- 白井義男 & アルビン・ロバート・カーン -

<ボクシング黄金時代>
 1950年代から1960年代にかけての20年は、日本におけるボクシングの黄金時代でした。実は、世界チャンピオンの数だけをみると21世紀初めの日本は最高の時代といえるのですが、世界チャンピオンの価値が現在はあまりに低すぎます。なにせ、21世紀初めの世界チャンピオンの数は、17階級×4団体で68にもなる計算なのです。(統一チャンピオンもいるのですが・・・)それに比べると、1950年代世界チャンピオンの数は、8階級×1団体ですから、わずか8しかなかったのです!そのうちの一つを日本人がとった時の日本国内の盛り上がりは、どれほどのものだったか!まして当時の日本は焼け野原から脱したばかりで、やっと経済発展が始まろうとする時代でした。もちろん経済だけでなくどの分野においても、日本が世界に誇れるものなど何もなかったのです。
 1952年に日本人初の世界チャンピオンが誕生した試合に集まった観客は、なんと4万人。会場は、後楽園球場でしたが、野球場でボクシングの試合が行われるなど、今では絶対にありえないことです。
 1966年、日本武道館で行われたファイティング原田の2度目の世界タイトル防衛戦のテレビ視聴率はなんと63.7%!同じ年に来日したビートルズのコンサート中継の視聴率が56.5%だったのですから大変な数字です。この視聴率は、テレビ界における歴代高視聴率ランキングにおいても5位に位置しているといいます。
 この数字だけでも、当時いかにボクシングの人気が高かったかがわかります。

<テレビとボクシング>
 ボクシングの黄金時代はテレビが急速に普及した時期と重なっていました。
 たとえば、日本テレビがボクシング中継を開始した1954年、テレビはまだほとんど普及しておらず、人々の多くは街頭テレビでボクシング中継を見ていました。しかし、その後、TBSが1955年、フジテレビとテレビ朝日が1959年と次々にボクシングの中継を開始し、1960年には一週間どの曜日のゴールデンタイムにもボクシング中継があったといいます。テレビで放映するためのコンテンツがまだ少なかった時代、ボクシングのように放送時間が読めて、NGのないスポーツ中継は最高のコンテンツだったといえます。その後、テレビの普及率も、番組の充実によってどんどん高くなりました。1957年にはまだわずか7.8%だったテレビの普及率は、3年後の1960年には一気に45%にまで上昇しています。
 改めて考えてみると、テレビとボクシングは、日本の高度経済成長と切り離すことのできない関係にあったといえます。
 当時、日本人が世界チャンピオンに挑戦するためには、実力以外に困難なハードルがありました。それは、試合のために用意しなければならない巨額の資金です。経済的にまだ弱かった日本で、試合のために必要な資金を用意できるプロモーターは、日本にはまだ存在しませんでした。したがって、世界チャンピオンへの道には、日本全体の経済発展もまた必要不可欠だったのです。そして、その資金を生み出すためにも、テレビ中継の存在が不可欠でした。

<世界進出のための助っ人>
 スポーツに限らず、何かのジャンルにおいて日本が世界に追いついた時、そこには異国からの助っ人の存在があったように思います。
 サッカー界においては、東京オリンピックでのベスト8とメキシコでの銅メダルへの下地を作ったデットマール・クラマー監督をはじめ、ハンス・オフトからザッケローニまで、海外からやって来た優れた指導者を数え上げるときりがありません。それ以外にも、ブラジル帰りのキング・カズもまた海外からの逆輸入助っ人だったといえます。
 もちろん、それはスポーツ以外でもいえることです。
 あの明治維新においても、ヨーロッパに渡って勉強してきた榎本武揚のような人々だけでなく、アメリカ育ちのジョン万次郎やグラバーのような日本を愛した外国人たちの存在は不可欠だったはずです。彼らの活躍がなければ、江戸幕府が倒れた後、日本はすぐにでも西欧列強の植民地になっていたかもしれません。
 そして、ボクシングもまた例外ではありませんでした。
 白井義男というボクサーが世界チャンピオンになれたのは、間違いなく彼を見い出し、指導し、世界挑戦のチャンスを与えてくれたカーン博士のおかげでした。もちろん、カーン博士と白井義男の出会いは偶然でしたが、白井が世界チャンピオンになれたのは、彼自身の努力があってこそのものでした。
 ジョン万次郎が様々な幸運に助けられて日本に帰国できたことは奇跡的としかいえませんが、それを可能にしたのは彼の人間性を認め信じてくれた多くのアメリカ人たちの助けだったともいえます。キング・カズのブラジルでの成功も、彼の努力を見て彼を信頼するようになった同僚たちが、彼にラスト・パスを出してくれたから可能になったことです。
 白井義男とカーン博士のコンビもまたその好例だったといえます。

