- 藤田嗣治 Tuguharu Fujita -

<フランスで最も有名な日本人>
 チョビ髭にオカッパ頭、丸メガネとド派手な衣装。フランスで最も有名な日本人といわれた画家、藤田嗣治の出で立ちはビジュアルだけでも相当なインパクトがあります。てっきり僕は日本における同性愛アーティストの先駆者だと思っていましたが、そうではなかったようです。でも、学生時代の彼はカワイイ顔だったこともあり、何度も男子から声をかけられるアイドル的存在だったとか。(もちろん男子校だったせいではありますが・・・)
 しかし、柔道で鍛えた肉体は、見た目のイメージとは正反対で、結婚と離婚を繰り返すプレイボーイとしても有名でした。ただし、彼には子供がひとりもいなかったようです。それに彼の女性関係については、単なる女好きだったとは思えない証言もあります。

「藤田さんの女出入りのはげしさは、あれあ仕事ですよ。仕事だから本当の意味じゃあ、あの人は女遊びはやっていませんね。うん、まるで猫でも拾ってくるように女を拾ってくるんだが、これはあの人の仕事の性質から言うと仕方ねえんだな。あの人は肌を描くにやあ見るだけじゃあ駄目、さわってみる。指で触ってみて、本物の女の肌と同じ感触じゃなければそとにゃ出さないてえの。たいしたリアリズムだ」
金子光晴

 以前から気になっていた謎に満ちた画家、藤田嗣治の人生について調べてみました。

<生い立ち>
 藤田嗣治 Tuguharu Fugita は、1886年(明治19年)11月27日東京の牛込で生まれています。父親の嗣章は陸軍に所属する軍医のトップ、軍医総監を務めた大物で、江戸時代から代々続く名門家系に属していました。(ちなみに、彼の父親の前任者はあの森鴎外でした)彼も医者になることを期待されていたのですが、父親は芸術に理解があり、彼が画家になることを認めてくれました。こうして、彼は東京美術学校の洋画科に入学します。この時の同級生には俳優、池辺良の父、池辺鈞や岡本太郎の父、岡本一平などがいました。
 当時、日本の洋画界は黒田清輝を中心にヨーロッパの主流だった印象派の影響を強く受けていて、オリジナリティーを追求する彼の絵は評価されなかったといいます。当時、すでに日本の洋画界には黒田を頂点とする画壇が形成され、それ以外のスタイルは異端とされる傾向が始まっていたということです。そんな中、中学時代に水彩画が日本の学生代表としてパリ万博に出展されたことで、いち早く海外に目が向いていた彼は、日本を飛び出す決意を固めます。彼にとっては「洋画」や「日本画」という括り自体が馬鹿げて見えており、自分には自分の絵しかないと考えていたのです。こうして、1913年(大正2年)26歳の彼は妻、登美子を日本に残し、30歳までという期間限定でフランスへと旅立ちました。

<フランスへ>
 45日間の船旅の後にフランスに到着した彼は、パリのモンパルナスにあるオデッサ・ホテルに住み始めます。その地域はルノアールら印象派の画家が活躍するモンマルトルとは異なり貧しい新人画家たち向きの安宿が並んでいました。
 当時、パリで絵を学ぶ日本人は20人もいなかったといいますから、まさに少数派。当初フランス語もしゃべれなかった彼は、露骨な人種差別を受け、パリの街で孤立します。しかし、彼はあのオカッパ頭とド派手なファンション・センスを武器に道化者として、画家仲間たちのアイドル的存在になってゆきます。

「人間は一人ではどんな天才でも貧しくなるばかりだ。本当の孤独は人間を駄目にする」
藤田嗣治

 しだいに同じ宿に住むモディリアーニやスーチン、ヴァン・ドン・ゲンらと親しくなった彼は、ピカソとも知り合うことができ、画家としての認知度を上げてゆきました。ところが、第一次世界大戦が始まったことで父親からの送金が途絶え、一気に食うや食わずの生活に追い込まれます。しかし、戦争の混乱の中でも彼はパリを離れる気にはなれず、父親にこのままフランスで修行を続けると手紙を書き送ります。彼は多くの画家と知り合い、多くの作品を見ることで、自分が進むべき道を見出そうとしていました。彼には自分だけのオリジナルなスタイルを見つける自信があったようです。

