- 市川準 Jun Ichikawa -


<2015年5月大幅追記>

<邦画危機の時代を救った職人監督>
 1980年代から1990年代にかけて、日本の映画界はもっとも厳しい時期にありました。現在のようにDVDや映像配信など、複合的に映画で稼ぐ方法がなかった当時、映画界はヒット作を連発しなければ利益を上げることは困難でした。そのうえ、多くのベテラン監督が引退する中、日本の映画界はそれまでのシステムが崩壊し、助監督として修行を積んだ後に監督になるということが困難になりつつありました。
 そんな状況の中、当時の映画界における数少ない逸材は、映画界ではなく異業種からの転向組みでした。大林宣彦、伊丹十三、和田誠、北野武などはその代表的な監督たちで、市川準もその一人でした。残念ながら、彼の作品はどれも小品で、商業的にもそれほどヒットせず、映画史に残るほどの傑作もないのかもしれません。映画ファンの中でも、彼の存在を知らない人は多いでしょう。レンタルDVDにも彼の作品は少なく、今後もなかなか見直す機会はないのかもしれません。
 しかし、彼の作品は当時としては珍しく海外の映画祭で高く評価され、日本映画の素晴らしさを国外に広める役目を果たしました。その後、映画界は復活してゆきますが、その間映画危機の時代に輝きを放ち続けた数少ない監督の一人だったといえます。実際、1980年代には多くの映画ファンが日本映画はもうだめだと言い、邦画を見なくなっていました。失礼ながら僕もその一人でした。
 残念な事に、彼は60歳を前にこの世を去りましたが、まだまだその評価は低いままのように思います。僕もそれほど多くの作品を見ていないのですが、個人的に彼の作品は大好きです。今後、彼の再評価を望みたいと思います。

<CM界の寵児>
 市川準 Jun Ichikawa は、1948年11月25日東京に生まれ、少年時代を東中野、神楽坂で過ごしました。画家、もしくは漫画家を志していた彼は、東京藝術大学に入るため4浪までしましたが、入学を果たすことはできませんでした。それでも、美術系の専門学校に入学した彼は、そこで映像について学び、8mmや16mmの自主制作映画を撮り始めます。
 1975年、CM制作会社キャップに入社した彼は、そこでCMの企画、演出を担当。当時から彼の絵コンテの上手さは飛び抜けていたようです。
 1981年にフリーになった後、1984年に市川準事務所を設立します。この後、彼は数多くのCMのヒット作を世に出して行くことになります。彼にとってCM制作の仕事は、映画という浮き沈みの激しい仕事に対し、確実に収益を上げることができるライフ・ワークとなっただけでなく、時代の先端を知るための武器として多い役に立ちました。だからこそ、彼はその仕事を生涯続け、400本以上のCM作品を制作し、様々な賞を獲得しています。こうしたCM界での確実な収入の確保と周りからの評価を得ることができたおかげで、彼は年平均1本という当時としては異例のハイペースで映画を撮ることが出来たのでした。
<CM界での活躍>
<1985年> 「トンボ・モノボール」のCMで第32回カンヌ国際広告映画祭金賞を受賞
<1986年> 「金鳥ゴン」のCMのキャッチ・コピー「亭主元気で留守がいい」が日本流行語大賞銅賞受賞
<1987年> 「サントリーオールド」の「ワン・フィンガー、ツー・フィンガー」が日本流行語大賞大衆賞受賞
<1992年> 「ダスキン」の「きんさんぎんさん」がカンヌ国際広告映画祭フィルム部門銀賞受賞
<1994年> 「タカラ・カンチューハイ」の「スッタモンダがありました」が日本流行語大賞大賞受賞
 その他の代表作には、「禁煙パイポ・私はこれで会社を辞めました」、「ヤクルト・タフマン」シリーズ、「エバラ焼肉のタレ」シリーズ、「三井のリハウス」、「大鵬薬品・ソルマック」シリーズ、「NTTドコモ・ケイタイ家族」シリーズ、「味の素・ほんだし」シリーズ、「学生援護会DODA」シリーズ、「レナウン通勤快足」・・・
 1987年の監督デビュー以降、彼は映画監督として毎年1本ペースで映画を撮り続けてゆくことになりますが、コンスタントに映画を撮り続けるためにも、当面の資金稼ぎとしてCMの仕事は止めませんでした。逆に、短い時間に多額の制作資金をつぎ込めるCMの撮影から、映画のヒントとなるアイデアを得ていた部分もあったかもしれませんが、そこには複雑な思いもあったのでしょう。

