「一億三千万人のための小説教室」

- 高橋源一郎 -

<小説を書くためのHow To 本>
 日本文学界屈指の文学オタク高橋源一郎が書いた「小説を書くためのHow To 本」です。と言っても、彼がどこにでもある「How To本」を書くわけはありません。この本は、小説を書くためのテクニックではなく、小説を書くための心構えについて書かれた本と考えるべきでしょう。彼はそこで19の重要なポイントをあげています。ここでは、その19項目を書き出し、簡単な解説も加えましたが、ちょっとわかりにくいかもしれません。実際は、本の中に様々な小説からの引用があり、より分かり易くなっています。是非、本書をお読み下さい!
 それでは先ず、小説を書きたいと思っているあなたへの言葉から始めましょう。

 はじめる前に、ひとこといっておきます。わたしは、とても、あなたがうらやましい。なぜなら、あなたは、まだ小説を書いたことがないから。あなたには、小説という未知の世界が待っているから。あの、素晴らしい世界を、これから、ゆっくりと歩きはじめることができるのだから。

(1) なにもはじまっていないこと、小説がまだ書かれていないことをじっくり楽しもう

(2) 小説の、最初の一行は、できるだけ我慢して、遅くはじめなければならない


 村上春樹は、「スプートニクの恋人」を最初に頭に浮かんだ一行から、書き始めたと語っていました。
「僕がなぜこういう小説を書いたかというと、『22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。』から始まる、出だしのワン・パラグラフをあるとき、なんとなく書いちゃったんです、別に小説を書くつもりもなく、スケッチみたいに。・・・」
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」(村上春樹インタビュー集)より

 ただし、これは村上春樹という作家がプロの作家として、毎日、小説を生み出す心構えを維持し、ワン・パラグラフから物語を生み出すだけの蓄積を積み上げていたからこそ可能だったのです。そのことをお忘れなく!

(3) 待っている間、小説とは、ぜんぜん関係ないことを、考えてみよう

 ここであなたは自分がどんなお話を書きたいのか、改めて考えてみる必要があります。そして、それは自分自身の中にすでに存在しているのか?もし、そうなら書き始めることは可能でしょう。永遠の名作「エーミールと探偵たち」の冒頭に著者のケストナーが素晴らしいアドバイスを書いています。

「いずれにしても、エーミールのことを思いついたのは、その瞬間でした。わたしはじっとねたままでいました。なぜなら、浮かびかかった思いつきや記憶は、ぶたれた犬のようなものだからです。あんまり急に動いたり、何か話しかけたり、あるいは、さすってやろうとしたりすると - すっと逃げてしまうものです!いったん逃げたら、またやってくるのは、いつのことだか、わかりません。
 そこで、わたしは身動きせずにねたまま、思いつきにむかってしたしげにほほえみかけました。思いつきをはげましてやろうと思ったのです。はたして、思いつきは安心して、かなりうちとけ、一歩一歩ちかづいてきました。・・・そこで、わたしはその首根っこをぎゅっとおさえつけました。こうしてつかまえました。首根っこをですよ。」

「エーミールと探偵たち」 ケストナー著

 あなたが「小説」の首根っこをおさえている自信があればスタート可能です。

(4) 小説を書く前に、クジラの足がなん本あるか調べてみよう

 もし、あなたが書き出す前に「クジラの足の本数」や舞台となる島の緯度と経度、生息する動物について気になることがあるなら・・・。それは単なる情報不足なのでしょうか?それとも「小説」に根本的な何かが足りないのでしょうか?もう一度考える必要がありそうです。しかし、すべての情報をそろえてから小説を書き出すのなんて無理なことです。それよりも、「心」が書きたい気持ちになっていることの方が重要ななずです。

