- さらば愛しきトルコの人々よ -

最終回 <イスタンブール>

<イスタンブール到着>
 僕のトルコの旅も、終点のイスタンブールに到着して、なんとか無事に終わりを迎えようとしていました。しかし、途中の無理がたたり、お腹の状態が最悪で身体には力が入らず、ヨレヨレ状態でのイスタンブール入りとなりました。幸い僕の会社の先輩、物井さんがお世話になっているトルコ人一家の長男イブラヒム君が迎えに来てくれたので、その日は彼が予約してくれたホテルに直行、そのままバタンキューすることができました。
 これでなんとか無事日本に帰れるだろうと思うと、とりあえず一安心。でも、そんな安心感と緊張からの解放のせいか、その後体調はなかなか良くならず、日本に帰ってからも、しばらくはお腹の調子が悪いまま。結局病院に行って抗生物質をもらうまで直りませんでした。(これ以後、僕は海外旅行に出かける時は必ず知り合いの看護士さんに抗生物質をもらって行くようになります。案の定、その抗生物質は次のインド旅行の際多いに役立つことになりました)

<イスタンブールと髭>
 翌日も体調はさっぱり良くならず、午後になってからなんとかベッドから這い出すと、近くのロカンタ(食堂)で昼食をとり、その後スーパーでひげ剃り用具一式を買い久しぶりに髭を剃りました。といっても、髭を全部剃ったわけではなく鼻の下とアゴの髭はそのまま残しました。もともと大学の頃から口髭ははやしていたのですが、今回はさらにパワー・アップ。帰国後この髭面で久々に出社した時、管理課の部長が嫌そうな顔をして「鈴木君、もしかしてその髭剃らないつもり?」ときいたのですが・・・「はい!」と一言。
 いやー、今考えると本当に生意気な社員でした。でも、そうやってつっぱるのも仕事に対するモチベーション・アップにつながるものです。(一応技術者としての能力に自信はあったからこそ、そこまで言えたのですが・・・)

<トプカプ宮殿にて>
 結局、その日は物井さんに連絡がつかず、翌日やっと久しぶりに会うことになり、イブラヒムと3人でホテルからトプカプ宮殿まで散歩に出かけることになりました。美しい海を見渡す場所に立つトプカプ宮殿までは、けっこうな上り坂だったこともあり、体力のない僕にはかなりきつく、ホテルにもどるとまたバタンキュー。いやはやせっかくの眺めを楽しむ余裕もありませんでした。しかし、この時の悔しさは、その5年後に再びトプカプ宮殿を訪れることで取り返すことになります。それも新婚旅行で、・・・。まあ、このお話はまたいつかということで、・・・。
 とにかく、トプカプ宮殿についたら、馬鹿でかいサファイヤも良いですが、是非館内のベランダから眼下に広がる海を眺めて下さい。高台に立つトプカプ宮殿から眺めるボスボラスの海の美しさは、そこに収められた膨大な財宝にまさる美しさです。

<ヨーロッパからアジアへ>
 翌日、いよいよ僕は物井さんの別宅となっているトルコ人一家のお宅を訪ねることになりました。ただし、僕が泊まっていたのは観光のメイン・スポットが集まる旧市街のホテルだったため、その家のあるアジア側へ行くためには、ガラタ橋そばのエミヌヌから船に乗ることになります。わずか10分ほどの船旅ですが、この船は巨大都市であると同時に複雑な歴史的構造をもつイスタンブールの街を象徴する存在と言えます。
 なぜなら、イスタンブールの街は新市街、旧市街、アジア側という歴史的、文化的、社会機能的にまったく異なる3地域からできていて、それを結ぶ船は庶民の足であると同時に文化と歴史の交差する場所でもあるのです。
 そんなイスタンブールの街の面白さを理解してもらうためにちょっとだけ街の歴史について書いてみようと思います。とりあえず、イスタンブールの街は、歴史の流れの中でどの国に属していたのか、その変遷を追ってみましょう。

