極北の森に消えた魂の軌跡

- 星野道夫 Michio Hoshino -

<誰よりも純粋な男>
 まったくの偶然ですが、「星野道夫物語」を読み終わった後、次に漫画家、赤塚不二夫の伝記本を読もうとしていました。そして、読み始めてすぐ、二人の人物がその「純粋さ」において究極の存在であることに気づきました。
 かたや人に笑われることに命をかけた男、かたや動物たちとともに生きることに命をかけた男。どちらも社会生活では、不器用な生き方しかできなかったものの、多くの人々に愛されただけでなく、その業績は不滅です。マンガに生涯を捧げた赤塚不二夫同様、星野道夫もまた自分の好きな仕事に生涯を捧げることができた幸福な人でした。たとえ彼の死が悲劇的なものだったとしても、彼の人生は不幸なものではなかったと思います。
 では彼はいかにして、命を懸けるに値する自分の生きる道を見つけたのか?話は、そこから始めたいと思います。

<生い立ち>
 星野道夫は、1952年9月27日千葉県市川市に生まれています。父親はセイコーに勤める優秀な技術者で、そのために第二次世界大戦では戦場で命を落とさずにすみました。彼はそんな理系で生真面目で優秀な父親の影響もあり、勉強では常に成績優秀でしたが、野球や剣道などスポーツにも熱中する肉体派でもありました。しかし、子供のころから好きだったのは、やはり「シートン動物記」などの動物ものや様々な冒険記や探検記などでした。特に当時日本では堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」が大ブームで、彼もまたヨットで世界一周を目指すことを目標のひとつにしていました。そのため、早くも中学生の時には海外冒険旅行のための計画を立て始めていたといいます。
 1968年、慶応高校に入学した彼はさっそくヨット部に入り、海外旅行のための資金を稼ぐためアルバイトを始めます。
 1969年7月3日、彼は横浜港から出航する移民船に乗りアメリカへと出発。アメリカの西海岸からグレイハウンドバスに乗り、東海岸へと向かいアメリカ横断旅行を開始します。当時は大人が海外旅行でアメリカに行くことだけでも十分に冒険で海外旅行のツアーなど存在せず、まだまだ海外旅行はそれだけでも冒険に近い旅だった時代です。それを高校生が一人でやろうというのですから、かなり無謀な挑戦だったといえます。
 時代は1960年代末。アメリカは歴史上もっとも混乱した時代でした。公民権運動やヴェトナム反戦運動、ヒッピー・ムーブメントの盛り上がる中、彼はそんな状況を体感する暇もなく旅を続けました。彼は西へ西へと向かうだけでなく、隣国のメキシコにも立ち寄りながら、無事に40日の旅を終え、日本に帰国しました。
 1971年、慶応大学の経済学部に入学した彼は、すぐに探検部に入り気球による冒険などに参加します。

<アラスカ>
 1972年、彼は神田の古本屋街で一冊の本と出合います。それはナショナル・ジオグラフィック社が出版した写真集で「Alaska」というタイトルでした。その中にあった一枚の写真が彼の運命を大きく変えることになります。そこに写っていたのは、荒涼たる自然の中にぽつんと存在する小さな村でした。人類が住む最も北極に近い村に住むのは、エスキモーの人々でした。(星野さんはイヌイットではなくエスキモーという呼び方をしています)彼らはいったいどんな生活をしながら、そこで暮らしているのか?彼の興味はもう止まりませんでした。そして、その村の名前が「シシュマレフ」ということを知ると、さっそくその村に手紙を書き、そこで滞在させてほしいと依頼したのです。もちろん宛名を誰にしたらよいかもわからないので、宛名はなく村の名前だけで出しました。その他にも何通か近くの村にも手紙を出しましたが、ほとんどはそのまま返送されてきました。そして何の音沙汰もないまま時が過ぎましたが、翌年の春になってシシュマレフ村から返信が届きます。そこには、村長から、夏に来られるなら我が家に泊めてあげましょうと書かれていました。こうして、1973年の夏、彼はシシュマレフの村長クリフォード・ウェイオワナの自宅にその家族とともに暮らすため、念願のアラスカへと旅立ちました。
 1973年、初めてシシュマレフを訪れた彼にとって村での生活は驚きの連続でした。食生活は毎日アザラシの肉中心のワンパターンの連続で、自分の部屋どころかベッドすらもないキャンプのような生活。そして、アザラシ狩りとその保存に明け暮れる毎日は人によっては耐えられない日々だったかもしれません。たぶん普通の人はアザラシなどから発せられる臭いだけでも耐えきれないのではないでしょうか。ところが彼にとっては、そんな単調とも思える日々は極北で生きる知恵を吸収するための最高の訓練の場でした。気が付くと彼にとってアザラシの発する強烈な臭いもいつしか素敵な香りになり、毎日が楽しくてしかたなくなっていました。
 彼は当初、シシュマレフ村で2週間ほど暮らし、その後はアラスカを旅する計画を立てていました。しかし、その村での生活が気に入ってしまったこととまだまだ知りたいことがあった彼は、その村での生活を延長。なんと3か月にわたりそこで暮らすことになりました。それはもう旅でも冒険でもなく、次なるステップである「アラスカで生きる」ための準備だったともいえます。

