- ファイティング原田、海老原博幸、青木勝利 -

<フライ級三羽カラス>
 日本人ボクサーの世界挑戦がことごとく失敗に終わる中、それでもボクシングの人気は高まり続けていました。そして、ボクシング・ジムに通う若者たちが増えることで、日本のボクシング界では次々と逸材が育っていました。そんな中、当時、最も日本人向けだった最軽量のフライ級には、優れた選手が集中し国内だけでも戦国時代の様相を呈していました。
 中でも「フライ級三羽カラス」と呼ばれた青木、海老原、原田は、誰が世界チャンピオンになってもおかしくないで日本中のボクシング・ファンを沸かせました。天才肌の青木、切れ味の海老原、根性の原田、三人三様の個性を発揮することで日本のボクシング界のレベルは急激に上昇することになりました。
 ここでは、彼ら三人のボクサーを紹介するとおtもにボクシング人気が最も高かった時代を振り返ります。先ずは、三人の中で唯一、世界チャンピオンになれなかった男、青木勝利から始めましょう。

<青木勝利>
 青木勝利は「メガトン・パンチの青木」、「黄金のサウスポー」などのニックネームをもち、三羽カラスの中では最も才能的に優れたボクサーという評価を受けていました。パンチの威力も一番でKO率も一番でした。そのうえイケメン・ボクサーとして女性からの人気も高かったようです。ただし、弱小ジムの看板スターだったことから甘やかされていて精神的な弱さが指摘され、練習嫌いも知られていたようです。
 三羽カラスは同期でプロデビューしたことから、青木も三人のライバルとおtもに東日本新人戦に参加。彼は原田と同じジムの斉藤清作と引き分けポイントの差で敗れてしまいました。結局、この大会では原だが海老原を破って優勝していますが、ライバルたちの激闘は早くも始まっていました。
 青木が海老原と対戦したのは、1961年の6回戦で、この時、海老原は原田戦の負けが唯一の敗戦で11勝1敗、青木は斉藤との引き分け以外がすべて勝利の16勝1分でした。しかし、この試合では海老原のカミソリ・パンチがさえて、青木はKO負けをきっしました。体格的に大きかった青木は、すでに減量苦に悩まされていたことから、この敗戦を機に彼はバンタム級に転向します。そして、バンタムで7連勝すると、米倉健志を倒して東洋バンタム級のチャンピオンとなります。(米倉はこの敗戦で引退を決意しています)いよいよ彼に世界挑戦のチャンスが訪れます。
<世界挑戦>
 1963年4月4日、青木は世界バンタム級チャンピオン、エデル・ジョフレ(ブラジル)に挑戦しました。しかし、バンタム級史上最強の男エデル・ジョフレは強すぎました。青木はこの試合、力の差を見せつけられ3ラウンドKOで敗戦。そのショックもあり、彼は東洋チャンピオンの座も失いますが、かろうじて立ち直り、東洋チャンピオンに復帰して次の世界挑戦の機会を待ちます。しかし、その間に同期のライバル、海老原と原田は世界チャンピオンとなり、彼は一人残されてしまいます。そのうえ、世界挑戦の機会を再び得るためには、彼と同じようにバンタム級へと転向してきた原田との決着をつけなければなりませんでした。
 1964年10月29日、ライバル原田と青木の世界挑戦権を賭けた戦いが行われました。この試合の前に、原田はインタビューで「俺が青木に負けたら、努力するということが意味を失う。一生懸命に練習しているボクサーが、ろくに練習しないボクサーに負けるなんてことがあったら、おかしいじゃないですか」と語ったといいます。そして、彼は自らが宣言したとうり3Rで青木をKOで倒しました。
 この敗戦は、世界挑戦のチャンスを逃した以上の精神的ショックを青木に与え、その後、彼は再び立ち直ることができないまま引退しました。さらにその後の人生においても彼は立ち直ることができず、酒に溺れて自殺未遂を起こし、ついには暴力事件を起こして何度も逮捕された後、ついにはその消息も生死もわからない状態になってしまいました。

<海老原博幸>
 あの伝説的なマンガ「あしたのジョー」のモデルとなったボクサーとしても有名なのが、海老原そして金平正紀です。現役時代、日本チャンピオンを獲得するところまで行けずに夢破れたボクサー、金平は現役引退後、トンカツ屋を開業しようとしていました。現役時代の貯金を使ってやっと開業にこぎつけた彼は、オープンに向けてアルバイト店員を募集しました。その張り紙を見てやって来たのが、なんと海老原だったといいます。ちょっとできすぎのような気もしますが、金平は海老原の動き、走りを見てそのボクサーとしての可能性に気づいたといいます。もしかすると、もともと彼はボクシングを続けたかったのかもしれません。そこで海老原という原石を見つけたことで、彼はトンカツ屋をあっさりとやめてしまい、たった一人の練習生のためにボクシングジム(後の協栄ジム)を始めたわけです。そういわれると、金平さんと丹下段平は似ています。
 ちなみに、このジムは海老原以後も多くの逸材を生み出し、西城正三、具志堅用高、渡嘉敷勝男など11人もの世界チャンピオンを誕生させています!
