<ディスコからハウスへ>
1970年代後半にブレイクしたディスコ・ブームは、1980年代に入るとすぐに下火になり始めていましたが、このディスコのブームと平行して、すでにハウス/ガラージの時代が始まろうとしていました。ところでディスコとハウス/ガラージの違いは何か、ご存知でしょうか?
「ハウスとはキック・ドラムを誇張したドラム・マシンによって強化されたディスコを指す」
「The A-Z Club Culture」より
さらにこうも書かれています。
「それは80年代初頭のシカゴのディスコに由来するものである。その音楽の起源はニューヨークの『パラダイス・ガラージ』や『ロフト』から来ている」
もうひとつこんな定義もあります。
「ハウス・ミュージックの定義を素人が家で作ったディスコ・ミュージックとするなら、初期のハウスはまさにそう呼ぶに相応しいものだった。・・・」
野田努著「ブラック・マシン・ミュージック」より
音楽的には、よりエレクトリックでミニマルなダンス・ミュージックへと進化したディスコ・ミュージックがハウスといえますが、最大の違いはハウスとは切れ目なく踊れるように工夫された「ダンスを踊るための音楽」だということです。そして、この「ダンスを踊るための音楽」を作る主役はDJと呼ばれるアーティストであり、その音楽は傍役に回るということなのです。ディスコでかかる音楽は、踊れる音楽ではあっても、あくまで聞くために作られた音楽の流用でした。伝説のクラブ「パラダイス・ガラージ」のメインDJラリー・レヴァンの残した名盤「Larry
Levan's Paradise Garage」には、インスタント・ファンクやロリータ・ハラウェイらの曲が収められていますが、アルバムの名義はあくまでもラリー・レヴァンとなっています。(このアルバムはDJ名義で発売された最初のアルバムとも言われています)最高の選曲と絶妙のミックスによって生み出される一夜だけのグルーブ感は、確かにDJのみが創造できるものかもしれません。
前述のアルバム「Larry Levan's Paradise
Garage」を大ヒットさせたレーベル、サルソウルはそうしたDJたち御用達のレーベルとして1970年代半ばごろから活躍を続けてきました。その音楽は「ディスコ」から「ハウス」への変化において大きな役割を果たしました。ここでは、サルソウル・レコードの歴史とともにハウス誕生の歴史に迫ってみたいと思います。
<サルソウル・レコード>
サルソウル・レコードは、1974年にニューヨークで設立されています。設立者は、ジョー、スタン、ケンのケイル3兄弟。「サルソウル」の名前は、「サルサ」と「ソウル」を融合を意味していますが、その母体はラテン語のレーベルだったようです。ちなみに、音楽ジャンルとしては、この頃すでに「サルサ」と「ソウル」を融合させた音楽ジャンルとして「ブーガルー」がありました。そして、そのジャンルにおける当時の人気ナンバー1のアーティスト、ジョー・バターンがサルソウルの第一弾アーティストとなりました。(その後彼はファニア・レーベルで活躍します)最初のシングルとして発表したのはポエトリー・ソウル界の大物ギル・スコット・ヘロンの名曲「ザ・ボトル
The Bottle」でした。ダンサブルなラテン・リズムをバックにしたその曲は「サルソウル」の名前にまさにぴったりでした。しかし、サルソウルのラテン色はその後しだいに薄くなります。代わって浮上してきたのは、当時ブレイクしていたフィリー・ソウルお得意のオーケストラによるラテン風味のダンス・サウンドでした。そして、その主役となったのはフィリー・ソウルの要的存在、フィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオを拠点とするMFSBでした。
<MFSB>
B=H=Yとも呼ばれたロニー・ベイカー、ノーマン・ハリス、アール・ヤングを中心とするスタジオ・ミュージシャン集団
MFSBは、1970年代半ばギャンブル&ハフのもとPIR(フィラデルフィア・インターナショナル・レコード)で次々とフィリー・ソウルの名曲を生み出していました。しかし、元々PIR専属のバンドではなかった彼らは、ディスコのブームとともにその活躍の場を広げ、サルソウルのための録音も行うようになります。そして、そのゴージャスなストリングスとラテン・リズムの融合がその後サルソウル・サウンドの基本として用いられることになります。こうして、MFSBのメンバーはいつしかサルソウルのための録音が仕事の中心となり、ヴィブラフォン担当のヴィンス・モンタナを中心にサルソウル・オーケストラとして再スタートを切ることになります。こうして、延々と叩き続けるラテン風味の効いたアール・ヤングのドラムと美しいストリングスによるダンス・サウンドはサルソウル・サウンドのイメージを決定づけることになります。サルソウルに流れるラテン音楽の血は、その後も他のレーベルとは異なる雰囲気を生み出し続け、それが黒人とヒスパニック系のゲイの人々からなるニューヨークのディスコで大受けすることになったのでした。そして、そのディスコに集まるダンス・ピープルのために生み出されたのが、ディスコ・サウンドであり、それをさらに進化させたダンス音楽がハウス/ガラージと呼ばれることになります。
