植民地から共産圏へ、激動の香港史


「香港の歴史 東洋と西洋の間に立つ人々」

- ジョン・M・キャロル John Mark Carroll -
<混沌の2020年代香港>
 2020年代に入り、中国経済の勢いが増す中、近隣諸国と中国の関係は悪化をし続けています。中国による倫理なき外交戦略は日本にとっても厳しいものがありますが、それ以上に香港の人々にとっては厳しい状況になりつつあります。
 2014年の「雨傘運動」以後、香港市民と中国政府との緊張感が高まり、民主派の学生や議員たちが逮捕されるなど、中国政府による圧力は強まる一方です。かつては帝国主義国イギリスの植民地だった土地が、その対極に位置するアジアの共産主義国家、中国による支配へと代わりながら、市民の声は圧殺されてしまうという皮肉。帝国主義国とは言え、民主主義の故郷でもあったイギリスの元で、他のアジア諸国とはまったく異なる歴史を歩んできた国が迎えつつある悲劇。
 他に例をみないアジアとヨーロッパの民族・文化・政治がぶつかり合う小さな土地の歴史を振り返ろうと思います。

<イギリスによる支配まで>
<紀元前111年> 南越王国が漢の武帝に滅ぼされ、漢民族が香港地域に移住を開始。
<1300~1200年> 元朝時代、香港への移住が増加。
<19世紀初め> 海賊の張保仔が香港島を根拠とする。
<1839年11月> 第一次アヘン戦争勃発
<1841年>
「英国によ占領」
 1月25日、英国船のエドワード・ベルチャー船長が少人数で香港島北部に上陸。占領地点と呼ばれる地点にイギリス国旗を立て占領を宣言。翌日、英国遠洋艦隊の指揮官ゴードン・ブレマーがイギリス王国の名のもとに正式に領有。

 イギリスの歴史家はこれまでしばしば、大英帝国が香港を獲得したのは、その他の地域における大英帝国の拡張と同じくほとんど偶然の出来事であったと強調してきた。一般化された言説は、イギリスが香港を獲得したのは領土を増やすためではなく、中国での商業利益を拡大し保護するためであった、というものである。

<1842年8月29日>
 「南京条約」により、巨額の賠償金と共に香港島はイギリスに「永久」に割譲されることになりました。中国にとっては、この条約が最初の西欧との不平等条約となりました。
<1843年>
「香港統治の仕組み」
 この年、4月5日に公布された公告によるイギリスによる統治について。
 香港の統治は、イギリス国王によって任命された総督が行う。
 総督は、副総監、補政司、行政評議会、立法評議会の補佐を受ける。
 二つの評議会は総督が任命する官僚と非官僚のメンバーによって構成される。
 ただし、実際には行政評議会はイギリス人実業家の中のエリートから選ばれ、1880年代まで華人は入れなかった。

<アヘン貿易と香港>
 1846年8月の「エコノミスト誌」には、香港の状況についてこう書かれていました。
「香港は、アヘン密売人、兵士、官僚、そして戦争屋の連中のたまり場に過ぎない」

 当時の香港は、産業もなく貿易港として扱う商品もない、何の変哲もない港に過ぎませんでした。しかし、アヘンの貿易が始まることで、一躍にぎやかな港になって行きます。

 最も重要だったのは、イギリスの世界的な地位はアヘンによって成り立っていたということである。というのも、イギリスはアヘン貿易による収益で中国から茶葉と絹を購入し、それによってインド統治を支え、華人商人は茶葉と絹を売った利益でイギリスの売人からアヘンを購入し、インドの生産者はアヘンを売った収益でイギリスの製品を購入し、イギリス人商人はイギリスの製品を売って得た利益でアメリカの綿を購入していたからである。歴史学者の黄宇和によれば、インド製アヘンを中国に売ることは「イギリスが世界にめぐらせた商業の鎖の重要な結節点であった」のだ。
 だからこそ、1854年にイギリスはアヘン貿易の合法化や長江の自由航行権と通商権などのさらなる利権を要求したわけです。

