- 一原有徳 Yutoku Ichihara -

<一原有徳>
 版画家、一原有徳さんは、現代版画の世界では有名な作家さんですが、残念ながら一般的な知名度はそう高くはないかもしれません。しかし、先生が小樽出身で小樽で活動していたおかげで、僕は何度か直接お会いする機会がありました。それは僕が関わっていた小学生対象の版画コンクールのおかげでした。先生にコンクールの審査委員長をお願いしていたこともあり、僕は先生となんどもお会いすることになり、ご自宅まで伺うこともありました。
 ところが、当時僕は先生の作品をちゃんと見たことがなく、どれほど優れた作家さんなのかを知らずにいました。そのことを知ったのは、1998年に北海道立近代美術館で開催された「一原有徳・版の世界・生成するマチエール展」を見に行った時でした。
 40歳をすぎてから「美術」に目覚め、50歳を前にして版画家になったという意外な経歴。
 常に新しい手法を求めて、様々な工夫をこらした膨大な数の作品を生み出し続けたこと。
 登山家として山に挑み続け、遭難事故に会い、生死の境をさ迷った後、復活を果たしたこと。
 そして、彼が生み出した作品の数々が見る者の想像力を刺激し、単なる飾り物の美術品ではないことに驚かされました。
 さらに彼は、2010年10月1日に100歳でこの世を去るギリギリまで作品を作り続けました。生きる芸術ともいえる幸福な存在が、一原有徳という作家さんでした。

 現在、彼の作品の多くは2011年小樽市にオープンした市立小樽美術館の一原有徳記念ホールで見ることができます。そんなわけで、このページでは版画家、一原有徳の生い立ちと作家人生、そして作品のもつ魅力について、ご紹介させていただこうと思います。

<版画との出会い>
 一原有徳は、1910年(明治43年)に徳島県で生まれました。その後、北海道ニセコの山々のふもと真狩村に移住。1923年に小樽市に住むようになった彼は16歳の時、逓信省小樽貯金局に就職。彼はその仕事を60歳で定年退職するまで続けることになります。
 彼が芸術に触れたのは、版画ではなく俳句からでした。青春時代の彼は登山にも熱中、道内各地の山々を巡ることは彼にとって重要な趣味となります。意外な事に、彼と版画の出会いはかなり遅いものでした。1951年、41歳になった彼は初めて画家の須田三代治から油絵を学び、先ずは絵画と出会います。
 版画家への道を歩み出すことになるのは、1958年に版画家のい河野薫と出会ってからのこいとでした。この時、彼はもう48歳。しかし、版画家としての彼の成功は意外に早く、翌年1959年には日本版画協会展にいきなり入選すると、1960年には神奈川県立近代美術館が彼の作品を購入。東京画廊で彼は初の個展を開催しています。

<本格的な活動へ>
 当初は貯金局の地下に彼の作業場があり、そこで彼は作品の制作を行っていたといいます。職場で趣味を楽しむなんて、今なら考えられない話ですが、まだまだ日本はのどかな時代だったということでしょう。そんな環境のおかげで彼は生活に困ることなく作品作りは、小さな町工場並みの設備は巨大化してゆくことになります。
 1970年、彼は貯金局を定年退職。いよいよ本格的にプロの版画家としての人生をスタートさせます。60歳からの再スタートというわけです。ところが、その翌年、彼は夕張山脈の登山中に右大腿骨を骨折して遭難。命は助かるものの3度にわたる手術を受けることになり、作家生命の危機を迎えました。3年にわたり版画家を制作できない期間が続きましたが、彼はその間も創作活動を続けます。
 文芸雑誌「楡」に小説「乙部岳」を発表。この作品は太宰治賞の候補になりました。
 1975年「北海道秀作美術展」に出品し、優秀賞を受賞した彼は再び版画界の第一線にもどりました。一度は命の危機、作家生命の危機に直面した彼は、その体験以後、版画制作にさらなる情熱を傾け、より大きな作品を制作する方向へと向かうようになります。高さは2mを越え、長さは7m近い作品まで制作されるようになり、版画の枠を超えた二次元の巨大オブジェ的なものとなってゆきます。

<特殊な作品技法>
 ここで彼の作品制作技法についても説明しておきます。彼の作品のもつ最大の特徴は、その思想性や題材の選び方にあるわけではありません。新たな手法、新たな素材、新たな触感を生み出すことこそが作品制作の狙いであり、その「挑戦的な精神」こそ、彼の作品から発散されている輝きの本質なのだと僕は思います。
 それだけに彼は常に新たな制作手法を求め続けていました。したがって、彼の作品の主役はその制作手法を可能にした素材や道具たちなのだといえると思います。彼は自らの作品が生み出す印象や込められたテーマについて聞かれることを好まず、そこに用いられている素材や道具について語ることを好んだということです。

