- ジェームス・ブラウン James Brown - Part.1

<ファンクの父>
 「ショービジネス界一の働き者」「ミスター・ダイナマイト」「ソウル・ブラザーNo.1」「ゴッド・ファーザー・オブ・ソウル」「セックス・マシーン」、そして「ファンクの父」、ジェームス・ブラウン。
 マッチョでファンキーでセクシーで暴力的でエゴイスティック、彼に対するイメージは良いもの悪いもの含めて強烈なものばかりです。しかし、これほど型破りで強い個性を持ちながら、半世紀に渡り活躍を続けてきたアーティストは他にいないかもしれません。(もちろん、その間何度となく浮き沈みを繰り返してはいますが・・・)
 さらに、彼が生み出した音楽は、彼がこの世を去った後もなお生き続け、それを手本としたり、サンプリングしたりするファンキーな音楽を生み出し続けることでしょう。
 それにしても、なぜ彼ほどの強烈な個性が生まれたのでしょう?
 なぜあれほど強靱なファンク・グルーブが生まれたのでしょう?
 その答えはやはり彼の人生にありそうです。
 キーワードは「たたき上げ」です。

<極貧、そして孤独な少年時代>
 歴史に残るミュージシャンたちの中で、彼ほど貧しい家庭で育てられた人物も珍しいかもしれません。デルタ・ブルースの世界なら、彼に匹敵する貧しい生い立ちのアーティストはそう珍しくなかったでしょうが、彼の誕生日1933年5月3日以降に生まれたブラック・ミュージックのアーテイストの中で彼の貧しさに勝てる人物は、そういないでしょう。
 駆け落ちして結婚した両親が住んでいたのは、森の中に建てられた木造一間のあばら屋でした。彼の父親は森の中でテレビン油を取るための樹脂を採取することで生計をたてていましたが、食べて行くのが精一杯の暮らしで、すぐに母親は家を出てしまいます。彼は有名になってから母親を見つけだし、再び一緒に暮らすことになりますが、それまで彼は母親というものを知らずに生きることになります。
 彼の母親の家系にはアジア系とインディアンの血が流れており、父親もまたチェロキー・インディアンの血を受け継いでいたようです。彼が黒人の割に背が低く、鼻が低いアジアっぽい顔をしているのは、その家系のせいなのでしょう。
 父親が常に外で仕事をし、回りにまったく人が住んでいなかったため、彼はひとりぼっちで子供時代を過ごすことになりました。5歳の頃、彼は父親にハーモニカを買ってもらい、父親によく聞かされていたブルースをひとりで吹くようになります。しかし、本人にとってブルースは楽しい音楽ではありませんでした。それはひとりぼっちで夜を過ごす子供にとって、あまりに悲しすぎる音楽だったのです。
 結局、それだけ一生懸命働いても父親の収入はほんのわずかにしかならなかったため、ついに父親はその仕事をあきらめ、オーガスタに住む叔母さんの家にジェームスを預け、出稼ぎに行くことになりました。

<売春宿での少年時代>
 ジョージア州のオーガスタに移住した彼は、売春宿を経営する叔母のもとで暮らすことになりました。と言っても、けっして彼の生活が豊かになったわけではありません。それどころか着るものもろくに与えられず、毎日毎日同じ服を着ていったため、ついには学校から追い返されてしまうほどでした。そのうえ、第二次世界大戦にアメリカが参戦するようになると、基地の街だったオーガスタは、逆に不景気になってしまい、売春宿も廃業に追い込まれてしまいます。
 それでも、この間に彼は店の常連客たちにギターを習ったり、壊れたオルガンをもらって弾き始めるなど、音楽の世界に近づきつつありました。
 ルイ・ジョーダン、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、ルイ・アームストロングなどが大好きだった彼は、街にやって来るサーカスやミンストレル・ショーにも目がなく欠かさず見に行っていました。この頃彼が見たこれらのショーが、後に彼の率いる一座「ジェームス・ブラウン・レビュー」の基本となります。と言っても、彼はその頃まだミュージシャンになろうとは考えていませんでした。仲間たちの多くが、彼はプロ野球の選手になるべきだと考えていたようです。そして、彼自身はというと、プロ・ボクサーになるのが夢だったそうです。なるほど、彼のダンスにおける見事なステップと疲れを知らない体力は、その時代に身につけたものだったのでしょう。