 アヘンが危険な物質であることは誰もが知っていましたが、イギリスはその貿易を合法化させようとします。

「アヘン貿易と香港とは明白に結びついているため、植民地香港の初期の歴史をこの薬物に触れることなく考察するのはほぼ不可能である。この植民地はアヘンのゆえに建設され、困難な草創期をアヘンのゆえに乗り切り、主要な商人たちはアヘンのゆえに富裕になり、政府はアヘン貿易によって可能になった高額な土地の貸付料やその他の歳入で生き延びたのである」
 実際19世紀の間、香港の歳入のほとんどは、アヘンの加工業者と小売業者からの税収だったのです。

 今も昔も貿易は「自由」の名のもとに利益を生み出し続ける存在です。ただし、「自由」は神の側にだけあったからこそ、利益を生み出したのです。

「イエス・キリストは自由貿易であり、自由貿易はイエス・キリストである」
ボウリング香港総督

<「移民産業」の始まり>
 初期の香港を支えたのは、アヘン産業だけでなく本土からの移民の存在でした。本土からの移民は、中国沿岸部の人口圧を緩和する作用ももち、さらに海外へと移民する華僑を生み出し続けます。そして、海外へと移住した華僑から送金されるお金は香港を経由することになります。こうして「移民貿易」という産業が、「金融業」「運輸業」など様々な分野に利益を生み出すことになりました。そして、こうした生み出された華人ネットワークは、その後も現在まで強力な香港人の武器となって行きました。

<1851年~1864年>
 中国本土で「太平天国の乱」が起き、中国からの海外移民が急増。その影響は香港経済にも及ぶことになりました。その特徴的な変化は。
(1)辺境の植民地から、中国沿岸と東南アジアを結び、さらにはオーストラリアやアメリカまで伸びる中国の国際的な貿易ネットワークの中心へと変貌した。
(2)華人コミュニティの成長は、香港において寄留するのではなく定住する新しい富裕層を生み出した。
(3)香港の経済発展は、そこに住むヨーロッパ商人たちにも利益をもたらし、新たな海外からの投資を引き寄せた。

