人類に未来はあるのか?
人はパンのみにて生きるにあらず、自由こそ生きる意味なり
<PART2>

「人類が永遠に続くのではないとしたら」

- 加藤典洋 Norihiro Katoh -
<人類の限界>
 「地球温暖化」だけでなく様々な分野で、人類は地球環境を破壊し続けています。このままだと近い将来、人類は自らの手で絶滅に追い込む日が来るかもしれません。そのことを最初に科学的に指摘したのは、やはりレイチェル・カーソンでしょう。

 この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という二つのものが、たがいに力を及ぼしあいながら、生命の歴史を織りなしてきた。といっても、たいてい環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎない。だが、二十世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。
レイチェル・カーソン「沈黙の春」

 カーソンの登場後、環境問題への関心はしだいに高まり、1970年代の初めに重要な発表が行われました。
 世界の頭脳が集まり、人類の未来について考える「シンクタンク」として誕生した「ローマクラブ」は、1972年に人類の未来への提言を「成長の限界」というタイトルの書にまとめて発表しました。その中で、このままでは人類は地球環境を破壊し、居住不可能な環境に変えてしまうだろうと、衝撃的な未来予想図を描いて見せました。

(1)人口、工業化、汚染、食糧、資源枯渇の趨勢がいまのまま進行すれば近い将来地球上の成長は限界に達する。そこから起こりうるのは人口と工業力の「かなり突然の、制御不可能な減少」だ。
(2)しかしこの趨勢を変更すれば接続可能な均衡状態を作り上げることは可能だ。
(3)その変更に向けての努力は早ければ早いほどより。
 近代の歴史はかくも打ち続く成功をおさめてきたので、技術的な突破によって、自然の限界を無限に克服し続けることができると多くの人々が期待をいだいているのも当然である。

 「現代社会」の特質として多くの人によって語られてきた、「ゆたかな社会」、消費社会、管理化社会、脱産業化社会、情報化社会、等々という徴標(しるし)の群れが、人間の歴史の中で、初めて全社会的な規模と深度とをもって実現されたようにみえたのは、1950年代のアメリカである。
見田宗介「現代社会の理論」

 私たちは、地球の有限化、世界の有限化をまえに、資源を枯渇させず、環境への負荷を弱めた新しい産業のシステムをどのようにしてか、作りあげなければならない。でもこの目標は、産業資本制システムから牧歌的な社会へと撤退することでは果たせない。また小資源・小廃棄の通信情報革命が新しく産業を起こすというだけでも、果たせない。なぜなら、それでは、北のみならず南の諸国の経済的困難にあえぐ全地球規模の膨大な人口までを養うことはできないからである。それには、小資源・小廃棄の産業によって、産業規模が小さくなるのではなく、そこからなお産業と市場に利潤が生み出される原理、現在の産業システムに代わる別種の産業の原理と、それに対応する人間の理が生まれなければならない。
加藤典洋

 科学の進歩を止めるのか?より環境に優しい科学を発展させるのか?どこかで人類は大きな選択をする必要があるのかもしれません。もちろん、科学の進歩と環境保全の確保も不可能ではないかもしれません。でも、そこにも何らかの縛りがないと、「欲望」のままに生きる人類に上手な科学発展の制御ができるとは思えません。(過去の歴史、現在の世界情勢を見れば、それは明らかでしょう)

<人は何のために生きるのか>
 では、自らの手で地球を破壊しつつある人類が生き延びるためには、何が必要なのでしょうか?
 そのことを考える前に、そもそも人類は何のために生きているのか?そこにスポットを当てたいと思います。そもそも、人類は何のために種として生き延びる意味があるのでしょう?
 単に「種の保存」のためではないはずです。そこには、「人が生きる意味」という根本的な問題があるのです。

 「成長の限界」の分析はシステム分析としてはすぐれているが、十分な人間理解、また近代理解に伴われていないのではないか。そこに欠けているのは、一言でいえば、ボードリヤールのところにも少しだけ顔を見せていた問いに、 - 人は何のために生きるのか、という問いである。
加藤典洋

