- イアン・デューリー Ian Dury -

<元気を与える人>
 僕が昔、自動車関連のメーカーで設計をやっていたころ、僕らが設計したメカの試験を行う実験課にI さんという先輩がいました。彼には顔の一部と身体に麻痺があり、僕は初めそのことがちょっと気になっていました。しかし、いっしょに仕事をする機会が増えてくると、僕は彼の仕事ぶりの丁寧さと粘り強さに感心させられるようになりました。それどころか、彼の仕事に対する真剣さに回りのみんなが引っ張られていることに驚かされたものです。
 彼は、もしかすると見た目で差別されることもあったのかもしれません。しかし、そんなことなどまったく感じさせない明るさに満ちていました。それどころか、彼は常に回りに元気を与える人でした。今でも、僕は彼のことを時々思い出します。
 イギリスが生んだ個性派ファンク・ロッカー、イアン・デューリーは、僕にそんな I さんのことを思い出させてくれます。彼もまた元気を回りに与えてくれる魅力的なアーティストでした。

<障害と闘う少年時代>
 イアン・デューリー(本名イアン・ロビンス・デューリー)は、1942年5月12日ロンドンのミドル・エセックスで生まれました。父親はバスの運転手で、母親は介護士でアイルランドの血を引いていたようです。
 7才の時、彼は小児麻痺にかかり、左半身が不自由な障害者になってしまいました。そのため、彼は障害者のための施設と普通校を行き来することになり、いじめや差別に苦しむ日々を経験しました。そんな悲惨な少年時代を送りながらも、彼には絵を描くという楽しみがありました。そこで彼はアート・スクールに入学し、1966年に卒業すると、見事美術学校の教師に合格します。しかし、元々ロックン・ロールが大好きでドラマーになりたかったという彼は、美術教師のかたわら友人たちとバンドを組んで活動するようになりました。

<パブ・ロックの人気バンド>
 50年代のポップスとロックン・ロールが大好きだった彼らは、エディー・コクラン、リトル・リチャードなどのカバー・バンドとしてスタートし、しだいにオリジナル曲を演奏するようになってゆきました。 こうして、彼らのバンド、キルバーン&ザ・ハイローズは、1972年本格的にライブ活動を始めました。
 この当時のブリティッシュ・ロック・シーンは、グラム・ロックの全盛期でしたが、それとは別にパブを中心に人気を集めるR&B、ロックン・ロール・スタイルのバンドたちが活躍を始めていました。後に彼らは「パブ・ロック」と呼ばれることになりますが、ニック・ロウを中心とするブリンズレー・シュワルツやドクター・フィールグッドは、この頃活躍を始めています。キルバーン&ザ・ハイローズも、それらのグループとともにその名を知られて行きました。

<デビューへ>
 1974年、彼らはWEAの子会社、ラフト・レーベルと契約し、ファースト・アルバムの録音を開始しました。この時のメンバーは、イアン・デューリー(Vo)、ラッセル・ハーディー(Pia)、キース・ルーカス(Gui)、デイヴィー・ペイン(Sax)、チャーリー・シンクレア(Bass)、ルイス・ラローズ(Dr)。
 ところが不運なことにラフト・レーベルが倒産してしまったために彼らのアルバムはお蔵入りになってしまいます。(1978年になって、やっとこのアルバム「Wotabunch!」は、日の目を見ることになります)それでも彼は、すぐに新しいメンバーを集め、デビュー・アルバムの採録に近い作品「Handsome」を制作し、再び活動を再開します。

<過激な元祖パンク・バンド>
 もともと過激なパフォーマンスで有名だった彼らは、ライブでの喧嘩など日常茶飯事で、時代的にも元祖パンクと呼ぶべき存在でした。しかし、パンクのブームにはまだまだ早すぎたこともあり、彼らが苦労して発表したデビュー・アルバムはまったく注目を浴びることはありませんでした。なんとわずか3000枚しか売れなかったのです。(第一デビュー・アルバムが発表されたとき、すでにバンドは崩壊しており、宣伝のしようもなかったのですが・・・)

<ソロでの再スタート>
 再び一人になったデューリーは、いよいよソロ・ミュージシャンとして活動することになります。そして、この時集められたバック・アップ・メンバーはその後ザ・ブロック・ヘッズとして、彼の黄金時代を支えて行くことになりました。
 先ず作曲のパートナーとしてキーボードも担当するチャズ・ジャンケルが選ばれます。彼は後にクインシー・ジョーンズがカバーして大ヒットさせた「愛のコリーダ」の作曲者ということで世界的に有名になります。
 さらにドラムのチャーリー・チャールズ、ベースのノーマン・ワット=ロイが加わり、ブロックヘッズならではの粘り強くファンキーなリズムが生まれることになります。(残りはギターのジョニー・ターンブル、キーボードのミッキー・ギャラガー)
 こうして、イアン・デューリーにとってのソロ・デビュー・アルバム「New Boots And Panties ! !」が録音されましたが、当初このアルバムは発売元がなかなか決まりませんでした。メジャーからのデビューを目指したものの、アイドル性という面で問題があるだけでなく、彼の年齢がすでに35歳になっていたことなどのせいでなかなか決まらなかったのです。