(5) 小説を、いつ書きはじめたらいいか、それが、いちばん難しい
(6) 小説を書くためには、「バカ」でなければならない


・・・ほんとうに何かを知るいちばんいいやり方は、いつだって、「その何かを、わからないまま、やってみる」
- ということなのではないでしょうか。


 あなたの中にその小説が、すでにあるなら、余計な情報などなくても読者にその思いは伝わるはず。喜びをもって知ったことは、喜びをもって生み出したお話は、もうそれだけで十分に価値をもっているのです。あとは、それをいかに素直に表現できるかだけが大切なのです。

(7) 小説に書けるのは、ほんとうに知っていること、だけ
・・・あなたは、小説を書くためには、いらない知識をたくさん持ちすぎている。あなたが最初にやらなければならないのは、知識をぜんぶ、いったん、忘れてしまうことです。なぜなら、あなたは、感受性をとぎすまし、こうやって、暗闇の中で目を見開き、沈黙の中で耳をすまさなければ、小説をつかまえることができないからです。・・・
(8) 小説は書くものじゃない、つかまえるものだ


 「小説をつかまえる」ということは、そこで描かれる世界をそのまま文章化すればいいというわけではありません。それでは作文にすぎません。ひとの心をとらえる「小説」はいつも見慣れている出来事を異なる角度から見せることで初めて可能になるはずです。

(9) あることを(小説のことを、でいいでしょう。あるいは、書こうとしているなにかを、もし、なにを書くか決めていなかったとしたら、いったいなにを書けばいいのかを)徹底して考えてみる。考えて、考えて、どうしようもなくなったら、まったく別の角度で考えてみる

(10)世界を、まったくちがうように見る、あるいは、世界が、まったくちがうように見えるまで、待つ


 ただし、別の角度から見せるといっても、そう簡単にできることではありません。そのためには「小説」を自らが様々な角度から見る必要があります。
 では様々な角度から見るにはどうすればよいのでしょうか?

(14)小説をつかまえるためには、こっちからも歩いていかなければならない
(15)世界は、(おもしろい)小説で、できている


 そして、もうひとつ重要なこと。それは、あらゆる芸術において共通するであろう原則。すべては、素晴らしい作品をマネすることから始まるということです。

(16)小説を、あかんぼうがははおやのしゃべることばをまねするように、まねる

 しかし、なぜ、人は、いや小説家は、他の小説家をまねようとするのでしょうか。
 その答えは、なぜ、ことばを覚えるのか、という問いへの答えと同じです。
 人はひとりではいられず、そのため、人は他のだれかを好きにならずにはいられない。そして、だれかを好きになる時、生きものは、そのものと同じものになろうとし、そのために、おこないをまね、ことばをまねようとするからです。

(17)なにかをもっと知りたいと思う時、いちばんいいやり方は、それをまねすることだ


 マネすることからオリジナリティーは生まれないのでは?そんな心配はいりません。逆にマネをすることによって、初めてあなたは自分が、「世界」の中のどの位置にいるのかが明らかになってくるはずです。さらに、あなたがマネをする対称を選ぶこともまたあなたの個性を示すことになるはずです。

 だが、独創や個性に至るには、なにが独創でなにが個性なのかをまねしてみること、まねすることによってその世界をよりいっそう知ること、そのようにしてたくさんのことばの世界を知ると、さらにそのことによって、それ以外のことばの世界の可能性を感じること、が必要なのです。

 飛んで来る、たくさんのボールの中に、あなたの恋人を見つけてください。好きにならずにいられないものを見つけてください。好きにならずにいられないものを見つけてください。
 それから、それをまねして、ください。・・・
 繰り返し、繰り返し、書き写したら、その次は、その文章で、それを書いた人の視線で、世界を見てください。それを書いた人の感覚で世界を歩き、触ってください。

 もし、それが、あなたにとって必要なものではないとしたら、それは、その土地に根をはることができなかった植物のように、やがて枯れていくでしょう。
 しかし、枯れた植物は、ただ死ぬのではありません。分解し、無数の構成要素となって、その土地の奥深く、泌み透り、別の生きものによって吸収されるのを、静かに待ちつづけるのです。