 描きたくない映像が、ひとつある。
 それが現実だし、描いてみればたしかに現在の幸福な家庭の構図というものにもなり得るのかもしれないけれど、リビングルームで、大きな広めのソファーに座って並んでテレビを見ている家族というものを、描くのがとても嫌だ。
 家族がそろって視線を注ぐに足るほどの、どんな情報も、映像も、今、テレビから流れているような、気がする。

市川準

 「静かなる反逆児」、僕はそんなイメージを市川監督には感じています。

<映画界へ>
 こうして彼はCMの世界で実績を積み上げ、その評価の高さから映画界から監督のオファーが来ることになりました。それが彼のデビュー作「BU・SU」です。この映画によって、主演の富田靖子は、アイドル女優から演技派女優へと歩み出したとも言われ、その後、彼はアイドル女優を演技派女優に変身させる仕事人とも言われるようになります。2作目の「会社物語」では一転してサラリーマンを主人公にした人間ドラマを撮り、これもまた高い評価を受けることになります。
「BU・SU」(1987年)
 (脚)内館牧子(撮)小林達比古(音)板倉文(出)富田靖子、丘みつ子、大楠道代、伊藤かずえ

 簡単にいえば、「BU・SU」と「会社物語」はほとんど同じ方程式で描かれている、ということです。デビュー作で使った方程式をそのまま第二作目に応用する。これは高度に完成したフォームを持った人にしかできない芸当です。・・・ 
 音楽で言えば音階のようなものでしょうか。ブルーノートとか。物語のヒストグラム、軌跡の美学です。映画と数学的に観た時の美しさです。

岩井俊二(当時、彼が方程式を持っていると思う監督は、この市川準と宮崎駿の二人だけでした)

 この映画も含め、市川作品のほとんどの撮影を担当したのが、小林達比古です。彼が収めた様々な映像なしに市川監督の作品は成り立たないともいえます。

 市川さんが常に考えていたのは、いかに現場で自由になれるかです。市川さんは、その時の状況に応じて切り口を変えることが出来る監督でした。・・・
 例えば、フィルムは普通本番から回すのですが、市川さんの場合は、テストの段階から実際にフィルムを回すことがありました。本番とは違う役者の意外な表情やしぐさを捉えたかったのだと思います。

小林達比古

<映画界での活躍>
 彼は当時元気が無かった映画界に大きな貢献を果たしています。そのひとつめは、アイドル女優を映画女優へと変身させる優れた手腕によるものです。
 彼が成長させたと言われる女優たちとしては、「BU・SU」の富田靖子、「つぐみ」の牧瀬里穂、「東京兄妹」の栗田麗、「大阪物語」の池脇千鶴、「東京マリーゴールド」の田中麗奈、「トニー滝谷」の宮沢りえ、「あしたの私のつくり方」の成海璃子と前田敦子などがいます。
 どちらかといえばテレビ界のアイドル女優だった彼女たちは、この後、映画女優としてその実力を発揮して行くことになります。

 さらに彼の映画界への貢献として重要なのは、大ヒット作はないものの質の高い作品を着実に発表し続けたことにあります。中でも高い評価を受けた作品としては。
「つぐみ」(1990年)
 (脚)市川準(撮)川上皓市(原)吉本ばなな(音)板倉文(出)牧瀬里穂、中島朋子、真田広之、白島靖代、あがた森魚、高橋源一郎
 牧瀬里穂を一躍演技派女優へと変身させたこの作品の原作は、吉本ばななの大ベストセラー小説。彼はこの後も優れた作家の小説を映画化することで、キラリと輝く作品を次々と世に送り出してゆきます。この作品は、毎日映画コンクールと報知映画賞で監督賞を獲得。僕は、この映画で市川準の魅力にはまりました。
 僕はこの映画で市川準作品のファンになり、牧瀬里穂のファンになりました。青春の輝きと痛みが見事に描かれた名作だと思います。

 都会育ちだから、「郷愁」という感覚が、本当のところよくわからないのだと思う。でも「かけがえのない」という感覚は、よくわかったのだ。かけがえのない日々。かけがえのない時間。そのかけがえのなさを描けたら、と思った。
 いつ消えてしまうかわからない、かけがえのないものがあって、それが発する、強い「生命力」というものがあるような気がした。いろんな不可能にいらだち、いろんなことに命がけであるような女の子のきらめきと、そのきらめきに心を動かされるものたちの、視線が描けたら、と思った。

市川準「つぐみ」プレスシートより

「病院で死ぬということ」(1993年)
 (脚)市川準(撮)小林達比古(音)板倉文(出)岸辺一徳、山内明、塩野谷正幸、七尾伶子
 初期の彼の代表作であるこの映画は毎日映画コンクール監督賞、日本映画批評家協会作品賞を獲得。さらに海外でもオルレアン映画祭の日本映画ビエンナーレでグランプリを獲得し、海外でも彼の知名度が高まることになりました。

