夢を追い続けた孤独な女のブルース


- 藤圭子 Fuji Keiko 、宇多田ヒカル Hikaru Utada -

<「死」 2013年>
 2013年8月22日、新宿のマンション13階から投身自殺を遂げた歌手、藤圭子の死に際し、彼女の娘である宇多田ヒカルはすぐにコメントを発表しました。娘としていち早くその死因を明確にすることでこれ以上母親の名誉に傷をつけたくなかったゆえの決断だったのでしょう。

 8月22日の朝、私の母は自らの命を絶ちました。様々な憶測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてくだい。
 彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。
 幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。
 誤解されることが多い彼女でしたが・・・とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。・・・


 彼女のコメントにより、藤圭子の死について多くの人は、「なるほど、そうだったのか・・・」となんとなく納得させられ、その後、マスコミ報道はそれほど過熱しなかったように思います。僕も、彼女の生前の歌を思い出しながら、なるほど、そんな精神的な闇があのクールな「怨歌」を生み出したのか・・・となんとなく納得していました。
 しかし、そうやって彼女の死の理由が定められつつある中、そこに一石を投じる本が発表されました。それがここで紹介させてもらう沢木耕太郎の「流星ひとつ」というノンフィクション作品です。ノンフィクションといっても、それはほぼすべてがインタビューからなる作品でした。
 僕はてっきりこの本は、彼女の死に合わせて過去の作品を再発したものと思っていたのですが、そうではありませんでした。それは書かれてから33年もの間、お蔵入りになっていたというのです。なぜ、こんな貴重な作品が、未発表だったのか?驚きでした。というわけで、先ずはこの本が永い眠りの後、発表されることになるまでの経緯から始めます。
 そしてその後、インタビューから時代を平成へと進め、彼女の娘である宇多田ヒカルの物語へと移そうと思います。なぜなら藤圭子の人生は彼女の娘、宇多田ヒカルと切っても切れず、二つの人生は絡み合いながら進んでゆくことになるからです。
 先ずは、沢木耕太郎のインタビューから始めます。

<「インタビュー」 1979年>
 「流星ひとつ」に収められたインタビューが行われたのは、1979年秋、場所はホテル・ニューオータニ40階のバー「バルゴー」でした。インタビューが行われることになったきっかけは、当時はまだ新進気鋭の若手ライターだった沢木耕太郎がニュースで「藤圭子引退」を知り、その真意を知りたいと素朴に思ったからでした。以前、海外の空港で偶然会ったことがあった藤圭子の歌に魅かれていた彼は、是非彼女に会って直接話が聞きたいとインタビューを申し込みます。
 彼の頭の中にはその時すでにインタビューだけで本を構成する作品のイメージがあり、タイトルは「インタビュー」にしようと決めていたといいます。幸い藤圭子側は、インタビューの申し入れをあっさりと受け入れ、この本のためのインタビューが行われた後、1980年春には出版されることになっていました。
 ところが、出版するための最終稿が出来上がったところで、著者である沢木自身が出版見合わを新潮社に申し入れました。
 なぜ、彼は出版をためらったのでしょうか?
 それは、その作品が彼にとって自信作ではあっても、藤圭子という人生を自分の都合の良いように商品化したものであるという自責の念がぬぐえなかったからのようです。もちろん、彼女がアーティストとして現役バリバリで、伝記の出版を望むなら、話は違ったのでしょうが・・・。しかし、引退を決意した彼女の思いは、それを世にさらすにはあまりに純粋無垢でした。そのことは、彼女の引退に到った経緯を考えると自ずと見えてきます。
 こうして、長い眠りについたインタビューが、33年の後、初めて世に出ることになったのは、やはり藤圭子の自殺がきっかけでした。

ニューヨークで結婚してからの藤圭子は知らない。しかし、私の知っている彼女が、それ以前のすべてを切り捨てられ、あまりにも簡単に理解されていくのを見るのは忍びなかった。
沢木耕太郎

