苦しむことになります。そこが大きな違いだったかもしれません。

「映画の中に描かれる怪物は、つねにその社会が懸命になって抑圧し、排除しようとしているものの現われである。」
四方田犬彦「映画史への招待」より
 現代において最も抑圧されている存在は、「死」だと思います。だからこそ、今最も熱いスーパースターは「ゾンビ」なのです。

<「ゴジラ映画」の迷走>
 「ゴジラ」は日本でヒットしただけでなく世界中で大ヒット、世界中に「ゴジラ」の名前を広めました。ただし、一作目の「ゴジラ」がテーマとしていた「核兵器への批判」、「環境破壊への批判」というメッセージ性はその後どんどん失われてゆきます。さらには「ゴジラ」のキャラクター化が進むことで、「自然の怒りの体現者」だった「ゴジラ」は、しだいに人類(日本人)の文明を護る守護神となり、アメリカからやってきたキングコングと闘ったり、当時大人気だったプロレスのバトルロイヤルのように団体戦を繰り広げたり、あげくの果てには、子供の怪獣ミニラと吹き出しで親子の会話をするホーム・ドラマになってしまいました。(さすがに、僕もこの頃からもう「ゴジラ」シリーズを見る気がなくなってきました)
 その後、彼は「ゴジラ」を離れても「怪獣映画」のエキスパートとして、様々なヒット作を生み出してゆきますが、同時に怪獣の出てこないSF映画の分野でも活躍します。

怪獣モノとしては、「空の大怪獣ラドン」(1956年)、「大怪獣バラン」(1958年)、「モスラ」(1961年)、「キングコング対ゴジラ」(1962年)、「三大怪獣地球最大の決戦」(1964年)、「モスラ対ゴジラ」(1964年)、「フランケンシュタイン対バラゴン」(1965年)、「サンダ対ガイラ」(1966年)、「決戦南海の大怪獣」(1970年)、「メカゴジラの逆襲」(1975年)など
それ以外のSFものとしては、「地球防衛軍」(1957年)、「美女と液体人間」(1958年)、「ガス人間第一号」(1960年)、「妖星ゴラス」(1962年)、「マタンゴ」、「海底軍艦」(1963年)、「緯度0大作戦」(1969年)などがあります。

「マタンゴ」 1963年
(監)本多猪四郎(脚)木村武(原案)星新一、福島正美(ウィリアム・ホジスン作「闇の声」より)(特撮)円谷英二
(出)久保明、水野久美、小泉博、佐原健二
 元祖ホラー小説作家ウィリアム・ホジスンの小説が元になっているだけに奥が暗く深い内容になっている。本多はこの映画のテーマを「人間が、生きるがために、どんなに醜くなるかということ」と説明したといいます。さらに当時クローズアップされていた麻薬問題も影響していたとも言われます。

<映画界の斜陽と引退>
 映画の黄金時代に確立されたプロデューサー・システムのもとで彼は「怪獣映画」というジャンルの先駆者となりました。しかし、それらの怪獣映画以外の作品をほとんど撮ることげできなかったことは彼にとっては寂しいことだったようです。しかし、それは彼だけの不幸ではありませんでした。同じ時代に活躍していた盟友であり世界の巨匠、黒澤明もまた映画を撮れなくなっていたのです。それは彼の完ぺき主義と映画界の斜陽化によるもので、ついに黒澤は自殺未遂事件を起こしてしまいます。
 かつて、黒澤と三角関係だったことがある本多の妻は黒澤の入院を知り、夫に見舞いに行くことをすすめましたが、黒澤の苦悩を理解していた彼はお見舞いに行かなかったといいます。似たような立場にある身としてはかける言葉もなかったのでしょう。
 結局、彼はまだ60代の半ばで映画界から引退します。もう自分にできる仕事はないという判断でした。しかし、その後再び彼は映画界に復帰することになります。それは黒澤明の補佐役としての復帰でした。

<黒澤とともに歩んだ日々>
 1970年代、日本の映画界が黒澤作品にお金を出さなくなったことで、「世界の黒澤」は映画を撮れなくなっていました。このままでは彼の映画を見ることができなくなってしまう。そうした危機感をもったのは意外なことにアメリカの映画人たちでした。フランシス・F・コッポラジョージ・ルーカススティーブン・スピルバーグらのアメリカを代表する映画監督たちは全員黒澤明に憧れていました。そこで彼らは自分たちがプロデューサーとなって映画のための資金を集め、黒澤に映画を作るお膳立てをします。こうして、1980年、黒澤明は時代劇対策「影武者」を完成させす。そして、その映画において本多は黒澤から演出助手を依頼されます。本多なら自分のやりたいことを言わずとも理解してくれるだろうという判断だったのでしょう。この後も、本多はすべての黒澤作品において彼の分身として演出助手を勤め続けました。
 「乱」(1985年)、「夢」(1990年)、「八月の狂詩曲」(1991年)、「まあだだよ」(1993年)これらの映画の撮影現場では、完ぺき主義者の黒澤がスタッフをどなりつけて撮影がストップすることがたびたびありましたが、そのたびに本多が仲裁に入りその場を収める。そんなことがたびたびあったようです。
 「天皇」と呼ばれ恐れられていた黒澤明を唯一いさめることができた人物、それが本多でした。そんな本多を黒澤は「木目のイノさん」と呼んでいたいたといいます。それは、昔本多がまだ助監督だった時代、彼が大道具係りに代わり一人黙々と現場にあった家具をピカピカになるまで磨いていたところからつけられたニック・ネームでした。誰も気づかないような細部でも、できることは徹底的になっておきたい。そんな彼の生真面目さが伝わってくるエピソードです。そして、それは黒澤映画最後の5作品を影で支え続けた男の生き様にもダブってきます。
 けっして天才監督ではなかったのかもしれませんが、「ゴジラ」と「黒澤明」という日本が誇る二つの宝を磨き上げた本多の功績は、もっともっと高く評価されていい気がします。

20世紀映画劇場へ   20世紀邦画劇場へ   トップページへ