ホーおじさんのジャイアント・キリング


- ホー・チ・ミン Ho Chi Minh -
<戦争の世紀、最高の軍事指導者>
 20世紀を「戦争の世紀」と呼ぶなら、その「戦争の世紀」において、最強王者だったアメリカ相手に唯一「ジャイアント・キリング」を成し遂げた男、ホー・チ・ミンは「史上最高の指導者」ということになるかもしれません。しかし、その顔はスターリンやヒトラーなどとは大違い、まさに好々爺そのものです。彼の愛称「ホーおじさん」は、そんな優しいひげ面の顔にぴったりでした。
 ヒトラー、スターリン、金日成、毛沢東などのカリスマ的指導者と彼の違いは顔つきだけではありません。それは、彼だけが唯一自らを指導者として神格化せず、独裁体制を築こうとしなかったことです。残念なことに、彼の死後、後継者たちが意志に反して、彼を神格化し、体制の強化に利用してしまいました。それが、ベトナム戦争後の発展を遅らせる一因になったのかもしれません。それでも、21世紀に入り「ドイモイ政策」の成功により、ベトナムは急速な経済発展を遂げつつあります。長きにわたる独立戦争により、多くの命や自然を失ったベトナムは今大きく変わろうとしています。
 そんなベトナムの父「ホーおじさん」の人柄の秘密について迫ってみようと思います。

<ベトナムの歴史>
 ベトナムの歴史は非常に古く、秦や漢など中国との戦争や元との3度にわたる戦いなど、独立を守るための長い戦争の歴史から成り立っているともいえます。その最後にアメリカとの戦争があったわけです。そこで、先ずはその前段にあたる19世紀フランスからの植民地支配から歴史を振り返ります。
 1858年、最初のフランスとの戦争があり、この時に国土の一部がフランスの植民地とされました。(当時の国名は「越南」)
 1887年、フランス領インドシナ連邦の一部となり、完全なフランスの植民地となりました。そこからベトナムの世紀をまたいだ長い独立に向けた闘いの歴史が始まることになります。
 1941年、フランスの植民地としての歴史は一度終わりを迎えます。しかし、それは日本軍の侵攻によって、植民地支配者がフランスから日本に代わっただけのことでした。
 1945年、太平洋戦争が終わると再びフランスが支配者としてインドシナに帰ってきました。戦後、多くの植民地が独立国としての権利を勝ち取る中、フランスはアルジェリアも含め、戦前からの植民地を手放そうとしませんでした。
 このままでは、独立のチャンスを逃すことになる・・・そんな状況の中、さっそうと現れたヒーローがホー・チ・ミンでした。

<ホー・チ・ミン>
 ホー・チ・ミン Ho Chi Minh が生まれたのは、1890年5月19日ベトナム中部ゲアン省。父親は知事も務めた人物で、彼もフエの名門学校に通う秀才でした。しかし、世界を知ろうという夢を抱いた彼は、21歳の時、フランスの商船に船員として乗り込み旅に出ます。(放浪の旅といえば、チェ・ゲバラを思い出します)世界を旅しながら、彼はベトナムと同様植民地となっていたアフリカなどの土地を巡り、そこで植民地の厳しい現状と西欧社会の豊かさを知ることになります。その後、彼は大都会ニューヨークやロンドンに住み、それらの街でコックや肉体労働の仕事をして暮らしながら多くのことを体験します。彼はそこで西欧人との付き合い方、適応の仕方を学び、それが後の政治交渉でも大いに役立つことになります。
 フランス料理のレストランで働いていた当時、手先が器用で優れた舌を持っていた彼は、世界的なフランス料理のシェフ、エスコフィエにもかわいがられたといいます。(長く仏領だったベトナムはアジアで最もフランス料理の影響を受けた国です)
 5年間に及ぶ旅の後、彼はパリに落ちつきます。フランスから故国ベトナムを思う彼は、しだいに独立運動に関わるようになり、同志が集まるフランス社会党に入党します。
 1919年、第一次世界大戦が終わり、ヴェルサイユ講和会議が始まると彼は世界に向けた「ベトナム人民の要求」と題して8項目の請願書を発表します。政治犯の釈放やベトナムの自治を求めるこの請願書は各国首脳にも読まれ、彼は一気に世界的に注目される政治活動家となりました。
 1920年、彼はフランスに創立された共産党に入党します。
 1923年、彼はフランスからの独立達成のため、モスクワでソ連のコミンテルン活動に参加。その後、ソ連の後ろ盾を得て、アジアへと旅立った彼は、1930年、香港でベトナム共産党を設立。
 1941年、フランス軍が日本軍の攻撃によってインドシナを離れると、ついに故国に帰国し、独立運動を開始します。太平洋戦争の終結まで、彼は何度も逮捕され、獄中生活を送りますが、1945年9月、ハノイにベトナム民主共和国が成立され、初代大統領に就任します。ところが、ソ連よりの共産主義政権の誕生はフランスではなくアメリカを動かすことになります。