 それにしても、これだけの作品をお蔵入りにしていた沢木耕太郎の心意気には感動です。そして、それを認めた出版社(新潮社)の英断も、当時はまだまだ粋な会社だったのだと思います。時代は、そうした行動を認める自由度があったのでしょう。

<「誕生」 1951年>
 藤圭子(本名、阿部純子)は1951年7月5日に岩手県一関市に生まれ、その後、北海道の旭川市で少女時代を過ごしました。彼女の父親が旅回りの浪曲師で母親は三味線を弾いていました。しかし、若頃の栄養不足と仕事の影響で、視力がほとんどない弱視でした。二人は流しや宴会、縁日の歌謡ショーなどで歌いながらギリギリの生活をしていました。一家の長女として生まれた彼女は、子供ながらに生活のため、小学生の頃から両親と共に流しや歌謡ショーに参加することになりました。かわいらしい女の子が、一緒の方があきらかに観客への受けが良かったからです。しかし、彼女にとって当時の歌手生活は楽しい思い出よりも、嫌な思い出の方が多かったようで、それが生涯彼女に重くのしかかることになります。

「芸人って、昔はさ、こう、なんて言うのか・・・人の世話になって生きていくみたいな・・・そういうのが・・・どうしてもあったんだよね。・・・
 子供の頃からずっとそうじゃない。やっぱり恥ずかしかったんだろうね。近所で歌のはいやだったから・・・恥ずかしかったんだろうね。芸人って・・・やっぱり恥ずかしいんだよね」


 もちろん子供ながらに彼女にとって、そうした旅回りの生活はつらいものでしたが、それ以上にあまりの貧しさに食べるものにさえ困る極貧生活の方が厳しかったのでしょう。それでも家族がみんなで貧しいながらも仲良く暮らせたなら、そこには良い思い出もあったはずです。しかし、彼女の少女時代は、父親からの家庭内暴力に常におびえる救いのない暮らしでもありました。彼女の精神は、崩壊してしまってもおかしくない状況にあったのかもしれません。そんな中「歌」は彼女にとって、数少ない救いだったのではないでしょうか。

「そんなんじゃないんだよ。そんなところの恐さじゃないんだよ。カッとすると、何をするかわからない人なんだ。怯えてた。子供たちはみんな怯えてた。お母さんも、みんな怯えてた。しょっちゅう、しょっちゅう、殴られっぱなしだった・・・・・」

 その後、彼女は自分が成功して後、両親を離婚させ、母親と共に暮らすようになります。しかし、それでもなお父親を捨てることはできず、その後もだらしない暴力男の父親のためにお金をせびられ続けることになります。そんな少女時代を過ごしていた彼女が、人間不信、男性不信に陥るのは当然のことでした。大人になってからも、彼女には常に精神面での落着きのなさが目立っていたようです。

「そう、自分でもどうして動いちゃうのかわからないけど、眼が細かく動くんだよ。・・・無意識になると動いちゃうんだ」
「あんまたは、もしかしたら、お母さん以外に、慣れた人間がいないんじゃないだろうか。・・・」


 北海道で暮らしていた彼女は、岩見沢市の雪まつりで行われた歌謡ショーにドタキャンした東京からの歌手の代わりに出演。すると偶然その場にいたビクター専属の作曲家、八洲秀章の目につき、上京を進められ、家族とと共に東京に引っ越します。彼女自身が貧しい生活から脱出するには、チャンスを逃せないと決断したからでした。ところが、歌手になるための勉強を続けるもののなかなかデビューできず、家族は東京で流しを続けながらギリギリの生活をすることになります。そんな中、まだ無名だった作詞家石坂まさをが彼女の魅力に気づき、自らプロデューサーとして彼女を育て、デビューをさせます。子供時代から長く歌い続けてきた彼女は、19歳でデビューした時、すでに10年以上の経歴をもつベテラン歌手だったことになります。
 そんな経歴から来る落着きと歌手という職業に対する冷めた見方から、彼女の歌い方は必然的に謎めいてクールに見えるようになっていました。まるで日本人形のように見える黒髪の美しい少女(デビュー当初は染めていました)が、笑顔ひとつ見せずに「大人のブルース」を歌う姿と彼女の出自は、すぐに彼女を伝説的存在にしてゆくことになります。そのきっかけとなった最初のヒット曲が「女のブルース」です。そして、そのデビューには石坂が仕掛けた様々なイメージ戦略が仕掛けられていました。

