- イギリスによる侵略と北アイルランド紛争 -

<アイルランドとイギリス>
 数多くの戦乱があった20世紀の歴史、そんな中、世紀の初めから最後まで戦乱が続いた数少ない地域。それがアイルランド、中でも北アイルランドです。ただし、アイルランドはその100年の間に戦乱の歴史に終止符を打つことができました。(もちろん、再び紛争が繰り返す可能性が消えたわけではありませんが・・・)それは解決不能といわれる世界各地の紛争の中で数少ない快挙でした。テロリズムによる混乱が続く21世紀、北アイルランド紛争の歴史を振り返ることは、非常に重要な気がします。
 アイルランドとイギリスの関係は、日本と韓国の関係に近いものがあります。アイルランドは、遥かな昔からイギリスからの侵略を受け、何度となく戦ってきました。元々アイルランドはケルト民族の国であるのに対して、イギリス(正確にはイングランド)がアングロ・サクソン、アングロ・ノルマンの国であり、民族がことなる国でした。さらに、宗教改革以降、イギリスがプロテスタントの国になったのに対し、アイルランドはカトリックの国にとどまったことから、二つの国は宗教的に対立する運命となります。そんな中、イギリスは世界一の海軍を持ったことで一躍世界一豊かな国となり、その隣のアイルランドはその植民地になってしまいます。そして、その植民地がイギリスから独立をする際にイギリスの一部として残ったのが、北アイルランドでした。なぜ北アイルランドは、イギリス領としての道を選んだのか?ここから北アイルランド紛争の長い長い歴史が始まることになります。

<イギリスによる侵略の開始>
 イギリスによるアイルランド侵略の歴史は、1177年にジョン・ド・コーシーというイギリスの貴族が北アイルランドのベルファスト近郊に兵士たちとともに侵攻したのが始まりといわれています。後に北アイルランドとなるアイルランド北部、アルスター地方は、この時からイギリスによって侵略され、長い長い植民地としての時代が始まることになったのです。イギリスからの移民の多くは、この当時からベルファストを中心とするこの地方に住み着くことになり、そのため20世紀に入りアイルランドがイギリスから独立する際、アルスター地方の一部が北アイルランドとしてイギリス領のまま残されることになります。イギリス人とアイルランド人が混在する北アイルランドはこうしてイギリスによる支配体制の縮図として混乱の歴史を運命づけられることになります。 
 16世紀に入り、アイルランドではイギリスからの侵略者に対する反乱が頻繁に起こるようになります。それらの中でも、1579年と1595年に起きたアルスター蜂起はアイルランドにとって、ケルト民族にとって最後の闘いともいえる大きな戦いとなりました。この時には、貴族や兵士だけではなく農民たちなど一般大衆も反乱軍に加わる民族の存亡をかけた総力戦となり、1603年まで戦争は続きました。しかし、強力な軍事力をもつイギリスにしだいに押し込まれてしまったアイルランドの指導者オニールとオドネル、二人の公爵は1607年にアイルランドからヨーロッパへと逃亡してしまいます。こうして、反乱は終結し、その後、イギリスによる支配の時代が始まります。
 1641年、再び大きな反乱が起きます。それはこの時期、イギリス王室がチューダー朝からスチュアート朝に代わり、アイルランド政策を大きく転換させたことがきっかけでした。それにより、カトリック教徒からの土地の没収が始まり、この厳しい植民地政策がに対する反発も強まることになります。アルスター地方を中心に始まったこの年の反乱では、アイルランド人によってイギリスからの移民たちが数多く殺されました。この反乱は、民族の争いである以上にカトリックとプロテスタントによる宗教戦争の色合いが濃いものでもありました。
 この反乱は本国イギリスで誇張され、カトリックによるプロテスタントの虐殺として大きな反発をかうことになり、ピューリタン革命の英雄クロムウェル率いるイギリス軍のアイルランド侵攻を招くことになりました。イギリス軍による復讐ともいえるこの攻撃は徹底しており、この時から「カトリック対プロテスタント」という対立の構図が、この地域の状況をより複雑にしてゆくことになります。