 市川さんの映画でいちばん好きなのは「病院で死ぬということ」かな。病室のシーンの合間に日常のシーンがインサートされてるでしょ。休日に奥さんとスーパーマーケットへ買い物に行ったり、サラリーマンが居酒屋で飲んでいたり、帰りの通勤電車で揺られていたり。そんな何でもない日常がどんなに有り難いことか、たとえいいことふがなくても普通に暮らせることがどんなに有り難いことか、インサートが繰り返されるうちにだんだんわかってくるんやね。あれは仏さんの世界に近いんとちがう?
堀井博次(電通CMプランナー)

 思えば、僕の大好きなNHKのドキュメンタリー番組「ドキュメント72時間」を映画の中でいち早く取り入れていたのが、市川準だったのかもしれません。どこにでもいる普通の人々の日常にこそドラマがあるのです。

「東京兄妹」(1995年)
 (脚)(原案)藤田昌裕、猪股敏郎、鈴木秀幸(撮)川上皓市、小林達比古(音)杉浦由記(出)緒方直人、栗田麗、手塚とおる
 東京を舞台に兄妹の静かな日常を描いたこの作品は、ベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞。主演の栗田麗は、この作品で一躍その名を海外にまで知られることになりました。

「東京夜曲」(1997年)
 (原)市川準(脚)佐藤伸介(撮)小林達比古(音)清水一登、れいち(出)長塚京三、桃井かおり、倍賞美津子、上川隆也
 都内の小さな商店街に住む人々の生活を描いたこの作品は、モントリオール国際映画祭で最優秀監督賞を受賞。長塚京三、倍賞美津子、桃井かおりなどの俳優たちによる大人向けの人間模様を描いたこの作品は、地味ながら高い評価を受けました。

「竜馬の妻とその夫と愛人」(2002年)
 (脚)(原)三谷幸喜(撮)小林達比古(音)谷川賢作(出)木梨憲武、中井貴一、鈴木京香、江口洋介、橋爪功
 三谷幸喜の舞台劇を映画化した異色作。竜馬の暗殺から13年後、彼の妻おりょうを中心とする恋愛喜劇。出演は、木梨憲武、中井貴一、鈴木京香、江口洋介など豪華な顔ぶれでした。

「トニー滝谷」(2004年)
 (原)村上春樹(脚)広川泰士(撮)坂本龍一(出)イッセー尾形、宮沢りえ、篠原孝文
 村上春樹の小説は、本人の承諾を得ることが難しいこともあり、ごくわずかした映画化されていません。その数少ない作品のひとつで、イッセー尾形、宮沢りえ主演のこの作品は、彼の作品らしいスタイリッシュで静かな作品として高い評価を受け、ロカルノ国際映画祭では国際批評家連盟賞を受賞しました。彼の映像センスが「村上春樹ワールド」という「クール・ジャパン」を代表する存在と共通するセンスを持っていることがこの作品で証明されたといえるでしょう。この映画の原作となった「トニー滝谷」は村上春樹の短編集「レキシントンの幽霊」に収録されています。


<東京愛、都会愛>
 彼の作品は、「東京兄妹」、「東京夜曲」、「東京マリーゴールド」の東京三部作に代表されるように「東京」など大都会とその片隅に住む人々への愛のあふれています。こうして都会で生活する人々の姿を描き続けた彼の作風は、小津安二郎を思い出させます。

 現代の物語なのに、小津安二郎や成瀬巳喜男の映画で描かれたような昭和30年代の風景が再現されてゆく。市川準は、バブル経済によって激変した東京に背を向けて、あえて近過去の面影を残す小さな町を愛惜の思いを込めて描いてゆく。・・・それは東京の町を強引にかえてしまおうとする強大な力へのささやかな抵抗でもある。・・・
川本三郎

 「トニー滝谷」における買い物を止められない主婦(宮沢りえ)のオシャレな衣類。オシャレ・ファッションの発信地バーニーズを舞台にしたドラマ「春、バーニーズで」(2006年)など、最新ファッションを取り入れた作品の数々は、CM業界を愛し続けた彼ならではのものですが、思えば小津安二郎も当時の最新ファンションや文化、グルメを常に取り入れる都会派の監督でした。
 彼の作品が、海外で高く評価される理由のひとつには、小津安二郎の作品のような淡々とした日常描写と同時に、ジャパン・ブームの発信源「東京」の今を見ることができることにもあるのかもしれません。日本映画の中でも彼ほど「クール・ジャパン」を描き続けた監督はいなかったからです。

