日活が生んだ70年代を代表する3人の監督


- 藤田敏八、神代辰巳、斉藤耕一 -
<藤田敏八>
 藤田敏八こと、藤田繁夫は、1932年1月16日北朝鮮の平壌に生まれました。父親が鉄道で働いていたため引っ越しが多く、終戦時は釜山にいました。当時、父親が出張で不在だったため、長男だった彼はまだ中学生でしたが、母親と姉弟連れて朝鮮を脱出しようと闇船に乗り日本へと向かいました。
 後を追ってきた父親と合流した家族は、親戚を頼り四日市市で暮らし始めます。彼は息苦しい地元を離れようと一浪して東大に合格。東京へと向かいます。(彼の地元を嫌い都会へという志向と故郷を愛する気持ちの揺れは、後の彼の作品に現れることになります。「帰らざる日々」はその代表作)
 大学で彼は勉強ではなく演劇に熱中し、二枚目俳優として活躍しますが、俳優には向いていないと自ら判断した彼は、日活の助監督採用試験を受けて合格します。ところが、時代は映画の斜陽期に入っており、彼は監督デビューすることができないまま10年以上の下積みを続けることになります。
 1967年、彼が長く助監督と勤めていた蔵原惟繕が日活の上層部と喧嘩して退社。そのため、彼にその穴を埋める役が回ってきたため、1968年「陽の出の叫び」ついに彼は監督デビューを果たします。その後、彼の監督作「野良猫ロック」シリーズがヒット、若者向け映画の新しい人気シリーズとなり、監督、藤田敏八の評価は高まることになりました。ところが、日活はいよいよ経営が悪化し、1971年、ついに映画製作を一時休止することになります。そんな中、日活最後の作品として製作されたのが、彼の代表作となった「八月の濡れた砂」(1971年)でした。

「八月の濡れた砂」(1971年)
(監)(脚)藤田敏八
(脚)大和屋竺、峰尾基三
(撮)萩原憲治
(美)千葉和博
(助監)長谷川和彦
(出)広瀬昌助、村野武範、藤田みどり、テレサ野田、渡辺文雄、地井武男、原田芳雄、山谷初男
 石原裕次郎主演「太陽の季節」の70年代版ともいえる青春映画、村野武範がこの映画でブレイク。日活最後の作品にかけたスタッフたちの熱い思いもあり、この作品は高い評価を得ました。そのおかげで、日活がロマン・ポルノで復活して以後も、彼は青春映画の巨匠として、東宝で青春アイドル映画の監督として活躍してゆくことになります。

・・・「野良猫ロック」シリーズから「八月の濡れた砂」あたりにかけて、すでに藤田作品には明日をも知れぬという無常さがその底に流れていたことを思うと、恐らくそれはごく若い時代から彼についてまわった心情なのかもしれぬ。
 そういうことを藤田からまだ充分に聞き出していないので、彼の抱く安定という感情の由ってくるところは簡単に結論づけられないが、第二次世界大戦をはさんで少年時代を送った彼の世代には、何ものも信じられぬという気持は共通するものであるし、真の安定などあり得ないのではないかという不安の心情は、そのまま今の若者たちにも共感を与えるものであろう。

田山力哉「日本の映画作家たち 創作の秘密」より


「ぼくは毎日のように孤独な気持ちになる。仕事をしているときの仲間とか、そういう人たちだって、結局は敵だもんな、そういう孤独なときに、蔵原、神代とかいったかつての先輩たちをなつかしく思うこともあるけど、あの人たちだってぼくとまたちがうしね。やっぱり抽象的な”神”のようなものが支えになるのじゃないかな。でも生きているうちに、自分の思いのタケをさらけ出したいといった、そんな気持ちはあるよね。だから映画を撮り続けていくんだよね」

「エロスは甘き香り」(1973年)
「危険な関係」(1978年)
「もっとしなやかにもっとしたたかに」(1979年)
「赤い鳥逃げた?」(1973年)(出)桃井かおり
「修羅雪姫」(1973年)(出)梶芽衣子
「赤ちょうちん」「妹」「バージンブルース」(1974年)(出)秋吉久美子(元祖エロ・カワ・アイドル?映画)
「炎の肖像」(1974年)(出)沢田研二
「天使を誘惑」(1979年)(出)山口百恵

「帰らざる日々」(1978年)(昭和青春映画の名作)
(監)(脚)藤田敏八
(原)(脚)中岡京平「夏の栄光」
(撮)前田米造
(音)アリス
(出)永島敏行、江藤潤、浅野真弓、朝丘雪路、根岸とし江、竹田かほり、中村敦夫、吉行和子、加山麗子、中尾彬、小松方正

