- イチロー Ichiro Suzuki -

<世界のイチロー>
 ワールドベースボール・クラシックでのイチローの活躍によって、イチローに対する評価はずいぶん変わった気がします。それまでのイチローは、アメリカ人よりもアメリカ人的で、どこまでもクールなキャラクターの持ち主。日本野球の象徴的存在ではあっても、「日本人的な人間」とは考えられていなかったし、まして日本の代表として「君が代」を歌う愛国心の持ち主というイメージはなかったように思います。
 そして、今では日本の小学生が読む偉人伝の中で男子のナンバー1は「イチロー伝」なのだそうです。(2011年、ちなみに女子の1位は「ヘレン・ケラー伝」なのだそうです)そんなわけで、ここではイチローの生い立ちから、イチローのアメリカ進出にスポットを当てようと思います。野茂英雄の活躍によって開かれたメジャーへの道を歩み、ついには世界のトップにまでたどり着いた男の物語です。しかし、彼の人生を見ていると、同じ時期に日本が歩んだ歴史的変化と切っても切り離せないことに気づかされます。そこには、20世紀後半の日本人の変化を見ることもできそうです。

<鈴木一朗少年>
 イチローこと、鈴木一朗は、1973年10月22日名古屋市郊外の豊山町で生まれました。父親がアマチュアの野球選手だったこともあり、彼の野球との出会いは早く、3歳の時にはプレゼントされたグローブでキャッチ・ボールをしていたといいます。7歳の時、地元の少年野球チームに参加し、本格的に父親から野球の指導を受けるようになりました。
 プロ野球の選手を目指していた一朗少年は、チームの練習が終わった後、夕食後に毎日バッティング・センターに行き、打ち込みをするようになります。毎日の打ち込むことで、彼は3年生で105キロのマシンを完全に制覇。6年生の時には、センターにあった最速の120キロのマシーンも制覇してしまい、そのマシーンを改造してもらいスピードを128キロにアップしてもらったといいます。そして、15歳の時には、さらにそのマシーンを前に移動してもらい、設定を150キロにまで上げてもらったといいます。それでも彼はそのボールを打ち返してしまいました。
 ちなみにイチロー独特のゴルフ・スウィングのような打ち方は、彼の父親がゴルフ好きだったことから、誕生したと言われています。その打ち方だと、ゴルフ・スウィングならではの体重移動がそのまま走りにつながり、一塁へより早く到達できると考えてのアイデアでした。後に「チチロー」と呼ばれるようになる父親がその頃、彼に教えた四つの原則は、その後も彼にとって重要な道しるべとなります。それは、「努力」「根性」「忍耐」「融和」を大切にせよという教えでした。当時の二人はまるで、星飛馬と一鉄の関係を思わせる父と子でした。
 小学校6年生の時、彼は作文にこう書いています。
「僕の目標は一流のプロ野球選手になることです。それだけの練習はしているのでなれると思います。中学、高校で活躍後、中日ドラゴンズか西武ライオンズに入団するのが夢です。ドラフトの契約金は1億円以上が目標です。・・・」
 この頃、彼はすでにファンのために、サインの練習をしていたというのですから、大したものです。
 1985年、彼は中学に入学します。入学の際、一朗の父、宣之は野球部の監督に二つ条件を出したといいます。
「イチローのバッティング・フォーム」だけはいじらないでほしい」
「いくらいいプレーをしても、決してほめないで下さい」
 そして、父は毎日毎日練習を見学に行ったといいます。