 ここで著者は「小説」とは何かについて、「詩」との比較による説明をしてくれます。

 わたしの考えでは、詩というものは、なにより、形が生命、です。詩という形、でわからなければ、短歌や俳句を思い浮かべてください。
 すべての詩は、その、はっきりとは見えない、けれどはっきりと存在していることだけはわかる、ある形、に向かって書かれているように、わたしは見えるのです。

 詩、というものは、本来「うた」だから、それ以外の要素をどんどん削り落としていくことができる。けれど、小説というものには、本来のなにか、などないのです。だから、削り落とすことは正反対に、どんどん、いろんなものが付け加わってくる。自分自身というものを持たないから、いくらでも、いろんなものを吸収できる。
 それが小説です。
 だから、小説は、詩に似たり、評論に似たり、エッセイに似たり、テレビドラマに似たり、する。なにを、どう書いても、小説であることが許される。それが小説なのです。
 あらゆる芸術の中で、小説は、もっとも遅く生まれたもののひとつであり、つまり、それは、芸術という一つの大きな家族の中のあかんぼうだ、ということを意味しているのです。


 あらゆるものを、(それが、わからないことばで書かれているものなら)、わかることばに翻訳して、死んだことばを、生きていることばにして、運んで来てくれるのが、小説、とわたしは考えるのです。・・・

 さらにここで著者は、もうひとつ「小説」を書くために大切なポイントを指摘しています。それは、多くの名作と呼ばれる小説に共通すること。「たましいのフリークス(奇形)」に注目せよ、ということです。

 ただ、わたしがいいたいのは、見失いそうになるもの、見ないようにしたいもの、そういうものの存在を忘れないように、ということなのです。
 たましいのことは大事だけれど、たましいのフリークス(奇形)がいること、をわたしたちは忘れてはならない。そして、その、たましいのフリークスの呟きを聞くことのできる耳を持たなくてはならないのです。


 「たましのフリークス」とは、「一般人」と呼ばれる大衆からはみ出しそうな位置にいる人々のこと。しかし、それは時と場合によっては、僕もあなたもそうなる瞬間があるはずです。
 そうした限界に立つ人々を描いた作品こそが名作と呼ばれる小説のほとんどを構成しているのです。

 ミラン・クンデラという小説家は、こういうことを言っています。
「人間の限界とは言葉の限界であり、それは文学の限界そのものなのだ」と。

 いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう。小説を書く、ということは、その向こうに行きたい、という人間の願いの中でその根拠を持っている、わたしはそう思っています。

 もちろん、そうした限界に立つ人々が描いた小説の多くは、発表された当時、大衆に理解されたなかった場合が多いのも事実です。

 精神のチューニングがずれている(と思える)人たちの作品をいくつも読んだことがあります。その作品と、わたしたちの間には、大きな壁があって、理解することは不可能だったと、わたしは思ったのでした。

 それらの小説は理解できないだけでなく、恐かったり、気持ち悪かったり、寂しすぎたりして近づきたくない存在かもしれません。

 そういう小説は、みんな、よく似ている。
 みんな、少し哀しく、孤独で、かたくなで、近寄りがたく、ただ自分の前だけをじっと見つめている。その一本の道が、ある、途轍もいない奇蹟によって、やがて、突然、人々の住む広大な土地に達することがあります。それを、わたしたちは、習慣によって「傑作」とか「芸術」と呼んでいます。


 しかし、そうした限界に立つからこそ、その著者は世界を異なる角度から見ることが可能になったのです。

 すべての小説は(広く、「文学」は)、「笑っている」「皆んな」の方が違っているのではないか、という、孤独な疑いの中から生まれてくる・・・。

 最後の二つで著者は「小説家よ、書を捨てよ!町に出よう」と呼びかけます。

(18) 小説はいう、生きろ、と
(19) 小説は、写真の横に、マンガの横に、あらゆるところに、突然、生まれる


 詩でも、戯曲でも、評論でもない、またいわゆるふつうの小説でもないのに、こころを揺さぶり、それを読む以前のようには、世界を見ることができなくなるような、そんなことば。
 それもまた、わたしは、やっぱり、小説と呼びたくなるのです。