<1856年10月>
 「アロー号事件」をきっかけに「第二次アヘン戦争」勃発。
<1858年6月>
 中国、イギリス、フランス、ロシア、アメリカと間で「天津条約」が締結されます。これにより、中国が払う多額の賠償金などが決まり、10月の追加条約により「アヘン貿易」の合法化も決まりました。
 この後、2万人の華人が香港を離れました。
<1860年>
 「北京条約」が締結され第二次アヘン戦争が終結。九龍半島とストーンカッター島もイギリスに割譲されました。
<1862年>
 官立男子学校として中央書院が設立。(華人の中間所得者層の子供たちの目標となります)
<1864年>
 香港上海銀行設立。公式の中央銀行がない香港でその機能を果たし、アジアの金融の中心へと成長し始めた。
<1866年>
 国防局創設(華人による自警団的組織)
<1867年>
 「伝染病条例」により「売春」が取締り対象となる。
 ただし、それは売春婦がその相手をヨーロッパ人とするか華人にするかの区分けを求める許可制の徹底が取締り対象。
 植民地に住むイギリス人、海軍兵士や船員に清潔で健康な華人女性を提供するのが規制の目的でした。
 1876年時点で香港に住む2万5千人の華人女性のうち5/6は売春婦だったという数字もあります。
<1868年>
 南北行公司設立(後に香港最大の貿易事業者組織となります)
<1869年>
 東華医院創設(西洋式の本格的な医療施設で1972年開業)
<1889年>
 「婦女子保護条例」成立。しかし、これで「売春」が禁止されたのではなく、制度化され認可登録制になっただけでした。
 それでもイギリス本土から様々な団体からの圧力があり、1893年にこの制度は禁止されます。
 ところが、逆に売春は野放し状態になり、売春婦が性病の検査を受けなくなり、駐留兵の半数に性病が蔓延することになります。(1897年時点)
<1894年5月>
 中国でペストが大流行。中国本土の広東省では10万人が死亡。その後、香港にも広がり、5か月間で2500人が死亡しました。(ほとんどは貧困層の華人)
<1898年6月>
 植民地香港の適切な防衛と保護のため、イギリスは「新界租借条約」に基づき、8万人の人口を有する新界を獲得。この時は、対中国ではなく、対ロシア、対ドイツ、対日本のために必要な地域として併合した。
<1911年>
「辛亥革命」
 香港が植民地だったことにより、清朝が倒れ中華民国が建国された辛亥革命で香港は重要な役目を果たしています。
 中華圏全体で「国父」として讃えられる孫文は、一部の教育を香港で受けています。最初は中央書院で、後には西医書院で学んでします。香港政庁は香港が清朝の転覆拠点になることを防ぎたかったが、実際には香港は革命家を生み、訓練が行われる基地となりました。
 孫文はホノルルでの学生時代に結成した興中会の支部を香港に作り、東京で結成した革命結社「同盟会」も香港を活動の場としていました。
 日本や西洋から武器や弾薬を手に入れやすい自由貿易港であることを利用し、孫文と革命家の仲間たちは香港で広範囲な秘密の活動組織を作り上げることができました。香港政庁はこうした動きを徹底的に取り締まることも可能でしたが、華人との関係が悪化することが予想されたため、微妙な対応を迫られます。
 1912年3月、辛亥革命は多くの革命がそうであるように多くの問題を残すことにもなります。孫文に代わって大統領となった軍人の袁世凱は、若い共和国をまとめる力を持っていませんでした。そのため、国内の不穏な状態が続き、内紛が起きてしまいます。
 1913年、袁世凱は国民党のリーダーを暗殺し、独立を宣言した五つの省を拠点に孫文が発動した第二革命を鎮圧します。
 1914年、袁世凱は議会を廃止し、翌年、自ら中華帝国の皇帝となりましたが、翌年には死去してしまいます。再び混沌とした状態となった中国はその混乱が1920年代まで続くことになり、西欧や日本による侵略に対抗することができませんでした。

<1920年>
「労働運動の時代」
 香港初のストライキとなった機械工場でのストライキが行われました。実行したのは、機械工場で働く労働者のための労働組合、香港華人機器会。その原因は、ヨーロッパで起きた第一次世界大戦のために、食料品が不足。その影響が香港でも食料品価格が高騰したことでした。ストライキは大規模なものとなり、企業側も敗北を認めることになります。そして組合は30%以上の賃上げを勝ち取りました。この時の成功体験は、この後も香港の人々の闘争手段としてストライキが再び実行される大きな原因となります。
<1922年>
「船員ストライキ」
 香港の重要な職種である船乗りたちが30~40%の賃上げと斡旋業者ではなく連合総会による雇用を求めるストライキを開始。当初は1500人規模の運動でしたが、その後、船乗りだけでなく全労働者が賃上げを求める運動へと拡大し、5人が死亡する衝突まで起きることになりました。それは単なる賃上げ闘争のレベルを越え、植民地支配者であるイギリスへの反抗運動として拡大したと言えます。
<1925~1926年>
 反英ストライキ・ボイコットは、この頃さらに大きなものとなります。その始まりは中国本土でしたが、香港でもその影響を受けて広がり、共産党のメンバーを中心とする政治色の強い運動になって行きました。しかし、そのことが華人の中に反共産党の意識を強める事にもなって行きます。