<低い評価でのプロ入り>
 中学卒業後、彼は地元名古屋の愛工大名電高校に進学します。新興の名門校、愛工大名電高校の野球部のメンバーは51人。そのうち、練習に参加できるのはわずか17人という狭き門にも関わらず、彼はすぐにそのメンバーに選ばれました。こうして始まった彼の高校時代の通算成績は、打率が502、ホームラン19本、打点211、盗塁131。さらに彼は536の全打席中、三振はわずか10。そして、そのうち空振りの三振は0という驚異的な記録を残しています。
 ちなみに、彼はピッチャーになる可能性もありました。自転車事故で怪我をしたことでピッチャーになることをあきらめたといいます。彼がオール・スター戦かなにかでマウンドに上がり140キロのスピード・ボールを投げてみせたのは有名な話です。しかし、これだけ個人としての活躍はあり、甲子園出場を果たすものの、残念ながらチームは早々と敗退し、彼は甲子園でほとんど注目されることはありませんでした。それでも、甲子園での彼の通算成績は、打率625と驚異的だっただけに、ドラフト会議では彼への指名は確実と思われていました。
 ドラフト会議での彼への指名は、意外な事に4巡目の8番目。44人目の指名でした。指名したのは、当時は弱小球団だったオリックス・ブルーウェーブ。契約金は、1億には程遠い、4000万円でした。なぜ、評価が低かったのか。それは彼の体格が、身長173センチ、体重59キロと非常に小柄軽量だったことからプロ選手には向かないと判断されたからと言われています。

<プロでの苦悩>
 彼が入団したオリックス・ブルーウェーブの当時の監督は土井正三。巨人V9時代のセカンドで、誰よりもセオリーを重視する地味な監督でした。彼の元で鈴木一朗は1992年一軍に昇格。しかし、打率は266といまひとつだったため、彼は二軍に戻されます。独特の振り子打法を改造すればもっと打率は上がるはずと指摘され、彼は無理やりフォームを改造され一軍へ復帰します。ところが、その年の彼の成績は、43打席で打率188という低打率に終わりました。この結果に彼は監督に直談判、自分のフォームで打たせてもらえないなら二軍から上がれなくてもいいと宣言。彼の将来は風前の灯となりました。
 幸いにして、1994年、オリックスは成績不振を理由に土井監督を解任します。そして、代わりにやって来たのが、かつて野茂英雄を育て近鉄を優勝に導いた名監督仰木でした。
 球界に残る最後の西鉄式豪放磊落野球の指導者でもある新監督は、一朗選手に自由に打つことを認めます。そのおかげで、彼の打法は、思い通りの形に近づき当然結果もともない始めます。(イチロー同様メジャーで大活躍した長谷川投手もまた、仰木監督の教え子であることは偶然ではないはずです。仰木監督無くして、日本野球のメジャーでの成功はなかったのかもしれません!このことはもっと指摘されてよいはずです)

<「イチロー」誕生!>
 1994年、彼の個人成績は、130試合に出場してヒットは210本、打率は385。打率はパリーグ新記録で、一シーズン200安打を超えたのは日本人初の快挙でした。(ホームランは13本、打点は54、盗塁は29でした)さらに彼は守備の上手さも評価されゴールデングローブ賞も獲得。当然、彼はパリーグのMVPに輝きました。ちなみに、「イチロー」の愛称は、この年誕生しています。「鈴木」という名前はあまりに多すぎるということで、当時の荒井コーチ、仰木監督が薦めたもので、初めイチローはその呼び方が嫌だったそうです。
 1995年、オリックスはイチローの活躍もあり12年ぶりの優勝を果たし、彼はパリーグのMVPも獲得。個人成績は、打率が342、打点80(パリーグ1位)、ホームラン25本、盗塁49。どれをとっても素晴らしい成績でした。この年は、阪神淡路大震災の年でもあり、彼とオリックスの活躍は地域の復興の支えにもなりました。
 1996年、二年連続してパリーグを制覇したオリックスは日本シリーズで巨人を破り、ついに日本一に輝きました。もちろんイチローはMVPを獲得し、打率も356も記録しています。
 この後のイチローは、3番打者として、1997年打率345、1998年が358、1999年が343、2000年が387を記録。7年連続首位打者として通算打率は353を記録しています。その他、印象深いのは、1999年216打席三振ゼロの記録を作りましたが、それは約2ヶ月間、三振をしなかったということです。2000年には、シュート・バウンドになったフォーク・ボールを打ち返しヒットにするなど打てない球はないという次元に到達。「安打製造機」というあだ名から「怪物」へと進化をとげていました。