「人はパンのみにて生きるにあらず」
イエス・キリスト「聖書」

 これまでのすべての社会は、いつでも絶対的必要の限界を超えて、浪費と濫費と支出と消費を行ってきたが、それは次のような単純な理由によるものだ。つまり、個人にせよ社会にせよ、ただ生きながらえるだけでなく、本当に生きていると感じられるのは、過剰や余分を消費することができるからなのである。
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」

 それはまったくささいなことだ。が、しかし少なくとも一杯のワインはある短い瞬間、自分が世界を自由に取り扱っているという奇蹟的な感覚をそのをその労働者に与える。・・・そこに陶酔の原則があるのであって、その奇蹟的な価値に異議をさしはさむことはだれにもできない。・・・
ジョルジュ・バタイユ「至高性 - 呪われた部分」

 人は最低限の食料であるパンだけで生きるのではなく、パンと共にお皿に載る美味しいおかずやワインによって生きるのです!
 だからこそ、人間の生きる目的に注目することなしに、経済学も成り立たないはずなのです。

 経済学者は、他のすべての人と同様に、人間の窮極の目的を関心事としなければならない。
アルフレッド・マーシャル

 どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本源的なものである。
見田宗介

 人は生きるために、パン以外にも歓喜と欲望を満たすために必要な何かを必要としているのです。そして、その必要な何かとは、「自由」と強く結びついているはずです。

<限界を超えるために>
 では、どのようにすれば「成長の限界」の警告する地球の有限性のもとで、なお人類は「自由」を実現し、「幸福」をもとめ、「本当に生きていると感じられる」生活を送ることができるのでしょうか?
持続可能な社会とは「将来の世代が、そのニーズを満たすための能力を損なうことなく、現世代のニーズを満たす」社会である。
「成長の限界 人類の選択」(第三版)より
 しかし、見田宗介は上記の定義に変更を加えこう書いています。
「将来の世代が、そのニーズを満たすための能力を損なうことなく、現世代の欲望を満たす」ことをめざす社会である。
見田宗介

 人類による環境破壊にストップをかけることは可能です。しかし、単に人類が過去にもどるだけの解決では成功はしないはずです。それは「リスク」の回避だけの問題ではないのです。

 私としては、このような見方、考え方を、先の「リスク近代」に対し、「有限性の近代」の見方、考え方と呼んでみたい。すると違いはこうなるだろう。「リスク近代」の考え方は、どうすれば地球という船を沈めないですむだろうか、と問う。これに対し、「有限性の近代」の考え方は、どうすれば沈みかねない船の上で、人はパンだけでなく、幸福(歓喜と欲望)をめざす生を送ることができるだろうか、ともいう一つその先のことを、問う。

 秘密の核心は、第一に、少量のココアと砂糖と塩とを用いた、食料デザインのマージナルな差異化であり、第二に、「ココア・パフ」というネーミング自体にあったはずである。「ココア・パフ」を買った世代は、「トウモロコシ」の栄養をでなく、「パフ」の楽しさを買ったはずである。「おいしいもの」のイメージを買ったのである。
見田宗介「現代社会の理論」

 見田がここに述べているのは、情報化ということが、地球の有限性の中で、無限の成長をとまではいわないまでも、いま想定されている限界を、超えでていくカギとなるだろうということである。
 ここに新しい原理をみることができるのではないかということである。


 人はパンだけで生きるのではなく、だからといって美味しいものもなくても、パンを美味しくする何かの情報があれば生きて行けるのかもしれません。
例えば、こんな感じでしょうか。
「このパンは、その村でしか獲れない小麦粉とその村の美味しい水から作られたそこでしか味わえないパンなのです」
 確かに同じパンでも美味しく感じられるかもしれません。

 いつのまにか、私たちは人類は有限であるという感覚を、受けとり、身につけはじめているのではないか。そしてそれは偶然でも何でもなく、私たちが「欲望」と「力能」とから距離をもてるようになったことと鋭く連関しており、それをもたらしたものが、私たちのさまざまな「できないこと」との出会いと向き合いなのではないか。

 「ゆたかな社会」の論からポストモダンの論へと続く流れは、世界を内側から無限性の相で見て、人間の生をその無限性の上に基礎づけようとしている。一方、「沈黙の春」から「成長の限界」へと進むもう一つの流れは、地球を外側から有限性の相で見て、人間の生をその有限性の上に基礎づけようとしている。
 ここに、おそらく同じような推論のみちすじをたどり、この二つの考え方を「ともに見はるかす」全体理論を作らなければこの先に行けないと考えた、見田宗介の先行者としての足取りが浮かび上がってくる。
 見田は、最終的に、問題は、地球という有限性の容器にどう人間の可能性という無限性を盛ることができるのか、という形をしていると、この問いを要約していた。

