- 今村昌平 Shouhei Imamura -

<あまりに日本的な監督>
 日本人の映画監督として唯一人、カンヌ映画祭で最高賞を二度受賞しているのが、今村昌平です。しかし、海外での高い評価に対して日本国内の評価はというと、以外にその知名度は低いといわざるをえません。もしかするとそれは、彼の映画があまりに日本的過ぎるからかもしれません。それも彼が日本人の本質をあまりに赤裸々に描きすぎたことに対する拒否反応だったのかもしれません。そのうえ、彼の映画はセックス描写がどぎついこともあり女性客に受けるとは考えがたい作品ばかりです。(今なら草食系男子にも受け入れがたいでしょう)しかし、そうやって彼が描き出した日本人像こそが、日本人の本質に近いのも事実。そして、当の日本人が目を背けたくなるようなこうした「日本人の欲望」は、けっして日本人だけのものではなく世界共通のものでもありました。だからこそ、海外の観客たちは彼の映画を理解し、大きな拍手を送ったのです。
 あまりに日本的な、あまりに人間的な映画を撮り続けた日本を代表する監督、今村昌平に迫ります。

<医者の息子として>
 今村昌平は、1926年9月15日東京の医師の家庭に生まれました。戦場で死なずにすんだギリギリの世代といえそうです。終戦を19歳で迎えた彼は、早稲田大学の文学部に入学。そこで後に彼のもとで俳優として活躍することになるメンバーたち、小沢昭一、北村和夫、加藤武らと出会い演劇に熱中。舞台劇の演出家を志すようになります。しかし、映画館で黒澤明の名作「酔いどれ天使」を見て感動した彼は映画監督を目指すことを決意します。
 「酔いどれ天使」は、貧しい人々を助ける町医者の活躍を描いた作品で、彼の父親はまさにそんな町医者でした。それだけに、彼はこの映画に強くひきつけられたのでしょう。そんな父親への尊敬の思いは、その後、1998年に自作「カンゾー先生」で描かれることになります。
 大学を卒業した彼は、1951年松竹大船撮影所に入社。小津安二郎監督の名作「麦秋」から「東京物語」までの作品、野村芳太郎、大庭秀雄、渋谷実らの監督作品で助監督として関わりながら監督という仕事を勉強してゆきました。ただし、彼は小津安二郎ついてこう後に語っています。
「影響を受けたことがないというよりは、受けるのはいやだという気持ちでした。つける芝居が型にはまりすぎている点なども、私にはいやだった。・・・」
田山力哉「日本の映画作家たち 創作の秘密」より
 逆に彼が好んだのはヌーヴェルバーグの巨匠ジャン=リュック・ゴダールでした。
「気狂いピエロ」というのは、イメージが豊富で、きらびやかで面白かったねえ。ことにシナリオなしで演出しているような感じが、ぼくなんかにはピンときました。それから、主人公の刹那的行動を見ていても、決して必死になっていないでしょう。軽くてゆとりがある、つまり遊びの精神があるのだね・・・
田山力哉「日本の映画作家たち 創作の秘密」より

 1954年、映画の製作を再開し、監督の募集を行っていた日活に移籍した彼は、名匠、川島雄三の元で学びながら、彼の最高傑作「幕末太陽伝」に共同脚本で参加しています。(ちなみにこの時、日活に移籍した中には鈴木清順もいました)

<監督昇進>
 1958年に監督に昇進した彼は、「盗まれた欲情」「西銀座駅前」「果てしなき欲望」と立て続けに3本の映画を監督します。そして1959年、彼にとって出世作となった「にあんちゃん」を監督します。長門裕之の主演で在日朝鮮人一家がたくましく生きる姿を描いた感動作で彼は見事芸術祭賞を受賞。一気に期待の若手監督として注目される存在となりました。しかし、そうした周りからの期待に反発するかのように彼は次作で問題作を発表。周囲を驚かせます。

「”にあんちゃん”では図らずも文部大臣賞をもらったが、あれはぼくの望んだことではなかった。そこで”豚と軍艦”では主人公を現実から脱出させることにすべてをかけた。そして”にっぽん昆虫記”では人間をさらに一皮むいてみたいと思った」
今村昌平

「豚と軍艦」 1961年
(監)今村昌平
(脚)山内久
(撮)姫田真左久
(出)長門裕之、吉村実子、丹波哲郎、小沢昭一、三島雅夫、山内明、加藤武
 米軍基地の利権をもつことで街の貧しい人々を支配し、苦しめているヤクザたちが、暴走する豚の大群に踏み潰させるというハチャメチャなブラック・ユーモア映画。この作品でみせた彼独自の作風について彼は自ら「重喜劇」と称しています。この後、貧しい人々の欲望と生命力をストレートに描く彼の作風は、生涯続くことになります。
 特に、この作品で描いた豚の大群の暴走に象徴される民衆のパワーは、1981年の彼の作品「ええじゃないか」での踊り狂う大衆によって再び描かれることになります。