<デビューからの連勝と唯一の敗戦>
 金平が逸材と目をつけただけのことはあり、海老原はデビュー後、連戦連勝を続けました。唯一彼に黒星をつけたのは、東日本新人戦の決勝で対戦したファイティング原田だけでした。その試合で彼は原田に二度のダウンを奪われました。しかし、その試合もダウン後から彼は反撃に転じ、後半は追い上げをみせています。試合が6ラウンドではなく10ラウンドあれば、彼が逆転勝ちしていたかもしれないといわれています。その試合は6ラウンドではもったいないほどの名勝負だったようです。
 驚いたことに、彼はこの試合の後、引退するまで一度もダウンを奪われていません!一度もです。世界タイトル・マッチでも、敗戦した試合でもです。いかに彼が打たれ強いか、もしくは打たれないボクシングをしたいたかがわかります。それだけのボクサーでありながら、彼にはひとつ大きな弱点がありました。
<唯一の弱点>
 彼の唯一の弱点。それは「拳」でした。現役時代「カミソリ・パンチ」と恐れられた彼のパンチの破壊力は一発で相手を倒す強力なものでした。しかし、その拳はその破壊力に比べるとあまりにも弱すぎたのです。パンチ力が強いがゆえに、彼は自らのパンチによって「拳」を痛めることになってしまったのです。
 彼は試合中になんと7回も骨折しているといいます。しかし、一度として試合放棄したことはなく、片手だけで相手を倒すことができるボクサーでもありました。ただし、現代の医学があったら、彼の拳は移植手術などにより強化することは十分に可能だったはず。そうなれば、彼の人生はもっと違うものになっていたでしょう。ただし、そうした逆境と常に向き合うことで彼は強い精神力を身につけたことも事実です。だからこそ、彼は世界チャンピオンを失ってから、もう一度チャンピオンになるまでの苦しい時期も耐え抜くことができたのかもしれません。
<衝撃的世界デビュー>
 1963年9月18日、海老原はリターン・マッチでファイティング原田から世界タイトルを奪い返したばかりのポーン・キングピッチに挑戦。なんと1ラウンド2分7秒でチャンピオンをノックアウトし、日本人として3人目の世界チャンピオンとなりました。ところが、タイのバンコクで行われたリターン・マッチでは再びポーン・キングピッチが本領を発揮し、判定に持ち込まれてしまいます。そうなると、ホームタウン・デシジョンに持ち込まれることになり、彼はあっさりとタイトルを奪い返されてしまいました。
 3年後の1966年、海老原は再び世界フライ級・タイトルに挑戦します。相手はアルゼンチンのオラシオ・アカバリョ。やはりこの試合も敵地で行われることになり、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで試合が行われました。この試合、攻勢に出ていた海老原でしたが、3ラウンドに彼は左手中指を骨折してしまいます。それでも彼は持ち前の根性で試合を続け15ラウンドを戦い抜きました。しかし、判定で敵地では勝てるはずもなく、残念ながらチャンピオン返り咲きはなりませんでした。しかし、内容的に接戦だったこともあり、翌年に再びアカバリョにブエノスアイレスで挑戦することになりました。当然、KOしなければ勝てないとわかっていた海老原は、決死の戦いを挑みました。ところが、この試合、彼は内容的に圧倒していながら、再び指を骨折してしまい、試合は判定に持ち込まれてしまいます。そして結果は、やはり判定負け。しかし、不運の連続でしたが彼はあきらめませんでした。
 1969年3月、海老原は5年ぶりに世界フライ級チャンピオンに見事に返り咲きます。この時、海老原は29歳。結局、彼はこの後、初防衛戦でフィリピンのバーナベ・ビラカンポに破れ、あっさりとタイトルを失い引退を決意します。チャンピオンに返り咲くことだけを目標にしてきた彼にとって、目標達成後の目標は気力的にも年齢的にも厳しかったのかもしれません。