<作られたアイドル、デビューへ 1969年>
 歌謡アイドルの先駆は藤圭子だという説があります。作られたアイドルの元祖が彼女だというものです。「KAWADE夢ムック<総特集>藤圭子」より輪島祐介氏によるものです。
1.「薄幸の少女」のイメージを過剰に強調するメディア横断的なプロモーション戦略(インタビュー、手記、伝記、「新宿25時間流し」など)
<笑わないアイドル>
 彼女が笑うプライベートの表情を見たプロデューサーの工藤忠義は、その笑いが歌とギャップが大きすぎると指摘。そこで彼女に笑顔を見せないようにと石坂にアドバイスをしました。こうして、笑わないアイドル藤圭子が誕生することになりました。
<インタビューより>
「親は、なにしてんの?浪曲やってんだって」
「ええ」
「こういう風になったこと、どうなの、親は。よろこんでる?」
「親、嫌いだし・・・父親、殺してやりたいくらい」
 これはデビュー当時のインタビューですが、本当に彼女は父親を殺したいほど憎んでいたのでししょうか?
<新宿25時間流し>
 当時、最も熱い街だった新宿を舞台にテレビへの出演からキャバレー、居酒屋などを巡る流しを25時間ぶっ通しで行うという異色のキャンペーン活動。
2.彼女自身の性向や生い立ちを直接的に想起させる歌詞をもつ楽曲
3.そうした戦略が、レコード会社ではなく個人プロダクション(石坂まさを)の主導によって展開されたこと
4.一方で、彼女自身の経歴や性向が大いに演出されたものであるかもしれない、という、受け手の醒めた認識をもたらしたこと
5.そうした虚実のありようも含めて、知識人・文化人による「解釈」や「評論」を誘発したこと
<五木寛之のエッセイより>
「藤圭子という新しい歌い手の最初のLPレコードを買ってきて、夜中に聴いた。彼女はこのレコード一枚を残しただけで、たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、もうそれで自分の人生を充分に生きたのだ、という気がした。
 歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがあるものだ、それは歌の巧拙だけの問題ではなく、ひとつの時代との交差のしかたであったり、その歌い手個人の状況にかかわりあうものである。彼女のLPは、おそらくこの歌い手の生涯の短いきらめきではないか、という気がした。
・・・」

<時代の街、「新宿の女」 1969年>
 彼女のデビュー曲は「新宿の女」。彼女はそのプロモーションのために新宿の街の飲み屋街を舞台に25時間かけて、「流し」を行いました。その中にはテレビへの出演もありましたが、夜中にはキャバレーや小さな飲み屋まで様々な場所で歌い続けるハードなプロモーション活動でした。なぜ、そこで「新宿」を選んだのか?

 藤圭子が「新宿の女」をリリースした時代の「新宿」。その「新宿」では、異質なもの同士がぶつかる、まさに群衆たちによる激動が演じられていた傍らで、公園の藪が、どんどん切られ、モノ陰が消されていった。・・・ すなわち、「警察と現代建築」が目的とする「群衆の取り締まり」は、いまだ長閑とはいえ、すでにはじまっていたのだ。
本山譲二

 当時の新宿は、歌舞伎町やゴールデン街のような飲み屋や風俗店を中心に様々な裏社会が集中する夜の街であると同時に、演劇、音楽、文学など様々な芸術の街であり、さらには新宿西口の地下広場にはフォークゲリラが登場するなど、政治と若者の街でもありました。日本で最も熱い街がまさに「新宿」だったのです。

