- ジェームス・ディーン James Dean -

<永遠の青春のシンボル>
 ジョン・レノンマリリン・モンローカート・コヴァーンデヴィッド・ボウィ、そしてジェームス・ディーン。彼らには共通する点があります。もちろん、いずれもそれぞれの時代を代表するスーパー・スターですが、全員幼い頃、両親の不仲などにより心に深い傷を負っているのです。その心の傷はトラウマとして、彼らを苦しめますが、皮肉なことにそれが彼らの才能を開花させる原因ともなりました。
 そんな中でもジェームス・ディーンの場合は、そうした家庭における不幸がそのまま俳優としての演技に生かされました。そして、彼がたった3本の作品を残してこの世を去ったことによって、そんな彼の「青春の傷」は癒されることなく永遠のものになってしまいました。アーティストにとって、「永遠の存在」になることは幸福なことに違いないのですが、本人にとってはまだまだやり残しの多い人生だったはずです。
 もうひとつ、彼の存在が他の青春アイドルたちと違うのは、彼の存在はそのまま「1950年代アメリカの青春像」の象徴となり、時代や世代を越えた「反抗する若者たち」の象徴にもなったことです。
 彼の登場により、1950年代アメリカの白人の若者たちにとっての「青春」と言えば、エルヴィスとジェームス・ディーン、そしてリーヴァイスのジーンズによって象徴されることになったのです。
 なぜ、彼はそこまでの存在になり得たのでしょうか?

<悲惨な生い立ち>
 1931年2月8日、ジェームス・ディーンはインディアナ州のマリオンに生まれました。ところが、彼の両親は「行きずりの恋」から始まり「できちゃった結婚」で結婚にいたった夫婦だったことから、彼の父親は子供の誕生を喜びませんでした。こうして父親に無視されることになった彼に対し、母親のミルドレッドは深い愛を注ぎ込みます。そして、彼女は小さい頃から息子に何にでも挑戦させ、その中から芝居こそ息子の生きる道であると確信します。
 父親の転勤でロスアンゼルスに引っ越したことで、いよいよ彼は本格的に俳優を目指すことになり、放課後はタップダンスやバイオリンなど数々の習い事に費やされることになります。そのため、彼は学校でのクラブ活動に参加できず、クラスの同級生たちと遊ぶこともなく、さらには父親とのふれあいの機会までも失ってしまいました。それでも彼は父親に愛されていないことを知っていたため、母親の愛情だけは失うまいと俳優修行に打ち込み続けました。ある意味、彼はこの頃すでに毎日家庭で、「良い子供」としての演技の勉強していたと言えるのかもしれません。ところが、そんな彼を最悪の悲劇が襲うことになります。

<母親の死>
 1940年、彼が9歳の時、母親のミルドレッドが卵巣癌で突然この世を去ってしまったのです。そのうえ、母親の死が父親の愛情を呼び覚ますこともなく、彼は父親によって伯母の家に引き取られることになりました。
 不幸な境遇を不憫に思った伯母夫婦は、彼を甘やかすことになり、それが彼のわがままな性格を助長させることになりました。こうして、愛されること、注目されることを常に意識するようになった彼は、人一倍目立ちたがり屋になり、それが喧嘩や競争など危険な行為を好む彼の性格を生むことになりました。それは元はと言えば演技だったのかもしれませんが、いつしか彼は「死の危険」を感じることが生き甲斐になって行きます。

<俳優の道へ>
 1950年、彼はそれまで通っていたサンタモニカ市立大学からUCLAに編入し、本格的に演技をを学ぶようになります。親元を離れ、収入がない彼はバイトをしながら友人と共同生活をし、俳優としての仕事を得ようとチャンスを待ちます。しかし、なかなかチャンスに恵まれずにいた彼に奇妙なチャンスが巡ってきます。
 彼はある日バイト先の駐車場で広告代理店の重役ロジャーズ・ブラケットという人物と知り合います。どうやらこの人物は同性愛者だったようで、ジェームス・ディーンのことを気に入ると自分の家に住まわせました。その代わり、彼はコマーシャルやラジオ・ドラマ、映画などの仕事をどんどん取ってきてくれただけでなく、芸術に関しての素養やマナーなどの教育係としても重要な役目を果たしてくれました。
 その後、ブラケットのニューヨーク転勤に合わせて、ジェームス・ディーンもニューヨークに引っ越しますが、そこで彼はエリザベス・シェリダンというダンサーと出会います。ディジーという愛称をもつその女性と愛し合うようになった彼は、ブラケットも含めた不思議な三角関係を続けることになります。