<ベトナム戦争のはじまり>
 ソ連、中国と共産主義国家が誕生した後、その隣に新たに共産主義国家が生まれつつあることにアメリカは危機感を強め、これ以上共産化が広まらないようベトナム共産政権の転覆を計画します。(同じような共産化は南米でも進行し、その流れは「ドミノ理論」としてアメリカを恐れさせていました)そこでアメリカは本格的にベトナムの共産化を食い止めるために、自ら戦争に参加する道を選択します。
 1964年7月30日、ベトナム北部のトンキン湾で、アメリカ軍の駆逐艦に北ベトナムの哨戒艇が魚雷攻撃を行ったとして、ベトナムとの戦闘を開始します。しかし、この北ベトナムによる魚雷攻撃は戦闘を始めるための口実として作られたデマだったことが後に明らかになります。
 さらにアメリカは、ベトナムの南半分に1965年親米反共の国家ベトナム共和国(南ベトナム)が誕生させます。(この傀儡政権の初代大統領はゴ・ジン・ジェムでした)アメリカのこうした介入に対し、北ベトナム側は南ベトナム内に反米闘争組織、南バトナム解放民族戦線(ベトコン)を創設。こうして、実質的にはベトナムとアメリカの戦争であるベトナム戦争が始まることになりました。
 ベトナム戦争がそれまでの戦争と大きく違っていたのは、報道カメラマンが制限されることなく取材活動を行い、そこにテレビカメラが参加していたことです。そのため、よりリアルな戦争の映像が米国側からだけでなくベトコン側からも送られてきました。特にベトコン側から送られるベトナム国内の現状や米兵による残虐な殺戮シーンは、アメリカ国内だけでなく世界中の世論を反米・反戦へと導く重要な役割を果たすことになりました。
<代表的な写真>
「サイゴンでの処刑」爆撃からの逃走」(安全への逃避)「戦争の傷痕」(Vietnam-Lone U.S. soldier)「ナパーム弾から逃げる少女」(戦争の恐怖)・・・
 米国、ベトナム共に報道陣を積極的に受け入れることで自国の正当性を世界にアピールしますが、米国はその報道戦に失敗し、墓穴を掘ることになります。(「湾岸戦争」では、その教訓を生かし、徹底的に報道の仕方に制限を加え、自国に有利な報道しかさせない作戦と用いることになります)
 こうして、1960年代の終わりには、全米を巻き込んだ反戦運動が、ヒッピームーブメントや学生運動、公民権運動とも合体することでその勢いを急激に増すことになります。