<ファイティング原田>
 日本のボクサーの中でアメリカのボクシングにあるボクシングの殿堂入りを果たしている唯一の存在、それがファイティング原田です。(2013年時点)「狂った風車」と呼ばれた彼のラッシュ戦法は、あのマイク・タイソンが教科書にしていたといわれ、その輝きをいまだに失っていません。
 技術を補って余りある彼のファイティング・スピリットは、リーチでもパワーでも上回る相手を休ませずに追い込んでゆきました。そして、そうした彼の戦い方は、当時の日本人の生き様を象徴するものでもありました。1950年代になり、敗戦の焼け野原から立ちあがった日本人は、技術でも経済力でも知識でも劣る先進国を相手にガムシャラに働くことでなんとか追いつこうとしていたからです。そんな日本人の思いと一致していたからこそ、彼の人気は他のボクサーとは異なるほどの高さだったのでしょう。しかし、ボクシングの殿堂入りは、海外のボクサーが彼を高く評価している証拠です。彼が惜しくも逃した3階級制覇の重みは、日本よりも海外において高く評価されているようです。

<生い立ちからデビューへ>
 原田が東京世田谷に生まれたのは、1943年戦時中のこと、2歳の時には東京大空襲を体験しています。父親は植木職人でしたが、彼が中二の時に仕事中の怪我により働けなくなったため、彼は高校進学をあきらめ、精米店で働き始めます。
 当時は、白井義男の活躍によりボクシング人気が高まっていたこともあり、彼は働きながら近所にあった笹崎ジムに入門します。真面目な彼は親を楽にしてやりたいという思いだったようです。
 1960年16歳10ヶ月で彼はデビュー戦にのぞみ、見事に4ラウンドKO勝ちをおさめます。3ヵ月後には彼は精米店を辞め、ジムの合宿生となりボクシングに専念するようになります。そして、同年秋、彼は東日本新人王戦に出場し順当に勝ち進みます。準決勝で彼が対戦することになったのは、同じジムの斉藤清作。ジムの会長は、この対戦を避けるため、斉藤に棄権させました。実力的に五分五分といわれていただけにジムの会長は両者の接戦を予測し、共倒れを恐れたといわれています。しかし、ここであえて棄権させられた斉藤の人生はここから裏道へと進むことになったのかもしれません。もし、彼がその日リングに上がり、原田に勝利していたら、ボクシングの歴史は変り、芸人「タコ八郎」も誕生しなかったかもしれません。決勝に進んだ原田の相手は、後のフライ級世界チャンピオン海老原。この試合は6回戦とは思えない名勝負となり、原田が途中二度のダウンを奪って大きくリードしますが、海老原は後半盛り返し、判定に持ち込まれました。もし、この試合が10ラウンドだったら、海老原の逆転勝ちの可能性もありましたが、ダウンのポイントが利き、原田がこの試合を制しました。(この後、海老原が試合中にダウンを喫することは、引退まで二度とありませんでした!そして日本人相手に敗れることも)
<連戦連勝から世界挑戦へ>
 新人戦での優勝の後も原田は連勝を続けますが、しだいにフライ級での体重維持が困難になり、バンタムへの転向を考え始めます。当時、同じクラスに矢尾板という強力なライバルがいたことも原因だったかもしれません。そこで彼はそのための布石として、世界バンタム級7位のエドモンド・エスパルサと対戦しますが、それまでのパンチ力を生かすことができずに敗戦を喫します。階級をあげてもパンチ力はもってはいけない、という言葉のとおりでした。
 ちょうどこの頃、矢尾板が突然の引退発表を行います。世界タイトルマッチを目前に控えての引退でした。日本での試合はすでに準備されており、チャンピオンのポーン・キングピッチは急遽対戦相手に原田を指名します。実は、この時、原田はまだ世界ランキングにも登場していない無名の存在でした。ただし、彼は海老原に次ぐ日本ランキングの2位のボクサーでした。もちろん、順当なら対戦相手には海老原が選ばれるべきでしたが、海老原の強さの方が海外には知られており、原田がバンタムの7位相手に敗れていることも知られていました。海老原より原田の方がやりやすい。そう考えたのは当然でした。こうして、原田は世界ランクの10位にランクインさせてもらい、世界タイトルに挑戦するチャンスを突然与えられることになりました。