「にっぽん昆虫記」 1963年
(監)(脚)今村昌平
(脚)長谷部慶次
(音)黛敏郎
(出)左幸子(ベルリン国際映画祭主演女優賞)、岸輝子、佐々木すみ江、北村和夫
 彼の作品の多くに共通するもうひとつの特徴として目立つのは、女性たちの強さです。その代表作ともいえる1963年の「にっぽん昆虫記」は、売春あっせん業を営む女性(左幸子)が、戦後の混乱する社会を力強く生き抜く姿を描いた代表作です。この作品で彼はキネマ旬報の年間ベスト1に選ばれるなど高い評価を獲得。さらにはベルリン映画祭で主演の左幸子が主演女優賞を受賞。早くも海外で彼の作品は高く評価されるようになっていました。

「この映画をみて、女の人はいやな映画と感ずるだろうし、また自分と関係ない世界のことと思うかもしれない。しかしぼくはここに日本人の原型を感じている」
今村昌平

「赤い殺意」 1964年
(監)〈脚)今村昌平
(脚)長谷部慶次
(撮)姫田真左久
〈出)西村晃、赤木蘭子、春川ますみ、露口茂、北林谷栄、北村和夫
 「にっぽん昆虫記」に続く作品「赤い殺意」(1964年)もまた女性を主人公とするものでしたが、こちらの主人公(春川ますみ)は、美しくなく賢くもない愚鈍ともいえる女性。強盗に犯されその子供を身ごもってしまったものの、それが逆に彼女を強くし、いつの間にか周りの男たちを手玉に取り始めるという異色のドラマでした。

<独立、今村プロ設立へ>
 1965年、彼は松竹を離れ、今村プロを設立。より自由に作品作りができるようになります。こうして彼が次なる作品「『エロ事師たち』より・人類学入門」で描いたのは、野坂昭如原作によるポルノ業界、セックス業界に生きる人々の生き様でした。

「人間蒸発」 1967年
(監)(企)今村昌平
(撮)石黒健治
(出)早川佳江、露口茂
 1967年、彼はATGとの共同製作によりドキュメンタリー風映画「人間蒸発」を監督。この映画は、蒸発した婚約者を探す女性(早川佳江)の旅を追った記録でしたが、その途中、妻が捜査に協力していた男性(露口茂)を好きになり意外な方向へと進んでしまいます。
 なぜ彼は社会から消えたのか?そのなぞを追ううちに、映画は人生とは何か?人は何のために生きるのか?という本質へと迫ります。

「神々の深き欲望」 1968年
(監)(脚)今村昌平
(製)山野井正則
(脚)長谷部慶次
(出)三国連太郎、沖山秀子、河原崎長一郎
 人間の欲望を描き続けた彼は、さらに本質的な欲望の原点を描くため、映画の舞台を原始的な宗教の残る南方の離島に移します。そこで営まれる伝統的な社会風俗を描くことで、共同体はいかなるシステムによって成り立ってきたのか?神々の時代から続いてきた欲望を軸に描いてみせました。もちろん、
 この映画は実際に奄美諸島で2年がかりのロケを敢行して製作されました。あまりの長期撮影に俳優たちの中には島を脱走するものまで現れ、製作費もはるかに予算をオーバー。彼にとっての代表作となったものの、今村プロは倒産の危機に追い込まれます。

<映画不況の時代>
 1970年代に入ると映画界は最も厳しい時代へと突入します。娯楽性に乏しくなおかつ常に予算超過の可能性がある彼の映画にとっては、製作費を確保することがいよいよ困難になります。そのため、彼は一時期活動の場をテレビに移し、ドキュメンタリー番組の「からゆきさん」(1973年)などの作品を発表しながら映画界復帰の機会を待ちます。
 さらにその間、彼は後進の育成を目指して横浜放送映画専門学院を設立。そのための資金集めに奔走します。この学校は現在でも日本映画大学として存在し、多くの優れた人材を育てています。その中には、三池崇史、本広克行、李相日などの映画監督や鄭義信などの脚本家、芥川賞作家の阿部和重、さらに、タレントのウッチャンナンチャン、俳優の長谷川初範、隆大介などがいます。
 1979年、彼は佐木隆三の直木賞受賞作「復讐するは我にあり」を映画化。久々に映画界に復帰します。

「復讐するは我にあり」 1979年
(監)今村昌平
(製)井上和男
(原)佐木隆三
(脚)馬場当
(撮)姫田真左久
(出)緒方拳、三国連太郎、小川真由美、倍賞美津子
 冷徹な連続殺人犯(緒方拳)の犯行と逃走の日々を描いたドキュメンタリー・タッチの作品。事実のこだわった脚本は、原作者をも驚かせるほどの調査にもとづくもので、それを俳優たちの名演技が支えることでこの年を代表する傑作となりました。(この年の日本アカデミー賞では作品、監督、脚本、撮影、助演女優賞を受賞しています)

