- 矢尾板貞雄、三迫仁志、米倉健志、関光徳 ・・・-

<栄光を逃した悲劇の男たち>
 白井義男の活躍により、日本でのボクシング人気は一気に高まり、世界チャンピオンを目指す若者が急激に増えることになりました。しかし、白井の活躍を支えたカーン博士は白井以外の選手をコーチせず、そのまま引退し、その後継者を育てることはありませんでした。そして、白井の後、日本のボクシング関係者は、いかに世界チャンピオンを生み出すことが大変かを思い知らされることになります。
 実力はあっても、挑戦の機会を得られなかった選手、挑戦はできても敵地でのホームタウン・デシジョンに泣かされた選手、国内の同じ階級のライバルに破れ挑戦にまでたどり着けなかった選手、ジムの会長との関係に苦しみ挑戦をあきらめた選手・・・・。白井から8年の長きにわたり、日本人選手は様々な理由により挫折を味わい続けることになりました。
 ここでは、そうしたチャンピオンになれなかった「悲劇の男たち」をご紹介します。ただし、彼ら「悲劇の男たち」の多くは、引退後、自らの設立したジムで後進の育成を行い、そこから数多くの世界チャンピオンが生まれることになりました。彼らはけっして「悲劇の男たち」では終わらなかったのです。

<三迫仁志>
 1934年生まれの三迫仁志は、白井が世界チャンピオンを失った後、最初に世界に近づいたボクサーでした。当時としては珍しく、ボクシングの名門だった明治大学在学中にプロとなった彼は一気に東洋チャンピオンにまで登りつめたエリートボクサーです。
 彼は白井のリターンマッチに勝利したパスカル・ペレスに照準を定め、世界タイトル挑戦のための準備を始めます。そして、2年かけて世界ランク4位にまで達し、長い交渉の結果、アルゼンチンでのタイトル挑戦権を得ました。ここでも、挑戦のための資金集めに苦労するもののなんとかお金も集まり、アルゼンチンへ出発しようとします。ところが、そこでチャンピオン側から一方的なキャンセルの連絡が来てしまいました。
 せっかくのチャンスを逃した彼は、その後、新鋭の矢尾板貞雄に敗れてしまいランキングを落としてしまいます。そのため、彼の世界タイトルへの挑戦は遠のいてしまいました。たった一度の挑戦を逃した彼は、ついにその後世界挑戦の機会を得ることなく引退することになりました。
 ただし、彼はその後、三迫ジムを設立し、自らが体験した苦い経験を生かして後進のボクサーを育てます。そして、自分が成し遂げられなかった世界制覇を実現します。輪島功一はその最高傑作といっていいボクサーです。

<米倉健志(健治)>
 米倉健治は三迫と同じ明治大学出身のボクサーです。アマチュア・ボクサーとしてメルボルン・オリンピックにも出場した逸材でした。そのうえ、彼は学生時代にあのカーン博士から指導を受けた経験をもち、恵まれた環境で育ったボクサーだったといえます。
 1958年にプロデビューを果たすと、翌年には日本チャンピオンとなり、矢尾板に次ぐ日本ナンバー2の存在となりました。しかし、世界チャンピオン、パスカル・ペレスからの指名を受けた時、彼はフライ級からバンタム級への転向を考えていました。この時、チャンピオンは手ごわい矢尾板ではなく、米倉との対戦をあえて選んだのでした。しかし、米倉側は、せっかくのチャンスを逃せないと考え、バンタムへの転向を棚上げにし、あえて苦しい減量に堪えてのタイトルマッチに望みました。
 残念ながら、米倉側の賭けは失敗に終わります。厳しい減量により、試合当日の米倉の体調は最悪で、善戦はするものの僅差の判定で敗北をきっしました。この敗北で、フライ級での継続は困難と考えた彼はバンタム級に転向します。
 しかし、バンタムにも強敵が待っていました。殺人パンチを持つ男と呼ばれたメキシコの英雄、ジョー・ベセラが彼の前に立ちふさがりました。実際に彼のパンチで人が死んでいるという、ハード・パンチャーの名チャンピオンに挑んだ米倉は、その試合でも善戦しますが、再び僅差の判定で破れました。二度の世界挑戦に破れた彼はここで引退を決意します。
 彼もまた引退後、ヨネクラ・ボクシング・ジムを設立。自分が逃した世界タイトルを彼の愛弟子たちが見事に獲得し、その無念を晴らしてくれます。このジムからは、柴田国明ガッツ石松らの世界チャンピオンが誕生しています。