「小説家よ、小説を書こうと思うな!」
 もしかすると、最後に著者はこう言いたかったのかもしれません。そう考えると、このサイトも僕の脳の中に構築された巨大な「歴史小説」なのきあもしれません。

<限界に生まれた名作文学>
 最後に僕が文学史に残る名作の中から、高橋氏が「これそ小説!」と認めるであろう作品を選んでみました。そちらも参考にして下さい。
 これから小説を書こうと考えている人は、もし文学史に残る作品を書きたいのなら、小説の世界が生み出してきた「限界」に位置する作品について知ることにも意味があるかもしれません。
 でも、本当に凄い小説を書く人は、そうした過去の作品が生み出した限界など関係ないのかもしれません。カポーティーもヘミングウェイも芥川龍之介の村上春樹も、みな自分自身がそうした「限界」に立って小説を書ける作家なのです。もともとそんな天才に、このサイトは不要な存在だとは思いますが・・・。

「白鯨」 ハーマン・メルヴィル 鯨についての専門書のような部分や寓話的なストーリー展開が理解されず、著者が存命中はほとんど評価されなかった。
著者が描いたのは鯨との戦いに命をかける見た目も心もフリークな男たちの物語でした。
「遠い声 遠い部屋」 トルーマン・カポーティ 同性愛者である著者による自伝的小説。自身の美しい肖像写真カバーも話題になったデビュー作。
彼はデビュー時点ですでに文壇における異端者でした。
「ライ麦畑でつかまえて」 J・D・サリンジャー 大人になれない感受性が強すぎる少年の青春小説。精神を病むギリギリのところで書かれた作品であることは、その後の著者の孤独な人生からも明らかです。
「ロリータ」 ウラジミール・ナボコフ 少女への倒錯愛を描いたスキャンダラスな小説。ロシア革命による亡命により、自由の国アメリカへ移住したことで世に出た異常性愛小説の先駆作。
「不思議の国のアリス」 ルイス・キャロル 一歩間違うと少女愛趣味の変態オタク青年だった著者が生み出した即興のおとぎ話。登場人物たちは普通の人には思い出せないようなフリークスばかりです。
「ジーキル博士とハイド氏」 ロバート・スティーブンソン 病気がちだった著者が自分が見た悪夢を小説化した作品。
二重人格もの、心理サスペンスものの元祖となった科学時時代のフリークス小説。
「サロメ」 オスカー・ワイルド ホモで服装倒錯者でもあった著者の趣味なくしては生まれなかった作品。
聖書から生まれた異色の戯曲。考えてみると、イエス・キリストもまた人間の限界に位置する存在でした。
「ユリシーズ」 ジェイムス・ジョイス 過激な性描写と句読点のない独特の文体は、何度も出版禁止となった作品。
「セックス」に関わる異端の文学はある意味王道ともいえます。
「悪徳の栄え」 マルキド・サド 母国フランスでも禁書扱いを受けていた禁断のエロチック小説。
20世紀に入りシュルレアリストたちが再評価し、世に広がることになった作品。
「ボヴァリー夫人」 ギュスタヴ・フロベール 元祖不倫小説とも言われ、何度も裁判ざたとなった作品。
「不倫」はかつては命がけ限界ギリギリの反社会的行為でした。
「田園交響楽」 アンドレ・ジード 同性愛者だったジードが聖職者の禁断の恋愛を描いた問題作。
ローマ法王庁は彼の全作品を禁書に指定(1952年)。
「肉体の悪魔」 レイモン・ラディゲ 天才作家ジャン・コクトーに愛された少年作家。
コクトーのおかげでその才能を認められ、世にその名を知られることになった著者18歳の作品。
「失われた時を求めて」 マルセル・プルースト 喘息に苦しみながら文学にのめりこみ、部屋に閉じこもって書いたという膨大な量の大河小説。
その膨大さに出版することができず、当初は自費出版で世に出た。読む者の限界に挑んだ作品?(全13巻)
「ナジャ」 アンドレ・ブルトン シュルレアリスムが生んだ不思議ちゃんキャラのヒロイン「ナジャ」の物語。シュルレアリスムなしでは生まれなかったし、認められることもなかった作品。
花のノートルダム」 ジャン・ジュネ 娼婦の子として生まれ、男娼、スリなど裏街道を生きた男が獄中で書いた作品。サルトルが終身刑から救いだしたことでも知られる限界ギリギリを生きた男の作品。
「変身」 フランツ・カフカ ユダヤ人への差別というベースがあるとはいえ、あまりにシュールな展開は、当時はまったく理解されませんでした。20世紀の半ば、実存主義の登場により評価されるようになった。不条理小説という異端ジャンルの先駆作。
「巨匠とマルガリータ」 ブルガーコフ スターリンによる独裁体制化、発表される可能性がないまま、著者が一人死の直前まで書き続けた大作。
世に出たこと事態が奇跡ともいえる様々な意味で限界を超えた作品。
「イワン・デニーソヴィッチの一日」 ソルジェニーツィン スターリンによってカザフスタンの収容所に送られた著者がそこでの体験をもとに描いた作品。
政治的、社会的に限界を超えた世界を舞台にしたドキュメント・ノベル。
「存在の耐えられない軽さ」 ミラン・クンデラ ソ連のチェコ侵攻によりフランスに亡命した著者はチェコ国籍を剥奪され、本書は1989年まで母国で出版されなかった。内容は政治的というよりも、セックスや音楽など自由の限界につてのお話。
「蜘蛛女のキス」 マヌエル・プイグ アルゼンチンの軍事政権下、作品が発禁となり、メキシコに亡命し母国に帰ることなく各地を転々としながら書かれた作品。男娼とテロリストというアウトサイダー二人の物語。