<世界フライ級チャンピオン誕生と敗北>
 チャンピオン勝利の下馬評は高かったのですが、逆にこうした試合は番狂わせが起きる可能性が高いのがボクシングの世界です。あきらかに油断していたチャンピオン相手に原田は駄目もとのラッシュ戦法で一方的に攻めまくり、11ラウンドKOで見事に世界の頂点に立つことになりました。この時、原田はまだ19歳という若さでした。前途有望ではありましたが、不安もありました。まだまだ彼の身体は大きくなっており、体重の維持がもう限界になっていたのです。
 3ヵ月後、原田は敵地でリターンマッチを戦うことになりました。しかし、その試合までの練習は試合のためというよりも減量のための練習になってしまいます。試合当日の彼の体調は最悪でした。そのうえ、試合会場は日本よりも暑いタイのバンコクで、元チャンピオンは今回は十分な準備をして原田を待ち受けていました。予想通り、試合は苦戦となります。敵地での対戦はKOしなければ勝てないと原田はわかっていましたが、体調不良が響き、内容的にリードはするものの結局KOすることができませんでした。そして、試合は判定に持ち込まれやはり地元有利の判定により敗北を喫してしまいました。わずか3ヶ月で彼はタイトルを失ってしまいました。しかし、この敗北で、彼はフライ級からバンタム級への転向を決意できました。それは2階級制覇への第一歩となりました。
<世界バンタム級チャンピオンへの道>
 バンタム級転向後、原田は連勝を続け、半年で世界ランクの4位となり、同級3位のジョー・メデルと世界タイトルへの挑戦権を賭けて対戦することになりました。メデルは、メキシコ人ボクサーとしては珍しいクロス・カウンターを得意とするアウトボクサーで、「ロープ際の魔術師」と呼ばれていました。(「あしたのジョー」のクロス・カウンターのモデルは、ジョー・メデルだともいわれています)さらに彼は、強豪がひしめくバンタム級の中で常にランキングの2位か3位にいながら世界タイトルに恵まれずにいたため、「無冠の帝王」とも呼ばれていました。原田にとっては、チャンピオン以上の強敵だったといえます。試合も予想通り、原田はメデルの術中にはまり、6ラウンドにカウンター・パンチを受けTKO負けとなりました。しかし、この敗戦により原田は、今までの戦法では通じないことを悟ります。そして、単調なラッシュ戦法にフェイントを加え、さらに体力アップによるラッシュ時間をさらに増やすことを目指します。この新たな戦法の効果は、国内最強の敵、青木を3ラウンドKOすることで証明されました。この勝利により、彼は世界ランク1位となり、いよいよ世界チャンピオンのエデル・ジョフレへの挑戦権を獲得します。
 当時の世界チャンピオン、エデル・ジョフレはあまりにも偉大なボクサーでした。デビュー以来8年間一度も負けていないだけでなく、世界タイトルをとってからも17連続KO勝ちを続けていたのですから、まさに歴史上最強のチャンピオンだったといえます。当然、この試合における原田の勝利を予測する人はほとんどいなかったようです。
 1965年5月18日名古屋でその試合は行われました。この時、ジョフレは29歳、原田は22歳でした。チャンピオン楽勝と思われていただけに、来日したジョフレはあきらかに油断していました。それに対し、地元日本での試合ということもあり、原田は新戦法でジョフレに真っ向勝負を挑み、大接戦となりました。そして、試合はついに判定に持ち込まれます。そうなると、地元の原田有利は当然でした。内容的には、五分五分だったものの、勝利者は原田となります。(この試合の視聴率は、54.9%、テレビ史上22位の記録です)