「私は彼の地の作家の画を一通り眺めてみた。で、その時分は絵の具をコテコテ盛り上げるセゴンザックという大家の流儀も流行っていた。それじゃ俺はつるつるの絵を描いてみよう。また複雑な綺麗な色をマチスのように附けて画とするなら、自分だけは白黒だけで油画でも作り上げてみせようという風に、すべての画家のなす仕事の反対反対とねらって着手実行したのである。」
「腕一本」藤田嗣治より

 彼はその人柄の良さもあってモデルたちの間でも人気があり、その中の一人フェルナンド・バレエと結婚。その間にも画家としての彼の評価は高まり、1919年のサロン・ドートンヌでは6点の出展作すべてが入選。1921年発表の「私の部屋、目覚まし時計のある静物」は彼の代表作となった作品で、これにより彼の存在はパリで不動のものとなりました。さらに翌1922年には彼はサロン・ドートンヌの審査委員に選ばれ、フランス絵画界のニューヒーローとなります。

 巴里の場末の絵を描きに行く。子供たちが顔を覗き込んで日本人と見るとフジタ、フジタと呼んでみたりする。絵の道具を担いで15区の裏通りを歩いていると労働者風の男までが、フジタを見たとか知ってると云う。巴里に行って間もない自分たちがどんな隅々にまで行ってもフジタフジタと聞かされてまったく驚くばかりだった。
 「日本人の名前は広重や歌麿でこそ有名だが、秀吉だって、大臣だって、外国では誰も知りはしない」とフジタの口癖だったが、恐らくフジタぐらい日本人で世界中に名を呼ばれた人はいないであろう。

「巴里で逢ったフジタ」荻須高徳(画家)

 彼の知名度と人気の高さは今では信じられないほどだったようです。当時「画家」という存在は、現在でいうなら主演と監督両方をこなす映画界のスーパースター的な存在だったといえると思います。

<ヌードの女>
 彼が多く描いた題材としては、猫と女性のヌードであり。猫は彼にとってトレードマークともいえる存在でありお気に入りのモデルでした。

「女も猫も同じようなものだからです。夜になると目を輝かせ、可愛がっている内はおとなしくしているが、一寸目を離すと、それまでの恩義もきれいに忘れて簡単に主人を裏切る。ごらんなさい、女にヒゲとシッポをくっつければ、そのまま猫じゃないですか」
藤田嗣治「巴里と昼と夜」より

 しかし、彼の作品のイメージを決定づけたのは、やはり裸婦像であり、その柔らかな乳白色の肌こそ、藤田ワールドを象徴する存在です。1922年の「寝室の裸婦キキ」は、1920年代パリの黄金時代を代表する人気モデルと藤田による傑作で、「乳白色の肌」を一躍有名にした作品です。白でもなく、肌色とも異なる微妙なワン&オンリーの色を自分のものにしたことで、彼の存在は不動のものとなりました。それは、イブ・クラインの「クライン・ブルー」に匹敵する芸術界の発明だったといえます。しかし、この「色」を自分のものにするまで彼は様々な思考錯誤を重ねており、その「色」を出すための過程を彼は生涯秘密にしていました。その秘密は彼の死後になって、研究者たちによってやっと明らかになりました。

・・・膠(にかわ)の上に、三種類の顔料からなる二つの下地を塗り重ねた独創的なキャンバス。それを作り上げるために、藤田は何度も配合の割合を変え、試行錯誤を続けたのではないかと想像される。「乳白色の肌」の特徴は、絵の具を厚く塗り重ねないことで、透明感のある肌の微妙な質感を見事に表現したことにある。そこには、キャンバスに暖かみのある色を塗り重ね、その上に絵の具を薄く塗ることによって、下地の色までも感じさせるという工夫が凝らされていたのである。
 絵の具ばかりでなく、キャンバスという下地に着目した藤田の独創であった。