「日本による占領」
<1941年12月>
 香港は日本軍によって占領され、日本政府による植民地統治が始まります。こうして、3年8か月に及ぶ「大東亜共栄圏」の一部としての香港史が始まります。
<1942年>
 香港に住所や仕事がない者は、強制的に退去させられ、150万人だった人口は1年で100万人となり、1945年8月の解放時点では、その人口はわずか60万人にまで減少していました。この間、1万人以上の香港市民が軍によって処刑され、強姦や暴行、略奪など、日本軍による残虐行為が最後まで人々を苦しめました。
 ただし、この間日本はイギリス統治時代よりも華人の行政への参加を増やしました。(単に人手が足りなかったせいかもしれませんが・・・)公共衛生と農業の改良にも積極的で、そのことが戦後も大いに役立つことになります。
 この時期イギリスと右派の国民党、そしてそのライバルの共産党は、日本という共通の敵を倒すために協力関係を築くことになりました。しかし、もしイギリスが戦後、そのまま香港を中国に返還していたら、香港はあっと言う間に共産圏の一部になっていたはずです。そうなることを恐れたイギリスは、一時浮上していた香港の中国への返還案を封印することになりました。
 戦争中に多くの英国人は本国に逃げて行ったため、第二次大戦後、香港政府には多くの華人が参加することになりました。

<1949年>
「中華人民共和国誕生」
 中華人民共和国が成立。中国本土の戦争は終わり、中国本土、台湾、香港の政治的関係が一応落ち着いた状態になりました。中国にとって、香港は軍隊によって占領することも可能でしたが、あえてそうした強硬手段を用いず、イギリスの再占領を認める選択をしました。
 中国にとっての香港は中国共産党の前線基地となり、外の世界へと通じる窓となり、海外華僑からの送金が集まる外貨確保の受け皿にもなりました。

「中国当局の香港に対する態度は、消極的な敵視と、時々発生する積極的な非友好的活動の組み合わせであった。香港は、かまどの上の鍋のようなものである。通常、鍋はかまどの後ろでゆっくり煮られているが、調理師である中国政府が、時々鍋を火の前に移し、中もの物をぐらぐらと沸騰させ、しばらくするとまら後ろに移す。鍋がいつ動かされるかについては、我々は知るよしもない」
グランサム香港総督

<1950年>
「朝鮮戦争開戦」
 朝鮮半島で実質的に米ソ中国による代理戦争だった「朝鮮戦争」が始まります。
 アメリカにとって香港は、北朝鮮をあやつる中国を監視するための重要なスパイの基地となります。そのため香港は「東方のベルリン」とも呼ばれることになりました。さらにヴェトナム戦争にアメリカが参戦すると、香港は米軍兵士にとって人気の休暇地としても重要な場所となりました。
 アメリカは香港を中国が兵器などを輸入する中継地である点を重視。そうした中国との中継貿易を妨害しストップをかけるようになります。そこで香港の華人たちが選んだ対抗策は、貿易から製造業への産業構造の転換でした。香港にとっての1950年代は工業製品の輸出国への転換点となりました。

<1953年12月24日>
 石硤尾のバラック地区で大火が起き、5万8千人以上が家を失うことになりました。
<1956年10月9日>
 親中派(左派)と新台湾派(右派)の間で暴力衝突が起き、それがきっかけとなり九龍地区で暴動が発生します。

<1966年4月>
「スターフェリー騒乱」
 1960年代に入り、香港の人口は500万人に達します。中国から文化大革命の影響で多くの難民が流入することになり、1962年一年で15万人に達しました。そのため、多くの難民が家がなく、バラックでの生活を余儀なくされます。
 1966年4月、そうした難民の1人だった蘇守忠という若者が大衆が毎日利用するスターフェリーの運賃値上げに抗議してハンガー・ストライキを始めます。2日目に警察が彼を逮捕すると運動は拡大し、8日目までに1400人が逮捕される事態になります。1967年は世界中で様々な社会運動が盛り上がっていて、大衆レベルの経済的不満に中国共産党が背後から関わることで、より大きな運動へと発展させることが可能な時代でした。
「通りからまた通りへと並ぶ高層で古い住宅群が、互いに押し合いへし合いして、限りある空間を奪い合う。数百また数百の敵対する市民たちが、人間用ウサギ小屋のような窮屈な部屋に生活している。暴動発生のために無数の労働者を利用でき、暴動を支持する数知れぬ労働者組織があり、大量の学生たちが政治面での支援のために駆け付けることができた」
ジョン・クーパー
 しかし、1967暴動は結局左派組織が国民からの支持を得られずに失速してしまいます。そもそも香港の住人の多くは中国の共産党政権から逃げてきた人々で、文化大革命に恐怖と嫌悪感を持っていました。暴動が続く中で、国民の多くは香港政庁の方が政権を任せるに値すると認識し、生活の面でも経済の面でも中国に返還されるよりもメリットがあると考えるようになっていました。