<堀の中の青春時代>
 貧しいながらも音楽と野球、ボクシングに熱中していた彼の幸福な青春時代は、ある日突然終わりを迎えます。大きくなるにつれて、彼は着るものほしさに万引きや盗みを働くようになっていました。そして、ある日彼は友達と車の中からコートなどを盗み出そうとしているところを警察官に見つかり現行犯で逮捕されてしまいました。初犯ではなかった彼に与えられたのは、なんと8年から16年という重い刑罰でした。まだ未成年だった彼にとって、それは明らかに重すぎる刑罰のようですが、当時の黒人たちのおかれた立場からはそれが普通でした。彼はこの時
「俺は間抜けだったから、こうして監獄に送られることになったんだ」と思ったそうです。
 しかし、彼は監獄の中でも、サバイバル生活を余儀なくされます。幸いボクシングが強かったこともあり、彼は仲間内でいじめられたりすることはありませんでしたが、白人の看守たちからのいじめには耐えなければなりませんでした。
 それでも彼は仲間たちとゴスペル・グループを結成し、あっという間に所内の人気者になります。「ミュージック・ボックス」というあだ名をもらった彼は、ついにミュージシャンとして生活してゆくきっかけをつかみました。

<厳しい仮出獄生活時代>
 入所してから3年で、彼は仮出獄のチャンスを得ました。真面目な生活態度と明るい性格、そしてゴスペル・ミュージシャンとしての活躍が好印象を与えたおかげでした。ただし、彼には故郷のオーガスタへもどることは許されず、監獄のあるトコアの街で生活することが条件づけられていました。
 幸いゴスペルを通して知り合った友人、ボビー・バードが彼の面倒をみてくれたおかげで家と仕事を得ることができました。ボビーとはこの後、長きに渡り音楽活動を共にすることになります。

<フレイムス結成!>
 1953年、彼はいよいよゴスペル・グループ「フレイムス」をスタートさせます。しかし、貧しい彼らに楽器はなく、店にあるピアノを借りて、ゴスペルだけでなくR&Bもアカペラで演奏する毎日でした。その頃のレパートリーは、クライド・マクファーターを中心としていたドミノスやファイブ・ロイヤルズ、オリオールズなどのナンバーでした。
 昼は別の仕事をし、夜はライブ活動という厳しい生活でしたが、マネージャーもつき、楽器もそろい、移動用の車も確保、しだいに彼らの名は街でも知られた存在になって行きました。

<ライバルたちとの闘いの日々>
 街では敵なしのフレイムスの前に、強力なライバルが現れます。それはリトル・リチャードでした。まだ、ビッグ・ヒットこそなかったものの、彼はすでにこの地域ナンバー1の人気者でした。フレイムスの存在は、そんな彼の地位を脅かすものでしたが、彼はフレイムスを自分の事務所に推薦。おかげで、彼らは安定した仕事を得ることができるようになります。そのうえ、リトル・リチャードが突然西海岸へと旅立った後は、その後釜として大きなチャンスを得ることができました。ちょうどこの頃、彼らはグループ名を「フレイムス」から「フェイマス・フレイムス」へと改めました。
 無名ながらも「有名なフレイムス」は、ジョージア州以外にまで活動範囲を広げ、各地でライバルたちとの競争を繰り広げてゆくことになりました。

<レコードを売るための闘い>
 しだいに知名度があがっていったフェイマス・フレイムスについにレコード会社から声がかかりました。それはオハイオ州のシンシナティーに本拠地をおくキング・レコードでした。
 1956年2月4日、彼らは初めてレコード録音のためにスタジオ入りしました。最初の曲は、記念すべきデビュー曲となるオリジナル曲「プリーズ・プリーズ・プリーズ」でした。ところが、この曲を聴いたキングのワンマン社長シド・ネイサンは、「『プリーズ』を繰り返すばかりでどこが良いんだ!」と激怒。彼を推薦したスカウトマンはクビになり、この曲はキング配下のマイナー・レーベル「フェデラル」からなんの宣伝もないまま発売されることになりました。
 しかたなく彼らはメンバーそれぞれがレコードを持ってツアー先の街にあるラジオ局を訪問。各曲のDJに配って歩くことで地道に宣伝してゆきます。もちろん、DJに渡すワイロがあるわけでもないので、その効果はなかなか現れませんでしたが、少しずつレコードは売れ始め、結局このデビュー曲は、ミリオン・セラーとなります。