<イスタンブールの歴史>
 この街は紀元前7世紀頃はギリシャ、その後ペルシャ、アレクサンドリアを経て、紀元前2世紀頃ローマ帝国の支配下となっていました。そして、この時街の名はビザンチウムとされ、その後4世紀頃ローマ帝国が東ローマ帝国に別れてからはコンスタンチノープルという名の首都として栄えるようになります。
 しかし、その後セルジューク・トルコがしだいにヨーロッパに迫ってきて、かつて東ローマ帝国の領土だった現在のトルコ(小アジア)をほとんど攻略。東ローマ帝国はコンスタンチノープルから北の地域へと追いやられます。
 その後12世紀には再びビザンチン帝国(元の東ローマ帝国)が勢力を拡大し、トルコ(小アジア)の一部へと領土を増やしますが、15世紀にオスマン・トルコが再び勢力を拡大。ついにコンスタンチノープルだけがビザンチン帝国最後の砦(領土)となり、まわりをすべてオスマン・トルコに囲まれてしまいます。そして、16世紀には完全にトルコ領となり、その後第一次世界大戦後にイスタンブールという現在の名前になり今に至っています。
 ようするにイスタンブールの街はヨーロッパ(キリスト教文化圏)だったりアジア(イスラム文化圏)だったり、時代によってまったく異なる姿に変貌をとげていたということです。なかでも旧市街と呼ばれる地域はコンスタンチノープルの中心であると同時に海と城壁で囲まれた巨大な要塞都市でもありました。それだけに、その地域にはトプカプ宮殿のような王様が住む宮殿やアヤ・ソフィア寺院のような巨大なモスク、それに有名なグランド・バザールのような巨大市場など歴史的な建造物が集中しているわけです。
 そして、それらの建物の多くは支配者が変わるたびに彼らによって改築されたため、その変遷が建造物の壁などに残されています。例えば、アヤ・ソフィア寺院内の壁の塗装の下からは、ビザンチン時代のマリヤの絵が発見されていますし、その近くの住宅地の下には巨大なローマ時代の貯水池が発見されています。これほど歴史が幾層にも積み上げられた例は他にないでしょう。
 というわけで、旧市街は歴史的建造物が集まる観光地、新市街はイスタンブールの都市機能、オフィス街などが集まる地域、アジア側が庶民の住む住宅地と大きく分けることができるのです。

<ハッサン家のヴィラ・ロザ>
 僕が訪ねるハッサン家は、そんなアジア側にある数少ない観光地ベイラベイ宮殿のすぐそばにあるビラ・ロザ(バラの館)内にあるとのこと。ただし、アジア側ではあっても彼らはどうやらトルコの一般庶民ではないようでした。
 僕の先輩の物井さんが、その一家と知り合いになったのは、日本に留学に来ていたトルコ人の学生からトルコに旅行に行くなら届け物をしてくれないか、と頼まれたのがきっかけでした。そして、彼が頼まれた手紙と荷物をハッサン家に届けに行ったことで彼らと知り合いになり、すっかり気に入られてしまいました。こうして、その後彼が毎年トルコに行くたびに彼のためには部屋が用意されるようになったのでした。
 僕も、以前からその家族のことは物井さんから聞かされていました。その家で開かれたパーティーでトルコの大統領夫人に紹介されたとか、その家のおばあちゃんはロシアからの亡命貴族の出身でトルコの外交官夫人だったとか、どうやらかなりの名家のようでした。そんなわけで、僕もその家を訪ねるのを楽しみにしていました。

<これぞハイ・ソサエティ>
 船でアジア側に着いた僕はタクシーに乗り、地図を見せて目的地を告げました。以外にそこは港から近く、車から降りると、先ずその家の前には大きな土産物屋さんがあります。どうやら、ハッサンの家自体が観光地のようでした。僕はビラ・ロザの入り口で守衛らしき人物にミスター物井に会いに来ると、さっそく中へと案内されました。こうして、僕は門の中に入ったのですが、なんとそこは大きな庭で中には建物が何軒もあり、どこに行けばよいのかさっぱりわかりません。それは庭というよりは公園でした。そこは明らかに観光スポットとして作られた場所でした。公園のように見えたのは当然で、そこには観光客がツアーなどでどんどん訪れ、中には日本人の姿もありました。
 実はハッサン氏はトルコ観光業界の大物人物なのでした。だからこそ、彼の家に大統領夫人が訪れたりしていたのです。そして、そんなハッサン家の人々が住む家は、何軒か建っている建物の中でももっとも奥にあり、すぐそばには海がある以外にこじんまりとして風格のある素敵な家でした。

<ハッサン家の人々>
 さっそく物井さんが僕を家族に紹介してくれました。ハッサン家の家族構成はこうです。
 先ずは家族の精神的中心といった感じのハッサン氏の母親ハジャネ。そして、彼女の息子であり家長のハッサン氏。彼のお嫁さんで家を取り仕切っている感じの明るいお母さんファトマ。そして、子供が二人。長男のイブラヒムとイギリスに留学中で夏休みで帰ってきていたムスタファ。
 ロシア革命の時、トルコに亡命してきたというハジャネの父親はトルコでは外交官として活躍し、彼女も父親とともにヨーロッパ各地を回ったとのこと。それだけにハジャネは80歳を過ぎているにも関わらず背筋もピンとしていて、何より気品と風格がありました。本物のハイソといった感じです。(物井さんがその後しばらくして小樽を訪れた時、僕のおばあちゃんに会い、ハジャネとそっくりだと言ったのを思い出します。二人は年齢的にも近く、見た目もその意志の強さもそっくりでした)
 そんな偉大な母親に比べ家長のハッサン氏は、ちょっと迫力不足で普通のおじさんといった感じでしたが、仕事に関しての彼はかなりのやり手のようでした。彼の仕事は単なるお土産やさんではなく、革製品などを中心にファッション関連の卸と販売も手広くやっており、僕がおじゃました翌日にはその庭で秋冬革製品のファッション・ショーが行われることになっていました。もちろん、僕も招待されて翌日再びハッサン家を訪れることになりました。

