「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」 1985年

- 森崎東 Azuma Morisaki
倍賞美津子 Mitsukobaisho -

<やっと取り上げる時が>
 なぜ今までこの映画について書かなかったのか?この映画は、もっと早くこのサイトで取り上げるべき作品だったと思います。しかし、自分の心の中では忘れられない傑作ではあっても、あまりにも無名であるため、もう一度見て面白さを確認してから書きたいとも思っていました。(2010年10月アップ)しかし、この映画はビデオ化はされたもののDVD化はされておらず(2010年時点)、レンタルでも見かけたことがなく、もちろんテレビでもやったことがないはずです。なにせRCサクセションの「カバーズ」に匹敵する原発批判の映画なので・・・。(ちなみに、「カバーズ」の反原発ソング「サマータイム・ブルース」にゲスト参加している泉谷しげるは、この映画にも出演しています!)
 そんなわけでこの映画は再見することができなかったため、映画公開時に買ったパンフレットにあったシナリオを読みながら、映画を思い出しつつ、この日本一長いタイトルの映画「生きてるうちが花なのよ死んだらこれまでよ当宣言」について書いてみたいと思います。正直、この映画がどこまで時代を越えて受け入れられるかわかりません。それはこの映画が1980年代半ばの日本の社会状況の裏側を描き出した時代性の強い作品だからです。当時の日本を知らない人が見て、どこまで理解できるのか?ちょっと不安ではあります。それでも、映画の柱となっている主人公、バーバラの存在感と彼女をめぐる人々の人間ドラマは時代を越えて受け入れられるはずです。
 この映画の場合、「見ていない人」もしくは「見たけど忘れてしまった人」が多いと思われるので、先ずは<あらすじ>から初めてみます。
<注>
 その後、DVDが出ました!今ならDVDで見られます!


<あらすじ>
  3人の中学生が教師の野呂(平田満)を誘拐。学校が集めた修学旅行の費用を身代金として奪おうとします。落ちこぼれの3人は学校から修学旅行に行くことを認められなかったため、その腹いせの犯行でした。しかし、中学生の無謀な計画がうまく行くはずもなくすぐに追い詰められてしまいます。ところが学校のやり方に反発していた野呂は3人の生徒たちに協力し、自ら車を運転して脱出に成功します。
 逃げ出した4人が隠れ家に潜んでいると、旅回りのストリッパーであり3人の中の一人、正の姉でもあるバーバラ(倍賞美津子)が現れます。テレビのニュースで事件のことを知っていたバーバラは3人に自首するよう説得します。結局、事件は3人と野呂が学校から追放されることでウヤムヤにされることになり、教師を首になり仕事を失った野呂はバーバラと一緒に付き人として旅に出ることになります。
 バーバラの恋人もしくはヒモの宮里(原田芳雄)は、「原発ジプシー」と呼ばれる原発内で危険な仕事を受け負う下請け労働者として働いていましたが、元々は沖縄の人間でコザ暴動で指名手配となり本土へと逃れてきた人物でした。そんな二人のところへ、久しぶりにアイコ(上原由恵)が訪ねてきます。彼女は別の街の原発で働く安次(泉谷しげる)の葬式のために帰ってきたのですが、実は安次は原発での事故の重要な目撃者で、死んではいませんでした。アイコは、宮里の手助けにより安次と結婚式を挙げ、その後二人で逃げる手はずになっていました。しかし、街と原発の裏側を仕切るヤクザのグループは、その逃亡計画を知り、アイコを殺し、その後宮里のもとにも現れます。宮里は原発での事故を公表しようとしますが、うまくゆかずしだいに追い込まれてゆきます。
 宮里、バーバラ、そして二人と共に事件に巻き込まれた野呂の運命は・・・?

<オリジナルのオリジナル>
 この映画のパンフに載っている森崎東監督へのインタビューを読んでいると意外なことが書いてありました。(聞き手は、映画評論家の山田宏一)
 最初の構想では、この映画は原発内部の実態を暴露しようと教師ら多数の人質とともに立て籠もる男(原発ジプシー)の物語で、彼の要求で現場からの生中継が実現しそうになった時、突然天皇崩御の情報が入り、現場からの生中継が吹っ飛んでしまう。そんな展開だったということです。そして、物語のオープニングでは犯人である主人公がトイレに入りながら天皇陛下の遺体を運ぶパレードがテレビで放映されている場面を見るという場面が用意されていたそうです。
 この映画の公開は昭和60年(1985年)です。当然、昭和天皇はまだ生きていたわけですから、なんとも恐れ多い企画だったことになります!そして、この物語の主人公で立て籠もり犯のモデルは、あの有名な金嬉老でした。