「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)には俳優として出演し、日本アカデミー賞助演男優賞受賞(監督は鈴木清順)
「スローなブギにしてくれ」(1981年)
「ダブルベッド」(1983年)(出)大谷直子、石田えり
遺作となったのは「リボルバー」(1988年)
 1997年8月29日肺癌で入院後、肝不全により死去。
<神代辰巳>
 藤田敏八は、日活のポルノ路線と同じ時期に登場し、その後一般映画で成功を収めることになった監督でした。それに対し、同じ日活出身の神代辰巳は、日活のポルノ路線がなければその名を知られることがなかった監督かもしれません。彼の場合は、「セックス」を題材としてこそ輝きを発する映画監督だったといえそうです。それは彼自身の本質的な思想に刻み込まれた本質的なところからきていたといえそうです。

「この世の中に、普遍的な正義があるとお思いなのかね。そいつはまったく絵空事なのだよ。相対的不道徳より他に、真の道徳などがあったためしはないんだよ。お前さんが信じてるらしい道徳は実に権力者は都合によってしか作られてないんだよ。自然の秩序においては、誰が何と反対しようとも、自分にとって好ましいと思われることのすべてを行うことがそれぞれ許されている。人はそれぞれよいと思われることのすべてを無差別に所有し、楽しむことができる」
「女地獄・森は濡れていた」(山谷初男が伊佐山ひろ子に語るセリフ)

 神代辰巳は、1927年4月24日に九州の佐賀で生まれています。徴兵を逃れるために九州帝大の医学部に入学しなすが中退し、早稲田大学の文学部に入学します。卒業後は松竹に入社しますが、延々と助監督生活が続き、日活へと移籍します。
 彼は松竹の助監督時代から自ら脚本を執筆していて、描きたい題材ははっきりとしていましたが、それを映画化するチャンスはいっこうに巡って来ませんでした。「すり」というシナリオも、後に村川透によって「白い指の戯れ」として映画化されていますが、それは後のことです。時代は映画界が最も厳しかった不況の時代で、映画を撮ること自体が困難で、ついには彼が働く日活自体が経営危機に陥っていたのです。

「自分としては松竹や東宝の、アマっちょろいシャシンより、ずっと本質に迫っているつもりですよ。ほかの会社だと、革命的な人間を主人公にしただけで、忌避されるような傾向がありますからね。要するに、サドを受け入れるのか否かで、思想が根本的に違ってくると思うのですよ。今の日活はサドを受け入れるくらいの許容度はある。世の良識家はすぐに眉をひそめるけれども、暴力とエロをぬいて何かを語ろうとすること自体が、不可能ですよ」
神代辰巳

 神代の日活での監督デビューは1968年4月。しかし、彼のそのデビュー作「かぶりつき人生」は興業的に大失敗となり、そのうえ、1971年9月に日活は映画の製作を中止。3か月のブランクの後、ポルノ映画路線での映画製作を再開します。
 彼が撮るべき映画は必然的に「ポルノ映画」だけととなりました。しかし、彼のその「規制」によって見事にその才能を開花させることになります。

  ポルノ路線というものは、もともと会社の危機によってやむなく生まれたものにはちがいなかったが、神代にとってはこれは偶然にも天来の資質にピタリと合ったものであったのかもしれない。人間、何が幸いになるかわかったものではない。決して絶望しないことが大切である。先にも触れたように、まず不遇時代に当てもなく書いていた「痴漢ブルース」というシナリオが、「濡れた唇」となって再生した。
「当時のシナリオにポルノ場面を挿入すればいいということで、自由に映画にできました。だから、いまの日活でぼくは特に路線に合わせるということなく、自分の好きなように映画を撮ることができる。これはありがたいことです」

田山力哉「日本の映画作家たち 創作の秘密」より

 彼はワイセツ罪で起訴されていた現役ストリッパー、一条さゆりを主役に迎え「一条さゆり・濡れた欲情」を撮ります。それは、話題性によりヒットしただけでなく内容的にも評価されることになります。その後も、時代の空気を映し出すことにも成功した「四畳半襖の裏張り」やポルノではない純粋な青春映画「青春の蹉跌」などのヒット作を連発してゆきます。
「四畳半襖の裏張り」(1973年)
(監)(脚)神代辰巳
(原)永井荷風「四畳半襖の下張り」
(撮)姫田真佐久
(美)菊川芳江
(出)宮下順子、江角英明、山谷初男、丘奈保美、絵沢萌子