バカだな バカだな だまされちゃって
夜が冷たい 新宿の女

「新宿の女」より

<藤圭子ブレイク 1970年>

「女のブルース」(1970年)(曲)猪俣公章(詞)石坂まさを
女ですもの 恋をする
女ですもの 夢に酔う
女ですもの ただ一人
女ですもの 生きて行く

「初めてこの歌詞を見た時は、・・・震えたね。すごい、と思った。衝撃的だったよ」

 しかし、すぐに「女のブルース」を越えて彼女のイメージを決定づける大ヒット曲が登場します。「圭子の夢は夜ひらく」です。(この2曲により彼女はオリコン・チャート18週連続1位を獲得。この記録はいまだに破られていないようです)
 元々は園マリのヒット曲「夢は夜ひらく」をカバーしただけでなく、まったく別の曲のようにタイトルまで変えたことで、この曲は原曲を越えることになりました。特に有名な冒頭部分のアレンジは実は彼女自身が考えたものだったようです。(2番の歌詞も彼女のアイデアによる)

「あの歌も、最初はまったく普通のアレンジだったの、でも、どうしても、違うように思えたんだ、あたしには。フル・バンドで最初から伴奏がつくような歌じゃないように思えたの。伴奏はもうテープにとってあって、そのカラオケ・テープに合わせて歌うんだけど、どうしても納得できないわけ。そこにね、ギターさんがいたんで、ギターで、ギター一本で伴奏をつけてもらった。あたしは、この歌を、どうしてもバラードで歌いたかったんだよ。・・・・」

 彼女は歌が上手かっただけでなく、音楽的才能も十分に持ち合わせていたのです。ただし、彼女の場合、我の強さも人一倍でした。歌手であることへのこだわりは、それ以外の仕事への嫌悪の気持ちを生み、エンターテイメントへのこだわりはどうやら薄かったようです。そのため、彼女はNHK紅白歌合戦で応援のために他の歌手のバックで踊ったりすることにも参加を拒否。歌番組でもめったに笑顔を見せず、歌うこと以外の出演を拒み続けたため、芸能界から疎まれる存在になって行きました。
 ところが彼女は歌い手という仕事に熱い情熱を傾けていたのか?というと、どうも違うようでもありました。

「たとえばさ、あたしの歌を、怨みの歌、だとか怨歌だとか、いろいろ言ってたけど、あたしにはまるで関係なかったよ。あたしはただ歌っていただけ」
「そこに、あなたの思い、みたいなものはこもっていなかった?」
「全然、少しも」


 こうした人生に対する彼女のクールな考え方は、歌だけでなく生き方そのものにも影響を与えていました。

「うん、何も、何も考えないで生きていた。人生について考えるのなんて、二十五過ぎてからだっていいじゃない」
「そりゃあ、ちっとも悪くはないけど。しかし、不思議な子だったんですね」
「そうかなあ。でも、考えるようになると、人生って、つまらなくなるんだよね」


 時にそうした彼女の生き方は周囲と衝突することにもなりました。例えば、彼女が連続出場していた紅白歌合戦への出場が途切れた時、そのことに反発した彼女は今後NHKの番組には出演しないと言い出し、周囲を驚かせました。それは単に出場できないことへの怒りというよりも、自分より明らかに歌が下手な歌手が出場することへの疑問であり、トラブル・メーカー扱いされることへの反発から出た言葉でした。

「向こうが出さないっていうんだから、こっちも出るのやめようよ、来年のNHKのスケジュールをとるのはやめよう、って。そうしたら、蒼くなって、そんなことはできないっていうわけ。でも、あたしはあたしの筋を通したかったんだ。選ばれた人より、あたしの方が劣っているとは、どうしても思えない。でも、NHKは劣っているとみなした。だったら、こっちにもNHKを拒絶する自由があるんじゃない。・・・」

<藤圭子、結婚と離婚 1971年~1972年>

 さらに周囲を驚かせたのは、同じ事務所に所属する当時の人気グループ、クール・ファイブのリード・ヴォーカルだった前川きよしとの電撃結婚です。芸能界の大スター同士によるサプライズ結婚の先駆ともいえる彼女の結婚は、結婚までのスピードも衝撃的でしたが離婚までの早さも衝撃的でした。彼女が日本一上手い歌手として尊敬してた前川との結婚でしたが、二人の関係はわずか1年で終わりを迎えたのです。前川は結婚当時、彼女に対し「君は芸能界には合わないから歌手を辞めた方がいい」と何度も言っていたといいます。彼の考えはある意味正しかったのかもしれませんが、当時それは不可能だったのでしょう。