<自由のもつ意味>
 人が生きるために必要な「自由」の重みについても考えてみましょう。
 そのそも「自由」とは何なのでしょう?それは「欲望」と切っても切れない関係にあるようです。

 自由とは何か。人が自由を感じるのは、欲望をかなえることによってでもあるが、またときに、欲望をかなえることから自由であることによってでもある。このばあい、欲望にとらわれないとは、何も欲望を感じないということでも、欲望を否定するということでもない。欲望と、してもよいがしなくともよい、することもできるがしないこともできる、コンティンジェントな関係を保つということである。
(かつて、ゲイの人々が「自分がゲイである」ことをカミングアウトすることには、重要な選択としての意味がありました。だからこそ、その判断は本当の意味の「自由」でした。カミングアウトすることにこそ、ゲイとしての自己主張という価値があったのです。しかし、ゲイであることが、法律的にも認められる時代になり、ゲイであることは、あえてカミングアウトする必要はなくなりつつあります。その意味では、カミングアウトしない自由もまた意味をもつようになったといえます。・・・)

<コンティンジェンシー(偶然性)Contingency>
 ジョルジュ・アガンベンは、偶然性を、世の理解とは異なり、「存在することもしないこともできる」力能というように受けとる。
(一般的には、「何の因果関係もなく、予期しない出来事が起こるさま」のこと)
 さて、私がこの力能に注目するのは、この偶然性の力が、有限性に同調する力能として、「できる」と「したい」の相関から取り出される、先に述べた無限性の近代型の自由とは違うもう一つの自由、いわば有限性の近代型の自由のありかを、うまく切り出す手がかりを提供していると思われるからである。

 「自由」とは「欲望」を叶えることを可能にする「心の糧」ですが、たとえ叶えることができなくても、叶えないという選択をすることにも「自由」はあるのです。様々な選択を可能にする心の自由がそこにあるかどうか?その選択肢の有無にこそ重要な意味があるのです。

 見田は「冷戦の勝利」に関してただ一つ重要なのは、それが米国の「軍事力の優位による勝利ではなかった」ことだという。軍事力では米ソ両陣営は「膠着の状態」にあった。「膠着をつき崩したのは、『自由世界』の、情報と消費の水準と魅力性」、 - 「人間の自由を少なくとも理念として肯定しているシステムの魅力性」であった。

・・・人はある困難が目の前に現れたとき、何とかそれを乗り越えようと意欲し、その達成を夢見る。また、いまは可能ではないけれど、けっして未来永劫不可能だというわけでもないことに対しては、欲望し、意欲し、これをあきらめまいとする。そこに欲望と意欲の無限性がある。それは目に見えないけれども可能性と結びつくことで欲望として成立している。そこでの可能性と欲望の関係は、有限なものと無限なものの相関である。
 自由とは、その不可能性だと思われたことが、実現し、可能になったとき、人の手にする感覚だというのが竹田の考えである。彼によれば、自由とは無限なるものに駆動されて人が努力し、「力能」を獲得し、ある有限なる臨界を克服したときに生まれる、その制限からの自由であり、またその自由からえられる無限の感覚なのだ。

竹田青嗣「近代哲学再考」についての考察より

 「自由」とは、未来に向かうための選択肢のことであると同時に生きるための目標でもあるのです。

<未来に向けて>
 未来に向けて我々ができることについて、「自由」とは別に、ここでは「贈与」という言葉が登場します。

 贈与とは、見返りを欲しない投資であり、その意味で、リスクの行使なのだが、もっといえば、この薄められ欲望の行使でもある。見返りがきてもよいがこなくてもよい、そのどちらでも構わないという心意のもとに果たされる、コンティンジェントな自由が、その奥に控える。