<バンドの崩壊から復活へ>
 デビュー曲はヒットしたものの、その後ヒットがまったく出なくなった彼らに、マネージメント会社はバンド名をジェームス・ブラウン&ザ・フェイマス・フレイムスへと改めるよう提案します。これは、バンドのスターをはっきりさせることが目的でしたが、他のメンバーはそれに反発。全員が故郷の街、トコアに帰ってしまいました。
 バンドが消滅してしまい途方に暮れていた彼ですが、そこに神様から助けの手が差し伸べられます。オーストラリアをツアー中だったリトル・リチャードが、これからの人生を神に捧げると言い出し、突然音楽界から引退してしまったのです。そのため、ジャームスは彼の開けたツアーの穴を埋めるべく急遽、リトル・リチャードのバック・バンドとともに旅に出ることになりました。以前にも、彼はリトル・リチャードの穴を埋めるため、「リトル・リチャード」の偽物としてライブを行わされたことがあるのですが、今回はジェームス・ブラウンの名前でしか行わないという条件で、彼はそのピンチ・ヒッターの役を受けました。結局、彼はこのバンドのメンバーと、帰ってきたフレイムスのメンバーによって新しいバンドを結成。ラスト・チャンスとなるシングルを録音することになりました。その曲が、彼の代表曲のひとつ「トライ・ミー Try Me」でした。この曲は見事R&Bチャート1位にまで登る大ヒットとなり、彼は崖っぷちから見事に復活しました。

<栄光を守るための闘い>
 この頃、彼らはついにショービジネスの都、ニューヨークに進出。黒人芸能の最高峰「アポロ劇場」に出演するチャンスをつかみます。ところが、アポロへの出演を2週間後にひかえ、元々酒癖、女癖が悪かったバンドのメンバーとJBが大喧嘩をしてしまいます。こうして、またしてもフェイマス・フレイムスは解散。JBは盟友ボビー・バードを再び呼び寄せ、急遽バンドのメンバーをかき集め、アポロのステージに立ちました。延期することも可能だったにも関わらず、彼はこのチャンスを逃さず見事に成功させたのです。こうして勝ち得たアポロでの実績は、黒人エンターテナーとして彼がトップの仲間入りをしたことの証明でした。しかし、まだ彼のライブは他のバンドとの共演であり、単独公演ではありませんでした。そして、こうした共演ライブでは、その日その日で誰が観客に最も受けたかが争われることになります。その結果によっては、単独ライブも可能になるわけですから、その闘いはしのぎを削るものでした。
 この頃のステージ・ライバルは、ドリフターズ、ハロルド・メルビンとザ・ブルー・ノーツ、アイズレー・ブラザース、リトル・ウィリー・ジョン、B・B・キング、ボビー・ブラウン、フラミンゴス、ジャッキー・ウィルソンなどなど、これらの大物たちとの人気の奪い合いがあったからこそ、アポロでは最高のパフォーマンスを見ることができたのです。

<得意技、スペシャル・パフォーマンスの開発>
 こうした闘いを勝ち抜くため、彼は音楽だけでなく、衣装やMC、ダンス、それに演出にも常に他の先を行く演出を加えていました。その中でも、特に有名なのがJBお得意のパフォーマンス「マント・ショー」です。
 ショーの終わり頃、彼がステージ上でばったりと倒れます。それをメンバーが助け起こし、彼の肩にマントをかけて、ステージから下ろそうとします。しかし、JBはそれを振り切って再びステージに登って行くという感動?の演出です。映画「ブルース・ブラザース2000」でも、ラストのおまけシーンで使われていたこの演出も、この頃(1959年頃)生まれたものです。
 つなみに、このマント・ショーは、ゴージャス・ジョージというプロレスラーがリング上の演出としてローブを用いていたのをテレビで見たJBが思いついたアイデアだったそうです。最初はメンバーのコートを使っていましたが、メンバーが嫌がり、専用のマントを特注で作ることになったのだそうです。

