もう一人のゴジラの生みの親となった作曲家


「ゴジラ」、「大魔神」、「座頭市」・・・

- 伊福部昭 Akira Ihukube -
<究極の映画音楽「ゴジラ」>
 怪獣映画「ゴジラ」は、「物語」と「映像」の完成度の高さや「反核」、「環境保護」のメッセージ性から映画史に残る傑作となりました。しかし、「ゴジラ」が世界中の観客を惹き込んだのは、その映像のインパクトだけではなく、一度聞くと忘れられない迫力満点の音楽によるところも大きいはずです。
 この曲ほど、映像と音楽が結びついた作品も珍しいでしょう。それも、テーマ曲や主題歌ではなく、ある意味効果音的な役割の曲として、あれほど映画のイメージを決定づけた音楽は、他にちょっとありません。(ジョン・ウィリアムスの「ジョーズ」、バーナード・ハーマンの「サイコ」がそれに匹敵する音楽でしょう)
 そんな映画史に残る音楽を生み出した日本を代表する作曲家、伊福部昭について、僕はほとんど何も知りませんでした。しかし、彼について調べてみると、いろいろと面白いことがわかりました。
 例えば、「ゴジラ」とラヴェルの「ボレロ」が似ていること。そして、それには理由があること。さらに、その音楽のルーツに、彼の故郷である北海道の先住民であるアイヌ民族の音楽が影響を与えていること。それに、「ゴジラ」が原子爆弾から生み出された「放射能の怪獣」であるように、彼の人生にも放射能が大きく関わってました。
 「ゴジラ」を生み出したもう一人の人物、伊福部昭に迫ってみました。

<生い立ち>
 伊福部昭 Akira Ifukube は、1914年5月31日北海道の釧路市に生まれています。彼の実家である伊福部家の本家は、鳥取県国府町にある宇部神社の神官を平安時代から務めてきた由緒ある家柄です。彼の父親の利三はその家系の66代目にあたりました。ところが、利三はそんな長年続く伝統に縛られ続けることを嫌い、家を捨てて北海道へと逃げてしまいます。そして、警察官となった利三は、道東の中心地、釧路で警察署長となり、結婚後四女三男をもうけます。その末っ子が昭でした。しかし、警察官という仕事柄、頻繁に移動があり、彼は家族と共に根室、網走、札幌、帯広を転々と移動しています。やっと暮らしが落ち着いたのは、彼が9歳のころ、父親が警察を辞め、帯広の北にある音更町の村長となってからでした。彼は北海道各地での生活の中で先住民であるアイヌ民族の人々と出会い、様々な影響を受けたようです。
「村にアイヌの人たちの集落があり、よく遊びに行ってました。飼い犬が死んだ時、アイヌの古老が歌う歌を聞いて、震えるほど感動しました。聞けば題名もないし、二度は歌えない。つまり即興のバラードだったんですね。その時、素人の僕が作曲することは、ちっとも恥ずかしくないことだと思いました」
 後に彼が作曲することになる「シンフォニア・タプカーラ」(1954年)などの曲は、そうしたアイヌ民族からの影響によって生み出されたのでした。壮大で重厚な旋律の美しさと土俗的で民族的ともいえる音楽の原点は、3年間を過ごした音更での生活がもとになっているようです。
 北海道の田舎での暮らしとはいえ、父親が元々都会人だったこともあり、彼の家では、みんなが芸術に興味を持っていました。長男の宗夫はマンドリン、次男の勲はギターを早くから演奏していて、ヴァイオリンに興味を持っていた昭にも、父親が小学生の時にヴァイオリンをプレゼントしてくれました。利三は、その後札幌に引っ越し、彼は兄と共に北海道大学に進学します。

