- 福士加代子 Kayoko Fukushi -

<まさかの3位表彰台>
 すみませんでした。まさか3位で表彰台に上れるとは、正直思っていませんでした。また30キロあたりで失速するんだろう・・・そう思っていました。2013年世界陸上モスクワ大会初日の女子マラソンでの福士加代子選手のことです。
 ゴールインした後、さすがに3位ともなれば、いつもの笑顔ではなく泣き顔になるんじゃないか、そう思っていたのですが・・・それもまた違いました。やっぱりいつもの笑顔でした。
 負けても、リタイアしても、勝っても、3位でも、やっぱりいつもの笑顔。おまけにもう走れないと、インタビューでは言っていながらも、日の丸を背負ってグラウンド内を走る走る。元気たっぷりでした。
 この娘はいったい何を考えて走っているのだろう?以前から素朴に疑問を感じていました。本当に天然なのか?脳ある鷹が爪を隠しているのか?
 すると偶然、読んでいた本に彼女のことが載っていました。小林成美さんという女性スポーツ・ライターによるインタビュー集「トップ・アスリート」という本でした。松坂大輔から始まって、吉田沙保里、為末大、朝春龍、野口みずき、北島康介などそうそうたる顔ぶれが並んでいる中、彼女の実績は明らかに一段低かったはずです。(2008年のインタビュー)しかし、そこで取り上げられている34人のアスリートの中でも、彼女の個性は際立っていました。というより、異端派といえるでしょう。
 そこで取り上げられているアスリートたちは、ほぼ全員が子供の頃にそれぞれのスポーツと出会い、そこから人生のすべてを捧げてきたといえます。それに比べて彼女のアスリート人生はどう違うのか?そこに注目したいと思います。

<好奇心いっぱい少女>
 青森県の津軽平野にある小さな町、板柳町で生まれた福士加代子 Kayoko Fukushi が最初に出会ったスポーツは、生徒数100人の小学校で女子みんながやっていたソフトボールでした。その後、中学でソフトボール部に入った彼女は、チームの捕手になりました。小学校時代はピッチャーだった彼女が捕手をやりたいと自ら志願した理由は、プロテクターなどの防具をつけてみたかったからだといいます。
 中学卒業後、彼女は新しい出会いを求めて、あえて町の外に出ようと県立の五所川原工業高校に入学します。もちろん、スポーツ選手を目指していたからではなく食べてゆくためには専門の技術を見につける方がいいと判断したからでした。ところが、工業高校のため、その学校に女子はほとんどいませんでした。当然ソフトボール部などはなく、彼女は誘われて男女が合同が可能な陸上部に入部します。(女子はこの時、5人だけでした)
 男子と一緒の練習は女子には厳しく、新しい仲間ができた彼女はそれがうれしく、遠征先でも他校の女子と知り合えるのが楽しく部活を辞めようとは思わなかったといいます。すると、高校三年生の時、彼女は東北インターハイ予選で800m、3000mの2種目で優勝をしてしまいます。当日、会場に来ていたあの小出芳雄氏は彼女の走りを高く評価。実業団のチームからもオファーが来るなど一躍注目が集まることになりました。ところが、この時、彼女は小出芳雄とは何者か?実業団とは何か?それすらもわかっていなかったといいます。

<京都へ、アジアの頂点へ>
 高校の日本選抜にも選ばれた彼女は、アジア・ジュニア選手権の3000mで銅メダルを獲得。将来を期待される陸上界期待の星となった彼女は、陸上の名門ワコールから入団のオファーが届きました。当時、彼女は練習が厳しい陸上部に入ることをちゅうちょしていました。高校の陸上部の監督も、放っておくと彼女は陸上を辞めてしまうかもしれないとわかっていましたが、彼女の性格では言うことを聞くことはないともわかっていたといいます。ところが、彼女は自分の意志でワコール入りを決意しました。
 その決断の理由は、陸上が楽しかったからではないようです。彼女は青森を出て、将来は大阪に住みたいと考えていましたが、ワコールは京都にありました。京都なら大阪の隣、ならばワコールに入社しよう!それにしても、東京に住みたいじゃなくて、大阪に住みたい?確かに彼女なら、将来は完璧な「大阪のおばちゃん」になれそうな気がします。
 こうして、ワコールに入社し、陸上部の練習に参加すると、すぐに大阪で遊ぶ暇などないことはすぐにわかりました。仕事の前に朝練習があることにも彼女は衝撃を受けたといいます。彼女は「朝練」というものをしたことがなかったというのです!これまた驚きです。
 ただし、彼女は一度やると決めたことは決して途中でやめない頑固な性格ももっていました。そこはやはり粘り強いことで有名な東北人なのかもしれません。考えてみると、心の中は東北系、外側が関西系という性格は、ある意味、スポーツ選手にとっての理想的なものかもしれません。時には、彼女は練習のしすぎで怪我をすることもあったといいますから、単に練習嫌いだったというわけではないでしょう。

