- 細野晴臣 Hanuomi Hosono -

<J−ポップの大御所>
 「はっぴいえんど」、「YMO」そして「ティン・パン・アレー(キャラメル・ママ)」の中心的存在として日本のロックだけでなくJ−ポップの歴史を作り続けてきたともいえる影の大御所、細野晴臣。2008年に彼のインタビュー集「分福茶釜」が発表されました。その中では、彼の長年の考え方の変化や音楽的変遷の裏側が正直に語られていて、改めて彼の音楽の変化の意味がわかった気がしました。
 今まで、このサイトでは「はっぴいえんど」「YMO」「風都市の時代」について、それぞれページを設けて詳しく紹介してきましたが、彼のソロ活動については取り上げていませんでした。しかし、彼の音楽活動は、YMO解散後、自由に動けるようになってから初めて彼らしい音楽を発信するようになったともいえます。ただし、そこには様々な紆余曲折もあったようなので、ここでは彼のインタビューも含めて、そんな彼の思いに迫れればと思います。

<「音」へのこだわり>
 彼の「音」へのこだわりは、はっぴいえんど時代からのことでした。そのため録音に対するこだわりの凄さは、膨大な録音費用の原因となり、「風都市」倒産の原因の一つにもなりました。

「それは何かというと、その場の空気と音をまるごとひとつのマイクで録るっていう、その豊かさを取り戻すことなんだ。豊かさが今は失われているね。全部空気を削ぎ落として「音」だけにしちゃって、音を鳴らしているのは空気だっていうことを忘れてしまった。
 1940年代頃の音楽の良さは、レンジの狭さとかセピア色とかそういうことじゃなくて、空気をまるごと一本のマイクで録音したっていうことなんだよ。空気を切り取るということは、宇宙の断片を切り取ることだから。そこには、すべての情報がまるごと含まれているんだよ。・・・」


 こうしたこだわりを音楽化したのが、彼の初ソロ・アルバム「Hosono House」(1973年)でした。1970年代を代表するバック・バンドのひとつセクションをバックに録音されたジェームス・テイラーの名盤「ワン・マン。ドッグ」を聴いた彼が、その音を再現するために自分の自宅に機材を持ち込んで作くり上げたそのアルバムには、彼のこだわる「音質」や「音の空間」が見事に構築されていて、時代の一歩先へと歩み出す作品になっていました。

「 - 音楽で、ハイファイとローファイって言い方がありますけど、そうやって音や映像がどんどんハイファイになっていくと、実はどんどんリアルなものから遠ざかってしまうのは、なんだか逆説的ですね。本当はハイファイって「よりリアルに再現できる」ってことだったのに。でも実はローファイの方が、でこぼこがあってよりリアルなんですよね。隙間だらけで。」

 はっぴいえんど解散後、彼はセクションやザ・バンドのような究極のセッション・バンドを目指して次なる挑戦となるバンド、ティン・パン・アレーを結成します。こうして、このバンドのバックを得て、ニュー・ミュージックの時代を築くことになるアーティストたち、荒井由美、吉田美奈子、小坂忠、大滝詠一矢野顕子が活躍を開始しました。その他にも、雪村いずみの名作「スーパー・ジェネレーション」や当時大人気だったスリー・ディグリーズの「ミッドナイト・トレイン」などの作品が誕生することになりました。
 さらにこうしたバンド活動と平行して発表されたのが、「Tropical Dandy」(1975年)、「奉安洋行 Bon Voyage」(1976年)、「はらいそ」(1978年)、後にエキゾチック3部作と呼ばれることになるアルバムです。ここで生み出されたマーチン・デニー的な環太平洋エキゾチック・サウンドは、その後シンセサイザーを用いてテクノ化されることでYMO・サウンドになります。そこで取上げられていたのは、ハワイアンだけでなく、ニューオーリンズ、琉球、インドネシアのガムランや映画音楽的な物語性など多彩です。3作は、今聴いてもまったく古さを感じさせない音楽性と音質をもつ名作ばかりです。

<YMO時代>
 この後、1978年から1983年まで、彼はYMOでの活動に専念します。ただし、彼にとってはこの最もブレイクしていた時期が、最もキツい時期だったのかもしれません。(いや、たぶん3人とも同じくキツカったはずです)思いもしないブレイク時の元祖テクノ・ポップ・アルバム「Solid State Survivor」(1979年)のキャッチーなポップさに比べ、僕個人としては大好きで多くの人に名盤と呼ばれている1981年の2作品「BGM」「Technodelic」のシリアスさと暗さは、同じバンドの音楽とは思えないものがありましたが、そこが魅力だったともいえると思います。解散することを発表した後のアルバム「浮気なぼくら」の明るさは、まさにYMOの重荷から解放されたからこそ生まれたものだったといえるでしょう。