<プロ野球界の変化>(追記2013年8月)
 1990年代に入って、パリーグの野球は大きな変革期に入ろうとしていました。その最大の原因は球場の拡張でした。オリックスの神戸グリーン・スタイジアムは1991年に、千葉マリン・スタジアムは1992年、福岡ダイエー・ホークスの福岡ドームは1993年にそれぞれ大きくなりました。それにより、選手に求められる野球の能力も大きく変化することになりました。それは広いグラウンドに対応するためのもの、走力、守備力、打撃力(足、肩、打力)です。そして、イチローはそんな時代の申し子として活躍することを運命づけられることになります。もちろん、その能力はそのままメジャーで活躍するための必要条件でもありました。

<メジャーへの挑戦開始>
 元々メジャー挑戦が夢だったイチローは早くからその夢を語っていましたが、チームの首脳陣は彼を手放したくありませんでした。しかし、仰木監督はイチローの気持ちを知っていただけに彼の移籍を止めることに罪の意識を感じていたといいます。そんな中、ポスティング・システムを利用してイチローを移籍させる方が有利と考えたオリックスは2000年、ついにイチローの海外移籍を認めます。

<ポスティング・システム>
 フリー・エージェントになる前に移籍先のチームが所属チームに対して移籍金を払うことで移籍を可能にするシステム。ただし、選手に移籍先の選択権はなく、希望するチームが入札を行い最も高額の移籍金を提示したチームが交渉権を獲得することができるというもの。フリー・エージェントだと選手は好きな行き先を選べるが、チームにお金は入ってこない。そのため、フリー・エージェントの権利を得る前にポスティングで選手を移籍させる例が多くなっています。

 当時、イチローの名前は海外でも知られていましたが、身体が小さいだけにパワーも長いシーズンに必要な耐久力も足りないのではないかと不安視されていました。それだけでなく、当時はまだ日本人野手が誰もメジャーで成功していないという事実がありました。シアトル・マリナーズは当時日本の企業ニンテンドーがオーナーだったこともあり、イチローの獲得には積極的でしたが、どこまで期待していたのかは疑問です。
 イチローはそうした周りの不安を払拭するべく、シーズン・オフに肉体改造に挑戦。ウェイト・トレーニングを徹底的にこなし、9キロの体重増に成功。さらに、彼の足の速さを見たマリナーズ監督のルー・ピネラから、ころがしてヒットを量産しろというアドバイスに従い、徹底的にゴロをころがす打法を実践してゆきます。そのおかげで、彼はシーズンが始まると同時にヒットの量産を開始します。この年、彼は打率350で首位打者となり、年間の安打数は242本(そのうち内野安打は59本)得点は127、盗塁56(アメリカンリーグのトップ)。彼はアメリカン・リーグのMVP、新人王、ゴールド・グラブを受賞。彼はアメリカ中にイチロー旋風を巻き起こし、野球という競技の原点を再び多くのアメリカ人に思い出させました。

「イチローのプレーはわれわれに、一世紀前を彷彿とさせる。まだテクニックが存在しなかった、昔の打ち方を思い出させる」
トマス・ボズウェル(ワシントン・ポスト記者)

 さらに彼は日本人が育ててきた武道としての野球をメジャーに持ち込むことで、アメリカ人に古き良きアメリカ野球を思い出させることになったともいえます。

「どうしてもっと自分の道具を大事にしないのかなあ。道具がちゃんとしていなければ、いいプレーもできないし、進歩もしない。グローブを磨くということは、心を磨くことなんだ。・・・」
イチロー

