「にごりえ」

- 今井正 Tadashi Imai -

<樋口一葉の世界>
 この映画「にごりえ」が描いているのは、樋口一葉が生きていた明治時代の日本です。その時代の日本とは、どんな時代だったのか?そこではどんな人々が、どんな言葉をしゃべり、どんなふうに生きていたのか?そんな時代の雰囲気を実に丹念に描き出している作品です。その中で歴史の教科書や小説を読んでもけっしてわからないことを見ることができます。
 たとえ今の時代に時代考証を忠実に行ったとしても、俳優たちの顔つきや言葉づかいまで、忠実に明治時代風にすることは困難でしょう。第一、それでは多くの人がセリフを理解できず、字幕スーパーが必要になるはずです。
 そう考えると、1953年に今井正監督が撮ったこの映画は、昭和27年の作品とはいえ、最近の映画では再現不可能な明治の雰囲気を濃厚に映し出しています。僕も明治生まれではないので、断言できるほど明治を知っているわけではないのですが・・・。モノクロの画面と薄暗い映像は、それだけで古さを感じさせますが、「十八夜」で娘と両親が話し合う座敷の雰囲気、「おおつごもり」で久我美子が働く井戸のある台所。これらの場所は、なんともリアルで、セットという感じがしません。たぶんそうした風景は当時はまだ普通の光景だったはずです。映画を見ることで、我々観客はいつしか明治の日本へとタイムスリップしてしまうのです。
 やはり古い時代に作られた映画には、それ以後に作られた作品にはだせない時代の雰囲気を出すことが可能なのでしょう。それはCGやメーキャップ技術の進化で補うことのできないのです。
 この映画が作られた1953年といえば、明治時代が終わってからすでに42年が過ぎています。ただし、この文章を書いている2011年から42年前というと1969年(昭和44年)のことです。従って、50過ぎのおじさんが全共闘世代を語る程度には、人々は明治時代のことを覚えていた時代だったということになります。(実は、樋口一葉は1896年にこの世を去っているので、それよりも古い時代のことかもしれませんが・・・)俳優もスタッフもまだ明治時代のことを知っていたからこそ、可能になった「明治」の再現だったのではないかと思うのです。
 そうしたリアルな表現があったからこそ、この映画の観客は明治の女性たちの苦悩もまたリアルに感じることができるのだと思います。この映画の出演者も、ほとんどがこの世を去りました。昭和もまたはるかな過去になりつつある中、明治はいよいよ伝説の中へ、時代劇の世界と大差ない時代へとなりつつあるのかもしれません。

「にごりえ」 1953年
(監)今井正
(原)樋口一葉
(脚)水木洋子、井手俊郎
(撮)中尾駿一郎
(出)淡島千景、山村聡、宮口精二、杉村春子、久我美子、仲谷昇、中村伸郎、長岡輝子、丹阿弥谷津子、芥川比呂志、岡村秋子、三津田健
<あらすじ>
「十三夜」
(日本ならではの風習で「十五夜」とともにこの日も月が美しいとされ、お月見の日とされてきました)
 十三夜の夜、嫁入りして7年がたつ娘せき(丹阿弥谷津子)が両親を訪ねて来ました。彼女は、夫にいつも「無学で使えない奴」と罵られ、家族からも相手にされていないことを明かします。もう我慢できないので、どうか家に帰らせて欲しい。と両親に泣きながら訴えました。母親(岡村秋子)はすぐに彼女に同情し、帰らなくて言いと理解を示します。ところが、父親は弟が彼女の夫のおかげで仕事についたばかりだし、7年我慢できたものがなぜこれからも我慢できないのか?と離縁を許そうとはしませんでした。そのうえ、離縁することで息子を失ってもよいのか!と娘に厳しく問いかけました。娘は、その問いに息子を失うことができないことを自覚し、夫のもとへ戻ると告げたのでした。
 帰り道、人力車に乗った彼女は、その車夫が自分の幼馴染であることに気がつきます。その男は彼女の嫁入りを知ってから身を持ち崩し、仕事も家庭も失い自暴自棄の生活ののち、かろうじて車夫として暮らしていたのでした。月明かりの中、車を降りていっしょに歩く二人は懐かしい日々を思いながら時がもう取り戻せないことを実感するのでした。
「大つごもり」(大晦日のこと)
 両親を早くに亡くし叔父夫婦に育てられてきた娘みね(久我美子)は、下女としてお金持ちの家で働いていました。しかし、その家の奥さん(長岡輝子)は底意地が悪く、次々に他の下女たちは辞めてゆくことで有名でした。ある日、彼女は叔父さんが病気であると聞き、お見舞いに行くと叔母さんから借金に困っているので、年末までになんとか2円工面できないだろうか?と頼み込まれてしまいます。人の良いみねは、これで夫婦に恩返しができると思い、奥さんに2円の前借を頼みます。ところが、奥さんはすぐにその約束を忘れてしまい、みねは困ってしまいます。
 そんな時、彼女は引き出しに20円もの大金があることを知り、ついそこから2円を盗んでしまいます。そのことが知れれば、間違いなく自分は首になる。すると奥さんは引き出しのお金を持ってくるよう彼女に言いつけます。彼女の運命は?
「にごりえ」
 芸者のお力(淡島千景)は、店の人気ナンバー1として引っ張りだこ。子供の頃、貧しさに苦しい思いをしてきた彼女は、お金に目がなく、若くてお金持ちの旦那(山村聡)と仲良くなると、しっかりとお金を使わせ、何不自由ない生活を送っていました。しかし、そんな彼女にほれ込んで身を持ち崩した男も多く、そんな男のひとり(宮口精二)につけまわされ、その子供からは「鬼」と罵られていました。その男は、お力に愛想をつかされてもなお、彼女のことが忘れられず、ついには妻(杉村春子)と子を家から追い出してしまいます。
 ストーカー殺人事件か?心中事件か?悲惨なラストと平和な街の風景が衝撃的な作品です。

