<映画界入りまで>
 本多省三 Shozo Hondaは、1915年(大正4年)京都市上京区に生まれています。彼の父親は、後に映画界を代表する監督となるマキノ省三の幼なじみで、彼の映画作りを手伝う中で尾上松之助(日本映画最初のスターと言われる人気俳優)を見い出し、マキノに紹介。マキノは松之助を主演俳優に迎えて、その後、ヒット映画を連発することになります。
 彼の実名でもある「省三」も、マキノ省三の名前にちなんだものでした。そんな家庭に育っただけに、彼は子供の頃から活動写真(サイレント映画)とは身近な関係にありました。父親と共に多くの活動写真を見ただけでなく、近所の映画館で手伝いをしながら映画の中で大きくなっていったのでした。
 1930年、15歳になった彼は、大好きな映画の現場である日活京都撮影所に入所します。当初からカメラマンになりたかった彼は、現像場で働かせてもらうようになり、その後1934年に撮影部に移動しました。先ずは、カメラを磨くところから始まった仕事でしたが、すぐにカメラ助手の仕事を与えられます。
 当時、彼が憧れていたのは、悲劇の名匠と呼ばれることになる山中貞雄監督でした。ある時彼は、山中監督の現場に出かけ、直接、自分を使ってほしいと願い出たといいます。そのおかげで、彼は数少ない山中作品のひとつである名作「丹下作善・百万両の壺」(1935年)の撮影現場に彼も参加したといいます。

<カメラマンとして>
 1937年、彼は「お千代年ごろ」の撮影現場で、初めて名カメラマン宮川一夫のチーフ助手に指名されました。その後、彼は7歳年上の宮川のもとで15本の映画を担当し、彼から多くの事を学びました。
 1943年、彼は稲垣浩監督の傑作「無法松の一生」でも宮川の助手を担当。阪東妻三郎演じる主人公が死を前にして過去を振り返る有名な場面のオーバーラップ映像は、本多のアイデアによって加工されたものだといいます。
 こうして順調に映画の現場で活躍した彼に試練の時が訪れます。
 1941年、戦争が続く中、政府の指示により日活は新興映画、大都映画と合併。そして新会社、大映が誕生します。この時、もともと日活に骨を埋めるつもりだった彼は、合併を前に退社してしまいます。そして、友人からの誘いがあった満映に入社するため、中国北部新京に向かいました。ところが、大陸に夢を描いて渡ったものの、そこは冬あまりにも寒く、食べ物もあわなかったため、彼は栄養失調になってしまいます。結局彼はそこでほとんど仕事をしないまま帰国の途につきます。それでも彼は、カメラマンとしての技術を買われ、帰国すると読売文化映画社京都撮影所に入社することができました。そこで彼が与えられたのは、伝統文化を記録する映画の撮影でした。ところが、会社からフィルムの長さや内容をいちいちチェックされることに嫌気がさした彼は上司とケンカしてしまい、再び退社してしまいます。
 ついに行くところがなくなった彼は、仕方なく陸軍技術研究所の記録映画課に入り、そこで新兵器開発のための撮影を行うことになりました。それは秘密裏に行われる戦車やヘリコプターなどの部品や性能をチェックするための実験を映像に収めるもので、どれもが機密事項ばかりでした。しかし、戦局が悪化するとそうした新兵器開発の仕事もなくなり、1943年、彼は参謀本部に呼び出され、新編成の第八方面軍と共に報道カメラマンとして戦地に向かうよう指示を受けます。こうして彼はガダルカナル島を奪回するために編成された部隊に所属し、カメラと共にラバウル島に向かいました。