<森崎東流>
 小説や漫画ではなく監督自身によるオリジナル脚本による作品ですから、当然、撮影中にもセリフはどんどん変わったようです。そしてそれは、森崎作品の多くに共通することだったようです。この作品でも現場でどんどん物語や配役が変えられていったようです。
 この映画の配役も、当初は平田満が演じた教師の役を原田芳雄が演じる予定だったといいます。しかし、原田が「俺に先生役は無理です」と監督に直訴し宮里を演じることになり、そのキャラクターも彼に合わせて変わっていったそうです。もちろん、野呂の役も平田に合わせて変えられたのでしょう。こうした、行き当たりばったり的な映画作りの手法は、完成度の高い作品を生み出すのにはむいていないかもしれません。しかし、未完成な作品は、完成された芸術作品にはない、見るものを元気にするエネルギーを持ちうる可能性があります。それは小津安二郎や後期の黒沢明の作品にはけっして真似できないことです。

<ごった煮のドラマ>
 この映画では、この時代ならではの様々な事件が盛り込まれています。
「校内暴力」
 1981年ごろ急激に学校内での暴力事件が増え、「校内暴力」という言葉が使用されるようになります。1983年には町田の中学校で生徒が教師をナイフで刺すという事件が起き、全国的に校内暴力の発生件数が増えていました。その後、管理教育のさらなる強化などもあり、校内暴力は減少してゆきますが、それが新たな犯罪、学校内弱者への「いじめ」やより小さな子供や動物、女性、障害者、路上生活者に対する暴力そして家庭内暴力を生み出すことになってゆきます。

「原発問題」
 1979年に起きたスリーマイル島原発事故以降、原発に対する不安が世界的に高まり原発への信頼は急激に揺らぎます。さらに同年フリーライターの堀江邦夫が原発内での労働問題をノンフィクション作品「原発ジプシー」で暴露することで原発内の闇の部分が明らかにされました。
 そして、この映画公開の翌年ついに歴史上最大の原発事故がロシアのチェルノブイリ原発で起きることになります。

「ジャパユキサン」
 フィリピンから、フィリピン・パブなどで働くために出稼ぎに来ていた女性労働者たちのことをこう呼んでいました。経済的に苦しいフィリピンで生活する家族のために身体を売る女性も多く、バブル時代の日本に1万から2万人は来ていたといわれています。

「コザ暴動」
 1970年12月20日沖縄のコザ市(現在の沖縄市)の繁華街の交差点で日本人が米兵の運転する車にはねられ怪我をするという事故が起きます。被害者の怪我は軽症だったものの、現場に集まった市民はそれまでに強まっていた反米感情をその場にいた米兵や米兵の車両にぶつけ始め、暴動が始まりました。現在でも裁判権の不平等など問題は多く存在しますが、当時はそれがさらにひどかったため、暴動はその後嘉手納基地への攻撃にまで発展し、市民全体を巻き込む事件となって行きました。実質的には「暴動」だったものの問題の深刻化と逮捕者の罪の問題を考慮し、マスコミはその事件を「暴動」ではなく「騒動」と扱い、逮捕者もその後不起訴処分となりました。しかし、この事件はその後21世紀にまで続く沖縄基地問題とその反抗の歴史における重要な原点となります。

「金嬉老事件」
 1968年2月20日、39歳の在日朝鮮人二世の金嬉老が起こした立て籠もり事件。元々は借金返済をめぐるトラブルからヤクザをライフル銃で射殺した殺人事件が発端でしたが、その後彼はライフル銃とダイナマイトを持って、静岡県の山間にある寸又峡温泉の旅館に立て籠もります。その際、旅館の従業員や宿泊客13名を人質にとり、その解放の条件として「警察官による在日朝鮮人への差別発言への謝罪」を要求。彼は、在日朝鮮人だけでなく韓国でも英雄として扱われることになり、この事件は20世紀を代表する歴史的な犯罪として扱われることになります。(後に、ビートたけし主演でテレビドラマ化もされています)

 ただし、これらの問題を描きながらも、この映画はそれらに対する批判をしているわけではありません。そこで描かれているのは、原発の内部で危険な労働を安い賃金でさせられている使い捨てともいえる労働者の現状とそこから浮かび上がってくる原発行政とヤクザ組織との癒着の構図の現状であって、その改善を求める声ではありません。そこにこめられているのは、社会の改善に向けたメッセージというよりも、生き生きと生きたいという人間の叫び声とその潜在力の表現のように僕は思います。そして、それはこの映画に何度も登場してくる三つの言葉に明らかだと思うのです。