<関光徳>
 関光徳はファイティング原田と同じく16歳でプロ・デビューしています。当時の日本を代表するサウスポー・スタイルのボクサーで、その左ストレートは「名刀正宗」と恐れられました。イケメン・ボクサーとしても有名で、ボクシング人気を女性層にまで広めた存在でした。
 彼が挑むことになったのは、白井を破ったパスカル・ペレスから王座を奪ったタイが生んだ英雄ポーン・キングピッチです。この後も、多くの日本人ボクサーと死闘を繰り広げ、日本のボクシング・ファンにもなじみの深いキングピッチに挑んだ関は当時まだ19歳という若さでした。しかし、その若さは経験豊富なチャンピオンのテクニックの前に上手くかわされ、惜しくも判定で破れてしまいました。
 20歳になり、ウェイト的にフライ級での試合が困難になった関は階級を一気にフェザーに上げますが、そのパワーはフェザーでも通じ、すぐに東洋チャンピオンを獲得。その後、連続12回の防衛を果たして、再び世界挑戦のチャンスを掴みます。
 当時のフェザー級チャンピオンは、後にフェザー級史上最強とも言われることになるメキシコのビセンテ・サルディバル。関にとっては、不運としかいえない相手に彼は二度、敗戦をきっします。その後、サルディバルが無敗のまま引退した後にチャンピオンになったキューバの強豪シュガー・ラモスに挑戦するものの、ここでも彼は破れてしまいます。
 そして迎えたラスト・チャンスは、チャンピオンのホームであるイギリスで行われました。そこで地元イギリスのハワード・ウィンストンに挑んだ彼は、終始試合を優勢に進めていました。ところが、途中に目じりを切って出血したとたん、イギリス人レフリーが試合を止め、関にTKO負けを宣告します。この判定には、試合を見に来ていた元チャンピオンのサルディバルも、不正だとクレームをつけたといいます。現在では審判だけでなくジャッジも公正をきすようになっているので、ここまでひどいことはありませんが、当時はアウェーでの試合で、この程度の不公正は当たり前のことでした。それにしても、関にとって、この試合はあまりに悔しい敗戦だったはずです。
 彼もまた引退後、横浜光ジムを設立すると、現役時代の経験をいかして、畑山隆則新井田豊、二人の世界チャンピオンを育てることになります。

<忘れられたボクサーたち>
 もちろん前述の三人以外にも、世界チャンピオンのベルトに手をのばしかけたボクサーがいました。ポーン・キングピッチに破れた野口恭。フェザー級のチャンピオン、デビー・ムーアに二度敗れた高山一夫
 原田、海老原がいなければ、世界に挑戦するチャンスがあったはずの斉藤清作も忘れられない存在です。相手に打たせて打ち返す彼のボクシング・スタイルは、引退後彼をパンチ・ドランカーにしてしまい、そのために彼はアルコール依存症になってしまいました。米の変わりに日本酒を飲んでいたことでも有名な芸人「タコ八郎」といえばご存知の方も多いでしょう。
 しかし、中には世界チャンピオンのベルトに手をかけながら、自らその手を離してしまったボクサーもいます。それがボクシング評論家として有名な矢尾板貞雄です。
 日本ボクシング界における最強のボクサーと呼ぶ人も多い矢尾板の物語はもっと語られてくるべきだと思います。
 なぜなら、2013年に起きた女子柔道におけるコーチの暴力問題と同じような事件に彼が関わっていたからです。もし、矢尾板の勇気と告発がもっと広く認められていれば、日本のスポーツ界はもっと変わっていたかもしれません。日本のボクシング界は史上最強のボクサーを失ってしまいながら、そこからの改革を行うことができませんでした。そして、スポーツ界における悪しき伝統はいまだに続いているのです。

<矢尾板貞雄>
 1935年に東京で生まれた矢尾板貞雄は、家が貧しかったことから中学時代から新聞配達をしていました。たまたま新聞販売店の店主がボクシング好きだったことから、彼を近所の中村ジムに連れて行き、彼はそこでボクシングと出会いました。
 高校卒業後、1955年にプロ入りしますが、この頃、彼はすでに白井を破ったペレスを目標にしていました。ペレスに勝つためには、スピードで上回るしかないと考えた彼は、そのための訓練を始めていました。高校時代、陸上選手でもあった彼は、スピードとスタミナをいかしたヒット&アウェイを武器に1958年には速くも東洋フライ級チャンピオンとなり、世界ランキング入りを果たします。東洋タイトルを5回防衛した彼は、いよいよノンタイトルではありましたが、白井を倒したペレスに挑むことになりました。
 当時ペレスはデビュー以来51連勝していて、10年間無敗を誇りまったくの敵なし状態でした。しかし、そのペレスに矢尾板は無尽蔵のスタミナを武器に戦いを挑み見事に勝利を収めました。この勝利で矢尾板は挑戦の資格を得たはずですが、皮肉にもこの勝利によって彼はチャンピオンに恐れられてしまいます。そして、あえて次の挑戦者に同じ日本人の米倉健志を指名します。そして、米倉に勝利し、彼はさらに防衛記録をのばしました。しかし、矢尾板の世界ランクが1位だったことから、ペレスももう逃げることはできませんでした。
 1959年11月5日、ついに矢尾板は大阪で世界タイトルに挑戦することになりました。すでに33歳になっていたチャンピオンに対し、矢尾板の優位は動きませんでした。そのため、この日にテレビ中継された試合の視聴率は、現在とは異なる聞き取りによる調査方法ではありましたが、なんと92.3%だったといいます。
 ところが、この試合、矢尾板は途中でペレスからダウンを奪ったところで、ヒット&アウェイで戦うことを忘れてしまいます。そこからペレスにじわじわとペースを奪われ、13ラウンドに逆転KOを喫してしまいました。