 1924年、彼はフェルナンドと別れ、北欧系の美女ユキと再婚。翌1925年にはフランスにおける最高の名誉ともいえるレジオン・ドヌール勲章を受章。その人気はいよいよピークに達します。

<エコール・ド・パリ(パリ派)>
 藤田が活躍していた1920年代のパリは、空前の好景気に支えられた自由の空気に満ちており「芸術の都」としてそのピークの時を迎えていました。そこには世界中から様々なアーティストが刺激を求めて集まっていました。ヘミングウェイスコット・フィッツジェラルドジャン・コクトー、アポリネール、ポール・ヴァレリー、アンドレ・ブルトンフランツ・カフカ、ロダン、マン・レイ、アンドレ・ジッド、ルネ・クレール、ロバート・キャパ、ディアギレ率いるロシアバレエ団とニジンスキー、エリック・サティコール・ポータージョセフィン・ベイカー、シドニー・ベシェ、ココ・シャネルなど、様々なジャンルの伝説的アーティストたちがパリに集結していました。
 藤田もまたそのパリにやってきた異邦人のひとりで、同じような海外からのアーティストが住む集合アトリエに住みつき、他の仲間たちとともに腕をみがいていました。その中には、ヴァン・ドンゲン(オランダ)、モーリス・ユトリロ(仏)、アメデオ・モディリアニ(伊)、シャイム・スーティン(リトアニア)、マルク・シャガール(露)、マリー・ヴァシリエフ(露)、キスリング(ポーランド)、ジュール・パスキン(ブルガリア)、マリー・ローランサン(仏)、ピカソ(スペイン)・・・・らがいました。
 この時期のパリは、1960年代末のサンフランシスコや1970年代半ばのロンドン、1950年代のニューヨークのように街全体が坩堝のように才能がぶつかり合う「芸術が爆発する場所」でした。限られた時期、限られた場所にだけ存在しうる「奇跡の季節」に立ち会うことの出来た人は本当に幸せです。

<日本での評価>
 これだけフランスで高い評価を得ていながら、彼の作品への日本での評価は低いままでした。現在のように情報がリアル・タイムで伝わることがなかった時代、それはしかたがないことだったのかもしれません。しかし、それ以前に画壇におけるやっかみの影響が多分にあったと思われます。さらには、彼のフランスでの活躍がマスコミによって面白おかしく伝えられたために、彼のプレイボーイぶりや、服装の倒錯ぶりや、放蕩三昧の生活ぶりばかりが目立ったせいだったのかもしれません。いつしか、「藤田は日本人を嫌い取材も受け付けない」という伝説が生まれ、いよいよ彼の存在は偶像化されてゆくことになりました。もちろん、こうしたマスコミが生み出した人物像こそ、根拠のないものでした。

 確かに藤田は他人の前では、わざとドラッグに手を出すふりをしていたり、乱痴気騒ぎにうつつを抜かしたりした。大騒ぎの中心にいつも藤田がいるため、一番派手に酔っぱらっているように見えた。しかし、実は一滴も飲んでいなかった。その上、どんなときにも絵を描く瞬間だけはしっかりと決めていた。一日の仕事をすべて終えてから騒ぎに繰り出すのである。

 西洋かぶれの非国民という見方も実際はまったく違いました。彼は柔道の達人であり、大好きな音楽もクラシックではなくく、ジャズでもなく「浪曲」だったといいます。もちろん、自分がフランス人になることを夢見ていたわけでもありませんでした。

「私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。私は世界に日本人として生きたいと願う。それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。・・・」
藤田嗣治「地を泳ぐ」より