<白井義男>
<奇跡の出会い>
 白井義男は1923年(大正12年)東京に生まれています。彼がボクシングと出会ったのは、小学生時代、お祭りの夜店でのカンガルーとの試合だったといいます。当時は、ボクシングは一般的なスポーツではなく、テレビもない時代、生で見ない限り出会うことはなかったはずです。そう考えると、その時代はボクシングというスポーツと出会うことすら奇跡的な出会いだったといえるかもしれません。それでも、ボクシングというスポーツは娯楽やスポーツの種類が少なかった当時としては身近なスポーツでした。野球と同じように西欧から来たスポーツということで敵性スポーツとされたものの、格闘技としての価値はあると認められ戦争中もボクシングは「拳闘」として続けられていました。
 1943年、20歳の時に彼は近所のボクシング・ジムに入門。2週間後にはデビュー戦で中堅どころの選手を1ラウンドでKOしたといいます。その後も、敵なし状態が続きますが、戦況が悪化したためにボクシングの興行自体が禁止されてしまいました。彼も召集され、飛行機整備を担当する部署に配属された後、硫黄島の基地に向かうことになります。ところが、そのころすでに大型の輸送機が不足し始めており、彼の硫黄島行きは中止となりました。この時、もし彼が硫黄島に行っていたら、間違いなく彼はそこで死んでいたはずです。
 かろうじて、彼は無事に終戦を迎えることになりました。しかし、厳しい軍隊生活と栄養不足により、彼は腰を痛めており、2年半のブランクもあって、ボクサーとしての選手生命は危機的状況にありました。。
 1948年、彼はすでに25歳になっており、ジムでの練習は続けているものの早くも引退を考え始めていたようです。ちょうどその頃、一人の外国人が偶然ジムを訪れ白井の動きに目を止めました。そして、彼の練習を指導させてほしいと申し出たのです。その人物が、彼の人生を変えることになる進駐軍の将校、アルビン・ロバート・カーンでした。「カーン博士」と呼ばれていたその人物は、イリノイ大学で生物学と栄養学の教授を勤めていましたが、戦後、日本の食糧支援のために海洋生物資源の調査に来日していました。当時、56歳だった彼の趣味はボクシングでしたが、運動生理学を研究していた彼にはそれはもうひとつの専門分野だったともいえます。そんな彼だからこそ、白井というボクサーの才能に気がついたのです。
 こうして白井が所属する日拳ジムの許可を得たカーンは、彼の生活費を自分が援助するという条件で彼の専属コーチとなりました。

<カーンとの共闘>
 カーンのボクシング理論は明解でした。
「ボクシングはショーではない。スポーツなのだ」
「ボクシングとは、相手に打たせず、自分が打つ」

 当時、日本ボクシング界の英雄は、「拳聖」と呼ばれたピストン堀口で、彼が得意としていた攻撃中心の玉砕戦法的スタイルは、そのまま日本人ボクサーすべてのボクシング・スタイルとなっていました。(世界のボクシング・スタイルも、かつてはそうでしたが・・・)
 こうしたスタイルに対し、カーンはあえて守りから試合に入り、相手に打たせずにこちらが打つスタイルを徹底させました。もちろん、そのためには相手を上回るだけのスピードとスタミナが求められました。幸いにして、カーンの実家が富豪だったこともあり彼はお金に困ることはありませんでした。そこで彼は米軍のルートも利用することで白井に栄養豊富な食事をとらせることができました。そのおかげもあり彼の体力はしだいに回復し、誰にも負けないスピードを得ることができました。
 カーン理想のスタイルを学んだ白井は、復帰後も連戦連勝を続け、1949年花田陽一郎を5ラウンドKOで倒し、日本フライ級チャンピオンの座を獲得します。カーンはさらに強い相手を求めて、一階級上バンタム級の日本チャンピオンであの「拳聖」ピストン堀口の弟、堀口宏とのダブル・タイトルマッチを実現させます。
 当時、「世紀の一戦」といわれたこの試合は、NHKラジオが初めてボクシング中継を行ったことでも知られており、日本中の注目を集めました。そして、白井はこの試合にも勝利をおさめ、見事二階級制覇を成し遂げました。この試合での勝利で自信を深めたカーンは、いよいよ世界チャンピオンへの挑戦を考え始めます。しかし、日本人の世界挑戦は当時まだ遥か先の夢のまた夢の話でした。

