氷りゆく世界を描いたSFを越えた小説

「氷 ICE」

- アンナ・カヴァン Anna Kavan -

<伝説のSF小説>
 この小説が日本でも一般的に知られるようになったのは、SF史における名著「十億年の宴」において、著者のブライアン・オールディスが歴史的名著の最後を飾る作品としてこの作品を取り上げてからかもしれません。もちろん、あの伝説のサンリオ文庫がこの小説を文庫化してくれなければ僕も読むことはできなかったのですが・・・。(日本では1985年のことです)

・・・「氷」のストーリーは、多くの意味で彼女の内的生活を具体化している。それは究極的な破局である - 氷の前進はじゅうぶんにリアルだが、それは常に魂の氷、つまり、ヘロインの浸食であり、どうしても縁の切れない死の習慣なのだ。わたしにとって、それはSFの一つの頂点を形づくるもの、したがって分類不可能なものである。
ブライアン・オールディス

 この小説が発表されたのは1967年、「ニューウェーブSF」と呼ばれる内宇宙としての人間心理を描くことにこだわったSFの新たな流れが生まれた時代でした。そこに、SF界の激動とはまったく関わりのない世界から投じられた「冷たい爆弾」がこの作品でした。
 実のところ、著者自身は「SF」についてまったく興味がなく、知識もありませんでした。しいて言うなら、彼女が影響を受けたのは、SFではなく不条理な世界を描く出したフランツ・カフカだったようです。こうしたまったく異なるジャンルからの侵入が起きることもまた、そのジャンルがいかに時代に求められていたのか、その証明だったといます。この小説の発表年が1967年というエポック・メイキングな年であったことは偶然ではないでしょう。それは、1967年と言う過激な時代が生んだ時代を象徴する作品だったと考えられます。

<あらすじ>
 この小説のストーリーは実にシンプルです。かつて出会った美しい少女のことを忘れられない主人公は、地球が氷と化しつつある危機的状況を知りつつ、少女を探して旅に出ます。しかし、少女はある独裁国家の謎の政治家のもとにいることがわかります。そこで主人公はその国の歴史調査という名目を作り、政治家のもとに近づきます。しかし、なかなか彼は少女に近づくことができず、彼女自身も彼に助けを求めようとはしませんでした。
 その後、少女は別の土地に移住してしまい、再び彼は少女を追って旅に出ます。そうして旅を続ける間も、少しずつ氷は世界を覆いつつありました。再び彼は少女と出会うとこはできるのか?そして彼女を救い出すことはできるのでしょうか?

 悪く見ると、この小説はロリコン・オタクのストーカー物語の元祖と読めなくもありません。
 しかし、このシンプルなストーリーからは、様々な映画や小説との類似性も感じられます。
 「氷に覆われつつある世界を巡りながら、謎の存在でもある少女を探索する旅」これを裏返すと、1979年の映画「地獄の黙示録」(原作は1899年ジョセフ・コンラッドの「闇の奥」)となります。
 また、この小説の姉妹的存在に思えるSF、ジャングルの奥地から結晶化が始まる世界の終末を描いたJ・G・バラードの傑作「結晶世界」は1966年発表とほぼ同じ時期の作品です。
 雪に覆われた世界の中で二人の人物が抱きあう姿から書かれたというアーシュラ・K・ルグィンの「闇の左手」が1969年の作品です。これもまた同じ時代が生んだ傑作SFです。
 そして、ブライアン・オールディスが「十億年の宴」でSF史最初の傑作として記した「フランケンシュタイン」のラスト、主人公は自らが生み出した怪物を「氷の世界」である北極に追いつめて、最後の決着をつけます。
 どれもSF史だけでなく文学史に残る名作と呼べる作品ばかりです。ただし、著者のアンナ・カヴァン自身はSF小説というものを全く意識せずに書いただけあって、この小説には「謎解き」も「科学的解説」も「SFの定番的プロット」もありません。
 そのうえ、物語の主要な登場人物は3人しかいないにも関わらず、場面が変わるたびに異なる設定で登場し、それぞれが異なる物語のようにも思えます。時世的に順番通りなのか?それとも異なる世界の物語を描いているのか?
 物語はダリの歪んだ時計のように、いつの間にか次の物語へとつながっているため、読者は時空の歪みの中を主人公と共に旅をすることになります。