<音楽活動開始>
 北大に通いだした彼は、そこで音楽活動を続け、多くの音楽仲間と出会います。そして、クラシック音楽の中でもより新しいスタイルの作曲家の曲を演奏し、紹介する活動に熱中し始めます。この中で紹介したラベル、サティ、ストラヴィンスキーらの音楽は、その後の彼の音楽にも大きな影響を与えることになります。そして、その仲間たちの中にいた早坂文雄は、後に黒澤明の「七人の侍」や溝口健二の「近松物語」の音楽を担当し、彼に映画音楽の作曲家への道を紹介することになります。
 大学を卒業した彼は、道庁に就職し、地方林務課の森林官として道東の厚岸町で働き始めます。彼はここで5年半を過ごしますが、そのまま北海道に住み続けていたら、彼が作曲家として活躍することにはならなかったはずです。そんな彼に意外なところからチャンスがやって来ます。
 ロシア革命によって、多くのロシア人が海外に逃れ、その中の一人作曲家のアレクサンドル・チェレプニンは日本に亡命しました。彼は日本の音楽に興味を持つことになり、1935年、自ら日本の作曲家たちのためにチェレプニン賞を創設。公募作品をパリ在住の作曲家ジャック・イベールやアルベール・ルーセルらと審査を行うことにします。
 さっそく日本国内で公募が行われ、それを日本の事務局が審査し、ある程度しぼった後に楽譜をパリに送ることになっていました。伊福部はこの審査に自作「日本狂詩曲」を送りましたが、日本人の事務局員は当初、彼の作品をボツにしようとしました。それは彼の楽譜が西洋的なクラシックのものを無視したものだったからですが、北海道の田舎町から送られてきた無名の若者の作品に対する偏見もあったのでしょう。結局、彼の作品はフランスに送られることになり、その日本的な音楽性が高い評価を受け、見事にチェレプニン賞を受賞。一躍彼の名前は、音楽界に知られることとなりました。そのまま行けば、彼には作曲家としての未来が広がるはずでした。ところが、日本はドイツ、イタリアと共にヨーロッパの国々を敵にまわして戦争状態に入ってしまいます。
<戦争と放射能>
 戦争中、彼の兄、勲は木材の軍事利用のための研究に携わります。鉄鉱石の輸入が不足し、鉄の代わりとなる素材が必要になってきたからです。鉄に代わる素材として、軽量で量産が可能な素材、木材にスポットが当たったのです。しかし、木材では鉄のような硬さも強さも不足しています。そこで木材を強化するために、注目されたのが「放射能」でした。当時、放射能はその危険性がまだ明らかになっていなくて、逆に身体に良いという間違った考えすら広がっていました。そのため、木材の強度を上げるのにも放射能は役立つのではないか?として研究が行われたようです。当然ながら、放射能を照射する際、科学者は放射のによる被爆をさけるための防護服もなければ、被爆量の測定もありませんでした。そのため、多くの研究者が被爆によって健康を蝕まれ、彼の兄はそのために死亡したと言われています。そして、同じような研究に関わった彼もまた、研究中に血を吐いて倒れ、危うく命を落とすことろでした。彼は、広島よりも長崎よりも早く放射能の被爆によって、命を落としかけ、兄を失った被害者だったのです。
 まさか、そんな彼が後に、放射能が生んだ怪獣「ゴジラ」の音楽を担当することになるとは・・・!

<映画音楽との出会い>
 「放射能」の影響で健康に不安を残したまま、彼は終戦を迎えました。音楽の道へ進みたくても、戦後の不況下で作曲家として食べて行けるはずはありませんでした。そんな彼に音楽の道で食べて行けるよう助けてくれたのが、北海道時代の親友でいち早く東京に出て東宝に就職していた早坂文雄でした。当時、仕事もなく東京都内に住むことはできなかったので、とりあえず日光に住みながら、東京音楽学校(のちの東京芸大)で作曲を教えることになります。彼が教えた生徒の中には、芥川也寸志、黛敏郎、真鍋理一郎、松村禎三などがいました。しかし、講師の給料は安く、それだけでは食べて行けないので、映画音楽の仕事を紹介してもらうことになりました。
 そして、その最初の仕事が、1947年谷口千吉監督作品「銀嶺の果て」でした。