<DJ文化の誕生>
1970年代初めのディスコはただ単にヒット中のダンス・ナンバーのレコードを取り替えながらかけ続けるだけで、選曲のセンスとフロアを盛り上げるMCがDJの主な役割でした。しかし、ディスコがよりダンス重視のスペースへと変化してゆく中、DJはいかにダンサーたちを満足させるか、そのための工夫を競い合うようになってゆきます。
1960年代に社会変革に向けられていた若者たちの情熱が冷めてしまったことから、シラケムードの若者たちは、ディスコで踊ること、そして麻薬でハイになることに喜びを見出すようになっていました。彼らは永遠に踊れる音楽を求めていました。
「パラダイス・ガラージは多くの、とっても多くの人たちにとって思い出の中心だ。それが閉店した今日でさえ、ガラージは畏れるべき場所として評価されている。それは避難所であり、箱舟であり、教会であり、寺院であり、そして彼らの家だった」
メル・シャーリン「ブラック・マシーン・ミュージック」より
こうして、ディスコ音楽は、そのために新たな進化をし始めることになります。
<DJテクニックの誕生>
DJたちによって先ず初めに行われたのは、切れ目なく踊り続けるために曲を長くのばすことでした。そのために、生み出された最大の発明はDJによる2枚のレコードのミックスでしょう。それは1969年頃、伝説のDJフランシス・グラッソによって編み出されたといわれています。現在のような器材がまったくなかった時代、文字どうり手探りによって2枚のレコードのビートを合わせてつなぐことができたのは、ある意味超能力に近い才能をグラッソが有していたからかもしれません。もちろん、これは誰もができることではありません。(その後、器材の発展により誰でもミックスを簡単に楽しめるようになりますが・・・)そこで考えられましたのは、もっと簡単な方法です。
1973年、セプター・レーベルが発売したウルトラ・ハイ・フリーケンシーの「We've
on the Right Track」という7インチ・シングルは裏面を同じ曲のインストロメンタル・ヴァージョンにしてありました。ということは、このシングルが2枚あれば交互に2枚をかけることで永遠に切れ目なくダンスを踊ることができるわけです。さらに、白人DJのトム・モウルトンは、グロリア・ゲイナーのデビュー・アルバム制作に協力を求められ、別々の曲を3曲ミックスによってつないでしまうという新しい試みを提案、ヒットに結び付けました。(グロリア・ゲイナーはその手法がに激怒したそうですが・・・)彼女が元祖ディスコ・ディーバと呼ばれることになる陰には、こうしたDJによる工夫もあったようです。
そして、さらに曲を長くするために作られたのが12インチ・シングルです。その第一号は、1976年サルソウル・レーベルから発売されたダブル・イクスポージャーの「Ten
Percent」だといわれています。元々オリジナルは3分の曲だったものを10分のロング・ヴァージョンにのばしたのは、やはりDJのウォルター・ギボンズという人物でした。
切れ目なく踊れるよう曲も長くするためにとられた工夫は他にもあります。それは機械を用いることで、曲を延々と長くのばすことです。具体的には、ドラム・マシーンを用いることでリズム・トラックをいくらでものばすことができます。そうした曲では、当然歌に起承転結は求められなくなり、単純な歌詞の繰り返しで十分ということになります。(シルバー・コンヴェンションの「Fly
, Robin Fly」などは、その典型的な曲です)こうして、ディスコ・サウンドはより長くするために、より単純化されることになっていったわけです。そして、曲も歌詞も単純化されることは、もうひとつ重要な意味をもっていました。それはディスコ・サウンドがそれまでの「黒さ」を失い、より無国籍で大衆化された方向へと向かうことを早めることになりました。ディスコ・ブーム初期のスターたたいであるドナ・サマーやシルバー・コンヴェンションがドイツからデビューし、世界的にブレイクすることになったのは偶然ではなかったのです。