<アンナ・カヴァン>
 シュールレアリスティックでサイケデリックな独特の終末SFを生み出した著者アンナ・カヴァンは、ヘロインの常用者だったことが知られています。この作品が発表されたのが、サイケデリック・ムーブメントの頂点ともいえる「1967年」だったことを考えると、薬物の影響は無視できないようです。しかし、彼女が生み出した独自の世界は単に薬物中毒者が生み出した意味不明の世界とは思えません。そこには薬物の影響よりも、彼女自身が体験した様々な旅や療養生活の影響の方がより色濃く映し出されていると思えます。
 アンナ・カヴァン Annna Kavanは、本名をヘレン・エミリー・ウッズ Helen Emily Woods といい、1901年にフランスで生まれています。裕福な家庭ではあっても、子供に冷たい両親だったことで彼女は寂しい少女時代を送り、生涯精神的に不安定なまま人生を送ることになります。
 裕福な家族と共にヨーロッパ各地を転々と移住する生活を送った後、彼女はイギリスの女学校を卒業。その後、結婚すると夫とともにビルマに住み、その頃から小説を書き始めます。そして、結婚生活の二度の破綻や子供の戦死などの悲劇により、少しずつ精神を病んでゆくことになり、薬物への依存も始まります。そして、精神科の治療を受けるようになると自ら心理学について学びだし、多くの知識を得てゆきました。こうした体験が、後の作品に大きな影響を与えることになりました。
 さらに彼女の作品、特に「氷」に影響を与えたのが、彼女の様々な海外経験です。ジョセフ・コンラッド、ピエール・ブール、ディネセンジョージ・オーウェルマルグレット・デュラスJ・G・バラードなど多くのヨーロッパの作家たちが植民地での体験をもとに様々な文学史に残る傑作を生みだしたように、彼女もまた海外での体験をこの小説に盛り込んでいます。
 北欧スカンジナビアでの生活は、「氷の世界」そのものに生かされ、ビルマや南アフリカ、ニュージーランドでの体験も南の島の描写に生かされています。その他にも、彼女はアメリカのニューヨークに西海岸にも、彼女は住んだ経験があります。

<氷りつつある世界にて>
 今改めてこの小説を読み直すと、そこに描かれている「氷りつつある世界」は、そのまま現在の世界にもあてはまり、より現実味を帯びつつあります。もちろん、地球温暖化現象の進行からは「氷りつつある世界」ではなく「燃える世界」の方がリアリティーがあるのかもしれません。しかし、彼女が描いたのはけっして現実の世界のことではなく、彼女自身の心の中の世界はたぶんそれを読む読者の心とも同期しているはずです。
 人々の心の中の風景は着実に氷に覆われつつあるのではないか?そんな寒々としたイメージを彼女は自らの心の心象風景から生み出し、今や現実の世界がそのイメージにのみこまれようとしています。

 私は恐ろしいスピードで車を走らせる。まるで逃亡しているのかのように、逃亡できると装っているかのように。だが、私にはわかっている。逃亡の道はどこにもない。氷から、私たちを最後のカプセルに包み込んで果てしなくゼロに近づいていく時間の残余から逃れる道はない。

 オールディスは、「氷」のペイパーバック版(イギリス)の序文にこう書いています。
「彼女の描く災厄の被害者は、小躍りしてその災厄を抱きしめようともしないし、それから逃れようともしない。彼らは人生の一部としてそれを受け入れる」

 それまで、人類の終末に対し、立ち向かう姿を描いてきたSF小説は、この作品によって新たな段階へと進化したのかもしれません。
 彼女は、この小説がアメリカで出版される直前の1968年12月、薬物の過剰摂取によって命を落としています。


「氷 Ice」 1967年
アンナ・カヴァン Anna Kavan(著)
山田和子(訳)
サンリオSF文庫(1985年)、バジリコ(2008年) 

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