- ヘルベルト・フォン・カラヤン Herbert von Karajan -

<CDの大きさを決めた男>
 「のだめカンタービレ」と「名曲探偵」でやっとクラシックの知識を得た僕にとって、ベートーベンの第九はあくまで「ベートーベンの第九」であって、その演奏が誰の指揮によるのかは、正直どうでもよいことでした。(最近は、聞き比べもしてみたい気がしますが・・・)当然、カラヤン指揮のベルリン・フィルの音は違う!などと、わかるはずもありません。でも、CDの大きさが現在の12センチに決まったのは、カラヤンがベートーベンの第九(74分)を一枚に収めるためだったという話が本当なのかには興味がありました。
 どうやら、録音技術の向上に若い頃から興味があったカラヤンは、音響機器のトップにあったソニーと長く親しい関係にあり、そのため、来日するたびに彼はソニー本社を訪れて最新の音響技術についての知識を得ていたそうです。だからこそ、世界初のCDをソニーとフィリップスが開発した際、彼はその企画に助言を求められたのです。こうして、彼の進言によって、CDの大きさは当初予定の11.5センチ(60分)から12センチへと変更されることになったわけです。
 確かにクラシック音楽の世界においては、より長い方が1時間を越すのがほとんどの交響曲などを録音するのに都合がよいでしょう。しかし、それまで45分というレコードの裏表を基準に音楽を作ってきたポップスの世界いおいて、74分という長さは、クオリティーの低下やリミックスなど水増しともいえる録音を追加する必要を生み、良い変更とはいえなかったようにも思います。現代社会においては、物事を集中して楽しめるのは60分ぐらいで、その時間はさらに短くなっている気もします。今では、そうした45分程度のアルバム単位で音楽を聴く人も、ほとんどいないように思います。シングルをダウンロードして聴く「つまみ食いOK」の21世紀の音楽の聞き方からは、もうCDの74分という大きさ自体、無意味になりつつあるのかもしれません。
 とはいえ、20世紀に誕生した音楽界の革命的発明において、その方向性を定めたのが、クラシック界の皇帝だったということは、いかに彼の存在が音楽業界において大きなものであったのかを示しています。ビートルズでもエルヴィスでもない、音楽界の偉大なる伝説、ヘルベルト・フォン・カラヤンとはいかなる人物だったのでしょうか?

<指揮者という仕事>
 考えてみると、クラシック音楽における指揮者というのは不思議な存在です。それは、ロック・バンドにおいてなら、バンド・リーダーであると同時にプロデューサー兼ミキサーです。それは、ザ・ビートルズではなくザ・ビートルズ&ジョージ・マーチンなわけです。その上、カラヤンの場合のように指揮者のほとんどは作曲家ではなかったので、彼らはオリジナル曲をもっていません。ということは、彼が率いるベルリン・フィルはカバー曲専門のバンドともいえるわけです。にも関わらず、クラシック音楽の世界では指揮者が文句なしに一番偉いのはなぜでしょうか?
 オリジナルが少なく、カバー専門ということでは、クラシックとジャズは似ているかもしれません。ただし、ジャズの場合は、どの曲も楽譜どおりに演奏することはなく、それぞれバンドのメンバーは自由にアレンジすることが許されています。そこにそのバンド、そのミュージシャンの個性やセンスが表れることになります。それに対し、クラシックの場合は、ジャズほど自由度は高くなく基本的には楽譜どおりの演奏が求められ、オーケストラが発揮できるオリジナリティーにはかなりの限界があります。
 ただし、オーケストラにはジャズにもロックにもない複雑な楽器の構成があり、それらが生み出すハーモニーは、それらを統括する指揮者の指示しだいで様々に変化しうるのも確かです。指揮者は、そうしたオーケストラの編成や演奏曲の選定を主導するプロデューサーであり、楽器の音をひとつにまとめ上げるという点ではミキサーの役割も果たし、当然編曲者としての仕事もしているわけです。そして演奏が始まった瞬間から指揮者は全ての統率者として働く必要が生じるわけです。その点では、民主主義にもとづく指揮者は存在しえず、権威主義者でなければ勤まらない仕事といえそうです。
 指揮者を目指す者は、オーケストラにおけるすべての権威を手にするつもりでなければならないのです。史上最高の指揮者といわれたカラヤンが、ベルリン・フィルの指揮だけでなく、クラシック音楽界全体の指揮者を目指そうと考えたとしても、そう不思議なことではないのかもしれません。