<イチローという日本人>
 「イチロー」という人間は、日本人の中でも、やはり特殊な存在なのでしょうか?イチローがアメリカに渡り活躍を始めた当初は、そう考えるのが普通でした。彼は限りなくアメリカ的なサムライなのだと。しかし、日本が小泉純一郎の旗振りで経済のグローバル化を推し進めていった20世紀末、イチローの存在はけっして特殊なものではなくなりました。サッカーの世界でも中田のような特殊な存在がいましたが、サッカー界は海外移籍はごく普通のことなので、出る釘はいくらでも海外進出することは可能でした。しかし、プロ野球の世界はそうはゆきませんでした。
 改めて考えてみると、イチローを特異な存在として目立たせたのはプロ野球界が特異な世界だったからなのかもしれません。それは野球というスポーツが日本において「ベースボール」とは異なる「野球道」という「武道」の一ジャンル的存在として発展してきたことが原因なのでしょう。
 アメリカでのイチローの活躍は、日本のプロ野球のもつ、才能を生かしきれない古い体質を浮き上がらせたと同時に日本野球のもつ「努力」や「精神的鍛錬」、「集中力」の重要性を証明したともいえます。
 2011年、イチローの年間200安打はついに途絶えました。きっと彼はまだ現役を続けると思いますが、いつかは引退するはず。その時、彼はその後の道をどう選ぶのか?興味があります。彼のようにメジャーで活躍した選手が日本で指導者として活躍できる時代はいつ来るのか?未だに張本勲のような時代遅れの解説者がどうどうとテレビに出ているのですから、日本の野球界はそう簡単に変わるとは思えません。それでも、チームのオーナーが若い年代に変わりつつあるだけに近い将来大きな変化がありそうな気がします。

「成功という言葉は嫌いだし、記録、記録と騒がれるのも嫌いです。記録とは、だれかが別の人間のより優れている、という意味ですから。みんな、記録で選手を比較したがる。記録に価値がないとか、重要でない、と言っているわけではありません。一番大事なのは、ベストを尽くしたかどうかです。準備をしっかりして、全力を出しきったかどうかです。準備もせずに記録を出したら、満足できるわけがない。・・・」
イチロー

<その後のメジャー・チャレンジ>
 2000年、佐々木主浩、シアトル・マリナーズへ
 2001年、新庄剛志、ニューヨーク・メッツへ
 2002年、新庄がサンフランシスコ・ジャイアンツのメンバーとしてワールドシリーズ出場(日本人初)
 2002年、石井一久、ロサンゼルス・ドジャースへ
 2003年、松井秀喜、ニューヨーク・ヤンキースへ
 2003年、トレイ・ヒルマン、日本ハムの監督に就任。ヴァレンタイン監督がロッテに復帰
 2004年、松井稼頭央、ニューヨーク・メッツへ
 2004年、大塚晶則、サンディエゴ・パドレスへ・・・・・・・・
 2012年、ダルビッシュ、テキサス・レンジャースへ

<追記>2012年4月
 作家、エッセイスト、橋本治のエッセイ集「このストレスな社会! ああでもなくこうでもなく 5」(2006年)から、イチローについてのお言葉を選んでみました。

 やってることやってんだから、やったことで僕を判断してくれよ。それ以外は余分だろ。僕のやったことが判断出来なくて、それでなんでプロの記者なんだよ。なんでこの僕が、怠惰なあんたのために、分かりきったことを愛想よく解説しなくちゃいけないんだよ」と、そんな風にイチローは、愛想のよさを拒絶しているとしか思えない。

 イチローが国民栄誉賞を辞退したということは、すぐに忘れられる。もしかしたら、既に忘れられていたから、二度目の「国民栄誉賞への打診」ということになったのかもしれない。国民栄誉賞を辞退したということが忘れられて、「イチローがなにかすごい記録を作った」ということもすぐに忘れられて - 一年もすれば、「イチロー選手が2004年に作った記録はなんでしょう?」という、クイズの問題になるだろう - しかしイチローは、そんなことは関係なく、また新しいなにかをする。その時まで、人の記憶の中で、イチローは「忘れられたスター」になっている。そして、当人には、そんなこと関係がない。
 いいな。私の理想でもある。


・・・だから、イチローは「日本人としてすごいことをやった」であるのかも知れないけど、同時に、イチローがやったことは、日本人には関係のないことかもしれない。それは、日本人の方が、「イチローのあり方」を、自分から進んで共有しようとはしないからだ - そのことを忘れてしまっているから。

<追記>2017年1月
 イチローと名優、高倉健さんの共通点があります。それは二人とも、シーズン中(撮影中)に毎日カレーを食べていたことです。健さんは、わざわざレトルト・カレーを持ち込んでまで、ロケ地でもカレーを毎日食べ、それが体調を保つ秘訣だったということです。毎朝、カレーを食べるというイチローと同じです。

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