「銀嶺の果て」(1947年)
 この作品は、脚本が黒澤明、主演が三船敏郎と志村喬というその後の日本映画を背負って立つスタッフによる作品で、そこに始めた参加したことは、伊福部にとっても運命的なことだったといえます。
 この映画は、銀行強盗犯が逃亡の末に雪山の中の山小屋に逃げ込み、そこで山小屋のオーナーや宿泊客たちを人質に立てこもるというサスペンス作品でした。その中で主人公と山小屋の少女がスキーを滑るロマンチックな場面があります。この背景として、監督の谷口はスケーターズ・ワルツのような楽しい曲を考えていましたが、伊福部が作ったのはその後の展開を予感させるような寂しい曲でした。ここで監督と作曲家が対立し、議論が始まります。最終的には、脚本家の黒澤明が間に入り、ここは作曲家の意見どおりにやってみましょうと監督を説得し、伊福部案が採用されました。この事件は、それだけでは終わりませんでした。撮影終了後の打ち上げで事件は起きました。
 打ち上げの席で、俳優の小杉義男が監督と作曲家のトラブルの件を持ち出し、現場では会わなかった作曲の伊福部を見つけると、彼を怒鳴り付けたのです。ベテラン監督谷口のもとで多くの作品に出演してきた彼は、偉大な監督に口答えをした若造をゆるせなかったのです。
「音楽家の伊福部さんってあんたか。あんた、監督と喧嘩したっていうじゃないか。何様だと思っているんだ。監督は大変なんだ。第一、若いのにやたら我を張って生意気だ」
 この言葉にショックを受けた伊福部は、自信を失いかけたといいます。しかし、この時、主演俳優の志村喬が声をかけてくれました。
「伊福部さん、今まで音楽で喧嘩をやるほど志尚を持っている作曲家なんていなかったんだ。あんた、大いに喧嘩をやりなさい。あの人はああいったけれども気にすることはない。・・・」
 さすがは日本映画を代表する名優です。この言葉のおかげで、彼はその後も映画音楽の世界で食べてゆく決意を固めたと言います。

<映画音楽効用四原則>
 伊福部昭が自らの映画音楽の制作方法について、その四原則を記しています。
(1)映画が発する感情を音楽によって表現する。ただし、そのやり方にはさらに2つの方法があります。
<インタープンクト>
 画面の情報、画が表してくる劇的因子に素直に、寸分なく寄せていく正攻法の付曲。要するに、悲しい場面に悲しい音楽をつけるということ。
<カウンタープンクト>
 例えば、ある人物の死の場面に悲しい曲をつけるのではなく、その人物の思い出の中にある幸福だった時の楽しい曲をあえてつける。この方法により、映像が見せる情報にさらなる奥行きが加えられ、より深いよりリアルな悲しみを表現できる。
(2)場所や時代の設定を音楽によって表現する。
 解説の字幕やナレーションがなくても、その映像が示す場所と時代はある程度音楽で表現できる。三味線や琴を使用すれば日本風もしくは時代劇風の音楽になる。バラライカならロシア風、シタールならインド風など楽器の音色は分かりやすい例です。
 現代か江戸時代か、沖縄なのか北海道なのかなども音楽だけである程度は表現可能です。
(3)ドラマ・シークエンスを音楽によって提示する。
 例えば、同じ時間に二つの事件が起きたとします。その二つの事件には関連性があると観客に示したいなら、二つの事件を交互に見せながらも、同じ曲を流し続ければよいでしょう。しかし、ここでまったく異なる曲をつければ、二つの事件は別ものであると判断するでしょう。
(4)映像が音楽的なものを求めるために曲をつける。
 例えば、「2001年宇宙の旅」のあの有名な「ツァラトストゥラはかく語りき」。あの宇宙の映像にリヒャルト・シュトラウスのクラシック音楽を合わせたのは、そこにキューブリックがある意味を持たせようと考えたからです。それはただ単に宇宙空間の神秘的な美しさを映し出すだけではだめだったのです。ある意味、音楽が最も重要な責任を背負うことになるのがこの(4)でしょう。
 彼はこの四つ意外の音楽はすべて無駄な音楽であると考えており、「音楽は、音楽以外の何ものも表現しない」という鉄則を生涯守り続けています。さらに彼が映画音楽を生み出す際、重要視したのは、「喚起」もしくは「エヴォケイション Evocation」と彼が呼ぶ表現でした。
 音の響きそのものによって鑑賞者の感動を呼び覚まし、呼び起こす。音の強弱、音の厚み、音圧、量感、運動、うごめき、躍動といった種類の因子が旋律・和声・律動、音楽を構成する三要素に作用し、このうえない音楽エネルギー、音楽パッションを生み出す。
 伊福部はよくいう。旋律は感情を、和声は思考性を、律動は筋肉の運動や脈動を表す、と。
 一例を示せば、彼が導く分厚いオクターブ・ユニゾンによる毎回な明快な旋律や荒々しい律動の音型反復は聴く者を理屈抜きに昂揚させる。音楽が聴く者の感情を昂らせる。
「律動は、はじめに律動ありき、といえるほど重要なもので、律動を軽視すると音楽は貧弱になります。。・・・」
(注)「律動」とは、音のうねり、持続性をともなった音のリズムのことです。