<オリンピックへ>
 2002年、彼女は日本選手権で5000m、10000m両方で優勝。同年のアジア選手権でも彼女は5000m、10000m両方で銀メダルを獲得しています。その後、じん帯を痛めて休養を余儀なくされる時期もありましたが、2003年の日本選手権で復活を果たし、パリ開催された世界陸上に初出場。そして2004年開催のアテネ・オリンピックに10000mで出場しました。ただし、この種目で彼女はまったく世界には通用しなかったのも事実でした。この種目におけるアフリカ勢の強さは圧倒的で、黒人以外の選手に活躍の可能性は見えないともいえます。そこで彼女は、そのアフリカへと武者修行に行く決断をします。

<アフリカでの武者修行>
 2007年、彼女は長距離王国ともいえるアフリカのエチオピアへ武者修行に向かいました。多くの選手は、アメリカのボルダーで高地トレーニングに励む中、彼女が選んだのはお世辞にも環境がいいとはいえないアフリカのど真ん中の国でした。彼女にとって憧れのランナーだったハイレ・ゲブレセラシエの元でアフリカの「裸足のランナー」たちとともに合同練習がしたい。そんな彼女の夢が実現したわけですが、そのあたりもまた普通の選手とは違うといえます。
「晴れた日は走り、雨の日は走らない。みんな自然と共に生きていました。整地されている道なんてないんです。スターランナーたちも自然のままの荒れた地を何事もないように走り抜けていく。・・・・・」

 こうして、エチオピアが生んだマラソンの英雄(当時の世界記録保持者)の教えを直接得た彼女は、再び未知の領域に向かいます。

<マラソンへの挑戦>
 2008年1月27日、彼女は大阪国際女子マラソンに参加。この時、彼女はなんと4度も転倒。それでも、2時間40分54秒で完走し、19位となりました。もちろん、この結果は、新たなスターランナーの登場を期待していた陸上競技界やマスコミにとっては不満足なものだったはずです。
 しかし、この時ですら彼女は笑顔でした。その後も何度かマラソンに挑戦するものの毎回終盤に失速し、結果がでないまま終わることが続きました。この繰り返しに、周囲はもう福士はマラソンでの活躍は無理だろう、そう思うようになっていたと思います。正直、僕もそう思っていました。
 ところが、2013年モスクワの30℃を越える暑さの中の闘いで、彼女はついにアフリカ勢との合同練習の意義を証明してみせました。
 これからの問題は、彼女が世界陸上での銅メダルをどうとらえるかです。次は、金メダルだ!と彼女は思うのでしょうか?そう単純ではないと思います。そう一筋縄ではいかないはず。
 たとえどの方向に進もうとも、どんな結果になろうとも、彼女なら笑顔を忘れないでしょう。まさに「走る笑顔」です。チャシャ猫のように「笑い」が先にあり、身体はその後についてくる。そんな人生をを生きれたら幸せですが、それができないのもまた人生です。それでも「笑い」が先にあったっていいじゃないか!と世の常識に挑戦する彼女の今後に注目したいと思います。
「走れ!チャシャ猫!」 

<リオ五輪へスタート!>(2016年3月追記)
 2016年1月31日に行われた大阪国際女子マラソンで見事優勝。リオ・オリンピックへの出場権を獲得しました。
<リオ五輪14位フィニッシュ!>(2016年8月15日)
 メダルにはほど遠かったのですが、最後は笑顔でフィニッシュでした。インタビューも最高でした。
 思えば、マラソンほど、順位に関係なく、みんなにご苦労様って言えるスポーツもないですね。
「スタート・ラインに立つまでの苦労もあり、レースの苦労もあり、そしてこれからの苦労もある。
 だけど、オリンピックのマラソンに出るのは最高です!」
 素敵な言葉でした。

<参考>
「トップアスリート」
 2008年
(編)小林成美

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