「アイちゃんですよ、ゴハン食べた!」

「あふれる情熱、みなぎる若さ、協同一致団結ファイト!」

「逢いたいよう」

この三つです。

<三つの言葉>
「アイちゃんですよ、ゴハン食べた!」
 この言葉は、アイちゃんからバーバラへと伝えられ、ラストシーンでも感動的に使われます。この映画のタイトルの精神を縮めた言葉と言えるかもしれません。人間は、食うこと、寝ること、そして出すことさえ満足に出来れば幸福なのだという人生の基本を表現する名台詞とも言えます。

「あふれる情熱、みなぎる若さ、協同一致団結ファイト!」
 この言葉には、バーバラと宮里のまわりに集まってきた社会からはじき出された人々にとっての最後の拠り所でもある「共闘」に向けた力強いシュプレヒコールです。21世紀に入り小林多喜二が再評価されていますが、かつて若者たちが口々に叫んだシュプレヒコールはまたいつか蘇るのでしょうか?

「逢いたいよう」
 久しぶりに会った宮里に抱きつくバーバラが、今まさに抱き合っているにも関わらず、再び別れの日がやって来ることを思い、思わず「逢いたいよう」と叫ぶ。この場面には泣かされます。それはもしかすると宮里の死が近いことを予見しての言葉だったのかもしれません。そして、その言葉は二人の別れの場面にも登場することになります。それがまた・・・泣かせます。

<倍賞美津子>
 清楚な魅力が売りの姉、倍賞千恵子に比べ正反対のキャラクターを売りにしていた彼女にとってバーバラ役は、まさにはまり役でした。この年彼女は「恋文」「友よ、静かに瞑れ」そしてこの作品での演技が評価され、念願だった日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞を受賞しました。姉御肌の女性を演じたら右に出る者がない女優として、その後も彼女は長く活躍を続けることになります。僕は、まじめすぎるお姉さんよりも猪木と互角に渡り合った彼女の方が好きでした。

<服脱ぎ代>
 映画の中に「服脱いで稼げるのは、お前らとストリッパーだけや」と宮里が原発労働者たちに言う場面があります。
 もちろん、この言葉にはちゃんとした意味があります。原発内の被爆の可能性がある危険地域で働く労働者は「服脱ぎ代」という特別手当をもらっていました。それは実質的に「危険手当」であり「被爆手当」でもあるのですが、原発を危険ではないとする手前、そうした名前はつけられないわけです。そんなわけで、それには「服脱ぎ代」というおかしな名前がつけられたわけです。そのうえ特別手当といっても、彼らに仕事を斡旋した業者によって徹底的にピンハネされてしまうので、彼らの手に渡る手取りの金額は一日平均わずか500円ほどだったといいます。(1985年当時)
 こうした原発内での危険労働は現在も続いています。そして、そのあからさまな隠蔽体質は、事故のたびに明らかにされてきました。最近ではコマーシャルで「ニューモ」だかなんだかの宣伝をしていますが、放射能を帯びた汚染物質を処理するのになぜ地中深くまで掘る必要があるのでしょう?完全に密閉し封じ込めてあるのなら、どこに置いてもよいのではないでしょうか?そして、早いとこ完全に放射能を除去する装置を開発すればいいじゃないですか。
 しかし実際は、そんな装置の開発は未だに不可能で、なおかつ現在の密閉方法ではいつか放射能が漏れ出してしまうかもしれない・・・だからこそ、地下深くに隠しておく必要があるのです。なんて愚かな・・・。
(注)この映画で再現している原発内での作業もけっして嘘ではなく実際に行われている事実をそのまま再現したものでした。

<アイちゃんの真実>
 アイコという登場人物にも、実はモデルになった女性がいたそうです。彼女はGIのオンリーになった娼婦で、その後GIを追って朝霞のキャンプへと引越し、そこのスナックで働いていましたが、ある日何者かによって殺されてしまいました。さらにその子には有名芸能人との間にできた子供もいたとのこと。
 「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、確かに現実世界は小説世界よりも過激なのかもしれません。だからこそ、事実をかき集めただけで、ドラマは混沌とした魅力をもちうるのです。問題なのは、そうした現実の自由な表現が不可能な世界が世界的に増えつつあることかもしれません。だからこそ、今こそもう一度名画「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」を死から蘇らせたい!そう思うのです。