「青春の蹉跌」(1974年)
(監)神代辰巳
(原)石川達三
(脚)長谷川和彦
(撮)姫田真佐久
(音)井上堯之
(出)萩原健一、桃井かおり、檀ふみ、河原崎健三、赤座美代子、高橋昌也、森本レオ、荒木道子

 死の直前まで性を題材にした映画を撮り続け、1995年2月24日急性肝炎により、この世を去りました。
<斉藤耕一>
 斉藤耕一は、ポルノ路線への変更前の日活から登場し、その後斜陽期に日活を離れて独立。独自の路線を築いて成功した監督です。日本の映画界では珍くスチール・カメラマンから転身して映画監督として成功した異色の存在でもあります。彼の映像美へのこだわりは、ストーリーではなく映像に語らせる彼の独自のスタイルを生み出しました。のちのMTVやCM出身監督の先駆的存在であり、「和製ルルーシュ」とも呼ばれる存在となりました。
 彼が生まれたのは、1929年2月3日まだ田舎だった八王子でした。終戦後、彼は立教大学の英文科に入学しますが、手に職をつける方が役に立つと親に言われたことから、立教を自主退学し、東都写真学校に入学し、知人のからの紹介で、卒業後は大泉映画のスチールマンとして就職します。
 その後、大泉映画は東横映画と合併し、東映となり、彼はそこでもスチールカメラマンとして活躍して行きます。
 佐分利信監督の「執行猶予」(1950年)、今井正の「ひめゆりの塔」(1953年)などを担当した後に日活に移籍します。そこでも市川崑の「こころ」(1955年)や「「ビルマの竪琴」(1956年)などを担当し、その写真は高い評価を受けます。しかし、日活では思うような仕事ができず、自ら映画監督をする決意を固めて、日活を退社します。

「映画というものは、時間と映像によって物が表現できるものです。それなのにすべてのドラマは起承転結という原型があってそこから離れられない。でも映画というものがそこに片寄ると、活字と変らなくなってしまう。映像それ自体で何を体験させるというようなことで、映画が撮りたいですね。物をフィルムに写して、それが楽になるのなら、それでいいじゃないですか」
斉藤耕一

「映画は見る者を肩透かししたっていいんじゃないか。物語が始まりそうで始まらなかったとかね。ストーリーを書いて、それをそのまま絵にするといった従来の語り口を踏襲したくはない。たとえば実際にある事件しか人間には分からないところがあるでしょう。それが当たり前でいいのじゃないですか。ぼくは現実のワンサイドしか出せない。画面に見えない部分はお客はつくればいいのです。そこにお客さんの主観が入ってくるわけです」
斉藤耕一

「ぼくは青春に託して、本人の気持ちを語ろうと思ってる。大体がいばった奴が嫌いでね。だから反体制ですが、だからといって正面きってそいうのを打出すのは好きじゃない。イデオロギーとか社会主義とかいうのをふりかざすのは嫌いです。でもこういう考え方すべて、松竹の方針とはちがうんでね。これからは大会社に合わせるより、コマーシャルを撮って生計を立て、傍ら自分のどうしても撮りたい映画だけを勝手に撮っていきたい。本数は少なくてもいい。そうはっきり決めたんだ」
斉藤耕一

 1967年、彼は自分の撮りたい作品を撮るために自らのプロダクションを設立。「嘆きのジョー」で監督デビューを果たします。翌年には、松竹の専属監督となり「小さなスナック」(1968年)などの「歌謡映画」を撮り始めます。
 1972年、岸恵子と萩原健一主演の「約束」、高橋洋子主演の「旅の重さ」により、監督とした高い評価を得るようになります。
 1973年、「津軽じょんがら節」は江波杏子の代表作であり、キネマ旬報第一位の高い評価を得ています。(美しい津軽の映像だけでも見ごたえはありました)
「津軽じょんがら節」(1973年)
(監)(脚)斉藤耕一
(脚)中島丈博
(撮)坂本典隆
(音)白川軍八郎、高橋竹山、若美家五郎、大瀬清美、海堂道
(出)江波杏子、織田あきら、西村晃、寺田農、中川美穂子

 その後も、数多くの作品を撮り続けますが、「物語的」作品は苦手で、「映像的」作品が得意な監督として、その評価は作品よって分かれるところのようです。
 2009年11月28日80歳で肺炎によりこの世を去りました。遺作は、2004年の「おにぎりARCADIA物語」です。

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