<アクターズ・スタジオへ>
 1952年、彼は女優志望のクリスティーン・ホワイトと親しくなり、二人で俳優になるための最高の学校アクターズ・スタジオの入学試験を受けました。すると、見事1000人もの受験者の中から、彼ら二人だけが合格します。
 映画「ゴッドファーザーPart2」にゲスト出演し、アカデミー助演男優賞をあっさりと取ってしまったことでも知られる「俳優界のドン」リー・ストラスバーグが役者の玉子たちに独自の演技手法「メソッド」を教え込んだそのスタジオからは、ジェームス・ディーン以外にもジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロ、ポール・ニューマン、アル・パチーノ、マリリン・モンローなど、数多くの名優が巣立っています。しかし、そんな天才集団の中でさえも、彼の才能は高く評価されていたようです。ただし、時間にルーズで、不作法で、教師を教師とも思わない不遜な態度は、常に周りから批判の対象となっていたのも事実でした。それでもなお彼が学校に入れ、さらにはそこでチャンスを与えられることになったのは、彼の人間的欠陥を知っていてもなお、その才能に惚れ込む人たちがいてくれたおかげでした。

<エリア・カザンとの出会い>
 問題を起こしつつも、彼には舞台やテレビ・ドラマの仕事が回ってくるようになり、1953年運命を変えることになる芝居に出演することになります。それは「背徳者」というタイトルで、彼はその中で同性愛者の若者を演じることになりました。そしてこの時、彼の演技を見たポール・オズボーンという脚本家は、自分が書いている新作の主演に彼を抜擢することを心に決めました。そして、彼の推薦により、1953年ジェームス・ディーンはエリア・カザン監督の歴史的名作「エデンの東」の主役を演じることになったのです。
 この映画の撮影を始めるにあたり、監督のエリア・カザンはジェームス・ディーンにハリウッドでは父親と暮らすように指示しました。それは彼のその父親との関係が映画の中の親子関係にそのまま重なると考え、それが良い影響を与えると考えたからです。この残酷とも言える作戦は確かに功を奏しますが、逆にそれが彼を精神的に追いつめることにもなります。夜更かしして酒を飲み歩いたり、バイクや車で暴走したりして、撮影に穴を開け、さらにはスタッフと喧嘩をするなど、トラブルを起こすようになるのはこの頃からで、それはこの後彼が死ぬまで続くことになります。

<精神的な支えとなった人々>
 こうした彼の危険な精神状態をかろうじて保つことができたのは、もちろん映画という仕事でしたが、その他何人かの人々の心の支えもなくてはならないものでした。先ずは、彼を精神的に追い込んでしまったエリア・カザン。それにジェームス・ディーンにとって最後まで目標となっていた憧れの俳優マーロン・ブランド。「元祖反逆児」とも言える彼はジェームス・ディーンにとって常に憧れの俳優であり続けました。
 もうひとり、映画音楽界の巨匠レナード・ローゼンマンと「ジャイアンツ」の撮影時、彼を支え続けた共演者のエリザベス・テイラー。彼らは天才の才能に惚れこむと同時に、その弱さを理解することができた数少ない人物でした。しかし、彼らは彼を精神的に支えるという行為によって多大な迷惑をこうむることになりましたが、けっしてその労が報われることはありませんでした。(考えてみると、エリザベス・テイラーという女性は、その後あのマイケル・ジャクソンとも関係を持っています。どうも彼女は問題児を保護するのが好きなタイプの女性のようです)

<「理由なき反抗」「ジャイアンツ」>
 1955年、「エデンの東」が公開されて大ヒットし、ジェームス・ディーンの名がアメリカ中に知れわたる頃、すでに次作「理由なき反抗」の撮影が始まっていました。監督はエリア・カザンのもとで助監督を務めていた若手のニコラス・レイ。当然彼は主演俳優の才能や問題点を師匠から聞いており、それは演出にも生かされます。だからこそ、この作品もまた、ジェームス・ディーンの魅力をそのまま生かすものとなったのでしょう。
 しかし、残念なことにその次の作品「ジャイアンツ」の監督ジョージ・スティーブンスは、それまでの二人とは違い、「陽のあたる場所」「シェーン」「偉大な生涯の物語」など正統派の大作専門の職人監督でした。当然彼は自分のイメージ通りの作品作りにこだわることで、たびたび主役と激しく衝突することになりました。そのうえ、この作品においては彼の立場は主役ではなくエリザベス・テイラー、ロック・ハドソンに次ぐ助演だったため、彼のわがままにも限界がありました。撮影所での彼の味方は、エリザベス・テイラーただ一人となり、彼にとって今までになくストレスの多い撮影になりました。

 ジェームズ・ディーンの人気急上昇で、白黒で撮り始めた『理由なき反抗』は、急きょ、B級からA級の予算が組まれることになり、カラー撮影に切り換えられた。すでに白黒で撮影されたシーンもすべてカラーで撮り直しされることになった。そこで、カラー撮影用に、黒い革ジャンパーの代わり赤いウィンドブレーカー(スウィング・トップともいいますね)が使われることになり、これがジェームズ・ディーンのイメージを決定的なものにしたのだった。マーロン・ブランドが『乱暴者』で暴走する青春のブランドにした黒の革ジャンパーをしのぐ若者の鮮烈なシンボルになったのである。
山田宏一