<豪華なパーティーにて>
 翌日、僕は持っていた中でも一番ましな服を着てハッサン家を訪れました。すると玄関には5、6人編成の楽団がいて、お客さんが到着するたびに音楽によるお出迎えをしていました。それはファッション・ショーであると同時に大きなパーティーであり、大商談会でもありました。僕と物井さんはハッサン家の人々と同じテーブルにつきましたが、我々日本人二人組はなんだか日本から来たヤクザの用心棒といった感じに見えたかも知れません。
 そんな僕たちを横目で見ながらどんどんお客さんたちがやって来ます。その間もメイン・ステージでは、本格的なバンドが演奏をしていて、なんだか映画「ゴッドファーザー」の結婚式のシーンを思わせます。なんとその庭には小さな港があり、正装したお客さんを乗せたチャーター船がヨーッロッパ側からお客さんを乗せてきていました。船でパーティー会場に行くなんてなんとお洒落な!これぞウォーター・フロントの正しい使い方です。

<ボスボラスの海にて>
 イスタンブールと言えば、ボスボラスの海の美しさが有名です。しかし、そこで泳いだ人はそうはいないでしょう。だいたいビッチリと家が建つイスタンブールの街に海水浴場らしきものはないのですから。とはいえ、海が大好きな僕としてはやはり海の中が覗いてみたい、そうイブラヒム君に言うと。
「じゃあ、うちの庭で泳いでみて下さい」なるほど、彼の家の庭からは、梯子でそのまま海に入れるようになっているのでした。さっそく僕はイブラヒム君とボスボラスの海へ飛び込んでみました。イスタンブールの街に工場はないのでしょう。それに黒海とエーゲ海を結ぶ海峡ということで常に海流が流れているせいか都会の真ん中でありながら、海は驚くほどきれいでした。さらに持ってきた水中メガネを使って潜って海の底を覗いてみました。海の周りは石の壁になっていて、まるで海底遺跡を探索しているような気になりました。考えてみると、その海にはローマやトルコが何世紀にも渡って攻防を繰り返してきた歴史の残骸が未だに眠っているのです。
 その後、イブラヒム君は僕を本物の海水浴場にも連れていってくれました。意外なことに、イスタンブールの街には地元の人たちのための海水浴場もあるのです。イスラム圏ではありながらさすがは、ヨーロッパの街です。お客さんはさすがに若者たちばかりでしたが、一応女性客もいました。ただし、その海水浴場もけっして大ぴらに開かれた場所にあるわけではなく、若者たちの隠れ家的場所といった感じでした。
 こうして、僕はトルコでの最後の数日をのんびりとゴージャスに過ごさせていただきました。

<旅の終わりに>
 わずか21日間の旅でしたが、僕にとっては青春時代をもう一度味わうことでまた一歩大人になれた旅だったように思います。(まだまだ若造だったのですが・・・)
 旅行から戻ったばかりでごちそうを出せなくてご免なさい、と言ったシベレキの高校の先生の奥さん。
 ディヤルバクルからのバスの中で、恥ずかしそうに干しぶどうの袋を差し出した隣の席のおじさん。
 ワン湖のほとりで、僕の水中メガネをつけてポーズをとってみせたやんちゃな男の子。
 旅で出会ったトルコの人々はみんな優しく内気で誇り高い人々でした。彼らは名誉を重んじ、家族を大切にし、人に優しくする人々でした。
 それはまるで小津安二郎の映画の中の古き良き日本人の姿を思わせました。だからこそ、僕は旅の途中で何度も懐かしさで胸がいっぱいになったのだと思います。僕が子供の頃、日本人はみんなこうだった。トルコの旅は、昭和の日本を旅することであり、少年時代の思い出を旅することでもあったのです。
 心優しきトルコの人々に、神のご加護があらんことを!

<締めのお言葉>
「『そして、みんなにいってほしい』と、彼はふたたび口をひらいた。
『生めよ、ふえよ』とな
『こんちくしょう、人間は親切でなきゃだめだよ』」

カート・ヴォネガット著「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」より

<追記>
 このサイトのトルコ映画「路」のページを見た高橋建志さんいう方から本を送っていただきました。その本「イスタンブールで待ち合わせ」(文芸社)には、なんと僕と同じように映画「路」をみてトルコ一人旅を敢行した作者の同じ1986年の旅のことが書かれていました。なんという偶然、そのうえ高橋さんはその10年後に奥様をトルコに連れていった時のことも書いていますが、実は僕も新婚旅行でトルコを再訪したのです。映画「路」の影響力に改めて感動すると同時に、芸術はこうして人々の心に影響を与えつつ世界を変えることができるのかもしれないと思いました。
 そう考えると、このサイトを見てトルコに行ってみたくなった人がいたら幸いです。
 そして、このサイトに何度も登場している今は亡き物井さん(物井についての思い出)への恩返しにもなると思います。

 最後に僕の大切な人生の師匠だった物井さんの冥福を改めて祈り、この旅の物語を終えたいと思います。あとはみなさんが続きを書いて下さい。良い旅を!

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