- ジョニー・パチェーコ Johnny Pacheco -

<ラテン音楽界のモータウン>
 かつて「ラテン音楽界のモータウン」と呼ばれたファニア・レーベルという企業がありました。その名はレーベルが生んだオールスター・バンド、ファニア・オールスターズの活躍によって、世界中に広められ「サルサ」の代名詞ともなりました。
 今やラテン・ポップスは、「サルサ」というジャンルの枠を飛び越え、アメリカだけでなく世界のポップス界へと拡がりをみせていますが、ファニア・レーベルこそ、その先駆者であり、ひとつの偉大なる到達点でもありました。

<ファニア・レーベル>
 ファニア・レーベルの歴史はサルサの歴史でもありました。特に1960年代から1980年代にかけてのファニアはサルサの市場をほぼ完璧に独占しており、あのモータウンですら、スタックスというライバル企業があったことを考えると、まさに一人勝ち状態だったと言えるでしょう。
 その頃ファニアに所属していたアーティストをざっとあげてみると、ラリー・ハーロウ、ウィリー・コローンルベン・ブラデス、レイ・バレット、アダルベルト・サンチアーゴ、ボビー・バレンティン、ニッキー・マレーロ、ロベルト・ロエーナ、ピート”エルコンデ”ロドリゲス、ヨーモ・トーロ、チェオ・フェリシアーノ、イスマエル・ミランダ、ルイス”ペリーコ”オルティス、エクトル・ラボー、さらにその後唯一のライバルだったティコ・レーベルを買収することでベテランの大物たち、ティト・プエンテ、ティト・ロドリゲス、セリア・クルースやチャーリー・パルミエリ、ジョー・キューバまでもライン・アップに加えてしまいました。もしその当時レコード業界でも独占禁止法が施行されていたら、ファニアは間違いなく違法と認定されていたことでしょう。

<最強企業誕生の立て役者>
 ではなぜ、ここまで強力な企業が生まれたのでしょうか?もちろん、それにはいろいろな理由がありました。
 人種平等を求める時代の流れがモータウンという黒人企業の繁栄を後押ししたのと同じように、ヒスパニック系移民の意識の高まりとともにラテン音楽の新しい企業が求められる状況が生み出されていったのも大きな原因のひとつでした。
 そして、そんな時代の流れをとらえた黒人企業家としてモータウンのベリー・ゴーディーJr.というカリスマ・リーダーが現れたように、ファニアにも二人の優れたリーダーがいました。
 そのひとりはミュージシャンでもあり、ファニア・オール・スターズのリーダーでもあったジョニー・パチェーコ、もうひとりが音楽家ではない弁護士あがり辣腕企業家ジェリー・マスッチでした。優れた音楽家と優れた法律家、二人は同時に先見の明も持ち合わせていました。この優れたタッグ・チームの登場によって、ファニアという巨大な音楽帝国が生み出され、20年に渡る繁栄の時を迎えることになるのです。

<ジョニー・パチェーコ>
 ファニア・レーベルの歴史がサルサの歴史であるように、ジョニー・パチェーコの歴史もまたサルサの歴史と分かちがたいものがあります。
 サルサの歴史は、キューバ音楽がアメリカに渡り、そこで他の移民たちの文化と交流してゆく歴史でもあったわけですが、ジョニー・パチェーコの人生はそれを象徴するものでした。なぜなら彼はキューバ人ではなく、ましてその後サルサの中心になるプエルトリコ人でもないドミニカ出身のアメリカ人だったのです。
 1935年3月25日、ドミニカ共和国のサンティアゴ・デ・ロス・カバジェーロスに生まれたパチェーコは、両親と共に1946年頃アメリカへと移住しました。移民の街ニューヨークでミュージシャンとして身を立てようと考えた彼は同郷のドミニカ移民たちとメレンゲ・バンドをつくって、そこでアコーデオン奏者となります。しかし、ドミニカ出身ではあっても彼がやりたかった音楽は、当時マンボのブームで人気の頂点を迎えようとしていたキューバ音楽でした。そこで彼はキューバ人たちのチャランガ・バンドにも参加しコンガを担当するなど、多方面で活動を始めます。

<チャーリー・パルミエリとの出会い>
 彼は当時メンバーとして参加していたチャランガ・バンドのリーダー兼フルート奏者、キューバ人のヒルベルト・バルデスに気に入られ、彼から古い木製のフルートをプレゼントされました。さっそく彼は新しいブームとなりつつあったチャランガの主役、フルートに挑戦し始めます。そして、ある日彼があるクラブのキッチンでフルートの練習をしていると、同じようにチャランガに魅せられバンドの結成を目指していたピアニストのチャーリー・パルミエリと出会います。
 ちょうどフルート吹きを探していたパルミエリは、さっそくパチェーコに声をかけ、1959年チャランガ・ドゥボネイが結成されます。このバンドでの活躍をきっかけに、彼はアレグレ・レーベルと契約。デビュー・アルバム「ジョニー・パチェーコ・イス・チャランガ」を発表し、ニューヨークでのチャランガ・ブームに火をつけました。一躍彼は一流ミュージシャンの仲間入りを果たしましたが、彼の音楽への情熱は、さらなる段階へと彼を進ませます。