<ソロ活動>
 YMO以降のソロ活動は、1984年のカセット・ブック「花に水」からスタートします。当時、カセット・ブックはちょっとしたブームで、この作品には彼に大きな影響を与えた哲学者、宗教学者の中沢新一が参加しています。さらに彼はテイチク・レコードと提携してノンスタンダード・レーベルを立ち上げ、そこからアルバム「S−F−X」(1984年)を発表。当時ブームになりつつあったヒップ・ホップやハウス的なサウンドを展開、新たなスタートを切りました。この頃、元々映画好きだった彼は、新しい試みとして映画音楽にも挑戦しています。
 名作として高い評価を受けたアニメ「銀河鉄道の夜」(1985年)では、当時彼がはまっていた東ヨーロッパのクラシック音楽の影響を受けたロマンチックな音楽を展開。高嶺剛監督の沖縄ロケ作品「パラダイス・ヴュー Paradise View」(1985年)(主演は、小林薫、戸川純)ではお得意のエキゾチック・サウンドを復活させ、そこで「源氏物語」(1987年)では雅楽ではなく韓国の宮廷音楽をエレクトリックな音楽にアレンジして使用。(これって韓流ブームの先駆けだった?)
 その他にも、コマーシャル・フィルムのために作った楽曲を集めた「Coincidental Music」(1985年)やバンダイの環境ビデオ向けに作った音楽からなる「Mercuric Dance」、イタリアで開催された日本展「ジャパン・アバンギャルド・オブ・ザ・フューチャー」のための音楽集「The Endless Talking」(1985年)などの作品集を次々に発表しています。それらはどれも映像やアートのためのバック・グラウンド・ミュージックとして作られたものであり、それまでのポップな作品群とはまったく異なるものばかりでした。こうした流れの行き着いた先として誕生したのが、究極の環境音楽ともいえる作品「Omni Sight Seeing」(1989年)です。そこでは、彼が海外を旅をする中で大きな影響を受けることになったアラブ音楽を中心に世界各地のエスニック音楽が、ミニマルなテクノ・ミュージックに凝縮されていました。
 当時の僕は世界のエスニックな音楽にははまっていたものの、それがワールド・ミュージックというくくりでバブルの流れに乗ってブームになりつつあることに反発する気持ちも強く、エスニック音楽をお洒落に作り直す細野サウンドのセンスの良さに逆に反発する気分にあったかもしれません。そんなわけで、当時の僕はあまり興味がありませんでした。(生意気ですいません)
 もうひとつ忘れられないのは、彼と忌野清志郎、坂本冬美の異色ユニット、HISによるアルバム「日本人の心」(1991年)の発表でしょう。

<団塊世代ど真ん中の男>
 1947年7月9日東京生まれの彼は、まさに「団塊世代ど真ん中」の男ですが、常にそこからはみ出そうとする存在として、常に時代の一歩先を歩んできました。そうして自分の周りに「アンチ」であり続けることで新しい音楽を生み出し続けたといえます。

「・・・団塊の世代って、みんなその後、仕事以外に何もしてこなかったっていうことだな。学生の頃はやっていたけど、その後何もしてこなかった。あるいはできなかった。会社に入って必死に働いて、じゃあ定年になって時間ができて、音楽が好きだったら新しい音楽をいっぱい聴けばいいんだけど、聴かないから。自分が昔聴いてきたものしか聴かない。新しい感覚が開いていない。その間何もやってこなかったから感覚が固まっちゃってる。だから過去に戻るしかない。・・・」

 彼が一時期大きく関わっていた広告宣伝の世界に反発する思いは、やはりシビアなものだったようです。意外な事に、彼自身ファッションにはまったく興味がなく、どうでも良いと考えているようです。それでもいつもオシャレに見えるのは、それなりにこだわりがあるからなのでしょう。
 彼のインタビューによれば、そんな複雑な心情を乗り越えつつ彼が変化してきた様子を知ることができ、やっぱりこの人は時代の先を行っていたんだと実感しました。

「今の人間のあり方ってきついと思うの。点でしか存在できないから、もろになんでも自分がかぶっちゃうんだよね。メディアからも個人がターゲットにされる。具体的な例をいうと、昔の広告宣伝っていうのは、家族に対して、ホームに対してなされていた。家庭という単位。それが崩壊したせいで個人に向けられてくる。それはとてもキツイことだなと思う。」

<おまけのエピソード>
 YMOが大人気だった時期、写真誌としてブームを巻き起こした「写楽」の創刊記念イベントとして武道館で彼らのライブが行われました。その時、ライブ前に宣伝のための告知イベントが行われていると、観客の一部が「早く演奏やれ!」と騒ぎ出しました。そのうちチラシを紙ヒコーキにして飛ばすヤカラが現れ、飛び立った飛行機がまた武道館の中をきれいに飛ぶので大受け。次々に紙ヒコーキが飛び始めました。怒ったYMOのメンバーと観客のやり取りの後で、やっとライブが始まりましたが、3人の気分は最悪だったでしょう。観客のマナーの悪さにウンザリすると同時に彼らは「客寄せパンダ」に使われていることにうんざりしていたはずです。あれでは解散(いや散解)する気になるのも当然でしょう。