「別れの旅」(1972年)(曲)猪俣公章(詞)阿久悠
夜空は暗く 心も暗く
きびしい手と手 重ねて汽車に乗る
北は晴れかしら それとも雨か・・・
愛の終わりの 旅に出る二人
終着駅の改札ぬけて
それから後は 他人になると云う
2年ありがとう しあわせでした・・・
後見ないで 生きて行くでしょう

 この曲をシングルとして発表後、前川きよしとの離婚が発表され、彼女はこの曲を歌うことをやめてしまいます。普通の芸能人なら、そこでこの曲をヒットに結びつけるところですが、彼女はそれを拒否したのです。
 しかし、彼女には歌手として自分がトップにいることへのこだわりは間違いなくありました。その誇り高さが、彼女の精神を少しずつ追い込もうとしていたのかもしれません。彼女の成功はあまりにも早すぎたのです。

「・・・1年で登った人も、10年がかりで登った人も、登ってしまったら、あとは同じ。その頂上に登ったままでいることはできないの。少なくとも、この世界ではありえないんだ。歌の世界では、ね。頂上に登ってしまった人は、二つしかその頂上から降りる方法はない。ひとつは、転げ落ちる。ひとつは、ほかの頂上に跳び移る。この二つしか、あたしはないと思うんだ。・・・」

 確かに彼女の人気のピークは、その頃だったのかもしれません。あまりにも強烈なイメージが確立してしまったがゆえに、新たな頂上を探すことは困難だったといえます。そのうえ時代は彼女の「怨歌」を求める時代ではなくなりつつありました。ただし、そうした状況に追い込まれたことに彼女は後悔の念は持っていなかったようですが・・・。

「・・・「噂の女」がクール・ファイブを駄目にした、って。あまりにも、クール・ファイブの特徴が出すぎるっていうわけ。だから、そのあと何を歌っても、「噂の女」で出切ったものが出てこないと感じられるというわけ。確かにそういう部分もないことはないんだよ。でも、だからといって、「噂の女」を歌わなかった方がよかったかといえば、そんなことは絶対にないんだよ。・・・「夢は夜ひらく」だって同じこと。やっぱり歌った方がずっといいんだ。」

<藤圭子、声を失う 1974年>
 そんな中、彼女は何度も声が出なくなるトラブルに見舞われるようになります。その原因は喉のポリープにあると判断した彼女は手術を受け、それを取り除きます。しかし、声はスムーズのい出るようになったものの、そこには何か違和感が・・・。

「みんな、おかしい、おかしい、と言い出して、もう一度やるんだけど、同じなんだ。高音が、澄んだ、キンキンした高音になってしまっていたわけ。あたしのそれまでの歌っていうのはね、意外かもしれないんだけど、高音がいちばんの勝負所になっていたの。低音をゆっくり絞り出して・・・高音に引っ張りあげていって・・・そこで爆発するわけ。そこが聞かせどころだったんだよ。ところが、その高音が高すぎるわけ。
 あたしの歌っていうのは、喉に声が一度引っ掛かって、それからようやく出ていくところに、ひとつのよさがあったと思うんだ。・・・ところが、どこにも引っ掛からないで、スッと出ていっちゃう。・・・」


 どうやら喉の手術は彼女の喉からポリープと共に彼女独特の声の魅力をも奪ったらしいのです。良かれと思って行った手術は、自分の声に対する考え方が不足していたせいのミスだと、彼女は思い込んでしまいます。そして、自分が取り返しのつかないことをしたと信じるようになり、歌手としての自信をも失い始めることになります。

「・・・声があたしの喉に引っ掛からなくなったら、人の心にも引っ掛からなくなってしまった・・・」

 本当に彼女はその手術によって、歌手としての命を失ってしまったのでしょうか?声が違っても、歌い続ける中で新たな魅力を生み出すことは可能なのではないか?歌をやめてしまっては、そうした可能性を捨てる事にはならないのか?沢木は彼女にそう問いかけました。

