- ジャック・ルーシェ Jacques Loussier -

<生い立ち>
 ジャック・ルーシェは、1934年10月26日南フランスのアンジェで生まれています。天才少年として早くから音楽的才能を発揮。15歳(16歳という説もあり)でパリにある最高峰の音楽学校として有名な国立音楽院(コンセル・バトワール)にトップ成績で入学。クラシック・ピアノの大御所イブ・ナットに師事し、ピアノと作曲を学びました。彼の演奏したバッハの即興演奏はすでに高い評価を得ていたといいます。この時、すでにバッハと彼の長い関係が始まっていたのです。在学中にアルバイトでクラブなどでピアノを演奏。その間にジャズやポピュラー音楽と出会い、なぜか彼は大学を自主退学してしまいます。その後は一年間世界各地を放浪しながら、中東、南アメリカ、キューバなどでもエスニックな音楽を聞き影響を受けることになりました。
 1957年、彼は徴兵により陸軍に入隊。アルジェリアで起こっていた独立戦争に鎮圧する側のフランス政府軍の一員として向かいました。彼はそこで2年以上兵役を務めることになりましたが、そこでアルジェリアに公演に来たシャンソン界の大スター、シャルル・アズナブールと出会います。ルーシェの才能を買った彼は、兵役終了後、バック・バンドのピアニストとして彼に参加を要請します。
 
<「プレイ・バッハ」>
 ある時、彼はスタジオでたまたまバッハの曲をジャズ風に演奏していた時、それをアルバム化するという発想を得ます。そして、1959年、除隊した彼は仏デッカと契約し、ベーシストのピエール・ミシュロ Pierre Michelot、ドラマーのクリスチャン・ギャロ Christian Garrosとともに、アルバム「プレイ・バッハ Play Bach No.1」「プレイ・バッハ Play Bach No.2」「プレイ・バッハ Play Bach No.3」を発表。すると、それらの作品は予想を超える大ヒットとなりました。このシリーズはその後第5集まで発表され、「バロック・ジャズ」という言葉を生むほどのヒットとなります。(全世界で600万枚を販売)
 ただし、彼は「プレイ・バッハ」の発表後、すぐにシャルル・アズナブールのバンド・メンバーとなり、彼のツアーに参加。一年半に渡り、バンドのピアニストとして活動した後、再びバンドのメンバーを集めて、1963年初めてルーシェ・トリオとしてのコンサート・ツアーを行なうことになりました。
 
<「プレイ・バッハ」ヒットの理由>
 ルーシェがバッハを取り上げたのは正解でした。現在のクラシック音楽の基礎を築いたことから「音楽の父」とも呼ばれる存在であるヨハン・セバスチァン・バッハの曲は、多くのミュージシャンに取り上げられポピュラー音楽としても広く聴かれています。(「G線上のアリア」「トッカータとフーガ」「主よ、人の望みの喜びよ」などは特に有名です)そのため、彼のアルバム「プレイ・バッハ」はジャズ・ファンだけでなくクラシックのファンや幅広いポピュラー音楽ファンにも受け入れられたといえます。
 さらに彼の編曲がポップで聴きやすかったこともヒットの原因でした。それまでにも、クラシック音楽をジャズにアレンジした作品は数多くありましたが、マイルス・デイヴィスチャーリー・パーカーのようにインプロヴィゼイション的な演奏とは違いあくまでルーシェの曲はポップスとして聞きやすくできていました。そのうえ、彼の場合はJ・S・バッハの曲のみに特化しつつ、それだけでアルバムを構成していたところも新しかったといえます。ちょうどこの年、マイルス・デイヴィスは、ロドリーゴの代表曲「アランフェス協奏曲」をもとにしたアルバム「スケッチ・オブ・スペイン」を発表。オーネット・コールマンは、フリー・ジャズの先駆けとなったアルバム「ジャズ来るべきもの」を発表。ジャズの新たな時代が始まると同時にポップスとしてのジャズの時代が終わりを迎えつつありました。「プレイ・バッハ」は、そんな時代の流れに実に上手く乗ったともいえます。
 ちなみに、ビルボード誌には1961年初めてイージー・リスニング・チャートができており、ポール・モーリアやフランク・プールセルなどのオーケストラによるイージー・リスニング・サウンドは1960年代に一気にブームとなります。村上春樹の代表作のひとつ「ダンス・ダンス・ダンス」の中に「プレイ・バッハ」を店内でかけている床屋の話がでてきます。(上巻の78ページ)

