- じゃがたら JAGATARA -

<アケミが死んだ頃>
 JAGATARAのヴォーカリスト、江戸アケミが死んだことを、僕はしばらくの間知りませんでした。
 1990年1月27日自宅の浴槽で精神安定剤の飲み過ぎにより眠ったまま溺死。
 それはちょうど僕が十数年に渡る東京周辺での生活を終え、故郷の北海道に帰ってきた直後のことでした。生活がまったく変わってしまった僕にとって、しばらくは音楽の情報は縁遠いものになっていました。(おまけに、僕は結婚式も控えていました)後でよく考えてみると、僕が東京を去る直前に見た最後のライブにJAGATARAは出演しており、その二ヶ月後に江戸アケミはこの世を去っていたのでした。

<サリフ・ケイタの前座として>
 と言っても、僕が見た最初で最後の江戸アケミのステージは、JAGATARA単独のものではなくマリからやって来たカリスマ的ヴォーカリスト、サリフ・ケイタの前座としてのものでした。その上、彼らが前座として演奏することは事前に知らされていなかったはずです。会場の幕が上がると、江戸アケミの金髪の姿があり、あれっと思ったら、すぐに彼らのメジャー・デビュー・アルバム「それから」の中のナンバーが演奏され始めました。
 その時、アケミは「アフリカの偉大なヴォーカリスト、サリフ・ケイタの前に少しだけ歌わせてください」といった感じのすごく謙虚な挨拶をしたことを何となく憶えています。当時は、まだ珍しかった金髪でこわもての男の意外な真面目さに僕はちょっと驚きました。(もちろん、彼の歌が始まるとそんな生真面目さなど、どこかに吹き飛んでしまったのですが・・・)

<究極のダンス音楽、アフリカン・ポップスに挑んだ男>
 アフリカン・ポップスの現場、アフリカではコンサートの時間が2時間以下なんてものは、ほとんど存在しないといいます。朝まで踊るコンサートは珍しくなく、ひとつのバンドが4時間、5時間演奏するのは当然と言われています。さすがに、そんなパワフルな音楽の世界に挑んだ日本のバンドは、ほとんどいませんでした。(かつて、イカ天出身のKUSUKUSUというリンガラ系のバンドがありました。これはなかなか良かった!)
 そして、そのほんのわずかのバンドの中で、あまりに抜きん出た孤高とも言える存在、それがJAGATARAであり、それは江戸アケミという日本人離れした悲しすぎるほどパワフルな人物の存在なくしては、生まれ得なかったのかもしれません。

<暗黒バンド、じゃがたら>
 JAGATARAは、1979年に江戸アケミ(本名:江戸正孝)を中心に結成されたロック・バンド「江戸&じゃがたら」からスタートしていて、当初はロックンロールやサザンロックのバンドだったようです。その後、ギターに永井章(EBBY)、ベースに渡辺正巳が加わり、「じゃがたらお春」と改名。アマチュア・ロックバンドのコンテストを荒らし、審査をメチャクチャにすることで知られるようになりました。その後「財団法人じゃがたら」、「暗黒大陸じゃがたら」と名前を変えますが、音楽よりもその暴力的ステージで有名になります。ステージ上で蛇や鶏を食いちぎり、全裸になって放尿、脱糞をしたり、椅子を振りまわして観客を追い回すなど逸話には事欠きません。ついには自ら額を切り、出血多量で倒れて救急車で運ばれるなど、究極のパンクバンドとして話題となります。
「財団法人じゃがたら」という名前からは、彼らがある種宗教的とも言える音楽、リズムによって身体を揺り動かし、精神を解放させようという目的を持っていたことがわかります。(それもけっして宗教法人ではないところがミソ。江戸は宗教が嫌いで、その代わりに音楽があると信じていました)
 
<音楽集団じゃがたらへ>
 僕は、初期の頃彼らの噂だけは聞いていました。ステージ上でウンコをするわ、血を流すは、とにかく凄いらしいという評判でした。そんな噂だけを聞いていた僕は、彼らのことをてっきり前衛舞踏集団かなにかだと勘違いしていたほどです。有名な舞踏団、暗黒舞踏や大駱駝館などの一派の過激な奴だと思っていたわけです。彼らは多くの人にそんな誤解をされるようになっていました。
 1981年初のシングル「LAST TANGO IN TOKYO/ロックを葬り去る歌ヘイ・セイ」を発表。怖いモノ見たさの観客が増える中で彼らは、音楽で勝負する方向へと方向転換します。そしてこの年、8月にはギターにOTO(村田尚紀)が参加します。ここで彼らは再びバンド名を変更。新たな「暗黒大陸じゃがたら」という名前には、ロック・バンドであった彼らが、ダンスの根元的文化が存在する土地、アフリカのダンス音楽へと方向転換したことが意思表明されていました。
 デビュー・アルバムである1982年の「南蛮渡来」を発表した彼らは、強力なホーン・セクションをもつアフロ・ファンク・バンドとしての陣容を固めつつありました。特に、その柱となったのが、ギタリストのOTOでした。彼の加入により、いよいよJAGATARAは、音楽性によって評価される一流のバンドになりました。(1985年からバンド名は「JAGATARA じゃがたら」になっています)