「沢木さんは、さっき、あたしに、ボロボロになるまで続けるできだって言ったでしょ。それはひどいよ、厳しすぎるよ」
「ぼくはね、あそこで、「敗れざる者たち」って本で言いたかったのは、しようがないなあ、ってことだったんだ。・・・それがあなたたちの宿命なら・・・しようがないよなあってことを書きたかっただけなんだ。・・・」


<藤圭子 引退へ 1979年>
 様々な精神的ストレスは、彼女のステージでの歌手活動にも影響を与えるようになっていました。

「歌詞だけけじゃなくて、メロディーも忘れそうになるの。全部わかんなくなっちゃう。舞台に立つと、突然、忘れてしまうんだ。それは、「新宿の女」だろうが、「夢は夜ひらく」だろうが、おかまいなく、急にやってくるわけ。そういうことが、4度か5度続いたんだよね。自分で自分が怖くなった。・・・」

 こうしたことが重なることで、彼女はついに引退を決意。70年代最後の年にすべての音楽活動を停止し、アメリカに渡ると発表することになりました。でも、なぜアメリカだったのでしょうか?

「英語って、いいじゃない。外人の人たちがしゃべっていたりするのを聞いていると、とてもいいんだ。耳に気持ちがいいんだ。・・・」

 ただ単に日本から脱出したかったのではないのかもしれません。それ以前から、英語はしゃべれないもののフランク・シナトラの「サニー」などの歌は好きで、よく歌っていたといいますから「英語」はむいていたのかもしれません。どちらにしても、このことが後のスーパー・スター、宇多田ヒカルを生むことになることだけは確かです。当時密かに彼女は六本木などのクラブに通い、ロックやR&Bに親しんでいたようです。

 彼女の歌手としての生き方は、それまでの芸能界における常識を覆したという点で、フォークやニューミュージック系のアーティストたち、それに山口百恵や南沙織など自己主張するアイドルたちの先駆だったともいえます。そんな彼女にもし、彼女のことを理解できる優れたプロデューサーがいたならば、歌謡界の歴史は変わっていたかもしれません。(石坂まさをは、彼女のブレイクに情熱を注ぐものの、そこから先のことにまで導くことはできませんでした)しかし、当時はまだ彼女のような芸能人はいなかっただけにマスコミにとっては最高のネタとなり、それが彼女の引退の引き金ともなりました。
 1969年の秋にデビューした彼女は、1970年代を一気に駆け抜け、1979年12月26日に引退しました。

・・・聡明で健康的だとは言っても、まだ世間に揉まれ十代の若い女性が、頭でわかってはいても、彼女にもたらされた「虐げられた幸薄い女」が憑依してしまうのは、避けられないことだったのだろう。おまけに「圭子の夢は夜ひらく」は、まず歌のタイトルに「圭子の夢は夜ひらく」と自身の名前すら付けられてしまっていた。
・・・そう、才能の早期発見と育成は、歌という魔物の前では禁じ手である。

湯山玲子

<宇多田ヒカル誕生 1983年>
 1979年末にアメリカに渡った藤圭子は、アメリカ西海岸バークレーの英語学校に入学。ゼロからアメリカでの生活を始めました。しかし、1981年彼女は一時帰国し、芸能界に復帰します。(日本に出稼ぎに来ていたともいえます)そして、ニューヨークで出会った音楽プロデューサー、宇多田照實と結婚、1983年に長女、宇多田光をニューヨークで出産します。家族3人は、けっして裕福な生活ではなかったものの幸福な日々を送っていたようです。母親がそうだったように娘の光もまた成績優秀で、どの教科も「A+」だったといいます。しかし、家族関係は常に幸せだったわけではありませんでした。離婚と復縁を6回も繰り返したという両親の元で育った光は、母親が仕事で家を出るたびに大騒ぎし離れることを恐れたといいます。母親の精神面での不安定さ、さらには金銭トラブルや人間関係のもめ事も多かった両親の生き様を見ながら育った光が、明るい少女になれるはずはなかったのかもしれません。