<オレンジメンの誕生>
 1789年、フランスであの有名なフランス革命が起きます。王制を廃止し、共和制を導入したこの革命はフランス以外の国々にも大きな影響を与えました。アイルランド国内でもイギリスの支配から脱しようとする動きが、フランス革命の影響を受けた市民階級の人々の間で生まれます。こうして、アイルランドの独立を目指す組織「ユナイテッド・アイリッシュメン」が誕生しました。彼らは、それ以前から反英国、反プロテスタントを掲げて活動していた秘密結社デュフェンダースと共闘を開始。1795年9月21日、彼らはプロテスタント住民に対する攻撃を行ないます。「ダイヤモンドの戦闘」と呼ばれるこの反乱では、攻撃を受けたプロテスタント側には20人から30人の死者がでました。
 この反乱により攻撃されたプロテスタント側は、そうした攻撃に対抗するために新たな武力組織オレンジメンを結成します。そして、このオレンジメンはカトリック教徒をアルスター地方から一掃することを目標に20世紀までその活動を続け、アイルランド紛争における主役となってゆきます。

<アイルランドの植民地化>
 1801年、この年アイルランドは「大ブリテン及びアイルランド連合王国」の一部としてイギリスに組み込まれます。それはある意味、公式にアイルランドがイギリスの植民地になったことと同義でした。当然、この時すでにアイルランドでは独立運動が始まっており、いくつもの独立運動組織が誕生することになります。そんな中、1858年に最初の武闘派集団として誕生したのが、アイルランド共和主義同盟(IRB)=フィニアンでした。
 1857年、ベルファストで北アイルランド紛争の原型ともいえる事件が起きます。それはプロテスタントの牧師トーマス・ドリュウがカトリック教徒を攻撃する説教を行なう中、オレンジメンを中心とする人々が大々的な街頭デモを展開。それに挑発されたカトリック教徒の群衆がプロテスタント系住民が経営する酒屋を襲ったため市内各所で二つの勢力が衝突、ここからオレンジメンらによるカトリック系住民への攻撃が始まります。しかし、この攻撃において警察はプロテスタント系住民の見方となります。支配する側のイギリスがプロテスタントなのですから、それは当然のことでした。そして、この構図がその後20世紀まで続くことになります。
 1864年、再び大きな衝突が起きます。きっかけはダブリン市内にアイルランド独立の英雄ダニエル・オコネルの像が立ったことでした。8月8日のこの像の除幕式にダブリン市には各地からカトリック教徒たちが集まり、街中が盛大なお祭り騒ぎとなりました。ところが、このお祭り騒ぎに参加したベルファストのカトリック教徒たちが街に戻ると5千人のオレンジメンが駅に集結しており、その後10日間以上におよぶカトリック教徒への攻撃を開始したのです。一般市民や学校などを襲ったオレンジメンの襲撃を地元の警察は見てみぬふりをしたうえにプロテスタントへの攻撃を行なうカトリック教徒への銃撃を行い多くの死傷者を出します。

<複雑な構造>
 1864年のベルファストでの暴動の際、IRB(フィニアン)たちは、オレンジメンや警官隊との戦闘に参加しましたが、当時のそのメンバーのほとんどはオレンジメンと同じプロテスタントだったそうです。彼らフィニアンたちはアイルランドの独立が目的であり、宗教とは別の次元でこの戦闘に参加していたのです。彼らはどちらかというとプロテスタントであるというよりも社会主義者だったというべきでした。
 さらにいうと、当時北アイルランドに住んでいたプロテスタントの住民は、二種類に分かれていました。それはイギリスのヘンリー8世がイギリス国教会を設立して、それまでのローマ・カトリックから分離独立したことが原因でした。(その分離独立の理由は、ヘンリー8世がカトリックでは認められていなかった離婚をしたかったからでした・・・なんというトホホな理由)
 北アイルランドには、それ以前にプロテスタントに転向していた人々が住み着いていましたが、彼らはイギリス国教会を認めなかったため、イギリスから渡ってきた新しいプロテスタント(イギリス国教会の信徒)から差別されていました。こうして、ニュー・イングリッシュ(イギリス国教会派のプロテスタント)とオールド・イングリッシュ(ルター派などのプロテスタント)の二派が存在していたのです。
 ケルト系アイルランド人とノルマン系のイギリス人という区分け以外にも、こうした複雑な宗教的分裂も存在していたことで、北アイルランドはより複雑な様相を呈することになったのです。