<苦難の防衛戦>
 チャンピオンとなった原田の次の対戦相手は前回KO負けしている「無冠の帝王」同級1位のジョー・メデルでした。チャンピオンを除けば最強の相手であり、再び破れる可能性の高い組み合わせでした。ところが、神は原田に時間を与えてくれます。メデルが交通事故で怪我をしてしまい、試合が延期になってしまったのです。(逆にいうと、メデルもまた悲劇のボクサーだったといえます)
 メデルの代わりに選ばれた挑戦者はイギリスのアラン・ラドキン。この試合は、予想外の苦戦となりますが、かろうじて判定でタイトル防衛に成功します。(この試合の視聴率は60.4%、歴代8位の高視聴率です)
 1966年5月31日、原田は再びジョフレと対戦します。会場は日本武道館。前回とは異なり十分な準備をしてきたジョフレに原田は苦戦します。勝負を分けたのは、最後の2ラウンドでした。若さとスタミナで前王者を上回っていた原田は、最後に連続してポイントをとり、3−0の判定で勝利します。(この試合の視聴率は、63.7%、テレビ史上5位!)
 1967年、ついに「無冠の帝王」ジョー・メデルと原田は戦うことになります。この試合もまた接戦となります。それでも、メデルが28歳だったのに対し、原田はまだ23歳という若かったことが勝敗を分けることになります。原田はこの試合でも終盤にポイントを稼ぐことで判定でメデルを下しました。予想以上の完勝でした。(この試合の視聴率は、53.9%、史上23位)
 1967年7月4日、原田は世界3位のベルナルド・カラバロ(コロンビア)の挑戦を受けます。苦戦はするものの、かろうじて判定勝ちします。(視聴率は、57.0%、史上12位)
 次の相手は、メキシコのヘスス・ピメンテルと決まり、1968年1月30日に東京でタイトルマッチで行われることも決まります。ところが、金銭面、条件面で直前までモメた末に一ヶ月前にキャンセルとなります。そこでそのピンチヒッターとして選ばれたのが、世界ランク6位のライオネル・ローズでした。ローズは当時まだ20歳、初めて原田よりも若い挑戦者となり、オーストラリアの先住民族アボリジニー出身という異色のボクサーでした。代理で選ばれた彼はランキング的にも経験的にもチャンピオンの敵ではないと思われていました。しかし、かつて原田がフライ級のチャンピオンになった時、彼は矢尾板のピンチヒッターとしてリングに立った無名の若者でした。そう考えると、ローズを侮ることは危険なことでした。そして、その不安は試合当日、現実のものとなります。
 当時、彼は再び体重の増加に悩まされ減量との戦いに苦しんでいました。そのため、試合当日も減量による疲労から動きに切れがなく、自分より若いローズのスピードについてゆけませんでした。そして、9ラウンドに原田は世界タイトルマッチでは初めてのダウンを喫してしまいます。接戦のまま判定に持ち込まれたこの試合では、9ラウンドのダウンが大きく響き、彼は0−3でローズに敗れてしまいました。減量との戦いの限界を感じていた彼は、ここでいよいよフェザー級への転向を決意しました。これが3階級目ということになりますが、それでもまだ彼は24歳でした。
<フェザー級への転向>
 原田のフェザー級転向後最初の相手は同級世界ランク4位のドワイト・ホーキンス(アメリカ)でした。フライ級からみると約6.4キロも体重が上のボクサー相手に原田はやはり苦戦します。9ラウンドにはダウンを奪われ、あやうくKO負けをするところでした。それでも10代の頃から経験を積んできた彼は、その後は盛り返し判定でなんとか勝利しました。次に原田は日本チャンピオンの千葉信夫に7ラウンドKO勝ちし、いよいよ世界挑戦の資格を得ます。