<監督、今井正の生い立ち>
 この映画の監督今井正は、1912年1月8日東京に生まれています。実家は寺でしたが、高校入学後はマルクス主義に傾倒。東京帝国大学(東大)に入学するものの結局中退してしまい、1935年に京都にあったJ・Oスタジオに入社。企画部に配属されました。
 1937年、J・Oスタジオは東宝と合併し、東宝映画京都撮影所となります。そこで助監督として働き出した彼は二年後、早くも監督に昇進します。しかし、その頃日本は戦争の時代へと進みつつありました。戦時下に撮影された「沼津兵学校」は撮影中に出演者が入隊してしまうなど、戦争の影響を直接受けましたが、1939年に無事公開され、彼は監督として実力を評価されるようになります。

<戦後、左翼運動の中で>
 終戦後、時代は急激に変化します。アメリカからやって来た進駐軍が急激な民主化を日本で推し進めたこと、そしてその中心となったアメリカの官僚たちの多くが左翼思想の持ち主だったことから、日本では教育、組合活動、そして芸術の分野において左翼的な活動が活発化。映画においても、それまではまったく考えられなかったような左翼的な表現がアメリカ軍によって求められることになりました。そこでは、軍部を批判するだけでなく、資本家や政治家、そして天皇制までをも否定することが求まられました。
 そんな流れの中、もともと左翼思想の持ち主だった彼は、戦後第一作として軍部を批判した映画「民衆の敵」(1946年)を撮ります。しかし、彼はそうした直接的な軍部批判の映画だけではなく、より人々の目線に近い大衆映画の傑作をものにします。そこでは戦後の日本が目指そうとしていた民主主義や反戦思想が賛美されていますが、何より反戦後の日本国民を勇気づける爽やかな青春映画として、戦後日本映画を代表する大ヒット作となりました。それが石坂洋次郎原作の小説を映画化した「青い山脈」です。

「青い山脈」 1949年
(監)(脚)今井正
(原)石坂洋次郎
(脚)井手敏郎
(撮)中井朝一
(音)服部良一
(配給)東宝
(出)原節子、池部良、杉葉子、木暮美千代、伊豆肇、龍崎一郎、若山セツ子
 終戦後4年がたち、民主主義が日本中に広まりつつあった頃、それまでの古い生き方から脱皮しつつある高校生の行き方を描いた青春映画永遠の名作です。様々な青春スターたちの活躍と主題歌の大ヒットとともに一大ブームとなりました。