<すべての指揮権を求めて>
 理想の音楽を生み出すために必要なオーケストラを作り上げるには、音楽家の育成(かつて彼は音楽教育プログラムを自らの資金で立ち上げています)や最高の録音設備(ソニーとの関わりや自らのコンサート映像を扱う会社の設立などは、そのために必要なことでした)、最高の演奏環境(ザルツブルグ祝祭大劇場、ベルリン・フィルハーモニー・ホールの建設)、最高の発表イベント(ザルツブルグ音楽祭の立ち上げ)、そしてオーケストラを運営するための資金確保や政治的なバックアップなど、様々な条件を整える必要があるからです。こうした、条件をすべてクリアーするためには、指揮者はまさに神のごとき存在とならねばならないのです。
 カラヤンは、常に「権威主義者」と呼ばれ、「指揮棒を振るビジネスマン」とも呼ばれていました。それどころか、彼はかつてドイツを支配した独裁者ヒトラーのもとでナチ党員として活動していたことのある人物でもあり、自らを音楽界の独裁者と考え、それらのことはすべて「最高の音楽」を生み出すための必要悪だったと考えていたのかもしれません。
 なぜ、そこまでしてクラシック音楽にこだわるのでしょう?ギター一本あれば歌いたい歌を歌うことは可能です。さらに、21世紀の今ならコンピューターを使って自分の思うとうりの音楽をオーケストラを使って創造することも可能です。
 スタジオで録音された音楽は、フィルムに記録された映像である「映画」に例えることができます。それに対して、舞台上で生で上演される「演劇」は、セリフは台本どうりだとしても、役者の個性や演技、顔つき、それに観客の反応やその日の入場客数や場所などの条件により、毎回同じできになることはありません。ただし、「演劇」の場合、幕が開いた瞬間から演出家に出番はなくなり、役者と裏方に仕事はまかされることになりますが、クラシック音楽は開幕後も演出家である指揮者が舞台に上がったままという変わった舞台芸術なわけです。演出家だったはずの指揮者は主人公として舞台に立ち、観客の反応をじかに感じることもできるわけです。
 責任の重さに耐えられるなら、指揮者こそ最高の仕事なのかもしれません。

<時代への対応と権力闘争>
 カラヤンが自らの目指す最高の音楽のために権力を求めたのには、他にも理由がありました。一つには、彼が育った環境の問題があります。
 1908年4月5日、オーストリアのザルツブルクで生まれた彼は、音楽家として三つの時代を生きました。左派的なワイマール共和国時代とヒトラーによる独裁政治が行われたファシズムの時代、それに戦後の民主化された西ドイツ時代です。(彼は1989年7月16日にこの世を去ったので、ベルリンの壁崩壊後の時代を経験することはありませんでした)当然、時代の変化にともなって政治体制が変わるだけでなく、行政や行政組織も大きく変わるため、オーケストラのように公的な組織は、そのつど大きな影響を受けることになりました。オーケストラを指揮するために指揮棒だけ振っていればいい時代は、そう長くはなかったのです。彼はそうした激動の時代を指揮者として生き延びるため、ナチス・ドイツ時代にはナチスの党員となっていたため、戦後しばらく彼は戦犯のひとりとして、オーケストラの指揮をすることができませんでした。復帰するためには、それなりの政治活動も必要とされたようです。こうした政治的な活動なくして、当時はオーケストラを率いることができない時代だったのです。
 さらに音楽界における権力闘争もまた、当時はかなり厳しかったようです。特に有名なのは、彼の先輩としてドイツの音楽界に君臨していたフルトべングラーとの権力争いです。戦後、やっと音楽界に復帰したカラヤンですが、すぐにフルトベングラーと権力争いで対立。彼の故郷で行われていたザルツブルク音楽祭からも、彼の指示により締め出されてしまいました。カラヤンがその呪縛から逃れられたのは、彼が1954年にこの世を去ってくれたおかげでした。ここからカラヤンによるヨーロッパ・クラシック音楽最高峰の制覇に向けた歩みがスタートすることになります。