<僕のアラスカ>
 僕もアラスカを一週間だけですがキャンプしながら旅したことがあります。それは、この後星野さんも体験することになるアラスカ南部グレーシャーベイをシーカヤックを使って旅するという冒険旅行でした。毎日がキャンプ生活で、テントを積んでカヤックで移動しながらクジラを見るというツアーだったのですが、それはもう毎日が楽しかったです。あきるほどザトウクジラを見たり、森の中で熊の足跡を見つけたり、そこで釣ったピンクサーモンをチャンチャン焼きにしたり、ワクワクの連続でした。
 アラスカは当時すでに温暖化が進んでいたのか、半袖Tシャツでも大丈夫な天気の良い日もあれば、真冬のような日もあったりと天候も様々でした。しかし、たとえ天気が雨でも、それは天国のような日々に感じられました。もちろん北海道に住んでいるので、冬の生活がどれほど大変かは想像がつくつもりです。それでもなお幸福に感じられるのは、そこに「生きる」ことが実感できたからでしょう。(この旅の詳細は別のページ「クジラまで、あと3mの旅」にて)

<再びアラスカへ>
 日本に戻った彼はその後しばらく、就職問題や今後の生き方について悩みます。そんな時、友人が山で遭難し帰らぬ人となりました。彼は大切な友人の死に直面し、悔いなく生きるにはどうしたらよいのか本気で考え、自分がやりたいことに挑戦するべきという決断にたどり着きました。こうして、彼は動物写真家になりアラスカに住むことを目標に生きる決意を固めました。そのために彼はまずはじめに尊敬する写真家の田中光常の元に通いつめ、強引に弟子入りし、助手として働き始めます。さらに、彼はアラスカに住む動物たちについて学ぶため、アラスカ大学の野生動物管理学部に入学しようと再びアラスカへと向かいます。ところがこの時、彼は入学試験で英語の点数が足りなく一度は不合格となりました。しかし、結果を知った彼は学部長の部屋に行き直談判し特別に入学の許可を得たといいます。
 彼は人生において何度も、人の好意によって救われています。シシュマレフでの滞在も手紙による強引なお願いがきっかけだし、田中光常に弟子入りする時も、最初は断られるものの連日家まで押しかけて助手にしてもらい、シシュマレフでの滞在でも大学の出席日数不足を教授へのレポートで許してもらいました。彼にとって、こうした「特別に許されるという能力」は大きな武器でした。彼に頭を下げられると、誰もが許さなければならない気分になったようです。これはまさに才能です。たぶんこの才能は動物にも通用したのでしょう。そう考えると、彼のこの後の活躍の理由も納得できる気がします。
 1978年、彼はアラスカ大学フェアバンクス校野生動物管理学部で学び始めます。ちなみに、彼がそこでどんなことを学んでいたかというと、こんな教科でした。
「野生動物学概論」、「野生動物管理学の指針」、「野生動物の生息数と維持管理」、「森林とツンドラにおける野生動物の管理」、「野生動物の栄養学的生理生態学」、「水鳥と湿地の生態と管理」・・などです。
 他に彼は「ライフル射撃」の授業もそこで受けたそうです。しかし、危機回避のための最終兵器ともいえるライフル銃の使用に関して彼は最後まで否定的でした。その思いは実に星野道夫的です。