(1)薬品を用いた溶融
 銅版やアルミニウム板のような素材に水酸化ナトリウムなどの溶液をかけ、それによって溶かすことで模様を生み出す。水滴、地図の等高線、地層などのイメージをこの手法で生み出すことができます。

(2)石版とインクを用いた印刷
 凹凸のある石版にインクをのせ、それをスクリッパーで拭き取ったものを紙などに転写する。この手法では一版一点が基本となるので「モノタイプ」ともいわれています。微生物や機械部品、ビルかが立ち並ぶ風景などのイメージが生まれます。

(3)加工した板による印刷
 トタン板や鉄板を叩いたり、バーナーなどで穴を開けたりしたものにインクをのせ、それを転写する。その他にも、機械の部品や石や鉄材など、様々なものを組み合わせ、それを用いれば無限に手法を生み出すことが可能だといえます。彼はかつて公務員として勤勉に働いていた時代と同じように毎日毎日コツコツと作品を作り続け、その創作活動は死のギリギリまで続けなれたといいます。

(4)熱した金属を版として紙を焦がす印刷
 ボルトの頭、歯車、円盤などの金属を真っ赤になるまで熱し、それを焼き印を押す要領で紙に押し付けます。そうすると、紙が直接焦がされるだけでなく、そこから発生する熱によって、紙に熱放射の模様が刻印されます。それはまるで太陽のコロナのようだったり、生命のエネルギーが爆発したようにも見えますが、予想不能のアドリブ作品であることは間違いありません。これもまた一原有徳が探していた新たな版画手法となりました。

 ちなみに、それだけ自由に死ぬまで作品を作り続けることができた影には、御家族の大変な苦労があったこともチラッときいています。それはそうでしょう。自由奔放に創造作業に適するのに世事に関わってなどいられません。その環境を確保するために、どれだけ周りの方々が苦労したことか・・・。
 96歳になり、病院に入院した後も、病室でインクをまき散らしながら仕事をしていたといいます。100歳で亡くなるまで、彼の頭の中は次の作品のイメージで一杯だったのでしょう。これぞ真のアーティストです!
 ただし、そんなことは作品とはなんの関わりもないこと。だからこそ、素晴らしい美術作品は人に他のことを忘れさせるだけの力を持ちうるのです。

<オリジナル・タイトルをつけよう!>
 一原先生の作品展では、ついつい作品にタイトルをつけてしまいます。たぶん誰もがそんな気になると思います。元々先生の作品にはアルファベットと数字による記号としての作品名しかないので、それぞれ見る人がタイトルをつけることは、正いことだと思います。
 見る者それぞれにイメージを喚起させる。これこそが芸術のもつ最大かつ唯一の役割のはず。創造性のかけらもない完璧な作品や楽しむためにすべてのお膳立てをそろえたバーチャルなゲームとは対極に位置する存在こそ一原有徳の世界です。
 ちなみに僕がつけたタイトルにはこんなのがあります。
「ザ・ロード - 終末世界を歩む旅にて -」
「暗黒星雲をのぞむ」
「カサブランカ・シティ」
「天空に最も近い天文台へ上る道」
「アンモナイトの眠り」
「バベルの塔の内壁を望む」
「クラインブルーの宇宙にて」
「太古の海」
「石の歴史」
「イルカたちの向かう先」
「火星探査基地第一号」
などなど。
 いかがでしょうか?見たくなりませんか?
 そう思いの方は、是非一度小樽にお越し下さい。そして、小樽市立美術館へどうぞ!制作現場の様子もよくわかりますので、是非!

<「日曜美術館」2017年5月21日>
 「日曜美術館」で一原さんの特集が放送されました。いかに凄い作家だったのか、これでご理解いただけたかもしれません。かく言う僕も、改めてその偉大さを知ることができました。いかに彼が偶然性、既成イメージの排除、新しさを求め、挑戦を続けていたのか。そのこだわりは、まるでパンクの魂のようであり、シュルレアリストのようであり、ボブ・ディランの世界であり、ビートニクたちの人生のようでした。その挑戦の場が、東京でもなく、パリでもなく、バルセロナでもなく、北海道の小樽だったというところに、誇らしさを覚えます。もう少しお話しておけば良かったなあ、と後悔もしています。
 いやあ、それにしても一原有徳これで21世紀に再びブレイクしちゃうんじゃないですか?ちなみに我が家には、彼の作品が一つだけあります。まさにお宝ですよ。大事にしないと・・・。

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