<1970年>
「香港新総督マクルホース誕生」
 この年、新総督に就任したマレー・マクルホースは、それまでの総督と異なり、民主化に向け本格的な改革を開始します。
「香港政庁が、草の根の社会に対してさらに関心を向け、良心的で市民のニーズに合った社会政策に向かう不退転の決意を固める上で、1967年は重要な転換点であった」
 彼は任期中、公営住宅、無料義務教育、公的支援・交通・労働法制、社会福祉などの改革を実行、発展させました。この時期は経済的にも成功を収めるようになり、GDPは毎年10%のプラスですべてがうまく回っていました。

<1972年6月>
 大雨による山崩れで250人以上が死亡。
<1970年代>
「広東ポップス」
 西洋スタイルのポップスに広東語の歌詞をのせたラブソング「広東ポップス Cant-Pop」が流行歌として広がり始めす。
「香港映画のブレイク」
 映画の世界では、香港映画が世界進出したのが70年代初めでした。その中心となった二つのスタジオは、シンガポールで活躍していたRun Run Shaw が設立したショウ・ブラザースと ショウ・ブラザースの元幹部レイモンド・ショウらが設立したゴールデン・ハーベスト・スタジオでした。
 1972年、ヨーロッパを舞台にしたカンフー映画「ドラゴンの道」が世界的ヒットとなり、主演のブルース・リーが世界的スターとなります。
 1978年、ジャッキー・チェンの「蛇拳 スネ―キー・モンキー」が大ヒットし、ブルース・リーの後継者となります。
 1983年、ツイ・ハークの特撮映画「蜀﨑傳 天空の剣」が大ヒットし、特撮アクション映画も香港お得意の分野として世界進出することになります。
 1988年、ウォン・カーウェイが「いますぐ抱きしめたい」で監督デビュー。アクション映画ではない芸術映画としての香港映画を生み出すことになります。
 1986年、ジョン・ウーの「男たちの挽歌」が世界的な大ヒットとなり、その後、ハリウッドに進出。中国出身最初のハリウッド監督として大活躍します。

<1975年>
「ボートピープルの流入」
 ヴェトナム戦争が終結し、共産党の支配下に置かれることになったヴェトナムから多くの人々が脱出。そのうち7万人が「ボートピープル」となって香港に押し寄せました。彼らのための難民キャンプは、1992年まで存在することになります。

<1979年>
 香港アートセンター設立。文化・芸術面での中心地となる場所が誕生しました。

「マクルホースの中国訪問」
 香港総督マクルホースが鄧小平からの招きで中国を訪問。この時、1997年の香港返還が決まったと考えられていますが、この時には発表されず、1982年にサッチャーの訪中後に明らかにされることになります。

<1980年>
「経済特区誕生」
 中国本土で広東省深圳経済特区がオープン。香港の企業家の多くが香港にあった工場を経済特区に移転させ始めます。1980年代後半には、300万人以上の大陸住民が広東省に建てられた香港企業の工場で働くようになっていました。こうして香港の製造業が本土へと移転して行く中、香港は金融サービスの中心地として発展して行くことになります。

<1984年>
 香港演芸学院が開学。
<1984年12月19日>
「中英共同声明」
 マーガレット・サッチャーと趙紫陽総理が香港の将来の政治的地位に関する合意の重点を列記した「中英共同声明」に署名。これで、1997年7月1日に香港は中国の統治下となることが決まった。香港は外交と国防以外の高度の自治権を享有する特別行政区となる。ここで初めて「一国二制度」体制が明記された。
 香港政府は貿易政策と貿易協定を管理し続ける。自由貿易港としての地位を保持し、中国への納税義務はない。
 言論・出版・集会・信教の権利と自由は維持される。
 駐留する中国人民解放軍は特別行政区の問題には干渉しない。
 この体制は1997年以降50年間続くと記されていました。