<バッハとピアノ>
 バッハが活躍していた時代(18世紀前半)にピアノという楽器は開発段階だったため、まだほとんど使われていませんでした。ピアノの開発者のひとりゴットフリート・ジルバーマンは、1730年代に自らが開発したピアノをバッハに見せましたが、バッハはその楽器の高音部の音の弱さに納得せず、その楽器の使用を断りました。そのため、バッハはピアノのために作曲することはありませんでした。しかし、1747年に再び持ち込まれた改良品はバッハの心をとらえ、彼は自らその楽器のプロモーションに協力したとされています。
 しかし、彼はその後すぐ、1750年にこの世を去ってしまったため、結局ピアノのための曲を残すことができませんでした。もし、あと数年長生きしていたら、間違いなくピアノのための曲を作っていたことでしょう。こうした因縁があるだけに、オルガンやチェンバロのために作られたバッハの曲をピアノによって演奏することは、新鮮なことであり、運命的なことだったともいえます。

<バッハへの挑戦>
 当時のバッハ人気は、同じ頃、他にもバッハを取り上げて話題になったアーティストがいたことからもわかります。その中のひとりにルーマニア出身のジャズ・ピアニスト、オイゲン・キケロ Eugen Ciceroがいます。彼は、バッハよりもさらに古いドメニコ・スカルラッティ、フランソワ・クープランなどロココ派の作曲家の曲も積極的に取り上げており、ルーシェの「バロック・ジャズ」に対して、彼の音楽は「ロココ・ジャズ」と呼ばれたりもしていました。もちろん、彼もバッハの曲を取り上げていて、聞きやすくさっぱりしたルーシェのアレンジに対して、よりこってりとした味付けのアレンジが好対照と比較されていました。
 さらに彼の「プレイ・バッハ」に先駆けて話題になっていたのは、自由奔放なスタイルが話題となったクラシック界の鬼才グレン・グールドです。彼もまたバッハを音楽的に高く評価し、多くの演奏を残していますが、中でも有名なのが彼が1956年に発表したバッハの代表曲のひとつ「ゴルトベルク変奏曲」です。

<「プレイ・バッハ」以後>
 「プレイ・バッハ」の大ヒットにより、彼らは世界中をツアーで回ることになりました。いつしか、彼のトリオは「プレイ・バッハ・トリオ」と呼ばれるようになります。しかし、1970年代後半以降、活動は休止状態となり、1978年にはバンドは解散します。
 しかし、1985年バッハの生誕300年にあたる年、ルーシェは新たにメンバーとして、ドラムスのアンドレ・アルピノ、ベースのバンサン・シェルボンによるトリオを結成し、活動を再開します。1987年の来日公演は「ライブ・イン・ジャパン」として発売されています。
 このトリオにより、アントン・ヴィヴァルディの「四季」に挑戦。1997年「ジャック・ルーシェ・トリオの四季」として発表。いよいよバッハ以外のクラシック音楽への挑戦が本格化することになります。

<ジャズ界の「クラシック・トリオ」として>
 バッハ以外のクラシックへの挑戦は、ベーシストがベノワ・デュワイエ・デ・セゴンザックに交代した次のトリオから本格化します。
1998年、「プレイ・サティ」ではエリック・サティ。有名な「ジムノペディ」など利き所満載です。
1999年、「ボレロ」では、モーリス・ラベルの名曲「ボレロ」。これは、曲としてインプロヴィゼーションの入る余地が多いこともあり、聴き応えがあります。
2000年、「月の光」ではクロード・ドビュッシー。
2002年、「ヘンデル:水上の音楽、王宮の花火の音楽」ではヘンデル。
2003年、「ベートーヴェン:交響曲第七番第二楽章」ではベートーヴェン。「のだめカンタービレ」で有名になったベートーヴェンのポップナンバー。
2004年、「インプレッションズ・オン・ショパンズ・ノクターンズ」ではショパン。
2005年、「モーツァルト:ピアノ協奏曲第二十番第二十三番」ではモーツァルト。

2009年は、「プレイ・バッハ50周年アニバーサリー・アルバム」を発表しています。

[参考]
スウィング・ジャーナル 世界ジャズ人名事典(スウィング・ジャーナル社)
ジャック・ルーシェ公式ホームページ

ジャンル別索引へ   アーティースト名索引へ   トップページへ