<森崎東>
 この映画の監督、森崎東は、1927年11月19日長崎県島原市に生まれました。小学生の頃、大牟田市に家族と引越し、労働者の街で少年時代を過ごし、1944年に大牟田市立商業高校を卒業、その後、予科練を受験しますが、視力検査で落とされてしまいます。軍人に憧れていた彼は、大きなショックを受けましたが、終戦直後の8月16日に海軍少尉候補生だった彼の兄が割腹自殺。優秀な兄の死と敗戦は、彼の生き方に大きな影響を与えることになりました。
 京都大学に入学した彼は、在学中、共産党に入党。卒業後は映画雑誌の編集に関わり、1956年松竹の京都撮影所に入社。そこで彼は大曽根辰保や野村芳太郎らの下で働き、野村の監督作品「拝啓総理大臣様」では脚本も担当しています。
 1965年に京都撮影所が閉鎖になったため、彼は東京へと向かい大船撮影所で、野村監督のチーフ助監督だった山田洋次のもとで「なつかしき風来坊」、「男はつらいよ」で脚本に参加。監督デビューは1969年。渥美清、倍賞美津子主演の「喜劇・女は度胸」でした。それは早くも彼お得意の人情喜劇映画となっていました。1970年には、「男はつらいよ」シリーズの3作目「フーテンの寅」を監督。しかし、寅次郎の荒っぽさ、下品さを強調し過ぎているとして一作で降ろされてしまいました。

「喜劇・女は男のふるさとヨ」 1971年
(監)(脚)森崎東
(原)藤原審爾
(脚)山田洋次
(撮)吉川憲一
(音)山本直純
(出)倍賞美津子、森繁久弥、中村メイコ、緑魔子、河原崎長一郎、犬塚弘

 この作品は、森繁、中村が演じる夫婦が経営するストリッパー斡旋所「新宿芸能社」を舞台にした「女」シリーズ第一作。倍賞美津子を女優として開眼させた作品でもあります。
 「男はつらいよ」とは異なる「女」シリーズ「喜劇・女生きてます」(1971年)、「喜劇・女売り出します」(1972年)で独自の下世話なスタイルを確立したものの、松竹会長の城戸四郎には嫌われ契約を打ち切られてしまいました。
 フリーになった彼は1977年ATGで「黒木太郎の愛と冒険」を撮り、高い評価を得ましたが、映画業界にとっては最も厳しい時代だったこともあり、その後もしばらく彼はテレビを活動の場にせざるをえなくまります。
 1983年、6年ぶりに彼は松竹で「時代屋の女房」を撮り、映画界に復帰。翌年の「ロケーション」も好評価となり、1985年再びATGで本作を撮り、森崎映画の集大成として高い評価を得ることになりました。この後も、1987年には話題作「堀の中の懲りない面々」、1994年には「釣りバカ」シリーズの第一作となった「釣りバカ日誌スペシャル」を監督するなど、活躍を続けています。

「ぺコロスの母に会いに行く」 (2013年)(2013年追記)
(監)森崎東(原)岡野雄一(脚)阿久根知昭(撮)浜田敦(音)星勝、林有三(出)岩松了、赤木春江、加瀬亮、原田」貴和子、竹中直人、上原由恵
 認知症の母親を題材にした岡野雄一による漫画の映画化。なんと自身が認知症であることを知りながらの撮影だったという宿命的な作品。
 NHK教育テレビで特集番組を見ました。「記憶は愛である」という言葉。彼が描いてきた庶民の様々な記憶に対する思いがよくわかる言葉です。
 だからこそ、記憶を消し去ろうとするものにあらがう。それこそが映画の使命である。(このサイトもそうありたいと思います)
 いよいよ凄い監督になってきました。映画監督は新藤監督を思い出すまでもなく、死ぬまでできる仕事です。最後に最高傑作を撮ることだって可能なのかもしれません。
 そして今、認知症でも映画を撮ることが可能だということを証明してみせる監督が現れました。感動しました。

「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」 1985年
(監)(脚)森崎東
(製)木下茂三郎
(脚)近藤昭二、大原清秀
(撮)浜田毅
(音)宇崎竜童
(出)倍賞美津子、原田芳雄、平田満、上原由恵、泉谷しげる、梅宮辰夫
 この映画は木下映画製作の作品でAIG(アート・シアター・ギルド)によって公開されました。この時代のATGは凄かった。

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