<死へと向かうドライブへ>
 「ジャイアンツ」の撮影を終えた彼は、カーレースに参加するため買ったばかりの新車ポルシェ550スパイダーに乗り込むと会場のサリナスへと向かいました。いつもの通り猛スピードで飛ばしていた彼は、途中スピード違反でつかまったにも関わらず、その後もスピードを落とさずレース会場へと向かいました。そしてついに途中のY字路でコースから飛び出し、対向車と激しく衝突してしまいます。こうして1955年9月30日、彼は24歳の若さであっさりとこの世を去りました。
 彼の死後、「理由なき反抗」と「ジャイアンツ」が次々に公開され大ヒットを記録します。さらに彼は悲劇のアイドルとしてではなく優れた俳優としても評価され、二本の映画により、二年続けてアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされるということにもなりました。

<ジェームス・ディーンの影響>
 ジェームス・ディーンはその後多くの俳優や映画人に大きな影響を残しています。最も直接的に影響を受けた一人としては、俳優・演出家のデニス・ホッパーがいます。彼は「理由なき反抗」でジェームス・ディーンと共演。彼の演技に衝撃を受けたと言います。その影響で、彼はその後常にジェームス・ディーンを意識しながら演技を作り上げ、演出家としてもその影響を受けることになりました。あの歴史的傑作「イージー・ライダー」撮影の際も、彼は常にジェームス・ディーンならどう撮ったかを常に意識し続けたといいます。彼の得意とする狂気一歩手前のエキセントリックな芝居はジェームス・ディーン直伝だったのかもしれません。

<ビリー・ザ・キッドの影響>
 ジェームス・ディーンは子供の頃から若くしてこの世を去った伝説のガンマン、ビリー・ザ・キッドの大ファンだったそうです。死の直前には「ビリー・ザ・キッド」を自らの手で映画化する計画も進んでいました。
 残念ながら、その企画は実現せず、その後映画界の異端児サム・ペキンパーによって映画化されることになります。ついでに言うと、そのサム・ペキンパー監督も問題児として映画界を干されていた時期があり、その時彼がテレビの仕事として制作したのがジェームス・ディーンのドキュメンタリー番組でした。
 「エデンの東」が公開された1955年と言えば、ロックン・ロールの時代が幕を開けた年でもあります。(「ロック・アラウンド・ザ・クロック」で有名な映画「暴力教室」が公開されたのがこの年です)それまでまったく無視されていた若者の文化がアメリカ経済にとって重要と見なされるようになったのもこの頃からですが、同時に若者たちは自らの手で自分たちの文化を作り上げ始めます。さらに急激に発展したテレビ、ラジオ、雑誌、映画、レコードなどのは、彼らに膨大な情報をもたらすことになりました。そんな中からビート・ジェネレーションと呼ばれる新しい世代が登場し、その影響を受けた次なる世代が1960年代末のロック・ジェネレーションを形づくることになるのです。20世紀後半のアメリカ文化を形づくったのは若者たちの文化でしたが、その底流となったのがエルヴィスの歌とビートニクの詩、それにジェームス・ディーンの映画だったのです。
 僕がジェームス・ディーンの3作品を見たのは、1970年代テレビの映画劇場ででした。当時のリアルタイムの映画は、一世代後のニューシネマでしたが、それらの作品と比べて、彼の映画はまったく違和感がなかった気がします。
 実際はジェームス・ディーンからニューシネマまで、10年以上の時が過ぎていたのですが、ジェームス・ディーンという個性の持つ普遍性とその影響を受けて育ったニューシネマの監督たちの作品にはそう差がなかったのかもしれません。
 同じように、その後60年代にロックの世界で活躍する多くのミュージシャンたちもみんなジェームス・ディーンの映画を見て育った世代です。最近では、同じリーバイスのコマーシャルに出ていたブラッド・ピットや「ロミオ・とジュリエット」のレオナルド・ディカプリオ、「スタンド・バイ・ミー」のリバー・フェニックス、「ミーン・ストリート」のロバート・デ・ニーロなどなど、みんなジェームス・ディーンの影響をどこかで受けているはずです。
 「永遠の若者」ジェームス・ディーンのイメージは、こうして映画の中だけでなく音楽やコマーシャルなどあらゆるジャンルで生き続けているのです。

<締めのお言葉>
「ある意味では、われわれは今なお死後の世界を信じている。というのは、われわれが創造的な仕事からうる報酬の一部は、われわれがそれを通して死後も”生き続ける”という感覚だからである」 
デビッド・モリス著「裸のサル」より

20世紀異人伝へ   トップページヘ