 1929年(昭和4年)彼はユキと共に17年ぶりに日本の土を踏みます。故国での歓迎ぶりは彼の予想以上でしたが、画壇からの彼の作品への評価は相変わらずで、彼は失望感を覚えたままフランスへと帰国しています。

<中南米へ、新たな旅立ち>
 1930年、世界大恐慌の波はフランスへも押し寄せます。パリの黄金時代は、この不況と第二次世界大戦によって終わりを迎えることになります。そんな中、彼はユキと別れた後、新たな妻マドレーヌと共に南米ブラジルへと旅立ちます。その後、彼はメキシコへと向かい、そこでリベラやオロスコらの活躍により世界的に注目されていた壁画を見てまわります。それまでの絵画とは異なる巨大な壁画に魅了された彼は、壁画の製作に挑戦し始めます。
 1933年、不況の中、自分の作品を売るという目的もあり、彼は再び日本に戻ります。そして翌年、彼は銀座聖書館のブラジル珈琲宣伝所に念願の壁画を製作しています。
 1936年、日本に同行していた妻マドレーヌが急死。その年、12月に最後の妻となる女性、堀内君代と結婚します。しかし、翌1937年に盧溝橋事件が起き日中戦争が始まると日本国内は戦時下に突入。画家たちは兵士としてではなく、プロパガンダのための戦争絵画を描くため、軍に協力しなければならなくなります。藤田も1938年10月に海軍省嘱託として従軍することになり、南京占領後の中国、漢口で戦場を描くことになります。翌年には彼は陸軍美術協会に参加しますが、突然パリへと旅立ちます。それは描きたい絵を描けなくなるという思いからの脱出だったのでしょうか。当然、彼は敵前逃亡したとして、画壇やマスコミから批判されることになりました。
 しかし、1940年のパリは、日本以上に危険な街でした。6月にはドイツ軍がパリを占領したため、彼はその直前にかろうじてフランスを離れ日本に帰国します。

<故国にて>
 帰国した後、彼は陸軍中将、荻州立兵からの依頼により、ノモンハンで起きた戦闘を描くため、取材旅行を敢行。帰国後、幻となった作品を描いています。そのうち一枚はノモンハンでの日本軍の活躍を描いた作品として一般公開されましたが、もう一枚密かに荻州中将に渡ったもので、そこにはノモンハンで起きた悲劇が美化されることなく描かれていたといわれています。
(ノモンハンでの戦闘は、軍内部の分裂が起こしたミスによるもので、犠牲となった兵士たちは軍の指示により見殺しとなりました。この悲劇をベースに書かれたのが村上春樹の大作小説「ねじまき鳥クロニクル」です)
 1941年5月、彼は帝国芸術院会員に選ばれます。それは彼が日本美術界の一員に認められたことの証明でした。戦争という特殊な条件の下で、初めて彼が日本画壇の一員になれたというのは皮肉なことでしたが、これが後に彼に日本を捨てさせる原因となります。

 藤田の八十年を越える生涯の中で、日本の画壇に無条件で受け入れられた時期は、このころから終戦までのわずか五年にすぎない。そして、誰からも中傷されることなく、思うがままに絵が描ける立場を獲得したことが、藤田が戦争画への傾斜を深めていく要因の一つとなったのは、否定できないことだった。

 1942年、彼は第一回大東亜戦争美術展に「シンガポール最後の日」、「十二月八日の真珠湾」などの作品を出品。本格的に戦争の絵を描き始め、その早描きの筆力を生かして次々に戦場の様子を作品化。それらの作品は日本各地をまわり、大衆の戦意高揚のために使われることになりました。絵画というリアルではあっても、演出可能な情報伝達媒体は、写真や映画以上に有効なプロパガンダの媒体だったのかもしれません。現在でも、北朝鮮や専制君主国などの指導者たちが絵画を利用しているのは、そのことがあるからなのでしょう。
 彼は単純に戦争を美化し、ヒロイズムを煽る作品を描いていたわけではありませんでした。1943年の国民総力決戦美術展(北朝鮮にならこんな名前の美術展がありそうです!)に彼が出品した「アッツ島玉砕」は、彼の戦時中の代表作といわれますが、決して戦争のヒロイズムを描いているようには見えません。その色合いは暗く、描かれている兵士たち、死体たちは、どれが日本兵でどれがアメリカ兵なのかもわかりません。ただただそこには、死体と死体になりつつある兵士、そして狂ったように銃剣を突き刺す兵士が描かれていて、まさに地獄絵図となっています。軍内部でも、この作品には賛否両論があったようですが、間違っても戦意高揚に役立つようには思えません。しかし、確かに人々の心を強く打つ作品ということでは傑作だったといえます。(この作品は東京国立近代美術館にあります)