「トキワ荘の青春」(1996年)
 (脚)市川準、鈴木秀幸、森川孝治(撮)小林達比古(出)本木雅弘、阿部サダヲ、古田新太、生瀬勝久、鈴木卓爾
 彼の代表作とも言えるジャパニメーションの原点ともいえる「トキワ荘」に住む漫画家たちの青春群像劇。この作品には、石森章太郎、赤塚不二夫、手塚治虫、つのだじろう、藤子不二雄らが登場。今や世界中から高い評価を得ているもうひとつの「クール・ジャパン」の原点を彼が映画化していたというのも、偶然ではなかったのかもしれません。

 市川さんは、例えて言うなら、「温かい風」でしょうか。市川さんの好きなアッバス・キアロスタミ監督の言葉に、 - 映画は私たちの夢なのだ。それは暗い人生に向かって時折開かれるひとつの窓なのだ - というのがありますが、市川さんは、その窓から優しく吹き込む温かい風のようです。
 そして人を見る歓びに溢れた映画。人を見る歓び、それは市川さんそのもののような気がします。・・・

本木雅弘(主人公寺田ヒロオ役)

「あしたの私のつくり方」(2007年)
 (原)真戸香(脚)細谷まどか(撮)鈴木一博(音)佐々木友里(出)成海璃子、前田敦子、高岡蒼甫、近藤芳正、田口トモロヲ
 今、大人も子どももサバイバルゲームを生きているんだと思うのですが、とても狭いなかで戦ったり競争したりしている。だからみんな孤立して、仲間を作れない。誰かを一緒にいじめて、血祭りにあげることでしか一体感を持てないでいる。でも、そんなサバイバルゲームに負けちゃいけない。辛い状況にあるかもしれないけれど自分が自分であることを引き受けろ、自分に、負けるな、自分を見捨てちゃいけないということを伝えたかったんですよ。そして観終わった後、世界はもっと広いんだと気付いてもらえるような作品にしたいと思って作りました。
市川準「あしたの私のつくり方」インタビューより

 成海璃子と前田敦子の二人を一躍演技派へとステップ・アップさせた作品。前田敦子がAKB48を卒業する最大の原因はこの作品にあるのかもしれません。それほど、この映画では彼女の魅力が引き出されていました。この作品の撮影中、彼はもう一本の映画を自らカメラを回して撮りました。それが彼にとって最後の作品となった中編自主制作映画「buy a suit スーツを買う」(2008年)です。彼は、この映画の編集を終えた直後、2008年9月19日に脳内出血で食事中に倒れ、そのままこの世を去りました。まだ59歳という年齢でした。惜しい!
 まるで、自分の死ぬ時を知っていたかのように、あわてて一本作品を撮り終えたのですが、すでに次回作「ヴィヨンの妻」の製作準備が進んでいました。彼の死後、根岸吉太郎監督がこの作品を完成させることになります。

 少ないセリフと固定カメラによるドキュメンタリー・タッチの映像、定点観測的に都会生活をとらえる手法は、まさに「市川準」スタイルでした。これから、まだまだ多くの作品を撮ることができただけに、本当に惜しい監督を亡くしたと思います。
 僕も、なんだかんだいって「東京」の街が大好きでした。市川監督とともに、昭和の東京にお別れしたいと思います。

 いい映画の中の、よく描かれた人物は、いつも、宿命的にその映画の風景を、しょってしまっている印象がある。
 映画には、だからそういう「人と風景」の関係を、封印しているような、どこか特権的な力があるのだ。
 ジョン・フォードやフェリーニの風景があるように、小津安二郎や黒澤明の風景がある。・・・・・
 自分がひっぱって行く「風景」とは、なんなのか、と考えてみる。
 都会育ちだし、東京の中を、けっこうウロウロ引越しをくりかえした。・・・・・
 きっと、そうなのだ。
 ひとが、ふるさとの海や山を見て、ほっとするように、都市の稜線の見える場所で、ほっとする自分がうるのだ。
 だから僕の映画には、ほとんど無意識に、とりとめなくひろがる都市の全景の映像が、必ずあらわれる。

市川準

 映画を作っていると、いつも自分の「ぎりぎり」について考えているな、と、思う。
 自分のぎりぎり許せることと、自分のぎりぎり許せないことの、分水嶺を、知らないうちに探しているのが、どうも「映画を作る」ということのようなのだ。
 その「ぎりぎり」を探す、ということの中に、映画の、不定形な、何が生まれ出てくるかわからない面白さがあると思う。

市川準

<参考>
「市川準 Jun Tchikawa」
 2009年
(企)(編)工藤隆
河出書房新社

20世紀邦画劇場へ   トップページへ