<俳優と演技>
「演技者に被せる劇伴音楽のボルテージというものは、その俳優さんの演技力に反比例するもののようです」

 彼は、音楽だけでなく俳優の演技にもこだわっていたようです。

 雪舟のような役者には音楽がつけやすいという。三船敏郎、勝新太郎、山村聰、中村錦之助、月形龍之介、大河内傅次郎、森雅之、市川雷蔵、もそうした類の俳優だった。女優では京マチ子、山田五十鈴、乙羽信子、木暮実千代など。、彼ら、彼女たちが主役を張る映画は付曲にそう困らなかった。
 逆に、すらりとした、虫も殺さぬような美男美女ほど音楽をつけにくいものはなかった。こうした役者が激昂する画などに管弦楽の全奏による分厚い音楽をかぶせると、役者が画面から吹き飛んでしまう。・・・特に女優には手を焼いた。それを伊福部は美人薄命ならぬ<美人薄音>と称していた。


 その意味で、伊福部が小津安二郎監督の作品に関わらなかったのは当然のことと思われます。なにせ、小津作品には伊福部が最も苦手とするタイプの俳優たちばかりが出演しているのですから。そして小津作品の物語にはパッションや律動の少ない静かな音楽が求められていたからです。

<「ゴジラ」での仕事>
 伊福部昭の仕事の中でも最も有名なのが、東宝映画「ゴジラ」の音楽でしょう。彼がこの仕事を任されたのは、ただ依頼されただけで、当初からそれほど重要な仕事になるとは思っていなかったようです。監督がどんな人物かも知らずに制作発表の席に呼ばれた彼は、そこで初めて監督の円谷英二と対面。ところが、その顔を見てビックリ、彼とは何度も東宝撮影所近くの居酒屋で会っていて、何度も一緒に映画について語り合っていたのでした。そして、そこで初めて彼は「ゴジラ」の仕事が単なる怪獣映画の枠を超える作品になるであろうことを知り、本気になったといいます。とはいえ、彼は怪獣映画の音楽を担当することをもともと楽しみにしていたようです。
 一般の劇映画の音楽をの場合、映画の内容によってある程度定番的なセオリーがあり、独自の音楽を作るのはなかなか許されません。それに比べ、特撮映画の場合は、その空想的なストーリーから、音楽にも常識を越えた音楽もしくは音が求められることがあります。ごく自然に新しい音楽を取り入れることが可能になったのです。

 伊福部には巨大なものに惹かれる傾向があった。アメリカ映画「ロストワールド」(1925年)を鑑賞してブロントザウルスがロンドンに出現する場面のウィルス・H・オブライエンの特撮に驚愕し、「キングコング」(1933年)におけるニューヨークの摩天楼を舞台にしたクライマックス・シークエンスに目を奪われ、「オペラ座の怪人」(1925年)やドイツ映画「ジークフリート」(1923年)に夢中になるなど、伊福部は学生時代にそうした種の映画も好んで鑑賞していた。大の爬虫類好き、蛇好きでもあった。動物にかかわる専門書も進んで読んでいた。伊福部にとり、ゴジラは決して遠い存在などではなく、むしろすこぶる興味を駆り立てる対象だった。