「宇多田ヒカルの場合、すべてのエモーションのベースに悲しみがあるという。メロディも悲しいし、歌詞もやっぱり悲しいし、声も悲しい。宇多田さんはいろんな形で自分を抑圧したりしていながら、身体全体は悲しみにずっと支配されてきたんですね」
渋谷陽一

「私が曲をつくる原動力って結局”恐怖”と”哀しい”と”暗い”なんですよ、全部」
宇多田ヒカル(2004年)
(思えば、宇多田ヒカルの歌声はどれもが悲しみに満ちています。彼女のヒット曲がダンスナンバーですらクールなのは、彼女の歌声のおかげです。生まれながらにして「ブルース」の声を持って世に出てきたアーティストはそうはないでしょう)

 こうして宇多田光にとって、3人の家族をつなぐ唯一のきづなが「歌」となりました。このことは、父親からの暴力に耐え、そこから抜け出すために、歌の道を選んだ藤圭子とも共通しているといえます。「歌」こそがすべてを忘れさせてくれ、家族のきづなを感じさせてくれる唯一の存在だったのです。こうして、1995年宇多田光9歳の時、家族3人によるユニットU3はインディーズからアルバム「STAR」を発表します。(10曲中2曲は光がヴォーカルを担当)
 その後、ソロ歌手としてデビューを目指すことになった光は英語の歌ばかりを歌っていましたが、ある時、日本に持ってきたデモテープを聞いた東芝EMIのプロデューサーの三宅彰が日本語を使った方がいいと指摘。そこで光は1年がかりで日本語による曲を書き始めました。こうして誕生したのが、宇多田ヒカルの衝撃的なデビュー曲「Automatic /time will tell」です。(1997年12月発表)

<宇多田ヒカル、ブレイク 1998年>
 1998年に宇多田ヒカルは大ブレイクしましたが、そこに時代との結びつきを感じてしまいます。熱い1960年代の後の醒めた時代1970年代に藤圭子がブレイクしたように、1995年の阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件の後の1997年にデビューした宇多田ヒカルにもそんな重い時代の雰囲気が味方したように思えます。時代は宇多田ヒカルの「歌」を求めていたのかもしれません。「夢は夜ひらく」を独自の歌詞でカバーしているフォーク歌手の三上寛は、宇多田ヒカルのブレイクについてこう語っています。

「・・・日本人というのは、あの藤圭子の声を消化できなかったんです。ずっと彼女の声を聴いていたはずだ。だから娘が出てきたんじゃないかって。まさに消化できなくて、忘れることが出来なくて、そういう日本人の無意識が宇多田さんを選んだ。」
三上寛

 娘の成功は、母親の藤圭子にとって幸いなことであり、娘との共演は母にひと時の幸福な時間をもたらしました。しかしこの頃、すでに藤圭子の精神は危機的状態にあったようです。そんな家庭の危機的状況は宇多田ヒカルの作品にも影響を与え、そんな中2001年のセカンド・アルバム「Distance」が生まれました。
 宇多田ヒカルはそうした家庭の問題を避けるかのように、歌手生活とは別に学生生活をするため、ニューヨークのコロンビア大学に入学します。しかし、学生生活への期待は、ストーカーまがいのファンやパパラッチによって裏切られ、彼女はアーティストとしての生き方に専念することを決意します。そんな苦しい状況の中、19歳になったばかりの彼女は、卵巣腫瘍(良性)で手術を受けました。手術は上手くいったものの、その後もホルモンの異常などにより彼女は体調不良と精神的不安定さに悩みます。そんな中、彼女の心を支えたカメラマン紀里谷和明との関係が深まり、電撃結婚を発表します。
 2005年、彼女はアメリカ進出には失敗するもののベスト盤の発表もあり、再び彼女は年間総収入で上位に進出します。しかし、その巨額の収入は、母親の人生を狂わせることになります。2006年3月、「藤圭子 ニューヨークのケネディ空港で逮捕」というニュースが流れます。なんと彼女はラスベガス行きの飛行機に乗ろうとして、現金42万ドルを隠し持っていたことから、麻薬取引との関わりを疑われ逮捕されたのでした。(結局、疑いは晴れてお金も戻ってきたのですが)
 2007年3月、結婚から4年で宇多田ヒカルは離婚。同じ年、母親の藤圭子もまた宇多田と別居し、いよいよ家族はバラバラになりました。
 2010年8月9日、宇多田ヒカルは自身のブログで突然、活動休止宣言を発表します。