 こうして、改めて作品を並べてみると、名作を生み出した作家の多くは、孤独な存在だったことに驚かされます。精神的、性的、民族的、政治的、階級的、宗教的な問題で差別されたり、孤立せざるを得なかったり、亡命することになった作家がほとんどと言っていいかもしれません。そうでない場合も、プルーストやブルガーコフは自ら部屋に閉じこもり、完璧な孤独を選んだ作家です。もちろんサリンジャーもそうでした。世界から孤立したからこそ書ける世界。たとえ、その人物が社会的に孤独ではなくても、すぐれた作家は自ら壁を作り、自らの世界に閉じこめることができる能力をもっているに違いがありません。
 井戸の底が好きな村上春樹も、サッカー場での孤独が好きな村上龍も。いつでも自分を我々が住む世界の外に立たせることが可能なのでしょう。小説家になることと偉大な小説家になることとの間には、間違いなく大きな川が流れてるのです。

<追記>
 「小説教室」は、ちょっと書き直すだけで「絵画教室」にも、「写真教室」、「ロック教室」、「映画教室」にも、様々な芸術ジャンルに適用可能だと思います。
 あなたがもし、小説など書く気がまったくなくても、きっとどこかでこの本の中身は役に立つと思います。子供の写真を撮る時とか、結婚式のスピーチとか、年賀状を作る時とか、朝、何を着るべきかを迷っている時とか、・・・。
 その気さえあれば、人生とは、すべて芸術になりうるものですから・・・・・。

 この後、彼は小説家の原点に戻ったところから、久しぶりの小説「『悪』と戦う」を発表。デビュー作以来、新たな少年たちの冒険小説を完成させます。

「一億三千万人のための小説教室」 2002年
(著)高橋源一郎
岩波新書

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