<勝利に向けて>
 ホー・チ・ミンは軍人としての経験がなかったものの、確実に戦況を有利なものに導きます。
 1965年、戦況の悪化に伴い、このままのジャングルでの戦闘では勝ち目がないと判断した米軍は、北ベトナムへの爆撃を開始します。(「北爆」)さらには「枯葉剤」(ダイオキシンを含む)の散布を行うことでジャングルを丸裸にする作戦を実行し、ゲリラ戦を有利に持ち込もうとします。この作戦は、森を裸にしただけでなく兵士や民間人そして赤ん坊に大きな被害を及ぼすことになり、世界中から批判を浴びることになります。これは実質的な毒ガス攻撃ともいえる悪質な戦法でした。
 こうして、勝つために手段を選ばなかった米軍ですが、ベトコンと彼らを支援する北ベトナム軍、ベトナムの農民たちの士気は高くその勢いに圧倒されてゆきます。
 1968年1月30日に始まった「テト(旧正月)攻勢」では、南ベトナムで一斉に攻勢を仕掛け、米軍を追い込み、フエやダナンなどの大都市はもちろん、首都のサイゴンにあったアメリカ大使館の一部までも占拠。アメリカをもういつ負けてもおかしくない状況に追い込んでしまいました。
 世界中から批判され、国内でも反戦運動が盛り上がる中、ジョンソン大統領は、大統領選挙の年を迎えることになります。しかし、国民の支持どころか、身内である共和党内からも支持を得ることができなくなり、出馬を断念するに至ります。もう戦争を続ける理由もなくなり、10月には北爆を停止。いよいよ敗戦処理状態となった米軍は、少しづつ兵士を引き上げて行きます。
 1975年、弱体化した南ベトナム軍は、もうベトコンの敵ではなくなり、ついに首都サイゴンが陥落することで南北ベトナムの統一が実現することになりました。

<ホーおじさんの遺言>
 この戦争において、彼が優れていたのはベトナム戦争を「共産主義」対「自由主義」もしくは「ソ連と米国の代理戦争」という構図にしなかったことにありました。それはあくまでもアメリカによる支配から独立するための「独立戦争」だとして、ソ連や中国との距離を保つことで独自色を出し続けたのです。
 そんなベトナムの政治姿勢を体現したのが「ホーおじさん」であり、その生き方だったのです。自らを神格化することを許さず、何度も書き換えられた遺言の中で彼は、(1)葬儀は質素なものにし、金と時間を無駄使いするな(2)死体は火葬にして、北部、中部、南部3か所の丘に埋めること。この二つの内容だけは、けっして書き換えなかったのだそうです。
 ソ連がレーニンの遺体を保存・展示することで、国の神扱いしてきたようにされてはいけない。それは単に彼が恥ずかしがりやだったからではなく、そうなることで国がカリスマ的英雄をあがめる独裁国家になることを恐れたからでしょう。
 ところが、彼の願いはかないませんでした。ベトナム統一の瞬間を目にすることなく1969年に彼がこの世を去ると、後継者たちは統一のシンボルとして彼の遺体を保存。彼が危惧した通り、ベトナムは統一後、長く共産主義国家ならではの官僚主義と賄賂が横行することになります。経済政策も失敗した結果、多くの国民が国を捨てて「ボートピープル」となって国外へと去って行きました。
 1986年から始まった「ドイモイ(刷新)政策」は、資本主義を大幅に導入することで、活力のある経済活動を復活させつつあります。ただし、これもまた「ホーおじさん」が恐れていたように中国同様に今後、ベトナムが「拝金主義」が中心思想となることが心配です。

<ジャイアント・キリングの国>
 サッカー好きの僕としては、2015年ベトナム代表チームを男女ともに日本人監督が指導していることにも注目したいと思います。近い将来、ベトナム・サッカーが日本を倒してワールドカップに出場するのではないか?ベトナムという国は、「ジャイアント・キリング」という言葉が似合う国のような気がします。
 いつかベトナムに行ってみたいと思っています。

 ホー・チ・ミンは生前、日本からやって来た特派員のインタビューに対し
「私の欠点は、たばこを吸い過ぎることと結婚しなかったことだ」と答えています。
 もし、息子がいたら、北朝鮮のように権力を世襲してしまっていたかもしれませんが、そうはなりませんでした。でも、彼の意志を継ぐ者もまた現れないことを彼は予測していたのかもしれません。
 そんな「ホーおじさん」の近くで取材を行った日本電波ニュースの特派員、鈴木利一は僕のおじさんです。(鈴木家の誇りのひとつです)
 ALSと長く闘っている利一おじさんのことを思いながら・・・
<追悼>
 2016年4月26日
 カンボジアで北ベトナム軍の捕虜となりながら、無事に帰還した戦場カメラマン、鈴木利一氏が長いALSとの闘いの後、ついにこの世を去りました。
 ただし、病に負けたのではなく、寿命を全うしたといっていいと思います。ご苦労様でした。

 <参考>
「100人の二十世紀(下)」
 2000年
(編)朝日新聞
(出)朝日新聞社

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