<最高の音楽を求めて!>
 当時、すでにロンドンのフィルハーモニア管弦楽団とウィーン交響楽団の指揮をとっていた彼は、それに加えてザルツブルク音楽祭の最高責任者とウィーン国立歌劇場の指揮者、さらにはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者の地位を獲得してゆきます。契約上、それぞれの楽団の指揮をする最低数なども決まっているので、カラヤンは毎週のようにドイツとウィーン、それにロンドンや時にはイタリアのスカラ座にまで足をのばす超多忙な生活に追われることになりました。
 それにしても、なぜ、彼はそうまでして指揮者の椅子にこだわったのでしょうか?
 ドイツ・オペラも、イタリア・オペラも、モーツァルトも、ベートーベンも、やりたかった彼にとって、それぞれ最高の音を出すには、そのために必要な最高の楽団、最高の歌劇場を自由に使える権力を得る必要があったということのようです。もちろん、彼が根本的にトップに立たなければ気がすまない人間だったことも必要不可欠な要素でしたが・・・。
 彼はあるインタビューでこう言ったそうです。
「私は他人に命令されるように生まれついていない。私は私の望むものを手に入れるまでは、鳴りを潜めている。そしていつも、絶対的な自由を求め、それが可能になるまで待っている」
 なんという自己中人間!しかし、このぐらいのセリフをはけるぐらいでないと、オーケストラの指揮など無理だということかもしれません。

 その他にも、カラヤンは、EMI、ドイツのグラモフォン、イギリスのデッカ三社とレコーディング契約を競わせながら上手に結ぶことで、どこか一社の専属になることなく契約金の吊り上げに成功しています。音楽ビジネスの世界でも見事な政治力を発揮してみせていたわけです。
 なんだか、カラヤンをヒトラーの音楽家版みたいに書いていますが、彼は誰も殺していないし、多くの人々に感動を与えた「平和的な独裁者」と考えるべきでしょう。そして、それだけの情熱と人生の全てを「芸術」のためにかけることのできる人間がどれだけいるかと考えれば、彼の偉大さに文句をつけられないはず。

<レナード・バーンスタイン>
 カラヤンと同時代に世界を二分する存在だった指揮者として、レナード・バーンスタインがいます。元ナチスの党員で20才も若い女性と結婚(再婚)した権力大好き人間の保守派カラヤンに対して、バーンスタインはユダヤ系のアメリカ人でありゲイであり、右派の逆の共産主義者でもあり、かつ指揮者であると同時に優れた作曲家でもありました。実に二人は対称的な人間です。ところが、意外なことに二人は個人的にはお互いを認め合っていたようです。もちろん、二人がヨーロッパとアメリカ、二つの地域に住み分けをしていたために対立せずにすんでいた面も多分にあったのでしょうが・・・。
 世界の最高峰に立つには、けっしてカラヤンのような人物にならなければならないというわけではなさそうです。20世紀を代表する作品「ウエストサイド物語」の作者でもあるバーンスタインの「豊かで優しい創造力」に対して、指揮者カラヤンのもっていた才能は、忠実に作者の目指した音楽を再現するために必要な「総合的なプロデュース力」にあったということかもしれません。

<カラヤンが可能にしたこと>
 彼があらゆる権力を獲得したことで可能になったこともあります。例えば、今では当たり前のことのようですが、オペラのプログラムを舞台装置や出演者、演出方法などを共通化することによって、それを一つのパックにして世界各地をツアーするという方法を彼は考え出しました。その方法だと、経費を大幅に下げられるのでチケット代を安くでき、それによりやり多くの土地で公演を行うことが可能になり、それが新たなファンの創造にもつながることになりました。そうすることで、結局はより大きな収益を上げることも可能になったのです。
 さらに彼は、ライブ映像を作品化するための会社を興したり、デジタル録音をいち早く行うことで技術の革新に向けた取り組みにも対応していました。そのために彼は自分の多額の資産をそのために投入することもしていました。その点では、彼は「ビジネスマン」ではあっても収益を芸術のために再投資する「芸術家のパトロン的ビジネスマン」だたといえるでしょう

 クラシック音楽の世界は、他のどの音楽よりも歴史が古く複雑で奥深い音楽のひとつです。そんな音楽ジャンルの世界で間違いなく一番多くレコード、CDを売った男は、確かにカラヤンという人物です。それはけっして彼があらゆる権力の掌握によって、より多くの枚数が売れるように仕組んだ結果ではないはずです。そこには、多くの人々に認められるだけの魅力があったのは間違いないのです。

<追記>2014年9月
「カラヤン先生はいつも録音エンジニアに細かく要求するんです。こういう音で録ってくれって。カラヤン先生の場合、そういう音の枠の中でのフレーズを作りますから。フレーズのうねりがそういう響きの中でちゃんと出るように音楽を作ります」
小澤征爾

<参考資料>
「カラヤン帝国興亡史 史上最高の指揮者の栄光と挫折」
 2008年
(著)中川右介
幻冬舎新書

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 2014年
小澤征爾・村上春樹
新潮社

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