<ジェリー・マスッチとの出会い>
 1964年、パチェーコはニューヨークのホテルで開かれたあるパーティーで離婚訴訟専門の弁護士として活躍していたジェリー・マスッチ Jerry Masucciと出会います。キューバ音楽が大好きでキューバ革命の際も、キューバに最後まで残っていた彼はパチェーコと意気投合。二人でキューバ音楽のレーベルを立ち上げる約束をします。
 こうして、ファニア・レーベルが誕生することになりました。

<「ファニア」の由来>
 1950年代に活躍したバンド、エストレージャス・デ・チョコラーテのヴォーカリスト、ファニア・フーチェの名前からとられたと言われています。彼の名前をとった「ファニア」という曲が、1950年にキューバで大ヒットしており、その曲はパチェーコのファニア・レーベル第一弾アルバム「カニョナーゾ Canonazo」にも収められています。

<「ファニア」の狙い>
 ファニア・レーベル設立の目的は、単にキューバ音楽をアメリカに輸入するのではなく、それをもとにアメリカ独自のラテン音楽を創造することにありました。そのため、二人はラテン音楽界の新しい才能を次々に獲得して行きます。
 その代表格の一人は、ユダヤ系白人という異色の存在でありながらキューバで音楽を学んできたピアニスト、ラリー・ハーロウです。彼は音楽教師の資格ももっており、その高い音楽知識は後に、ファニア・オールスターズのバンド・リーダーという役割にいかされることになります。

<サルサ・スタイルの確立へ>
 パチェーコもまたキューバ指向が強く、彼のアルバム「カニョナーゾ」にはそんな彼の趣味がいかされていました。彼が最初に取り組んだチャランガは、どちらかというとニューヨーク的なマンボのスタイルに近いバンド構成で演奏を行っていましが、「カニョナーゾ」を録音したバンドは、キューバを代表するバンド、ラ・ソノーラ・マタンセーラと同じ小編成のバンドでした。
 それは、ボンゴ、コンガ、ベース、トランペット2本、ピアノ、トレス、ヴォーカルの8人が基本となっており、これがその後のサルサ・バンドの基本となって行くことになります。

<ウイリー・コロン登場>
 しかし、ファニアはただ単にキューバン・サウンドのモノマネを目指していたわけでありませんでした。彼らは新しい才能として、当時わずか17歳だったトロンボーン奏者、ウイリー・コローンに目を付けると、同じくまだ10代で天才ヴォーカリストと呼ばれていたエクトル・ラボーとコンビを組ませます。こうして生まれたデビュー・アルバム「エル・マロ」は、ニューヨークに住む若者を中心に大ヒットしサルサのファン層を10代の若者たちにまで広げて行くことになります。

<ルベン・ブラデス登場>
 このウイリー・コロンと後にコンビを組み、ラテン民族の意識高揚に大きな役割を果たした歴史的名盤「シエンブラ」を作り上げるパナマ出身のヴォーカリスト、ルベン・ブラデス
 そして、ジャズの影響を受けながらも、打ち込みの導入など新しい要素を次々に取り入れファニアにおける音楽的中心の一人だったトランペッターのルイス・ペリーコ・オルティス。この3人を中心として展開されたロック的なアプローチは、音楽的、精神的にファニアの新しい方向性をリードして行くことになります。
 こうして、ある種古典的なキューバ音楽へのこだわりと全く新しいロックへのこだわり、この二つを追求することでファニアは常に革新的な音楽を生み出すことができたのです。

<ファニア・オール・スターズの誕生>
 こうして、ファニアの多彩なメンバーが増えて行くにしたがい、レコードの売上もどんどん伸びて行きましたが、彼らはまだまだその上を目指していました。そして、そのためのプロモーションの目玉商品として作られたのが、伝説のスーパー・グループ、ファニア・オール・スターズだったのです。
 その名を知らしめることになったライブは、当時ニューヨークの夜を支配していた人物、大物興行師のラルフ・メルカードの協力により、マンハッタンのクラブ・チーターで行われました。このイベントは、レコード化されただけでなく、映画化もされ「ヌエストラ・コサ・ラティーナ/アワ・ラテン・シング」として公開され、複合的なプロモーション活動としても画期的なものでした。
 しかし、それが歴史的と言われる存在になりえたのは、ただ新しい音楽「サルサ」の誕生をとらえた記念碑的アルバムだからではありません。それは新しい音楽が今生まれようとする瞬間の輝きとエネルギーを見事にとらえているからなのです。それは、純粋にダンス音楽としての最高峰に位置する傑作だからなのです。