<世界挑戦への苦難>
 当時、日本人ボクサーが世界チャンピオンに挑戦するには様々な障害がありました。単に挑戦者となりうる実力があればいいという問題ではなかったのです。挑戦するためには、巨額の資金が必要でした。まだテレビもなかった時代には、放映権料を得ることはできませんでしたから、スポンサー探しも困難でした。それに、どうすれば、チャンピオンとコンタクトがとれるのか?どうやってタイトルマッチを組めばよいのか?条件の交渉をどうすればよいのか?挑戦するために必要なことを誰も知らなかったのです。
 第一、ビデオどころかテレビもない時代に、世界チャンピオンはどれほど強いのか?どんなボクシング・スタイルなのか?まったくなんの情報もありませんでした。そうなると、たとえ世界ランキングの1位になったとしても、チャンピオン側から話がこない限り、世界への挑戦はなかったでしょう。
 そう考えると、白井にボクシング先進国であるアメリカ人の優秀なブレーンがいなければ、世界への挑戦はなかったと考えざるをえません。そして幸いなことに、彼にはもうひとり重要なアメリカ人の助っ人が現れることになります。それは、当時の世界フライ級チャンピオン、ダド・マリノのプロモーター、サム一ノ瀬です。
 ハワイ、マウイ島出身の日系二世である一ノ瀬にカーンが、「日本に錦を飾らないか」と日本での試合を申し込むと、両親の故国日本に思い入れがある一ノ瀬は、ノンタイトル戦ならと了承します。実は、ダド・マリノはフィリピン系の移民で、アジア人であるがゆえにチャンピオンになるまでに様々な苦労がありました。それだけに一ノ瀬は同じアジア人である日本人にもチャンスを与えたい。そう考えたようです。
 1951年、来日したダド・マリノは、オープン・カーで銀座・新橋間をパレードし、何万人もの観衆を集めたそうです。それはたぶん1970年代のパンダ初来日を思わせる盛り上がりだったのでしょう。
 ノンタイトル戦とはいえ、後楽園球場に2万5000人もの観客を集めたその試合で、白井は戦前の予想を覆して大健闘し、判定で敗れたとはいえ、五分五分の戦いみせました。この結果により、白井は一気に世界ランキング入りし、7ヵ月後にはホノルルでマリノと対戦し、今度は見事7ラウンドTKO勝ちを収めます。そうなると、いよいよチャンピオン側も正式なタイトル・マッチをしなければならなくなります。
 ところが、ここで再び大きな障害が明らかになりました。チャンピオンのファイトマネー2万5000ドルを含め、試合に必要な資金を白井側では到底準備できないことが明らかになったのです。ところが、ここで再び一ノ瀬が助け舟を出してくれます。彼は、タイトル・マッチの興行権と白井が勝った場合の次の試合の興行権をもらうという条件で資金を提供してくれたのです。この時、すでに35歳となっていたマリノの敗戦は近いと考えていた一ノ瀬は、どうせならチャンピオンの座を故国日本のボクサーに渡し、ついでに自らもお金を稼ごうと考えたとも考えられますが・・・。

<歴史的な勝利>
 1952年5月19日、後楽園球場で日本初の世界タイトルマッチが行われました。この日の観客はなんと4万人!この数字は日本のボクシング史上いまだに破られていないそうです。この時、白井は29歳。最初で最後のチャンスだったかもしれません。この試合、マリノはけっして油断はしていなかったはずですが、年齢的なものもあり、白井はマリノを圧倒し、文句なしの判定勝ちを収めます。
 敗戦により、名誉も誇りも失っていた日本にとって、この日の勝利はある意味、戦後復興の象徴だったともいえます。
 この後、白井はマリノとのリターン・マッチにも勝利し、ダニー・カンポ(フィリピン)、テりー・アレン(英)、レオ・エスピノサ(フィリピン)と4度のチャンピオン防衛に成功します。しかし、その後アルゼンチンからやって来たパスカル・ペレスとの試合に敗れついにチャンピオン・ベルトを失いました。この試合は小柄なペレスのバッティングによる出血や体調不良などの悪条件が重なった面もありましたが、すでに31歳になっていた彼にはもう時間は残されていませんでした。リターン・マッチで彼はペレスに完敗し、ついに引退を発表します。

<幸福なる後日談>
 白井の物語には、さらに続きがあります。シカゴの大富豪の息子だったカーンは、白井の引退後もアメリカへ帰国しませんでした。かといって他の選手の指導をすることはなく、日本で白井とその家族と暮らし続けました。白井の結婚後、彼はまるで白井家の舅のような存在となりましたが、どうやら彼は同性愛者だったようです。彼は白井を愛しており、さらに同性愛者であることから彼はアメリカに帰国しなかったのでしょう。素晴しいのは、そんな彼の思いを知っていたであろう白井家の人々は彼を受け入れただけでなく、彼が認知症になった後も彼の世話を続け、その死を見取ったことです。
 カーンは死後、白井に多額の遺産を残しましたが、彼は生前常に「ボクシングはモンキー・ビジネス(汚い仕事)だから、絶対に手を出すな」といい続けていたそうです。そのため、白井はジムを設立することはありませんでした。ボクシングの裏世界の怖さは、アメリカも日本も同じで、明らかにヤクザやマフィアとの関わりがあり、彼らを無視した健全な興行は当時不可能でした。カーンという人物は、ボクシングをあくまでスポーツとして扱いたかったのでしょう。
 もしかすると、カーン博士のように純粋にボクシングというスポーツを愛していた素晴しい人物に指導されたことこそが、白井というボクサーにとって最大の幸せだったのかもしれません。
 たとえ、世界チャンピオンになれたとしても、そのボクサーがその後も幸福な人生を送れるとは限らないのですから・・・。

<参考資料>
「『黄金のバンタム』を破った男」
 2010年
(著)百田尚樹
PHP文芸文庫

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