<1985年>
 香港芸術館完成。
 香港上海銀行本店ビル完成(ノーマン・フォスターのデザインによる世界最高額の建築物となった。
<1986年>
 九龍で大火が発生し、多くの大衆が住むバラックが焼けて2000人が住む場所を失いました。
 エリザベス女王が北京、上海、広州、香港を歴訪。
 12月5日、エドワード・ユード総督が英国の北京大使館で心臓発作により死去。デヴィッド・ウィルソン新総督が就任。
<1987年>
「移民ブーム本格化」
 中国への返還が決まり、共産化を嫌う人々が香港から脱出するる移民のブームが本格化。
 1986年~1986年まで年平均2万人だった海外への移民が、この年3万人に増加し、1989年には4万人に達します。その後、ピーク時には6万人に達します。

<1989年>
「天安門事件」
 4月15日、胡耀邦が死去。北京で民主化要求デモが始まり、運動が拡大して行きます。
 5月20日、香港でも本土に呼応して民主化を求める大規模デモが発生。
 6月4日~5日、天安門広場での虐殺に抗議する100万人デモが香港で開催され、2名の基本法起草委員が抗議の辞職。
 株価は25%下落し、移民申請も急増。しかし、英国政府が香港のためにできることはもう残されていませんでした。

<1990年4月4日>
「香港基本法と移民」
 「香港基本法」を中国が批准。その中にはさらなる条項、第23条が追加されていました。
 「中華人民共和国政府を転覆する行為を、将来の香港特別行政区が禁止できる」
 中国政府は「基本法」に抵触するとみなすあらゆる香港の法律を廃止する権限を持ったことになります。
 この年の海外への移民は6万5千人に達しました。1997年までに香港の人口の1割が海外へ脱出することになります。
 移民先としては、オーストラリア、カナダ、アメリカが大半で、イギリス、シンガポール、ニュージーランドが続きます。
 こうした動きの中で二つの新しい家族形態が生まれました。
 「宇宙飛行士家庭」
 父親が妻子を海外に残し、自身はビジネスのため香港と移民先を行き来する家庭。
 「落下傘児童」
 両親は香港に帰るが、安全のため児童は海外に残している家族。

<1991年6月8日>
 「香港人権法案条例」制定
 立法評議会の議員のうち18議席を決めるための選挙が実施され、12議席を民主派(反中国)の香港民主同盟が獲得。
<1992年>
 最後の香港総督にクリス・パッテンが就任。「最後の帝国主義者」と呼ばれることになります。
 しかし、パッテンは香港の民主化をできるだけ進めようと中国の反発を受けながらも改革を進めます。
<1995年>
 立法評議会の選挙が行われ、民主派が60議席のうち半数近い議席を占めることになります。(親中派は16議席)
 アダムとイブの禁断の実をイメージした社名「りんご日報」創刊
<1996年>
 中国は香港特別行政区準備委員会を設立。
 150人のメンバー中、56人が大陸側、94人が香港側でしたが、香港側に民主党のメンバーは選ばれず、親中派から選ばれました。
 李鵬総理は1996年12月に海運業界の大物で親中派の董建華を返還後の行政長官に任命します。一応選挙は行われましたが、形だけの選挙でした。
 こうして江沢民国家主席兼中国共産党総書記の傀儡としての行政長官が誕生しました。