 投資と保険は、未来を可視化するところから現れた。しかし、それは、関係が生きて機能していることに依存している。そこではギブすることが、テイクすることへの予知に基づく行動なのだ。しかし、いまはその関係が壊れている。必要なのは、関係を回復し、未来を作り出すことだが、そこでリスクは、見返りの予期のもつ単なるリスク(不確実性)から、見返りを予期しないことのもつ偶発的投企性に変わるだろう。・・・
 関係の修復、信頼の創造。その根源に負債の支払いと贈与の用意がある。


 「贈与」とは「赦し」でもあります。21世紀の今、世界中に広がる憎しみの連鎖を断ち切るためにも「贈与」という言葉は重要な意味をもつでしょう。

・・・アメリカは日本に対し、原爆投下を謝罪していない。それに応じて、日本はアメリカを公然と非難こそしていないものの、まだアメリカを「赦す」とはいっていない。いったん敵対関係に入ったばあい、世界で唯一、アメリカ自身から糾弾なしにアメリカを核攻撃できる「権利」をいまなお保持している国が、この従属国、日本なのである。つまりアメリカが謝罪し、日本がこれを受け入れるまで、この問題は、未解決のままにとどまる。それは、十分にアメリカが日本から撤退できない理由を構成し続けるだろう。
(日本とアメリカ、日本とアジアの関係修復も、そこから再建することが必要なのかもしれません)

<新しい人間像>
 人類は「自由」と「贈与」を生き方に取り入れることは可能なのでしょうか?
 もしかすると、それが可能になった時、人類は新たな進化を遂げたことになるのかもしれません。
 というより、人類が将来の危機を生き延びるには、新たな人類が誕生しなければならない。そう考えるべきなのです。そんな未来の人類像について、書かれた生物学者、三木成夫の文章から・・・。

 三木によれば、人体の働きは、植物的で不随意的な内臓系と、動物的で随意的な体壁系に分かれる。内臓系は、心臓など血管系、食通、胃や大腸などの腸管系、腎臓などの腎管系からなり、夜眠っている間も不断に働くことをやめない。体壁系はこれに対し、脳から脊髄にいたる神経系、筋肉系、そして皮膚の外皮系からなり、人間の意思を形成し、意思に従って動き、可感である。
三木成夫「植物的部分と動物的部分」より

 体壁系の頂点に位置する脳は、宇宙空間の謎にも挑む。しかし、それは「生活空間の『近』」をどこまでも延長していった果てに、いわば徒歩で、地続きのまま、この「無限」の謎と向き合っているのにすぎない。一方内臓系は、直に無限な「天体の運行」と感応しあい、その機能を営んでいる。内臓系の世界(心)のほうが、体壁系(脳)よりも深くて広い、と三木はいうのである。
 彼は、その延長でこんな面白いことをいっている。動物の体制はストック、「溜め込む」ことにある。植物の体制にストックはない。植物の体制は、フローだけ、それは外界との感応の世界である。
・・・
三木成夫「植物的部分と動物的部分」より

 人類の生き残りに必要なのは、人類を生物全体の一部と見なして、新たな枠組みに拡張することかもしれません。そのことを人間たちは認めることができるのか?そこがポイントのような気がします。

 人間を、植物までをも含む生命種のひとつという時点にまで遡及して考え直すことは、退歩を意味するだろうか。むしろそれは、人間観が広がることなのではないだろうか。人間を、他の動物、他の生物と区別して、特別な、孤立した存在と考えることのほうが、むしろ退嬰的、守旧的で、ときに野蛮で残酷ですらあることなのではないだろうか。

「人間主義は人間主義を超える思想によってしか支えられない」。これはとても具体的な例から考えられます。たとえば、水俣病はどうして起こったのかというようなことを考えると、人間を大事にするということは、人間だけを大事にするという近代的な人間のおかげで、水俣の人間たちはひどい目に遭ったわけです。
見田宗介「軸の時代Ⅰ/軸の時代Ⅱ」より

「エコロジーもまた - 人間中心のものである限り - それを超えるものによってしか支えられない」

<参考>
「人類が永遠に続くのではないのだとしたら」
 2014年
(著)加藤典洋
新潮社

「ゆたかな社会」ガルブレイス(1958年)
「沈黙の春」レイチェル・カーソン(1962年)
「成長の限界」ローマクラブ(1972年)
「脱工業社会の到来」ダニエル・ベル(1973年)
「現代社会の理論」見田宗介(1996年)

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