「・・・単独で会場に滑り込んで居た作者はそのアッツ玉砕の前に膝をついて祈り拝んで居る老男女の姿を見て生まれて初めて自分の画がこれほど迄に感銘を与え、拝まれたと言う事は未だかつてない異例に驚き、しかも老人たちは御賽銭を画前になげてその画中の人に供養を捧げて瞑目して居た有様を見て一人唖然として打たれた。
 この画だけは、数多くかいた画の中のもっとも快心の作だった」

藤田嗣治「夏堀用手記」より

 この後、彼は神奈川県小淵村に疎開し、そこで戦争画を描きながら終戦を迎えます。

<準戦犯としての悲劇>
 1945年、終戦後、彼はGHQから戦時中に描かれた戦争画を集めるための協力を求められます。GHQは、それらの作品を集め、アメリカに運んで保存するか処分することを考えていたようです。戦後、画家に対しての戦争責任が問われることはなかったものの、日本の美術協会内部では戦争責任者の氏名を明らかにするためのリスト作りが行われました。そして、その中には藤田の名前があり、彼はそこで中心人物ともされていたようです。このリストは非公開でしたが、彼に対する批判の声は高まり、自分を生贄にしようとする動きに失望した彼は再び日本を離れる決意を固めます。
 彼は妻と共にアメリカに渡り、ニューヨークで個展を開催しますが、そこでも彼に対する戦争責任を追及する動きがあり、1950年、彼はフランスへと戻りました。この時期の彼の代表作としては、彼がかつて住んでいたホテルの寂れた様子を描いた「エドガー・キネ・ホテル」があります。

<日本との決別、そして魂の居場所>
 1955年、ついに彼は日本との決別を決意。フランス国籍を取得し、日本国籍を捨てます。そして、カトリックの洗礼を受けクリスチャンのフランス人としての生活を始めます。そして、新たな作品として礼拝堂を自ら建てる計画を立てます。
 1966年、現地の実業家ルネ・ラルーからの資金、土地の提供を得て、彼はランスに礼拝堂を建造。その内部にフレスコ画を描き始めます。初めて挑んだフレスコ画は時間をかけて描くことができない特殊な技法だったため、彼は不眠不休でその大作にのぞみました。しかし、80歳になる彼にその作業は過酷すぎたのかもしれません。完成時にはその体力を使い果たしていたため、その年の終わりに彼は体調が悪化して入院。その後、膀胱癌であることがわかりました。もう治癒の見込みはなかったようですが、すでに礼拝堂を完成させていた彼に思い残すことはなかったようです。それでも、、自分が死んだ後の妻のためにと、絵を描き続けた後、1968年1月29日81歳で生涯を終えました。幸いなことに、その頃彼の日本に対する憎しみは消えていて、時折訪れる日本からの来訪者には暖かく対応していたそうです。

 日本人であることをやめた彼は、レオナルド藤田という新しい名前をもち、最後の作品となるフレスコ画に挑戦しました。それは、彼にとっての偉大なる先達レオナルド・ダヴィンチへのオマージュでもあったのです。故郷を捨てたとはいえ、最後には魂の居場所を見つけ、生涯の伴侶とともにそれを自らの手で完成させた彼はアーティストとして最も幸福な最後を迎えたといえるかもしれません。

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