「・・・いつか、ライフルを持って長期の撮影にはいったことがある。じつに安心だった。けれども、どこかで自分の行動がとても大胆になっていたような気がする。最終的には銃で自分を守れるという気持ちが、自然の中でいろいろなことを忘れさせていた。不安、恐れ、謙虚さ、そして自然に対する畏怖のようなものだ。ぼくは、今日でも人間が本質的にもっている、野生動物に対する狩猟本能というものを肯定しているのだけれども、自分の目的と銃の問題は、なかなか噛みあわないような気がしている・・・・・」
星野道夫「アラスカ 光と風」より

<動物写真家として>
 1981年、彼が撮ったサーモンが川を遡上する写真が平凡社の自然誌「アニマ」2月号の表紙に採用されます。さらに3月号では彼が追いかけたカリブーたちの写真が特集され「極地のカリブー 1000キロの旅」として掲載されました。いよいよ写      真家として本格的にデビューした彼は、この時28歳でした。
 1984年、写真集「グリズリー GRIZZLY アラスカの王者」発表。この写真集によって、彼は平凡社が主催する「アニマ賞」を受賞しました。
 1987年、彼にとって憧れの存在だったナショナル・ジオグラフィック誌に彼が撮ったムースの写真が掲載され、さらに「グリズリー」の英語版もアメリカで出版されました。
 1993年、彼は姉からの紹介で知り合った萩谷直子と結婚。どうやらこの奥さんもまた、赤塚不二夫の奥様同様、できた人だったようです。翌年には長男の翔男が誕生します。
 1996年7月、彼はアラスカではなくロシアのカムチャッカ半島へと向かいました。アラスカの向かいに位置する極寒の地シベリアに住む人々と一年間一緒に暮らし取材を行う企画のための調査旅行でした。
        ところが8月8日の明け方、ひとりでテントに寝ていた彼はヒグマに襲われ行方不明となります。ヒグマに森へと招待されたのか?それともヒグマに食べられてしまったのか?いまだに彼の遺体は見つからずにいます。
       考えてみると、あの植村直己さんの遺体もまた見つかってはいません。
       彼が親しんできたアラスカの動物たちとは異なる動物たちに、彼はまだ受け入れられてはいなかったのかもしれません。

「星野さんについていえば、雪の上をたわむれるグリズリー親子へのあの無防備な視線だ。たかだか数百ミリのレンズで近づいて撮った親子熊の写真は優しくて美しい。でもそれはなんと危険で無謀な行為なのか。・・・もし母熊が自分に向かって来たら・・・。自分の気持ちが透明なら熊にも必ず通ずるだろう、という無垢ともいえる覚悟は、でも尊い。・・・」
篠山紀信

 極地の森に消えた星野さんの魂は、きっとその森をヒグマたちとともに守り続けるのかもしれません。願わくば、森がいつまでも自然のままであり続けられますように・・・

 いつの日か、わたしたちは、
 氷の世界で出会うだろう。
 そのとき、おまえがいのちを落としても、
 わたしがいのちを落としても
 どちらでもよいのだ。

 「ナヌークの贈りもの」より

  僕はひとりで海外を旅していて、ここでもし死んでも、後悔はないなあと何度か思ったことがあります。アラスカでカヤックに乗っている時も、ここでザトウクジラにぶつかってもいいと思っていました。きっと星野さんも、いつ自分が死んでも悔いはないと思っていたと思います。もちろん、奥さんと子供さんには申し訳ないとは思っていたでしょうが・・・。
 交通事故か、病気か、どれかはわかりませんが、人は必ず死ななければなりません。でも、どうせ死ぬなら好きな場所で好きなことをしながら死にたいものです。人は死ぬことを意識することでより良く生きられるものです。僕もなんとかそんな境地に達したいものです。
 冒険家の人生とは、短くても「生きる喜び」が凝縮されたもの。だからこそ、人々は彼らの人生に感動させられるのです。もちろん、凝縮されてはいなくてもじっくりと時間をかけて「生きる喜び」を感じることはできるはず。それもまた素敵な人生です。どっちを選ぶかはあなた次第です。どんな人生であっても、「Life is a real adventure !」です。

<参考>
「星野道夫物語 アラスカの呼び声」
 2003年
(著)国松俊英
ポプラ社

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