「また逢う日まで」 1950年
(監)今井正
(脚)水木洋子、八住敏雄
(撮)中尾駿一郎
(音)大木正夫
(配給)東宝
(出)岡田英次、久我美子、滝沢修、杉村春子、河野秋武、風見章子
 戦時下に出会った学生と女性画家の悲しい恋を描いた恋愛映画の名作。ロマン・ロランの小説「ピエールとリュース」を下じきに書かれた作品だったこともあり、ヴェネチア国際映画祭への出品を辞退。そして最終的に出品されてグランプリを受賞することになったのが黒澤明の「羅生門」でした。

<時代の変化>
 左翼的な映画が占領軍に求められたのは1940年代までで、それ以後、米ソ冷戦の始まりと同時に「赤狩り」の時代が訪れます。それは、すぐに日本にも飛び火し、占領軍の顔ぶれも一新され、映画の世界においても「赤狩り」が始まることになります。特に東宝はその混乱が最も大きく、有名な「東宝争議」のような大きな事件が起きることになります。この事件により、多くの左翼系映画人が東宝を去ることになり、その中に今井正もいました。
 当時、彼だけではなく黒澤明や亀井文夫、山本薩夫、成瀬巳喜男、山本嘉二郎、新藤兼人らも大手の映画会社を離れ、独立プロダクションを設立することになり、その動きは日本の映画界の構造を大きく変えることにもなりまました。幸い、当時は日本社会は経済復興が進みつつあり、その影響で映画界もまた黄金時代を迎えつつありました。そのおかげで独立プロが仕事に困ることはなく十分に利益をあげてゆくことが可能な時代だったといえます。
 彼は左翼系の劇団「前進座」と組んで1951年「どっこい生きている」を製作。翌年1952年には、山形の山村を舞台に民主主義教育を行う学校を描いた「山びこ学校」を発表。この作品はその後日本中で公開され教育界にも大きな影響を与えることになります。

「ひめゆりの塔」 1953年
(監)今井正
(原)石野径一郎
(脚)水木洋子
(撮)中尾駿一郎
(音)古関裕而
(配給)東映
(出)津島恵子、岡田英次、信欣三、殿山泰司、河野秋武、香川京子、渡辺美佐子、春日俊二
 それまで占領軍の元で戦争中の悲劇を描くことはタブーとされていましたが、占領軍が少しずつ日本を離れる中、少しずつ戦争中の悲劇を描く作品が登場し始めます。こうして誕生した作品の中でも最もヒットしたのがこの映画でした。この時期はこうした反戦映画が次々と製作されることになります。なお、この映画は、その後、1982年に今井正監督がセリフ・リメイクを行ない、さらに1995年には神山征二郎監督によって再びリメイクされることになります。

「真昼の暗黒」 1956年
(監)今井正
(原)正木ひろし
(脚)橋本忍
(撮)中井駿一郎
(音)伊福部昭
(配給)現代ぷろだくしょん
(出)草薙幸二郎、左幸子、松山照夫、内藤武敏、菅井一郎、下元勉、加藤嘉、北林谷栄
 「八海事件」という実際にあった事件をもとに冤罪の恐ろしさを訴えた裁判映画。入念な調査により被告の無罪を主張し警察による拷問を明らかにした社会派の問題作。権力との対決を危険を恐れずに行った独立プロダクション作品ならではの傑作。

 その他にも様々な名作を撮っています。
「米」(1957年)霞ヶ浦の農村を舞台に地方の因習や厳しい生活を描いた社会派作品。
「キクとイサム」(1959年)戦後日本に数多く誕生した占領軍と日本人女性との混血児への差別と彼らの生き様を田舎の農村を舞台に描いた少年映画の名作。
「武士道残酷物語」(1963年)「仇討」(1964年)中村欽之助を主演に迎えて撮られた江戸時代を舞台にして異色の反権力的時代劇。
「橋のない川」二部作(1969年〜1970年)被差別部落問題を真正面から描いた時代をこえた大作。
「戦争と青春」(1991年)東京大空襲の時代を描いた作品を完成させた後、彼は上映キャンペーン中に倒れ、1991年11月22日この世を去りました。

 左翼映画人の大黒柱存在として、様々な視点、様々なテーマを扱いながら、反戦平和、差別問題、権力の腐敗、生きることの素晴らしさを訴え続けた日本映画を代表する巨匠の作品は、昭和の日本を映し出した素晴らしい記録として永遠に残ることでしょう。 

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