<1997年>
「香港返還」
 6月30日、香港ヴィクトリア港で記念の花火大会開催。夜11時30分に植民地香港の旗が降ろされ、チャールズ皇太子によるスピーチが行われました。
 7月1日0時、イギリス国旗が降ろされ、代わりに中国国旗が掲揚され、香港はついに中国に返還されました。
「イギリスの遺産、自由市場と低税率の天国、中国人の活力とイギリスの慈愛ある統治の完璧なる結合」(BBC)だった香港の終りでした。
 この年4月の調査によると、返還後の香港が安定と繁栄を維持できると思う割合は、75%に及んでいました。(1994年は56%だった)
 その背景には、中国経済の好調とその影響を受ける香港経済の好調がありました。
 しかしこの年、急に歴史教科書が薄くなりました。台湾、チベットの歴史、民主化運動、天安門事件などに関する記述がカットされたためです。

「イギリスから継承された不適切な基礎構造、不健全な政治文化、欠陥のある法と行政の枠組み、官僚の問題ある行動は、香港人が植民地時代に搾取されたことにより、自身が強く希望しているはずの自由・民主・高度の自治を守るために堅固な意志を示せないことと同様に、責められるべきである」
陳明銶

<1998年>
 「アジア通貨危機」により経済が急激に悪化。
<1999年>
「中国への返還に対する4種類の態度」(社会学者の黄紹倫による)
<忠誠派>
 中国生まれで、香港に移住してきた人々。
<香港地元民>
 中国との家族のつながりは少ない人々。政治的には中立だが香港の個人の自由と表現の権利がある生き方を支持する。
<揺れ動く人たち>
 海外へ移民したいが引き受けてくれる国がない人々。
<コスモポリタン>
 中国との統合に反対した政治難民の家系に属し、西洋に家族のネットワークを持つ人々。

<2000年>
 台湾の総統選挙で独立派民主進歩党の陳水扁が当選すると、中国政府は香港のメディアに対し、台湾の独立運動についての報道をしないように警告。
<2003年>
 SARS(重症呼吸症候群)により1800人が感染し、300人近くが死亡。
「反逆・国家分裂・反乱煽動・中央人民政府転覆・国家機密窃取のいかなる行為をも禁止」するための「国家安全条例」の立法手続き開始。
<2005年9月>
 香港ディズニーランド開園
<2013年6月23日>
 香港に潜伏していた元アメリカCIA職員エドワード・スノーデンがロシアに向け出国。
<2014年>
「雨傘運動」
 6月10日、中国政府が「一国二制度白書」を発表
 9月28日、「雨傘運動」開始。民主化を求める学生・市民らによる道路の占拠し、12月15日まで続く。
<2016年>
 4月、「雨傘運動」の学生指導者らが香港の将来を民主的投票で決することを主張する自決派の政党・香港衆志を設立。
<2017年>
 8月17日、「雨傘運動」の指導者の1人黄文鋒(Josha Wong)らに高等法院が実刑判決を下す。
<2018年>
 10月23日、世界最長の海上橋香港-珠海-マカオ大橋開通。
<2019年>
 6月、「逃亡犯条例」改正反対デモが始まる。200万人が参加する大きな運動に発展。
 9月、運動の拡大に政府が折れ、改正案の撤回を発表。
11月、区議会議員選挙で民主派が圧勝。
<2020年>
 1月22日、新型コロナウィルス感染者が初確認される。
 4月18日、前年の「逃亡犯条例」の改正反対デモ当時の違法集会開催容疑で民主派リーダー15名が一斉逮捕。
 5月28日、中国全人代は香港で「国家安全法」の適用を決定。

<2021年>
 6月24日をもって「りんご日報」廃刊。中国本国によるトップの逮捕、資産の凍結などにより、民主主義の基本である報道の自由が消失。

<参考>
「香港の歴史 東洋と西洋の間に立つ人々」 2007年(初版)
A Concise History of Hong Kong
(著)ジョン・M・キャロル John Mark Carroll
(訳)倉田明子、倉田徹
明石書店
<著者ジョン・M・キャロル>
 著者のジョン・M・キャロル John Mark Carroll は、幼少期から高校卒業まで香港で育ちハーバート大学で博士号を取得。セントルイス大学準教授などを経て香港に帰国。
 香港大学文学部歴史学科教授で専門は香港史。

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