「ええじゃないか」 1981年
(監)(原)(脚)今村昌平
(製)小沢昭一、友田二郎、杉崎重美
(脚)宮本研
(撮)姫田真左久
(音)池辺晋一郎
(出)桃井かおり、泉谷しげる、草刈正雄、緒方拳、露口茂、火野正平、倍賞美津子、田中裕子、寺田農、小沢昭一、河原崎長一郎
 江戸時代末期に起きた大衆運動「ええじゃないか」を描いた群像ドラマ。踊り狂うことでトランス状態となりすべてを忘れるというのは、世界中で行われてきた非暴力のテロ行為のようなもの。なぜ人々はそうした宗教的な行為に走ったのかを様々な登場人物の視点から描いた大作。

「楢山節考」 1983年
(監)(脚)今村昌平
(原)深沢七郎
(撮)栃沢正夫
(音)池辺晋一郎
(出)緒方拳、坂本スミ子、あき竹城、倉崎青児、左とん平、清川虹子、常田富士男、辰巳柳太郎
 1983年、姥捨て山の伝説を題材にしたこの作品により彼はカンヌ映画祭パルムドール(グランプリ)を獲得します。彼は、日本ならではの姥捨ての風習を単に生きるための人減らしととらえるのではなく、そこに生き残る者への愛があると描きました。そのためにヨーロッパの観客は、エキゾチックな姥捨ての風習を普遍的な愛の問題ととらえ、日本人以上に感動を覚えたのかもしれません。

「黒い雨 1989年
(監)(脚)今村昌平
(原)井伏鱒二
(脚)石堂淑郎
(撮)川又昂
(音)武満徹
(出)田中好子、北村和男、市原悦子、沢たまき、三木のり平、小沢昭一、小林昭二、石丸謙二郎、殿山泰司
 井伏鱒二の原作をもとに原子爆弾の直接の悲劇ではなく風評被害が生んだある女性の悲劇を描いた作品。2011年の東日本大震災でも福島を中心に放射能についての誤った知識から被爆者が危険な存在として差別される事件が起きました。日本が語り続けなければならない「原子爆弾」の悲劇についての新しい傑作もまた海外で高く評価され、カンヌ映画祭においてフランス映画芸術貢献賞を受賞。この作品のポイントは、原作のテーマだった反戦を訴えることよりも、静かなタッチで人間を描き出すことに重きを置いていたことでした。
 日本アカデミー賞でも作品、監督、脚本、撮影、主演女優(田中好子)、助演女優賞(市原悦子)を受賞しています。2011年にこの世を去った田中好子にとって、この映画は彼女の女優人生の大きな節目となる重要な作品でした。
 しかし、この作品を撮った後、彼は8年間の沈黙を余儀なくされます。しかし、8年後の復帰作で再び彼は世界を驚かせます。

「うなぎ」 1997年
(監)(脚)今村昌平
(原)吉村昭
(脚)冨川元文、天願大介
(撮)小松原茂
(音)池辺晋一郎
(主)役所広司、清水美砂、柄本明、田口トモロヲ、常田富士男、倍賞美津子、市原悦子、哀川翔
 過去を隠し、床屋を営む大人しい主人公(役所広司)と彼を取り巻く人々の静かな日常を描いたこの作品は、それまでの今村作品とは異なり、泥臭さやエロチックさを抑えた作品でした。しかし、そうした従来のイメージは「うなぎ」という生き物に象徴的に納められていて、けっして失われたわけではありませんでした。「うなぎ」は精力の象徴であり、姿形からエロチックな存在であり、なにより「うなぎ」という生き物ほど謎に満ちた生き物はいないのです。(どこで卵が生まれ、どこで育つのか、やっとその場所がわかり始めたばかりです)
 なんとこの作品はカンヌ映画祭で再びパルムドールを受賞。日本人で初めて彼は二度パルムドールを受賞した唯一の監督となりました。どうやらカンヌは日本の映画界になぜ彼が8年間も映画を撮れなかったのか?そう言いたかったのかもしれません。
 
 1988年、彼は亡き父を題材にした「カンゾー先生」を発表。尊敬する父親を映画の中に蘇らせた後、2002年、世界の巨匠が短編作品を持ち寄ったオムニバス映画「11'09'01/セプテンバー11」に日本を代表して参加。この作品を最後に息子の天願大介に後を託して、2006年5月30日彼はこの世を去りました。
 草食系男子が主流となった現代日本では、彼が描いた泥臭く汗臭くエロチックな日本人の本性はもう過去のものなのでしょうか?確かにこの50年で日本人の生き方は急激に変化してきました。しかし、そう簡単に人間の本質が変わるとも思えません。ただその本質を真正面から描こうとする作家がいなくなってきただけのような気がします。
 今頃、天国で今村監督は神々と酒を酌み交わしながら、ガハガハとすけべな話などしていることでしょう。日本以上にヨーロッパで高く評価された偉大な監督の作品を日本人なら見ておきましょう!

<追記>
対談集「頂上対決」(1998年)より、北野たけしの言葉
「・・・あの年で立派なことに、相変わらずスケベはスケベなんだよね。映画に対するスケベというか、肉欲とか肉感的なことに関してはすごい敏感。必ず、そういうシーンが出てくる。一歩間違えばエロじじいだけど、カンヌで二回もグランプリ取っちゃうような監督だからいいんだ。」
この時、今村監督は72歳でした。

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