 この当時、世界のボクシング界はボクシング団体がWBCとWBAに分裂し始めていて、フェザー級ではWBAがラウル・ロハス(米)、WBCはハワード・ウィンストン(英)をチャンピオンに認定していました。ちょうどこの頃、無敗の王者、ビセンテ・サルディバルが無敗のまま引退したことでチャンピオンが代わったばかりでした。ただし、日本のボクシング団体であるJBCは、まだWBAの存在しか認めていなかったため、原田は必然的にロハスに挑戦することしかできませんでした。ところが、こので予想外の事件が起きます。なんとそのロハスが世界タイトルを失ってしまったのです。それも相手は日本人ボクサーでした。
<「シンデレラボーイ」登場>
 ロハスを破った日本人ボクサーは、日本ではほとんど無名の存在、西城正三でした。たまたま武者修行先のアメリカで、ロハスと練習試合を行いまさかの勝利を収めたことで注目を集め、話題性もあったことから、世界タイトルマッチが実現。ロハスも、まさかもう一度負けるとは思わなかったはずですが、21歳で怖いものなしの西城は、プレッシャーもなくチャンピオンに挑み、再びチャンピオンに勝ってしまったのでした。一夜にして「シンデレラ・ボーイ」となった西城は、イケメンであったこともあり一躍人気者となります。まさかの日本人世界チャンピオンの誕生で、日本のボクシング界で初めての日本人対決の可能性が浮上してきました。
<フェザー級制覇への挑戦>
 西城への挑戦準備が進む中、原田は同級の格下相手に調整試合を行います。ところが、調整の遅れもあり、まさかの敗戦を喫してしまいます。この敗戦により、彼は世界ランキングを落としてしまい、タイトルへの挑戦権を失ってしまいます。これは大きな誤算でした。WBAでのタイトル挑戦が厳しくなったことから、彼はしかたなくWBCタイトルへの挑戦を目指すことになりました。相手は、オーストラリア人のジェームス・ファメションです。
 1969年7月28日、オーストラリアのシドニーで原田はフェザー級タイトルマッチに望みます。当時、ジュニアでもスーパーでもない3階級の制覇を成し遂げたボクサーは、たった2人だけでした。敵地での試合ということで原田はKOでの勝利を目指して、果敢に攻め、ファメションをKOギリギリまで追い込みます。ところが、ここでレフェリーがダウンしたファメションを助け起こすという事件が起きます。そのうえ、内容的に原田が圧倒していたにも関わらず、判定はチャンピオンの勝利となってしまいました。この試合の判定は英国式ルールにより、判定がレフェリー一人にまかされていたことも問題でした。明らかに地元有利の判定にさすがに地元オーストラリアのファンもブーイングをしたといいます。さらに翌日のオーストラリアのマスコミもこの試合の結果に批判的で「世紀の誤審」として報道しました。
<引退へ>
 当然、ここまで問題が大きくなったことでWBCは再戦を要求することになりました。ところが、東京で行われた再試合で原田はまさかのKO負けを喫してしまいます。10年間に渡る戦いにより、原田の肉体は思っている以上に衰えていたのかもしれません。そのことは原田自身が気づいていたようで、10年で引退することを早くから決めていたようです。この敗戦から3週間後、1970年1月27日、彼は引退を発表しました。
 彼の試合のテレビ視聴率の高さからは、いかに彼が日本人に愛されていたかがわかります。彼はまさに日本の高度経済成長の象徴だったといえます。しかし、彼の人気は日本国内だけのことではありません。
 疑惑の判定により3階級制覇の夢は破れてしまったものの、無敗のチャンピオンだったジョフレを破った原田の快挙は海外でも高い評価を受けています。彼は1983年にアメリカにあるボクシングの殿堂入りを果たしていますが、日本人ではいまだに彼一人だけです。(2013年時点)マイク・タイソンが原田のラッシュ戦法に憧れ、ビデオを見て研究していたほど、彼の存在はボクシング界における伝説的存在なのです。

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