 彼はこの映画に深く関わり、音楽だけでなくあの有名な吠え声の生みの親でもありました。
「無理もないんです。哺乳類はどうやっても哺乳類の声、鳥類はどこまでも鳥類の声なんですね。そこで私がコントラバスの弦の縦振動を使うことを提案したわけです」
 伊福部は弓ではなく、松脂をぬったなめし皮の手袋で弦を縦に引っ張ってみました。振動しながら張力が変化することで誰も聴いたことのない複雑な音が生まれ、それを音響効果の三縄一郎が細工して、ゴジラの咆哮音として完成させた。

(ゴジラの足音の残響音的な響きにスプリングリバーブというエコーマシンの一種を用いては?と提案したのも彼でした)

 伊福部さんは決して手練手管を使わない、正攻法の作曲家である。特撮映画の映像は決して本物ではない。風速40米の暴風雨は決して本物にはかなわない。併その実感に近い表現は出来る。そして、その表現手段としての音楽の重要性は大変な比重を担っている。視覚は聴覚による音楽や効果音とのかけ算作用によってのみ成り立つのである。

 伊福部音楽は発してくる成分と<怪獣>はなにゆえここまで一体化したのか。両者には相通ずるものがあった。伊福部はアイヌ民族、北方の種数民族、北海道に移住してきた東北地方の開拓民がときに口ずさむ民謡を揺籃歌にして育ってきた。そこには文明的要素は入り込まない。大地に根づいた強靭な生命力がそこにはある。これらを土壌とした音楽を伊福部は導き出す。
「特撮映画、怪獣映画の音楽は書きやすい。誤った芸術論に悩まされず、作劇術に束縛されることもない。余計な神経を使うこともなく、映像に音楽を付す効果を万全に利用できる。・・・」
伊福部昭

<伊福部昭の仕事>
 ゴジラ映画のイメージが強いことから、東宝映画の仕事が中心と思われがちですが、彼が最も多く仕事をしたのは大映の作品でした。なぜか、彼は特定の映画会社の専属にはならず、どこの映画会社の仕事も依頼されれば受けていました。そんな中で、最も彼との仕事を望んだのが、大映の監督たちだったのです。
 特に多かったのは、1950年代の吉村公三郎監督、新藤兼人脚本の作品への参加でした。その関係の延長で、新藤兼人が監督として独立プロの近代映画協会を立ち上げて以降も伊福部は新藤監督の作品に曲を提供し続けています。
 逆に彼の音楽を使わなかったのは、小津安二郎、溝口健二、黒澤明など、あまりに個性が強く自分のビジョンをしっかりともつ監督たちでした。
 それと彼はドキュメンタリー映画のための曲も数多く担当しています。それは、彼がお金のために作曲をしていなかったことの証明でもあります。ドキュメンタリー映画の制作会社は、どこも小さな会社ばかりで、曲へ支払われる金額もごくわずかだったのです。

「劇映画はある主題でもっていくわけですが、記録映画の場合ですとその場で変わっていきますから、そのなかで統一をつけます。変化のなかに統一をつけていくのです。劇映画は統一したなかに変化をつける。そのちがいがあります。ですから、記録映画のほうが書くのは大変です」

 彼が作曲を担当した映画は300本強と言われます。その中に平均して、20曲程度は曲を作っているとすると映画のためだけで6000曲も作ったことになります。そのジャンルは、時代劇、怪獣映画(特撮映画)、文芸映画、宗教映画、社会派のドキュメンタリー・タッチの映画、記録映画・・・。
 逆に少ないのが、恋愛映画、家族映画でしょうか。彼の音楽が合う映画のジャンルがなんとなくわかります。
 思えば、彼は自由に仕事を選べていたということですから、ある意味幸福な映画音楽作家だったのかもしれません。だからこそ、彼は91歳まで仕事を続けられたのではないでしょうか。
 以下のリストにあるのは、彼の代表作であり、全部ではありませんので!