<ファニア・オール・スターズ大活躍>
 それまでお互いのことをほとんど知らなかったミュージシャンたちが、わずか2日間のリハーサルで生み出した奇跡のようなグルーブ。そのアレンジを担当したのは、パチェーコとベーシストのボビー・バレンティンでした。さらにラリー・ハーロウがバンドの中心としてまとめることで、ファニアはいっきにサルサ界の最強バンドになりました。
 彼らはプロモーション活動として、世界各地でライブを行い新しいラテン音楽サルサの伝道師として活躍して行きます。その影響は絶大なもので、ベネズエラやコロンビアなど他の南米諸国にサルサが広まるきっかけを作りサルサをラテン・アメリカを代表する音楽にしました。
 さらに彼らは、サルサの原点でもあるソンをキューバに持ち込んだ奴隷たちの故郷、アフリカでもコンサートを行っています。それはモハメド・アリが世界ヘビー級のチャンピオンに返り咲いた「キンシャサの奇跡」として有名なザイールの首都キンシャサでのタイトル・マッチの記念コンサートとして行われました。このライブに感動したパパ・ウェンバは、自分のバンドをパチェーコの決めセリフ「ヴィバ・ラ・ムジカ」と名付け、その後のザイーレアン・ポップスをリードして行くことになります。サルサは、こうしてアフリカン・ポップスにも大きな影響を与えることになります。

<プエルト・リコの影響>
 1960年代に入り、キューバ革命の影響はしだいに大きくなり、アメリカにおけるキューバ音楽のパワーをしだいに衰えさせ始めていました。そのため、新たなラテン音楽の発信地としてプエルト・リコが浮上しつつありました。
 プエルト・リコは独立国ではなくアメリカの準州という道を歩んでいたため、元々人の行き来が自由でした。そのうえ、州都のサンファンにはキューバからの移民ミュージシャンも多く、カジェ・セラ通りは、プエルト・リコのティンパン・アリーとも呼ばれていました。そのため、パチェーコとマスッチは、月に一度はサンファンを訪れ、新しい曲を仕入れていたそうです。そして、印税などもない安く買いたたいたそれらの曲の中から、70年代を代表するヒット曲の数々が生まれることになったのです。

<ファニア黄金時代>
 ファニアの人気は、こうしてファニア・オール・スターズが築いた道筋をそれぞれのメンバーがソロ・アーティストとしてさらに押し広げ、その人気を拡大して行くことで決定的なものとなりました。それはサルサの黄金時代であると同時にラテン民族の社会進出を象徴する画期的な事件でもありました。

<ファニアの衰退>
 こうして、サルサの市場を独占していたファニアでしたが、その状態が永遠に続くわけではありませんでした。それにはいくつかの理由がありました。
 ファニアの独占を脅かす存在として、新たなサルサ・レーベル、TH(トップ・ヒット・レコード)が台頭してきました。THはベネズエラの石油資本を後ろ盾として発展した大きな資本力をもつ企業で、彼らはいち早くプエルト・リコに目を付け、ファニアが手を着けていなかったプエルト・リコのミュージシャンを中心にヒット作を生み出して行きました。
 ロック的なアプローチを試みていたウイリー・コロンとルベン・ブラデスの二人が、さらなる展開を目指して、ポップス系のレーベルへと移籍して行きました。
 ファニアが築き上げてきた硬派なサルサの人気が下り坂となり、それに代わってメローで軟派なサルサ・ロマンティカと呼ばれるスタイルの人気が高まってきました。そして、その変化に合わせて、かつて彼らに協力してくれた業界の大物ラルフ・メルカードが新レーベルRMMを設立、いっきに時代の波に乗り、ファニアを乗り越えてしまいました。
 そのうえ80年代末になると、ドミニカからの移民たちが大量にニューヨークに押し寄せ、彼らがもたらしたメレンゲの一大ブームもサルサに深刻な影響をもたらしました。とは言え、最終的にサルサの時代=ファニアの時代を終わらせてしまったのは、ヒスパニック系市民の世代交代だったのかもしれません。すなわち、サルサではなくヒップ・ホップを聴きながら育った世代の登場によって、サルサの時代自体が終わりを迎えることになってしまったのです。

<サルサの最高峰は未だ死なず>
 20世紀も終わりになって、キューバを舞台にした映画「ブエナビスタ・ソシエル・クラブ」のヒットがきっかけとなり、キューバン・サルサの世界的なブームが起きました。さらに1997年には、かつてのファニア・オールスターズのメンバーが再結集し、ファニア・レジェンズというスーパー・グループが生まれました。
 ファニア黄金時代のサルサは、そのスリリングさと格好良さ、クールさとファンキーさで、ラテン・ポップスの歴史上最高峰に位置すると思います。是非、1960年代から70年代にかけてのサルサをお聞き下さい!

<締めのお言葉>
「マンボの終焉。パラディアムの閉鎖、そしてキューバ危機が、すべてを変えた。あれからはキューバからミュージシャンが来ることも、新譜が入ってくることもなくなった。若いミュージシャンは自分で作曲の方法を学ばなくてはならなくなったので、曲のアレンジが変わった」

チャーリー・パルミエリ

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