戦後の混乱が生んだ二つの闇


<特殊慰安施設協会 RAA>
<闇市>
<特殊慰安施設協会 RAA>
 1945年8月18日、内務省から各県に「外国軍駐屯における慰安施設について」という文書が送られました。
 戦後、組閣された東久邇宮内閣の国務大臣、近衛文麿が請願し、警視総監の坂信弥が企画した政策です。
 その名目は、「良家の女性の純潔を守る」ことで米兵による性犯罪を予防するというのが目的でした。
「東久邇宮さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。・・・それで、アメリカにやられたら大変だろうという頭はあっただろうと思います」
坂信弥
 日本政府は日本軍が南京などの植民地で行った蛮行について把握していたからこそ、同じことをアメリカ軍もやるに違いないと判断したのです。こうして自国ですら慰安婦を強要した事実があったのですから、他国でも同じことをしてきたのは当然のはず。

 こうして上陸する予定の40万人の米兵を相手にするべく将兵用慰安施設設置準備を開始ことになり、政府は8月26日は「特殊慰安施設協会 Recreation and Amusement Association」RAAが設立されます。
 RAAは、一般兵士用慰安所として大森海岸にあった高級老舗料亭「小町園」を特殊慰安所第一号として開店。その後、同じ地区の「楽々」「見晴」「やなぎ」などの割烹旅館。多摩地区の「福生営業所」「調布園」、西多摩郡三田村の「楽々ハウス」、立川市の「キャバレー富士」などがオープン。東京だけで33か所存在しました。
 その他、地方にも広島、静岡、兵庫、山形、秋田、横浜市、愛知、岩手、大阪府などにも設置されました。

<慰安婦募集>
 慰安所で働く女性たちの多くは、そこで自分が何をすることになるのかを理解せずに就職したと言われます。その募集は詐欺的な方法で行われたからです。
「急告特別女子従業員募集
 衣食住及び高給支給、前借ニモ応ず、地方ヨリノ応募者には旅費を支給す
特殊慰安協会」
昭和20年9月4日毎日新聞の広告より

「キャバレー、カフェバー、バー、ダンサー求む。
 経験の有無を問わず国家的事業に挺身せんとする大和撫子、奮起を確かむ。
 最高収 特殊慰安婦施設協会キャバレー部」

昭和20年9月4日東京新聞広告
 こうした広告が連日行われました。
 8月27日「小町園」には30人の慰安婦が手配。女給やダンサーとして働くつもりが慰安所で初めて仕事内容が知らされたということです。
 開店当日、5人の米兵が来店。その結果が軍隊内に知らされたのか、10日後には何十台ものジープで兵士たちが押し寄せる状況になりました。その後、占領軍兵士たちはRAAだけでは満足できず、焼け野原の東京にかろうじて残っていた5か所の花街や向島の玉ノ井近くの売春街17か所へと流れて行きました。その間にも日本各地で米兵による暴行や強姦事件が多発することになりました。
 1946年3月26日、連合軍は東京憲兵司令部から「進駐軍の淫売窟立入禁止に関する件」の通達が出てRAAは閉鎖となります。そのおかげで職を失った慰安婦たちは「パンパン」と呼ばれる街娼となったのです。こうした仕事は米軍基地のある街には長く存在し続けることになります。

<闇市>
 1945年8月15日の終戦から5日後、新宿通りに露店がオープンし、そこから戦後日本の象徴となる「闇市」の短い歴史が始まります。
 「闇市」で売られていたのは、統制品、軍需物資、飲食店では残飯シチュー、モツ焼き、モツ煮、鯨肉、代用品で作られた菓子、手作りの酒カストリなど。
 すぐに新宿、池袋、渋谷には巨大な常設のマーケットが形成されることになりました。それに対し、神田、日本橋、銀座などの繁華街では移動式露店が主流でした。
 各地に縄張りをもつテキ屋が闇物資の取引を行っていたこともあり、テキ屋が仕切ることで闇市が形成されることになりました。ちなみに、テキ屋は「的屋」が元になった言葉。盛り場や縁日など人手が多い場所で露店や興行を営む業者のこと。縁日にある矢などによる「的当て」の娯楽を行う業者からとられた名前のようです。

 闇市がなぜ生まれたのか?それは政府による物資の価格統制により、一般の商店や飲食店に商品や食料品が出回らなくなったことが原因です。

<物価統制令>
 1946年3月3日、敗戦による物資の供給不足から起きた急激なインフレ対策として公布・施行された勅令。
 物価を統制し不当な商取引を取り締まることが目的です。
<公定価格>
 物価統制令に基づいて政府が定めた商品やサービスなどの標準価格。
<配給制度>
 食料や衣類などの生活物資を家族の人数に応じて決まった分だけ配布する制度。主に切符制でしたが、米は米穀通帳を使って配給されました。

<新宿の闇市>
 こうして、庶民が購入不可能になった商品や食料を購入できる非公認の場所として誕生した「闇市」はすぐに大繁盛となり、その主導権争いがすぐに始まることになりました。
<尾津組>
 新宿を中心に勢力を伸ばしたのが尾津組。
 8月18日に新聞広告「光は新宿より」というキャッチコピーで出店者を募集。同月20日には、戦後初の闇市が新宿通り(東口)沿いにオープンすることになりました。
 そこで売られていた主な商品は、食材、化粧品、衣料品、日用雑貨などでした。
<野原組>
 新宿駅の東口駅前周辺にあった闇市。
 新宿聚楽食品ストアの周辺や路地の飲み屋街の店からなる闇市でその多くは屋台の店でした。
<和田組>
 新宿駅東口の武蔵野映画劇場から甲州街道までの線路沿い一帯の闇市。
 その北側は飲食街になり、南側は飲み屋街と一部は売春宿になっていました。
<安田組>
 新宿西口線路沿いの闇市。
 靖国通りに面した地域は現在も思いで横丁として一部が残っています。

<渋谷周辺の闇市>
 渋谷は、新宿や池袋のように古くから地域を仕切るテキ屋がいなかったため、勢力争いが耐えない危険地域となり縄張りを争う衝突が何度も起きています。なかでも1946年6月の「渋谷事件」は有名です。
 当時の渋谷では、在日台湾人(華僑)のグループ、日本人ヤクザのグループ、渋谷警察が三つ巴の対立をしていました。
 1946年6月新橋駅西口に闇市「新生マーケット」を建設した愚連隊上がりの関東松田組と在日台湾人との利権争いが激化。華僑の総本部がある渋谷区宇田川町周辺で報復合戦が起きます。
 7月18日、台湾人約300人が芝区琴平町の関東松田組事務所の襲撃に向かいました。それに対し、松田組は組の事務所屋上から機関銃による威嚇射撃を行い衝突を回避しました。
 7月19日、明治通りをジープ、トラック7台に分乗した台湾人150人が渋谷警察署前の検問で銃撃戦を始め、警官一名台湾人一名が死亡します。
 なんとか警察はこれで対立するグループの衝突をこれで抑え込むことができました。

 1951年10月米以外の食品は自由販売となり、闇物資ではなくなります。さらに各地で土地区画整理が進んだことで、12月には闇市はあっという間に消えることになりました。

<参考>
「地図と写真で見る昭和史戦後篇1945-1989」
 2022年
(著)半藤一利
平凡社

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