1947年  「銀嶺の果て」  谷口千吉  東宝   
1949年 「深夜の告白」  中川信夫  新東宝   
  「ジャコ万と鉄」  谷口千吉  東宝   
  「静かなる決闘」  黒澤明  大映  唯一の黒澤明作品 
  「虹男」  牛原虚彦  大映  サイケデリックなサスペンス映画 
1950年  「戦火の果て」 吉村公三郎  大映   
  「白い野獣」  成瀬巳喜男  東宝   
  「きけわだつみの声」  関川秀雄  東横(後の東映)  
  「レ・ミゼラブルあゝ無常第一部」  伊東大輔  東横   
  「乙女の性典」  大庭秀雄 松竹   
  「てんやわんや」  渋谷実  松竹   
1951年  「偽れる盛装」  吉村公三郎  大映   
  「源氏物語」  吉村公三郎  大映   
  「自由学校」 渋谷実  松竹   
  「愛と憎しみの彼方へ」 谷口千吉  映画芸術協会  
  「音楽入門」出版    
1952年  「原爆の子」 新藤兼人 近代映画協会   
   とりわけ原爆着弾、炸裂描写にほどこされた音楽処理は鮮烈きわまりなかった。「The Technique of Film Music」(アメリカの専門誌)で論考された音楽采配がまさにここだった。
「大きな音がするはずのところを真っ白、完全な静寂にして、それから向こうの人の形容だと、バッハのコラールのように静かに始まる、と書いてありました」 
  「西陣の姉妹」  吉村公三郎  大映   
  「最後の顔役」  小杉勇  東映   
  「私はシベリヤの捕虜だった」  阿部豊、志村敏夫  シュウ・タグチプロ   
  「細川ガラシャ夫人伝」  佐藤武 リリア・アルバ社  
  「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」が、 ジェノバ国際作曲コンクールに入選
1953年  「蟹工船」  山村聰  現代プロ   
   「蟹工船」の音楽録音時、思いもかけぬ出会いがあった。伊福部にとってきわめて強烈な邂逅が。
 演奏は東京交響楽団が請け負った。指揮は伊福部だった。・・・リハーサル時か録音時だったか、それは記憶にないそうだが、東京交響楽団のセカンド・ヴァイオリニストの小林三吾が伊福部のもとに歩み寄ってきて、こう話しかけた。
「私、多喜二の弟です」。伊福部は愕然とした。さらに三吾は続けた。
「伊福部さんのことはよく知っていますが、名乗ったらいいか悪いか、迷って控えていたんです」 
  「欲望」  吉村公三郎  大映   
  「無法者」  佐伯幸三  大映   
  「村八分」  今泉善珠  近代映画協会   
  「混血児」  関川秀雄 蟻プロ   
  「アナタハン」  ジョゼフ・フォン・スタンバーグ  大和プロ   
  「セロ弾きのゴーシュ」  森永健次郎、川尻康司  三井芸術プロ   
  「ひろしま」  関川秀雄 日教組プロ   
  「管弦楽法」出版    
1954年  「ゴジラ」  本多猪四郎  東宝   
  「番町皿屋敷お菊と播磨」  伊藤大輔  大映   
  「人生劇場 望郷篇」  荻原遼  東映   
  「泥だらけの青春」  菅井一郎  日活   
  「どぶ」  新藤兼人  近代映画協会   
  「佐久間ダム第一部」  高村武次  岩波映画  ドキュメンタリー 
  「谷間の歴史」  桑野茂  日映新社  ドキュメンタリー 
  「阿寒湖のまりも」  太田仁吉  科学映画研究所  ドキュメンタリー 
1955年 「明治一代女」  伊藤大輔  新東宝   
  「王将」  伊藤大輔  新東宝   
  「東京暴力団」  鈴木重吉  大映   
  「銀座の女」  吉村公三郎  日活   
  「狼」  新藤兼人  近代映画協会   
  「北海道」  桑野茂  岩波映画  ドキュメンタリー 
  「鬼太鼓」  笠原十四三  全国農村映画協会 ドキュメンタリー
  「国有林第1部~3部」    全国農村映画協会 ドキュメンタリー 