<海外武者修行>
 ペレス戦の敗戦の後、彼は中村会長とともに海外へ武者修行に出かけます。世界トップ・クラスの選手が、わざわざ海外に出るのは今でも珍しいことです。テクニックだけではなく、精神的にも成長するために選んだ道は、彼をさらに大きく成長させることになります。(亀田の海外武者修行とは格が違います)
 タイ、フィリピン、ベネズエラ、ブラジルで、彼は数多くの試合をこなし、後にファイティング原田のライバルとなるエデル・ジョフレとも対戦しています。バンタム史上最強といわれるジョフレとの試合、彼は最終ラウンドにKO負けをきっしますが、一階級上のチャンピオン相手に善戦したことがで彼は自信を深めました。
 帰国後、彼は3ランク上のジュニア・フェザー級の東洋チャンピオン、坂本春夫と対戦し、4ラウンドに左フック一発で倒しその実力を見せつけました。次に彼が挑んだのは、世界バンタム級1位で「無冠の帝王」と呼ばれていたジョー・メデルです。
 世界ランク1位の選手同士が試合をすること自体が珍しいのですが、お互いに無冠の帝王だったこともあり、この試合はまさに名勝負となりました。試合の結果は2−1の判定でメデルの勝利となりましたが、この敗戦は彼の評価をさらに高めることになりました。
 いよいよ彼は、ペレスの後チャンピオンになっていたポーン・キングピッチとの世界タイトル・マッチに望むことになります。実力的にいよいよピークを迎えようとしていた矢尾板と年齢的にはすでにピークを過ぎていたポーンとの試合は、明らかに矢尾板が優位でした。ところが、ここで誰もが予想だにしない事件が起きてしまいます。

<まさかの引退発表>
 1962年、タイトルマッチが4ヵ月後に決まったところで、なんと彼は突然引退を発表したのです。本人は膝の故障が原因と語りましたが、それが嘘だったことは明らかでした。それに対し、ジムの中村会長は彼が金銭問題でゴネたせいだと匂わせましたが、矢尾板はそうした疑惑にはいっさい反論しないまま引退してしまいます。
 後に明らかになった引退の本当の理由は、矢尾板と中村会長との人間関係の崩壊でした。それは、2013年の女子柔道のコーチが選手にたちに対して行った暴力行為と似た状況だったようです。人間性を無視した発言に暴力、もちろん金銭面でも彼はもっとファイトマネーをもらってよいはずでした。ワンマンで昔かたぎの中村会長は矢尾板に対し常に高圧的に対応し、すべてを自分が決めていました。そうしたやり方に不満をつのらせていた矢尾板は、最も重要なタイミングで自分の選手生命をかけた抗議を行ったのでした。
 当時のボクシング界では、ジム同士の選手の引き抜きができないように、選手の移籍を禁止していました。そのため、所属ジムをやめるには、自分が引退するしかありませんでした。彼はそこまで自分を追い込んだ理由を手紙に書き、コミッショナーに提出したいたようですが、それは公にされることはありませんでした。もちろん、ボクシング界はその内容を公表したくなかったのです。中村会長同様、昔かたぎの男だった矢尾板は、そうした仕打ちに対し、講義することもなく静かに引退する道を選んだのです。
 引退後、ボクシング界は矢尾板を見せしめにするため、彼を業界から追い出そうとしました。しかし、彼の真意を知る人々の多くは彼の行為に感銘を受けていて、フジテレビは彼をボクシング解説で起用します。すると、彼の優れた記憶力、分析力は解説者として最高の能力を発揮。一躍ボクシング解説の第一人者となります。日本最高のボクサーと呼ばれた矢尾板は、ボクシング解説でも日本最高の存在になったのです。

 2013年の女子柔道の15人による反乱から50年前の1962年、矢尾板貞雄というたったひとりで反乱を起こした侍ボクサーがいました。その時代、まだまだ男たちは格好良く生きていたようです。
 「男は黙って・・・」そんな言葉がまだ生きていた時代でした。

<参考資料>
「『黄金のバンタム』を破った男」
 2010年
(著)百田尚樹
PHP文芸文庫

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