<60代になって>
 60代になった彼が語る様々な思いからは、彼が音楽をどうとらえているのかが、なんとなく見えてきます。

「子づくりとは違う形でぼくらは音楽っていうものをやってるんだけど、なにかを生み出すっていうことでは同じなんだ。そこには最初に快感があり、そのあとには社会的な制約があり、ルールがあり、評価があって、世に問われたりするわけだ。認められたり、認められなかったということもある。でも、そんなことを考えていたら恋愛はできない。・・・」

 そして音楽家生活を始めて、今まで一度もラブ・ソングを書いたことがないという彼には、最近のストレートなメッセージ・ソングは恥ずかしくて聴けないようです。正直、それは僕も同じです。なんで最近の若者はあんなに真面目なの?そう思うのは僕だけでしょうか?

「これは誇りでもなんでもなくって、むしろ劣等感なんだけど - 自己表現がヒネくれてるわけだ。たとえば今の社会は、音楽ストレートでしょ?真摯なメッセージを聴いて泣く人がいるわけじゃない。そういうのを見ると、あ、自分は仲間はずれなんだなって思う。あの仲間には入れない。すぐに泣いたりするのはカッコ悪いと思うかね。」

 その気持ちは1960年生まれの僕もいっしょです。ただし、この本の最後の最後、あとがきになって、つい最近ラブ・ソングを書いたことを告白。まだまだ新たな展開がありうることをアピールしています。聞く人の思いを裏切り続けるのもロック・ミュージシャンの証し。さすがです。そして、今後、ロックが新たな進化の段階に入り、全世代対応型の新しいスタイルを生み出してゆくことを予見しています。
 もちろん、その先陣を切るのが細野さんということになるのでしょう。

「・・・イギリスでもアイリッシュ系のバンドが出るとやっぱりそうなの。おじいちゃん、おばあちゃんが踊っている。フランスでもズークみたいな音楽でやっぱり老人が踊っている。その意味ではアメリカと日本だけがダメだな。年をとることに恐怖を持っていて、年寄りを排除しようとしている。本来、芸能はそんなもんじゃない。たとえば沖縄の民謡なんかも、老人になればなるほど味が出てきて、聴けるものになってくる。落語だってそんな感じだよ。ロックも今後、そういう風になっていく可能性がある。」

 さらに、彼はそのインタビューで「老い」について熱く語っていて、その中で「人は食べる物をだんだん少なく軽くしながら自らを軽くしてゆき最後はまるで枯れ草のように世界から消えて行くべき存在だ」と語ってもいます。

「なかには頑固な人や偏狭な人もいるけど、そういう人は年のとり方を間違えたってことで、本来は自然に年をとれていないから。本人も自分を老人とは思わずに若者になろうとする。年をとれないのが当たり前になってきて、世の中にも年寄りの境地ってものが用意されていないから、そのノウハウが途切れちゃっているんだ。」

 そして、音楽もまた声高に自らを主張するものではなく、小声でささやくものへと進化してゆくべきとも語っています。

「こないだある言語学者が、テレビですごく大事なことを言っていたので、つい聞き耳をたてて聞いちゃったんだけど、「本当のことは小さな声でひそひそ語られる」と言ってた。常々ぼくもそう思ってた。実は人びとにいっぱいに聴かせる音楽は好きじゃないんだ。大きな音で人に聴かせる音楽ね。大きな音で聴かせる音楽はオペラから始まったんじゃないかな。ローマ帝国のパワーだよ。でも少数民族の音楽って自分だけのためにある。・・・」

 そういえば、千利休が茶室の中をわざと暗くしていたのも、花や茶器をじっくりと見させるための工夫でした。

 様々な音楽を展開してきたハリー・ホソノ(細野晴臣)は、きっと少しずつその音楽から毒気や味を薄めてゆき、最後はささやくように音を鳴り響かせながら、この世の中から消えてゆくのかもしれません。いい音楽は、よーく耳をすまさなければわからないし、小さな音でも、その良さはわかる人にはわかるもの。

「CDとかレコードの場合は、実はゲインは関係ないんだよ。うるさい音楽は音を小さくしたってうるさいし、逆に、いい音楽はフル・ボリュームにしたって静かなんだよ。これはホントに不思議なことなんだ。」

 彼はまるで禅問答をする僧侶のような存在になり、少しずつ世界から消えることを目指しているのかもしれません。そうそうYMOを始める前、彼は音楽をやめて僧侶になろうかと真面目に考えていたそうです。なんだか似合いすぎて笑えちゃう話です。

<参考>
「分福茶釜」
 2008年
細野晴臣、鈴木惣一郎(聞き手)
平凡社

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