1956年  「空の大怪獣 ラドン」  本多猪四郎  東宝   
  「ビルマの竪琴 第1部、2部」  市川崑  日活   
  「神阪四郎の犯罪」  久松静児  日活   
  「真昼の暗黒」  今井正  現代プロ   
  「女優」  新藤兼人  近代映画協会   
1957年  「柳生武芸帳」  稲垣浩  東宝   
  「地球防衛軍」  本多猪四郎  東宝   
  「いとはん物語」  伊藤大輔  大映   
  「大阪物語」  吉村公三郎  大映   
  「爆音と大地」  関川秀雄  東映   
  「殺したのは誰だ」  中平康  日活   
  「白鳥物語」  堀内甲  東映教育映画   
  「佐久間ダム」  高村武  岩波映画  ドキュメンタリー  
  「遭難 谷川岳の記録」 高村武 岩波映画 ドキュメンタリー  
1958年  「大怪獣バラン」  本多猪四郎  東宝   
  「氷壁」  増村保造  大映   
  「夜の鼓」  今井正 現代プロ  
  「長い冬」  中川順夫  自然科学映画  ドキュメンタリー 
  「ヌタクカムシュペの道」  安井正夫  北日本映画  ドキュメンタリー 
  「奥只見ダム」  高村武  岩波映画  ドキュメンタリー  
  「国鉄」  岩佐氏寿  学研  ドキュメンタリー  
  合唱頌詩「オホーツクの海」   
1959年 「コタンの口笛」  成瀬巳喜男  東宝   
  「日本誕生」 稲垣浩  東宝   
  「宇宙大戦争」  本多猪四郎  東宝   
  「その壁を砕け」 中平康  日活   
  「殺されたスチュワーデス 白か黒か」  猪俣勝人  シネリオ文芸協会 
1960年  「親鸞」  田坂具隆  東映   
   伊福部音楽と宗教映画の相性はすこぶるよかった。「親鸞」(1960年)、「釈迦」(1962年)、「人間革命」(1973年)、「日本誕生」(1959年)、「細川ガラシャ夫人伝」(1952年)、「大魔神」(1966年)・・・ 
  「炎の城」  加藤泰  東映   
  「白い森」  西沢豪  日映新社   
  「頌 斉藤知一郎」  羽田澄子  岩波映画  ドキュメンタリー
  独唱曲「シレトコ半島漁夫の歌」    
1961年  「大阪城物語」  稲垣浩  東宝   
  「釈迦」  三隅研次  大映   
  「宮本武蔵」  内田吐夢  東映   
  「雪 結晶のはたらき」  吉田六郎  東映教育映画  ドキュメンタリー 
  「流氷の町」  菅谷陳彦  記録映画社  ドキュメンタリー 
  「雪にいどむ」  奥山六郎  日映科学  ドキュメンタリー 
  合唱曲「北海道賛歌」    
1962年  「座頭市物語」  三隈研次  大映   
  <琵琶の使用について>
 琵琶の音羽臭みが強いし、琵琶が響いただけですべてが覆い尽される感が強いんですね。・・・
 ただ、ちょっと以外だったのは、三隈さんをはじめスタッフの人も、琵琶の響きはあまり印象に残らない、と。それよりあのリズム、ボレロ形式のリズムが耳につく、といわれたんです。ボレロの採り込みは、まあ流浪というか、放浪の主人公の境地を表現するのにいいだろう、というような考えに基づいているのですが・・・」 
  「キングコング対ゴジラ」  本多猪四郎  東宝   
  「忠臣蔵花の巻・雪の巻」  稲垣浩  東宝   
  「鯨神」  田中徳三  大映   
  「秦・始皇帝」  田中重雄  大映   
  「王将」  伊藤大輔  東映   
  「奥只見ダム 第二部」   岩波映画  ドキュメンタリー
1963年  「海底軍艦」  本多猪四郎  東宝   
  「新座頭市物語」  田中徳三  大映   
  「わんぱく王子の大蛇退治」  芹川有吾  東映動画  アニメーション
  「十三人の刺客」  工藤栄一  東映   
1964年 「モスラ対ゴジラ」 本多猪四郎 東宝   
  「三大怪獣地球最大の決戦」  本多猪四郎  東宝   