<独立に向けて>
 19世紀から20世紀にかけて、イギリス政府はアイルランドを独立させるための自治法案を提案します。ところが、アルスター地方のプロテスタント系住民は独立に反対し、イギリス領に残ることを主張。すでにアイルランドに住み着き土地や財産、それに数多くの利権を得ていた彼らはアイルランドの一部となることにより、それらを奪われるのではないかと恐れたのです。
 そして、1913年、アルスター地方のプロテスタント住民たちは自らの権利と安全を守るためという目的で市民有志からなるアルスター義勇軍を設立します。17歳から65歳までの男性からなるこの軍隊は、オレンジメンなどを中心に10万人もの人数となり、政府の公認を受け軍事訓練を行い本格的な軍隊に近い組織となってゆくことになります。
 同じ年、独立へと進むアイルランドではアルスター義勇軍に対抗するアイルランド共和軍(IRA)が設立されます。政治政党としてのシン・フェインの兄弟政党ともいえるIRAは正式な軍事組織として本格的に活動を開始することになります。ただし、設立当時のIRAはアイルランド政府公認の軍隊でしたが、1924年以降、その存在は非合法とされることになります。テロ組織として、その名を世界中に知られることになるIRAはそれ以降の非合法組織のことと考えてよいでしょう。
 1914年に第三次アイルランド自治法案が成立し、1919年に国民議会が開設される中、アルスター地方の行くへは棚上げとなりますが、分離独立への動きは着実に進んでいました。1921年、北アイルランド議会が召集されますが、そうした状況のもとプロテスタントとカトリックの対立はさらに激化します。イギリス政府は、アイルランド在住のイギリス系住民(プロテスタント)を守るために特別部隊「ブラック・アンド・タン」を投入します。犯罪者たちを中心に編成されたその部隊は無差別にカトリック系住民を弾圧。さらに北アイルランド政府は、同じ目的でアルスター特別警察(俗称「スペシャルズ」)を設立します。

<スペシャルズ>
 アルスター特別警察またの名をスペシャルズと名づけられた公式の暴力組織、それはまさに「放し飼いのテロリズム」そのものでした。彼らはオレンジメンと共にカトリック系住民への暴力行為を繰り返し、1921年7月10日には一週間にわたって続く歴史的な惨事を引き起こします。この時の攻撃により216軒のカトリック系住民の家が焼かれ、23人の死者が出ました。この時、プロテスタント系住民の家は一軒も焼かれなかったことからも、いかにこの騒乱が公的組織までもが参加した一方的なものだったのかを物語っています。暴力行為を取り締まるはずの警察は、この時完全に見てみぬ振りをしていたのです。こうして、1921年以降、北アイルランドはオレンジ国家と呼ばれるようになります。
 本国アイルランドではその後南北統一のための議論が続くことになりますが、第二次世界大戦の混乱などもあり、国民の意識はそこから離れてゆき、1962年にはIRAが闘争終結宣言を発表します。しかし、一時的な平和はプロテスタント系過激派の政治家ペイズリーの登場により、再び混乱の時期を迎えることになります。

<60年代末の過激な時代>
 1964年9月28日ベルファストでRUC(アルスター警察)がアイルランド独立はの本部を攻撃します。カトリックの撲滅を宣言して、オレンジメンの新リーダーとなったペイズリーによって、再び時代は危機的状況を迎えることになりました。さらに、1960年代後半は世界中が変革の嵐に巻き込まれていました。アイルランドもまた例外ではなく、アメリカで盛り上がっていた公民権運動の影響が独立運動の再燃をもたらします。1967年2月北アイルランド公民権協会が設立され、具体的な要求を掲げて運動を開始します。
(1)すべての市民の基本的権利の確立
(2)個人の権利の擁護
(3)あらゆる権力濫用の摘発
(4)言論・集会・結社の自由の保証
などなど

 1972年、デリー市ではイギリス軍が公民権協会主催のデモ隊に発砲。13人の死者を出し「血の日曜日事件」と呼ばれる大惨事となります。
 ポール・マッカートニーの「アイルランドに平和を(Give Irland Back To the Irish=アイルランド人にアイルランドを返せ!)」、ジョン・レノン&ヨーコ・オノの「Sunday Bloody Sunday」は、この事件について歌った曲で、北アイルランドにおける紛争をおさめる立場にあるはずのイギリスがアイルランド市民に銃を向けたことは、海外からも強い批難を浴びることになりました。(後にU2は、この事件について歌ったオリジナル曲「ブラディ・サンデイ Bloody Sunday」」で一躍その名を世界中に知られることになります)
 もともとイギリスが植民地支配を行なっていたことから始まった紛争をその当事者であるイギリスがおさめようと試みることに根本的な問題点があったのですが、そうした混乱の中、1973年北アイルランドのイギリスへの帰属を決めるための住民投票が行なわれます。