こうした、ダンス音楽の革命においてサルソウル・レコードが大きな役割を果たせたのは、メジャー・レーベルが手を出さないダンス音楽に特化することでDJやダンサーたちの要望に細かく対応できるインデペンデント・レーベルだったからです。DJのためのプロモーション・シングルを作ったり、売り上げ枚数がほとんど期待できない12インチ・シングルをプレスすることは、インデペンデント・レーベルだからこそできたことでした。さらにサルソウル・レコードは、こうしたダンス・シングルを制作するために、あえて人気クラブのDJたち、例えばトム・モウルトンやウォルター・ギボンズらをリミキサーとして起用。彼らが最新の情報と自分たちが生み出したリミックス・テクニックを盛り込むことで、常に「旬」のダンス音楽を提供することができたのです。
<時代の先を行くサルソウル>
そんな中から生まれたサルソウル最初の12インチ・シングル「Ten
Percent」(1976年)は予想を上回るヒットとなり10万枚の売り上げを記録します。ダンスのための新しい音楽は一躍業界の注目を集めることになりますが、いち早く先を行ったサルソウルはその後もヒットを連発し、この分野での活躍を続けます。
ファースト・チョイスの「Let No Man Put
Asunder」、ジョセリン・ブラウンがヴォーカルを担当していたインナー・ライフの「Make
It Last Forever」、サルソウルを代表するファンク・バンドだったインスタント・ファンクの「I
Got My Mind Up」(1979年)、ロリータ・ハラウェイの「Loave
Sensation」(1980年)「Runaway」(1977年)など。
サルソウルは、ガラージのルーツとなったラリー・レヴァンが活躍していた「パラダイス・ガラージ」やハウスのルーツとなったフランキー・ナックルズが活躍する「ウェア・ハウス」など、最新のクラブで流行っているサウンドをDJたちを通じていち早くレコード化しながらハウス/ガラージ時代をリードしてゆくことになったのです。
ただし、こうした先進的な活躍をしていながら当時も今もサルソウルは音楽界において、けっして高い評価を受けてはいません。当時も、今もディスコ音楽とは黒人音楽の最高峰だった高度なファンク・ミュージックの完成形を単純化し、誰でも踊れるようにしただけの音楽と考えられているからです。それどころか、ディスコのブームによって、それら最高峰のテクニックを有していた多くのファンク・バンドがその仕事の場を失ってしまったのですから、音楽ファンの中ではすっかり憎まれ役になってしまったのです。さらに、そこにはそれらの音楽を生み出したDJたちやダンサーたちの多くがゲイだったための差別意識も関わっていたという指摘もあります。
ディスコから生まれた初期のハウス/ガラージは、こうして周りから評価されることなくある種閉ざされた空間(ニューヨークやシカゴのディスコの一部)で密やかに発展し続けることになりました。それが評価されるようになるのは、1980年代以降のことになります。
<ウェアハウスの終焉>
「ハウス」の名は、1977年にシカゴにオープンしたクラブ「ウェアハウス」の名前からとられたといわれています。
入場料4ドルのジュース・バーで踊っていたのは、ほとんどが黒人のゲイだったといいます。アルコールの販売が禁止させられたこの店では、その代わりに麻薬が非合法的かつおおっぴらに販売されており、それが多くの入場者を集めることになりました。さらにその店にはフランキー・ナックルズという人気DJがおり、ラリー・レヴァンと同様サルソウルのナンバーを中心に選曲し観客たちを盛り上げていました。ニューヨークからやって来た彼が持ち込んだそれらの曲の多くをシカゴの観客は知らなかったこともあり、それらは「ウェアハウス・ミュージック
と呼ばれるようになりました。そして、それがいつしか縮められて「ハウス・ミュージック」となったのです。
ニューヨークの「パラダイス・ガラージ」で生まれた「ガラージ」は、フランキー・ナックルズによってシカゴに持ち込まれ、そこで「ハウス」と呼ばれるようになりました。「ハウス」と「ガラージ」はこうして2つの街のアンダーグラウンド・シーンで同じテイストを持ちながら平行して進化し続けることになります。しかし、パラダイス・ガラージは、設立者でありオーナーでもあったマイケル・ブラディがエイズでこの世を去ったため、1987年に閉店。ラリー・レヴァンも1982年、38歳という若さでこの世を去り「ガラージ」の幕は完全に降ろされることになります。シカゴ生まれのハウスは、エイズという重い十字架を背負いながら、その後も独自の進化をとげ、同時代にブレイクしたヒップ・ホップとはまったく別の道を歩みながら、ダンス・ミュージックの新しいスタイルを築いてゆくことになります。