<ハード・ワーキングの連続>
 彼は一年間に350日はライブをこなしていたと言われますが、そのほとんどが一夜限りの契約公演でした。いつしか彼は「ワンナイターの王様」と呼ばれるようになっていました。一日平均2時間半はステージで動き回っていた彼は、毎回3〜4Kgは体重を減らしていたため、ショーの後に常に食塩剤やブドウ糖の静脈注射を行っていたそうです。(その注射の跡が目立ったため、彼は麻薬中毒と疑われることも多かったのですが、麻薬中毒では彼のように動きのハード仕事は勤まらなかったでしょう)
 このままだと身体が保たないと考えるようになった彼は、しだいに自らの力でコンサートをプロモートするようになってゆきました。この方法は、失敗した場合のリスクが大きいのですが、上手くやるとその分利益も大きくなります。彼は歌って踊るだけでなく、自らの手でコンサート会場を手配し、宣伝やチケット販売も行うことで、より効率よく利益を上げられるアーティストへと成長して行きました。これは当時のアーティストとしては、非常に珍しい存在だったと言えます。

<自ら決定権を握るアーティストへ>
 彼はコンサートのプロモート意外でも、自らが決定権を握るようになって行きます。それは危険をともなう事ではありましたが、実績を積み上げることで少しずつ可能になって行きました。彼の出世作となったライブ・アルバム「ライブ・アット・ジ・アポロ」は、そんな彼の意志を通したからこそ発売が可能になった作品です。
 今でこそ、ライブ・アルバムは珍しくありませんが、1963年にこのアルバムが発売された当時、ライブ・アルバムというのは、スタジオ・ライブに拍手の音をかぶせた程度のもので、観客の声が聞き取れるなどということはありえませんでした。その意味で、「ライブ・アット・ジ・アポロ」は常識を覆す作品だったのです。当然、このアルバムの企画をジェームス・ブラウンから聞いたキングの社長シド・ネイサンは、アルバムの制作に反対しました。そこでJBは自ら借金をして自費での録音を行ないました。出来上がった作品を聴いて、シド・ネイサンは発売を許可しますが、そこからシングルを選ぶよう提案します。ところが、JBはこれをあえて実行しませんでした。彼はこの作品をあくまでもアルバム単位で売りたいと考えていたのです。実際、このアルバムはシングルを出さないまま売れ続け、ラジオ番組によっては片面全部を一気にかけてくれるところまで現れました。こうして、このアルバムはヒット・チャートに66週間(一年以上)に渡り居座り続けます。
 このアルバムは、シングル重視だった音楽業界にLP単位を重視する流れを作ることにもなりました。

<レコード会社との闘い>
 レコードをある程度自由に作らせてはくれるものの、印税など金銭面での待遇は古い体質のままだったキングに嫌気がさしたJBは、一方的にキングとの契約を破棄し、マーキュリーと契約します。しかし、キングから逆に訴えられることになった彼は、自由に録音をすることができなくなってしまいます。裁判所は彼に、ヴォーカルはキング、演奏はマーキュリーで録音するよう実におかしな裁定を下します。
 そのため彼はライブ活動に専念することで苦境を乗り越え、キングから大幅な契約の見直しを勝ち取ります。自由とお金、その両方を彼は自らの手でつかみ取ったのです。

<ファンクの誕生>
 ちょうどこの頃、新しいメンバーとしてバンドに、ジミー・ノーラン、ドラムスのメルヴィン・パーカー、サックスのメイシオ・パーカーの3人が加わりました。彼らこそ、JBサウンドを「ソウル」から「ファンク」へと変貌させる重要な存在でした。特にメイシオ・パーカーは、ホーン・セクションの役割をメロディーではなくリズムを生み出す楽器隊に変えることで、それ以前の音楽とはまったく異なるもにしました。これにより、JBの思い描くファンク・サウンドの形がいよいよ整うことになったのです。その象徴とも言える曲が、1965年に発表された「パパズ・ガット・ア・ニュー・バッグ Papa's Got A New Bag」でした。
 しかし、せっかく生み出された「ファンク・サウンド」でしたが、世の中は「楽しいダンス・サウンド」を求める状況ではなくなりつつありました。1965年と言えば、アメリカ社会は公民権運動とベトナム反戦運動に揺れ動いていた次期であり、いよいよその激動は深まりつつあったのです。それまで、政治や人種問題、反戦運動とは関わりをもたなかったJBも、ついにその渦に巻き込まれることになります。

<締めのお言葉>
「ファンクとは、動く一体感のことなのだ」

ハワード・C・ノリス 「ファンク FUNK」(リッキー・ヴィンセント著)より

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