「アーティスト活動中心の生き方を始めた十五歳から、成長の止まっている部分が私の中にあります。それは、人として、とても大事な部分です。この十二年間、アーティストとしては色んなことにもチャレンジしたし、少しは成長できたと思います。でもこれ以上進化するためには、音楽とは別のところで、人として成長しなければなりません。そういう気持ちから、一つ大きな決断をしました!来年から、しばらくの間は派手な「アーティスト活動」を止めて、「人間活動」に専念しようと思います。・・・」
宇多田ヒカル「活動休止宣言」より

 同じ頃、心のよりどころを失った藤圭子は、いよいよ精神のバランスを失ってゆきます。そして2013年8月22日、彼女は新宿のマンション13階から投身自殺を遂げてしまいました。

 藤圭子と宇多田ヒカルの芸能人としての大きな違い、それは藤圭子が「作られたアイドル」だったのに対し、宇多田は自然体のままデビューしブレイクしてしまったことで芸能界のことをほとんど知らずにすんでしまったことです。
 藤圭子は、作られたアイドル像を破壊するかのように結婚、離婚、引退と反逆を続けました。それに対して娘は、自然体のアイドルではいられないこと思い知らされながら、結婚や活動休止に救いを求めます。
 歩みだした道筋は異なっても、「芸能界」という道を歩み続けるには、二人はどちらも「完璧主義者」過ぎたのかもしれません。(同じタイプの歌手として、西田佐知子やちあきなおみをあげることもできそうです)そう考えると、二人が共通してもつ「天才の遺伝子」は運命をも左右するほど大きな存在だったと考えることができそうです。

 宇多田ヒカルが「もっと人間活動をしたい」といって音楽活動を休止したのが28歳。それは藤圭子の引退と同じ年齢です。思えば、二人はともに19歳で結婚。その後すぐに離婚しています。なんという人生の符合でしょう!まさかそれが遺伝によるものとは思えませんが、少なくとも宇多田ヒカルが母親、そして祖母から音楽的才能を遺伝子を経由して受け継いでいるのかもしれません。

 圭子の母親、竹山澄子の歌を初めて聞いた石坂まさをは衝撃を受けたといいます。
「ハー 遥か彼方は相馬の空よ・・・・」と歌い出しを聞いた瞬間、石坂は鳥肌が立ってしまった。そこには、ヒカルの祖母、竹山澄子の姿はなく、音楽の神が歌っているのではないか、と錯覚さえ覚えてしまう”天の声”が宿っていたという。


 母親と同じように若くして人生の頂点ともいえるところに立ってしまった彼女が、そこから先の行く先に迷うのは当然かもしれません。新たな頂点を目指す道を選択することはできるのでしょうか?彼女にとっての「人間活動」とはその行く先を見つけるための活動かもしれません。
 藤圭子の人生を振り返っているうちに、いつしか歌手、宇多田ヒカルの未来へと思いが移ってしまいました。
 今を生きている彼女が未来に何を見つけるのでしょうか?
 それはあえて言うまでもないでしょう。
 「歌だ!ヒカル」
 これって駄洒落ではないですから・・・

何処で生きても 風が吹く
何処で生きても 雨が降る
何処で生きても ひとり花
何処で生きても いつか散る
「女のブルース」より

「ほんとに・・・何処で生きたって、いつか散るんだよね・・・」
藤圭子

<参考>
「流星ひとつ」
 2013年
沢木耕太郎(著)
新潮社
「悲しき歌姫」 2013年
大下英治(著)
イーストプレス
「藤圭子 追悼 夜ひらく夢の終わりに」 2013年
阿部晴政(編)
河出書房新社

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