<戦場カメラマンとして>
 1942年、ラバウル島に着いた本多は、そこで演習をする部隊の映像を収める仕事につきます。当初は戦況も良く、島での兵士たちの生活は楽園のようだったといいます。しかし、そんな楽園だった島が少しずつ地獄へと変貌し始めます。ラバウル島は平和でも、そこにガダルカナル島からの負傷兵たちが送られてくるようになり、地獄の戦場の様子が見えてきたのです。太平洋戦争の中でも最も悲惨な戦場になった戦場から送られてきた兵士たちは、負傷しているだけでなく精神的におかしくなっている場合も多く、その戦況は明らかに日本軍の危機を予見していました。
 そんな状況にも関わらず本多は、あえてそんな悲惨な戦場をカメラに収めようと、ニューギニアの戦場へ向かう軍隊への同行許可を求めます。そして、1943年末、彼は責任者だった安達中将に呼び寄せられ、飛行機でウユワクへ飛び、その後、ニューギニア島東部ラエ・サラモアに上陸しました。その時、現地で安達中将は、彼にこう言ったといいます。

「この光景を内地にも知らせたい。撮ることで兵士の励みにもなる。なんとか生きて転進させたい。どんな酷い状況でも、目をつむって撮影してくれ」
(安達中将は生きて日本に帰国しますが、終戦時に敗戦の責任を取って自決することになります)

 本多は命からがら退却してくる裸同然の兵士や死体の山を撮り続けました。そして、安達中将と共に潜水艦で脱出する予定でした。ところが自分が乗るはずの潜水艦を撮影しているところにアメリカ軍が攻撃してきたため、急きょ潜水艦が潜行を始め、彼をおいて出航してしまいます。彼は再び迎えがやって来るまで逃げ延びるため、他の兵士たちと共に山の中を逃げ回ります。しかし、その途中、撮影済みのフィルムを捨てざるをえず、泣きながら穴に埋めたといいます。(それが見つかれば貴重な資料になったはずです)
 結局彼は、飲まず食わずの状態でニューギニアの山中で一か月生活しました。ついに栄養失調で動けなくなった彼は自決用の銃を持たされ、米軍の上陸を待って自決するか、餓死するかそのどちらかの選択肢しかなくなっていました。
 しかし、運命は彼を見捨てず、彼を見捨てたはずの潜水艦が再び戻ってきました。この時、彼はそのまま日本に戻ることもできたのですが、救出のお礼をとラバウルに立ち寄ったところで再び召集され、現地に残って「ラバウル新聞」の発行を担当することになります。(後の「週刊読売」編集長、山崎英祐と共に)そして無線もない島で彼らはモールス信号によって情報を集めながら、謄写版を使って毎日百部の新聞を発行し始めました。なんと彼らは終戦まで1年以上に渡り、その新聞を発行し続けました。

<映画界への復帰>
 1946年、無事に帰国した彼は今度はまようことなく大映に入社。再び映画を撮る現場に復帰します。そして1951年、ついに彼はチーフ・カメラマンとして、巨匠、衣笠貞之助のもとで長谷川一夫主演の「名月走馬燈」を撮ります。そしてその後、「薄桜記」(1959年)、「斬る」(1962年)、「新撰組始末記」(1963年)など、ヒット時代劇の撮影を担当。勝新太郎と市川雷蔵の「カツライス・コンビ」で黄金時代を迎えつつあった大映チャンバラ映画を支え続けます。
 彼が撮影した映像は今ではあまり見られることはないかもしれません。しかし、そんな彼の映像は実は名作と呼ばれるどんな作品よりも、当時ずっと多くの観客に見られていたはずです。その価値は、けっして低いものではなかったはずです。

「モニターを通すのではなく、レンズを、そして人の目を通して映画づくりをしていた本多のようなキャメラマンの時代の方が、まぎれもなく人を感動させる映画をより多くつくりえていた事実に、私たちは改めて思いを致すべきではないだろうか」

<参考>
「銀幕の昭和 スタアがいた時代」
 2000年
(著)井上理砂子、板倉宏臣、中澤まゆみ
(編)筒井清忠
清流出版

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