<北アイルランドの行方>
 イギリスへの帰属を決めるための投票に、少数派のカトリック系住民は棄権を選択。プロテスタント系の右派は、将来的にカトリックの人口が増えた場合、逆転もありうることから反発しましたが、結局、イギリスへの帰属が決まりました。しかし、それで事態が収まることはなく、その後もアイルランドでは混乱が続き、多くの犠牲者が出ます。しかしその頃、そうした状況を変えることになる新たな動きが始まろうとしていました。それは女性たちを中心とするそれまでとは異なる平和運動でした。プロテスタント、カトリック両宗派の婦人たちが子供たちの犠牲者をこれ以上増やさないために平和デモを開催。ここから、それまでの運動とは異なる新しい時代の流れが始まることになりました。1977年、この運動の中心となったウィリアムズとコリガン二人の女性には、ノーベル平和賞が送られています。
 1980年、ベルファスト郊外のメイズ刑務所に服役中のIRA活動家が犯罪者として扱われていることに抗議し、政治犯としての扱いを希望。それが法的に認められるまで食事を拒否。この命がけのハンガーストライキで10名の活動家が命を落とし、そのおかげでかろうじて待遇の改善が行なわれることになりました。その後は裁判においても公正さな判断が行なわれるようになり、1990年代にはそうした改善の結果、和平への道筋が見えてきました。
 1992年、イギリス政府は、それまで見てみぬ振りをしていたプロテスタントの過激派組織を非合法と認定します。これによって「放し飼いのテロ」に終止符が打たれます。
 逆に反対組織のIRAは、それまでの抗争における犠牲者や遺族に対し謝罪をし、平和に向けた方向転換を実行します。両方面で行なわれたこうした歴史的転換により、急速に和平が進むことになり、1994年8月31日、イギリス政府との協議の席についたIRAは、ついに停戦宣言を発表します。
 その後も、小さな小競り合いは起きるものの、少しずつ状況は改善。そうした安定した状況は、海外からの投資や企業進出のきっかけとなり、経済的にもアイルランドは急激に発展することになりました。
 民族と宗教の違いから始まった20世紀を代表する紛争の歴史は、その構造の複雑さゆえに解決は困難と思われていましたが、世紀の終わりまでになんとか解決にこぎつけたようです。世界中に数多く存在する紛争の中では、数少ない成功例として、もっと語られるべき存在のように思います。

<おまけ:アイルランドを知るために>
 映画や小説にアイルランド系の移民やアイルランドを舞台にしたものはけっこうあります。しかし、アイルランド紛争の歴史を知るとより深くドラマを理解できるようになるでしょう。
 シドニー・ルメットの「ファミリー・ビジネス」(1989年)の主人公たち。「Q&A」のニック・ノルティ。ブライアン・デパルマの「アンタッチャブル」の中のショーン・コネリー。コーエン兄弟の「ミラーズ・クロッシング」はアイリッシュ・ギャングの物語でした。「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラ、ダニエル・デイ・ルイス主演「マイ・レフト・フット」のお母さん(ブレンダ・フリッカー)、「ザ・コミットメンツ」の若者たち、「バックドラフト」の消防士たちのほとんどはアイリッシュです。
 アイルランドを舞台にした映画としては、アイリッシュのジョン・フォード作品の中でも名作といわれる「我が谷は緑なりき」「静かなる男」。デヴィッド・リーンの名作「ライアンの娘」。それから、 「鷲は舞い降りた」は、第二次世界大戦において反英国であるがゆえにドイツ軍に協力することになったアイルランド人たちの戦争映画でした。
 アイルランド紛争について描いた作品として重要な作品としては、ニール・ジョーダン監督の名作「マイケル・コリンズ」(1996年)とケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」THE WIND THAT SHAKES THE BARLEY (2006年)があります。
 作家でいうと、ジョナサン・スイフト、バーナード・ショー、サミュエル・ベケット、G・K・チェスタトン、ジェームス・ジョイス、オスカー・ワイルド、W・B・イェーツ、バーナード・ショーなどがアイリッシュでした。
 ミュージシャンでは、ビートルズジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、ポール・マッカートニー、トム・ジョーンズ、エルヴィス・コステロポーグス、ホットハウス・フラワーズ、クラナド、シンニード・オコーナー、ヴァン・モリソン、エンヤ、U2、ウォーター・ボーイズ、オイスター・バンド、クリス・レア、シン・リジィ、ロリー・ギャラガー、ゲイリー・ムーア、メアリー・ブラック、クランベリーズ、ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフなど

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