<スティッフ・レーベル>
 ちょうどこの頃イギリスでは、保守化してしまったロックを打破するために、新しい動きが始まろうとしていました。その一つの流れとして、メジャーとは異なる視点でロックを育てて行こうとする独立系のレコード会社いわゆるインディペンデント・レーベルが誕生しつつありました。そして、その中の代表格として1970年代に大活躍することになるスティッフ・レーベルがちょうどこの頃設立されました。
 この会社は元々ドクター・フィールグッドのマネージャーだったジェイコブ・リビエラとデイブ・ロビンソンによって、1976年に設立されています。ニック・ロウ、エルヴィス・コステロらパブ・ロック系のアーティストを擁するこの会社は、ニューヨークのアーティスト、フィーリーズをデビューさせるなど、時代の最先端に飛び出そうとしていました。イアン・デューリーはこの会社の看板アーティストとしてデビューを飾ることになります。

<いきなりブレイク>
 彼のファースト・シングル「Sex,Drags&Rock'n Roll」は、いきなり全英チャートの2位まで上昇。アルバムも5位まで上がり、トータルで50万枚を売り上げる大ヒットとなりました。1978年発売のシングル「Hit Me With Your Rhythm Stick」はついにナンバー1を獲得。セカンド・アルバム「Do It Yourself」(1979年)も、アルバム・チャート2位まで上昇。彼らは一躍スターの座に躍り出ました。
 しかし、この時点で重要なソングライターだったチャズ・ジャンケルが脱退。その代わりにドクター・フィールグッドの中心メンバーであり、優れたギタリストだったウィルコ・ジョンソンが加入します。

<俳優業への進出>
 サード・アルバム「Laughter」(1980年)は、やはりチャズの抜けた影響か売上は伸びず、ジャマイカでスライ&ロビーとともに作り上げた「Lord Upminster」(1981年)も事前準備の不足がたたり現場での録音が後手に回ってしまい上手く行きませんでした。その後彼は一年間病気による療養生活に入り、その後発表された「4000 Weeks' Holiday 4000週間のご無沙汰でした!」も、残念ながら売れずじまいでした。
 しかし、ミュージシャンとしての不調とは対照的に、彼はこの時期新しい仕事、俳優業の方で大活躍をしていました。そのきっかけは、1981年シェイクスピアの「ハムレット」への出演でした。この時彼はイギリスを代表する大物女優ヴァネッサ・レッドグレープと共演、見事に俳優としての実力を示しました。その後彼には映画、舞台、テレビの仕事が次々に回ってくるようになります。
 イタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニの「そして船は行く」(1983年)、ロマン・ポランスキーの「ポランスキーのパイレーツ」(1986年)、ピーター・グリーナウェイの「コックと泥棒、その妻と愛人」(1989年)、ボブ・ホプキンスの「ジプシー〜風たちの叫び」(1989年)、ティム・ポープの「クロウ2」(1996年 この映画にはイギー・ポップまで出ています)さらにミュージカル舞台劇「アップルズ」(1989年)では、俳優だけでなく脚本と音楽まで担当します。元々俳優になりたかったという彼はすっかり俳優業にはまってしまいブロック・ヘッズは事実上解散状態になってしまいます。

<日本での復活>
 このまま彼はミュージシャンとしての活動をやめてしまうのではないかと思われ始めたころ、思わぬところから彼を音楽活動へと引き戻す動きがありました。それは日本のミュージシャン、忌野清志郎がロンドンでのアルバム録音にブロックヘッズを起用したことから始まりました。そのアルバムは1986年発売の「レザー・シャープ」で、彼らのバック演奏が気に入った清志郎は、ライブでのバックにも彼らを参加させるため日本に呼び寄せました。(このライブはアルバムにもなりました)そして、この来日がきっかけとなり、イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズの初来日公演が1987年に実現。再び彼は音楽活動を再開するきっかけとなりました。彼はミュージカル「アップルズ」のアルバム化をブロックヘッズとともに行いました。

<チャーリーの死、そして>
 1990年9月5日、ドラマーのチャーリー・チャールズが胃癌によって突然この世を去りました。翌年、デューりーとブロックヘッズはチャーリーの追悼ライブを行います。(このライブは、アルバム「ライブ Warts 'N' Audience」として発売されています)
 1992年、ショックから立ち直ったデューリーは久々のアルバム「バス・ドライヴァーズ・プレイヤー The Bus Drivers Prayer & Other Stories」を発表しました。このアルバムはバスの運転手をしていた父親の思いでに捧げられた作品でした。そして、1998年彼は再びブロックヘッズと組んで久々の傑作アルバム「Mr.Love Pants」を発表。相変わらずの元気ぶるを見せてくれました。まさか、それが彼の遺作になるとは、・・・。
 彼もまたドラマーのチャーリーと同じ胃癌に冒されていたのです。2000年3月27日、彼は56年の生涯に幕を閉じました。
 障害者としてのハンディーなどまったく感じさせず、それどころか鋭い風刺で政府の愚かな政治を批判したかと思えば、ミュージシャンから俳優へ、作曲家へと次々に新たなジャンルへのチャレンジを続けた彼の人生は、まさに悔いの残らないものだったに違い有りません。誰もが彼のように前向きに生きて行ければ、世界はもっと違ったものになるような気がします。
 彼の音楽は、僕たちに元気を与えてくれるだけでなく、そんな前向きな気持ちを持たせてくれるのです。

<締めのお言葉>
「自己実現者とは何か?
 ・自我中心的であるよりも、自分の外側の問題に集中する傾向がある
 ・創造的である
 ・絶え間なく物事を新鮮に賞味する
 ・現実に対する敏腕な知覚力を備えている
 ・たいていの人間よりも多くの愛情、深い人間関係が可能
 ・孤独を楽しむ
 ・人間に対し突発的に立腹したり愛想を尽くしたりする
 ・否定的な物事に注意を強いられるのを嫌がる
 ・否定的なるものにいつまでもこだわることはしない」

 コリン・ウィルソン著「至高体験」より
あなたはいかがですか?

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