<心の病との闘い>
 しかし、1983年アケミは精神の病に冒され、バンドは活動不能の状況に追い込まれてしまいました。こうして、JAGATARAは、アケミを失ったまま活動休止に追い込まれ、3年に渡る長い空白期間が続きます。しかし、バンドは解散せず、メンバーは忍耐強くアケミの回復を待ちました。
 1985年には、入院中に外出許可を得て完成させたというアルバム「君と踊りあかそう日の出を見るまで」を発表。ついに彼が回復すると「裸の王様」、「ニセ予言者ども」と連続して、作品を発表し始めました。

<メジャー・デビュー>
 そして1989年、ついにメジャー・デビュー・アルバム「それから」が発表されます。江戸アケミは、この時36歳、遅まきながら彼はスタート・ラインに立つことができたのです。
 彼はため込んできたアイデアと体力と気力をそそぎ込むようにして、次なるアルバム「ごくつぶし」を発表。そこには、アフリカン・ポップスだけでなくラテン・ポップスのリズムも盛り込まれ、いよいよJAGATARAは、ワールド・ミュージック時代を代表するバンドとして活躍をするようになって行きました。
 たぶんアケミは、空白の3年間を埋めるため、そしてその間にため込まれたエネルギーを発散するため、病み上がりであることも忘れてがんばったに違いありません。

<英雄たちとの夢の共演>
 2枚のアルバムを発表したその年、彼らはすでに次のアルバムの録音を開始していました。それが、アケミの死後発表された「おあそび」(1990年)です。このアルバムには、南アのポップス、ムバカーンガを代表する大物アーティスト、マハラティーニ&マホテラ・クイーンズも参加。アケミは夢のデュエットを実現することができました。
 そして、僕が見たサリフ・ケイタのライブでも、彼は前座として共演することができたのですから・・・彼にとっては本当に幸福な日々が続いていたに違いありません。(それは1989年5月ごろのこと)
 しかし、彼の死のことを思うと、一概にそうは言えないのかもしれません。突然彼の生はぷっつりと終わりを向かえてしまったのです。それは、コンサートから2月とたたない翌年1月のことでした。

<黄色い呪術師>
 けっして、サリフ・ケイタのような素晴らしい歌唱力を持っていたわけではないかもしれません。もちろん、マハラティーニのような大地のように重く響く声を持っていたわけでもありません。彼の歌はアフリカン・ポップスのリズムを兼ね備えてはいても、そこに歌われていたのは、やはりロック的な歌詞でした。世の中の異常さを暴き出し、糾弾し、追求し、その大掃除を人々に呼びかける。それが彼のメッセージであり、ロックと言う音楽が昔から歌詞に込めていた内容でもありました。
 JAGATARAの音楽は、アフリカのリズムによる肉体の解放とロックのメッセージによる魂の解放、その二つを同時に追求するものだったのかもしれません。彼は黄色い呪術師だったのです。

<心の救済者>
 彼は腐りきった現代社会を救いたかったのです。しかし、彼は宗教家にはなりたくなかったし、救い主なんていう柄でもありませんでした。では、自分には何ができるのか?そんなあまりに純粋な目的のために彼は身も心も削り続けていたに違いありません。しかし、彼の歌声には、そんな心の悩みは微塵も感じられません。それどころか、常に我々を叱咤激励してくれるのです。
 江戸アケミ享年36歳。あれからもう10年以上の時がたち、僕はもう40を過ぎてしまいました。それでも、こうやってしつこくJAGATARAのようなアーティストのことを世の中に紹介する地道な作業をしているのは、やっぱり命をかけて歌っていた江戸アケミのような人がいたからかもしれません。

<締めのお言葉>
「理想や主義を奉じ、信念をもっている人は危険です。そういう人は、理想や主義に頼って自我を安定させようとしているわけですから」

岸田秀著「幻想を語る」より

<追記>
 2010年11月、JAGATARAのマネージャーを担当していたという方からメールをいただきました。感動でした、おかでサリフ・ケイタとの共演ライブが1989年5月ごろだったことなど、教えていただきました。まさか当時の関係者の方からご連絡をいただけるなんて感動です。このサイトをやっていて良かったと思います。今後とも、修正箇所などあれば随時対応してゆきたいと思います。
 思えば、じゃがたらのマネージャーって大変な仕事だったはずです。

「じゃがたらの音楽によって生じる衝撃を既存の音楽名であえて語ることは不可能ではない。たとえばそれはパンクやファンクやアフロやジャズやレゲエやフォークやロックというものだが、じゃがたらと何か他の音楽とがどれほど似ているかを判断していくことほどくだらないことはない。じゃがたらは、そういう行為はくだらないからやめろ、ということを音楽そのもので伝え続けてきた。そういうことを伝え続けても聴き手に空々しい思いをさせないほど、じゃがたらは清らかで純粋だった。」
湯浅学「音楽が降りてくる」より

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