  「忍びの者 霧隠蔵三」 田中徳三 大映   
  「帝銀事件 死刑囚」  熊井啓  日活   
   平沢貞通は面識のある人物だった。平沢の実家は北海道小樽市の色内町にあった。伊福部は学生時代、平沢の家の隣にあった森岩という家によく遊びに行った。
牛乳を扱っていた平沢家にも何回かおもむいた。平沢の弟で絵描きをしている卓章(平沢の兄)も知り合いだった。貞章から画を何枚か買った。・・・
 あの帝銀事件の映画の音楽を書く。ましてや、面識のある人物が犯人とされたあの忌まわしい事件の映画の仕事をする。伊福部のある種の緊張感を覚えた。
「 こうした社会派映画の人声は、宗教映画や史劇映画でのそれとは少しちがいます。メッセージ性といいますか、ドラマのなかに言葉にはならない人間の叫びとか、慟哭などという要素が求められる場合に人声を多く使います。・・・」
1965年  「フランケンシュタイン対地底怪獣」  本多猪四郎  東宝   
  「怪獣大戦争」  本多猪四郎  東宝   
  「無法松の一生」  三隈研次  大映   
  「徳川家康」  伊藤大輔  東映   
  「日本列島」  熊井啓  日活   
1966年 「大魔神」  安田公義  大映   
  ・・・ゴジラは怪物だが、大魔神は神様。曲を書くときにとにかく警戒したのは、ハーモニーの鳴っている音を書くとキリスト教の音楽になってしまうことだ。だからハーモニーは極力外した。といって、ゴジラみたいに動物になってしまっても困るし、キリスト教的な音も困るし、『釈迦』のような仏教の匂いも困る。そのあいだを通ってしかも神様、大きくて力のあるもの、と心理的にはかなり苦労した。・・・土俗信仰の神様、神道の神様なのでああいう曲になった - 。 
  「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」 本多猪四郎  東宝   
  「眠狂四郎 多情剣」  井上昭  大映   
  「大殺陣 雄呂血」 田中徳三  大映   
  「十一人の侍」  工藤栄一  東映   
  「国鉄 21世紀をめざして」  関川秀雄  学研  ドキュメンタリー 
1967年  「キングコングの逆襲」  本多猪四郎  東宝   
  「座頭市血煙リ街道」  三隈研次  大映   
  「生きる」  杉原せつ  西野プロ  ドキュメンタリー 
1968年  「河内フーテン族」  千葉泰樹  東宝   
  「怪獣総進撃」  本多猪四郎  東宝   
1969年  「緯度大作戦」 本多猪四郎  東宝   
  「鬼の棲む館」  三隈研次  大映   
  「超高層のあけぼの」  関川秀雄  鹿島映画  ドキュメンタリー 
1970年  「座頭市と用心棒」  岡本喜八  勝プロ   
1973年  「人間革命」  舛田利雄  東宝   
  東京音楽大学の作曲家教授に就任    
1974年  「サンダカン八番館 望郷」  熊井啓  東宝   
1975年  「メカゴジラの逆襲」  本多猪四郎  東宝   
1978年  「お吟さま」  熊井啓  宝場映画   
1979年  「ヴァイオリン協奏曲第2番」    
  「二十弦筝曲「物伝舞」    
1980年 リュート独奏曲「バロック・リュートのためのファンタジア」   
1983年  管弦楽曲「SF交響ファンタジー」    
1991年  「ゴジラVSキングギドラ」  大森一樹  東宝   
  「土俗の乱声」  前田憲二  映像ハヌル   
1992年  「ゴジラVSモスラ」  大河原孝夫  東宝   
1993年  「ゴジラVSメカゴシラ」  大河原孝夫  東宝   
1995年  「ゴジラVSデストロイア」  大河原孝夫  東宝   
2006年  2月8日多臓器不全により享年91歳で死去    

「伊福部昭と戦後日本映画」 2014年
(著)小林淳
アルファベータ

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