異文化との境界線に生きる人々

「異境 Remembering Babylon」

- デヴィッド・マルーフ David Malouf -

<異界との境界線>
 かつて人類にとっての世界は、村とその周辺のわずかの土地がすべてで、そこから外は「異界」という名の未知の世界でした。人類の進歩とは、その異界との境界線を押し広げてゆくことと同義だったといえます。科学の進歩により、人類にとっての世界は、今や宇宙空間にまでその範囲を広げつつあります。しかし、それとは別に人類には宗教や文化による境界線や電脳世界という新たな新世界が誕生するなど、別の部分の世界が広がりつつあるようです。
 しかし、かつて人類はもっと身近に境界を感じていました。戦争とは、境界の向こうにある異界との闘いでした。アメリカ西部の開拓も、異界に住む民を滅ぼす征服戦争だったともいえます。ぺストやコレラなど、不治の病もまた異界からの厄と考えられていました。そうした、異界との境界線をつい最近まで身近に感じていた国として、オーストラリアがあります。

<オーストラリアの異界>
 2000年に開催されたシドニー・オリンピックで注目を集めた選手キャシー・フリーマンは、オーストラリアの先住民アボリジニー出身でした。彼女は、女子400m走で金メダルを獲得し、オーストラリア国旗とアボリジニーの旗両方を持ってウィニングランを行い大きな話題となりました。開会式においても、開催国紹介の際、アボリジニーの歴史と伝統、そして移民との融和は大きなテーマになっていました。ただし、そのことは、アボリジニーと白人を中心とする移民たちとの関係がつい最近まで上手くいっていなかったということの証明でもあります。
 アメリカにおけるイヌイットの人々もそうですが、あまりにも文明が進んだ国において原始の文化を残す民族が自分たちのアイデンティティーを保ちながら生きてゆくことは非常に困難なことです。この小説は、かつてオーストラリアがまだ開拓の途中だった時代、北部の地方に入植した白人たちが体験した先住民(アボリジニー)との接触を描いた物語です。
 ただし、その接触を民族間の戦争や対立として単純に描くのではなく、アボリジニーに育てられた白人少年と彼と暮らすことになった白人入植者の家族と周辺の人々を多角的に見つめた奥の深い内容になっています。アボリジニーと白人との境界線上に暮らす人々、それぞれの立場で、それぞれの微妙な心の揺れ動きが描かれています。
 読者は、この小説を読みながら、21世紀に生きる自分たちにも様々な境界線があることに気づかされるはずです。ちなみに、この小説で描かれている「境界線」をあげてみるとこんな感じです。
「先住民と移民」、「教会・修道院と社会」、「大人と子供」、「男性と女性」、「ドイツ系と非ドイツ系」(時代が第一次世界大戦中だったため)、「イギリスとオーストラリア」、「夢と現実」、「過去と現在と未来」・・・

<オーストラリアの移民たち>
 オーストラリアの初期の移民たちの多くは、犯罪歴があって追放されたものだったり、家族を失って移民家族にあずけられたり、政治的野心から一時的にイギリスから来たり、それぞれ異なる何かを背負っています。そのために、それぞれが周りの人々との間に「境界線」を作っているといえます。そもうえ、それぞれ母国が違い、民族や文化も異なります。
 ある意味、オーストラリアという国は「わけありの人々」が、先住民から土地を奪うことで建国した「わけあり国家」だといえます。そこで生まれた「境界線」を少しずつ無くす努力を続けてきたからこそ、今のオーストラリアには国内の混乱がほとんどないのでしょう。これって、実は人類の歴史において大変な偉業なのではないでしょうか?
 ただし、「わけありの人々」だったからこそ、もとがバラバラの集団だったからこそ、お互いを理解し合うことの重要さを理解していたのかもしれません。これは非情に重要なことのように思えます。なぜなら、ユダヤ人という同じ民族として、独自の国家建設という同じ志をもつ移民集団が建国した国イスラエルが隣国を理解・交流しようという気がまったくないのとは実に対照的だからです。

<境界線を無くす努力>
 この小説の後半には、かつてアボリジニーの少年と暮らしていた少年少女が大人になった姿が描かれています。二人の成長を見ると、境界線上に生きた経験が彼らを成長させていたことがわかります。彼らは壁を隔てた二つの地域ではなく、混ざり合った一つの土地で生きたからこそ、個人も、国も成長させることができたのでしょう。
 21世紀に入り、世界には様々な壁が高く築かれつつあり、境界線を隔てた陣営の対立は危機的になりつつあります。ただし、我々日本人の境界線はどこにあるかというと、それはどんどん目に見えなくなりつつある気がします。ネットによるいじめ、家庭内暴力、企業内のパワハラ、セクハラ・・・どんどん対立は深く潜行しつつあります。さらに日本やアメリカにおける低所得者層の反乱も、その批判の対象とするべき存在は、企業なのか、政府なのか、移民の労働者なのか、社会システムなのか、60年代のように明確ではなくなってしまいました。
 21世紀の今、自分にとっての境界線はなんなのか?そんなことも考えさせてくれる小説です。

<境界体験の物語>
 我が家では依然オーストラリアに、それもこの小説の舞台であるクイーンズランド州ケアンズに1週間ほど旅したことがあります。ずっとケアンズに滞在して、グレートバリアリーフに通いながらスキューバ・ダイビングや内陸部へのドライブに出かけました。内陸部の自然公園では、アボリジニーのダンスを見ることが出来ました。ダンサーの男性が小さかった長男を抱っこしようとしたため、彼はビックリして大泣き。彼にとっては衝撃的な異境体験となりました。
 思えば、「異境」との出会いとは、文学における究極のテーマです。「ラブ・ストーリー」は男と女の境界線の物語。「犯罪サスペンス」は罪と罰、正義と悪との境界線の物語。「SFアドベンチャー」は宇宙と人類との境界線の物語。
 そして、こうした境界線を描くために用いられる「言葉」のもつ魔力は、我々が思っているよりずっと強力なのかもしれません。

<あらすじ>
 19世紀半ば、自然と闘いながらギリギリの生活をしている貧しい北部オーストラリア、クイーンズランド州の開拓村。その村の子供たちが、ある日、やせ衰えたアボリジニーの少年と遭遇します。
 彼は両親を失い預けられていた家に火をつけて逃亡した白人で、船乗りになって海に出て遭難。オーストラリア北部の海岸に漂着して、アボリジニーの人々と共に暮らしていました。そんな彼がある日、白人の子供たちと遭遇し、自ら彼らの捕虜になって白人の入植地で生活し始めます。彼はアボリジニーのもとで生活するうちに思考の仕方まで彼らの影響を受けるようになっていて、自然と語り合い、言葉に命を吹き込むことができるようになっていました。
 しかし、彼をアボリジニーのスパイと考える人々は彼を迫害。彼を預かった家族もまた迫害をうけ始めます。ついに彼は家族のためにも、自分のためにも村を出る決意を固めます。しかし、彼は村を出る前に取り戻すべき大切なものがありました。それは彼が調査に当たった牧師に語った証言として記された「言葉」でした。彼は自らが残した「言葉」を取り戻すことができるのでしょうか?

「異境 Remembering Babylon」
 1993年
(著)デヴィッド・マルーフ David Malouf
(訳)武舎なみ
現代企画室

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