日本映画の監督&スタッフ


- 監督、俳優など -

<映画評論とワイン>
 映画の「味」とはワインみたいなものだ。ゆえに、公開されたばかりの映画を見る行為とは、ワインにするためのぶどうは収穫するのに似ているのではなないかと思うことがある。ああ、これはいいワインができそうだとか、すぐに最良のワインになるなあ、とわかるものもあれば、ぶどうの出来はピンとこないけど、ひょっとしたら極上のワインになるんじゃないか、と不思議な興奮で心が熱くなってしまうこともある。ゆえに、いま公開している映画を見にゆくことは、彼にもう一度何らかの「味」を楽しめるものだと思うのである。そして映画評論家にできることは、その若々しいワインが、深く熟成し、より複雑美味な味わいを生み出すための手助けなのである。
田中英司「現代・日本・映画」より
青山真治
「EUREKA ユリイカ」(2000年)、「Helpless」(1996年)、「チンピラ」(1996年)、「冷たい血」(1997年)、「月の砂漠」(2002年)、「東京公園」(2011年) 
浅野忠信 
「鮫肌男と桃尻女」(1998年)、「淵に立つ」(2016年) 表現することの不自由さに苛立ちつつ、さらなる不自由とヤケクソとデタラメを母体とした安っぽいアイデの乱れ撃ちで映画をボロボロに破壊した瞬間、
偶発的に軽やかな映画の真空状態を手に入れることが可能になるという実証を見ることが、かろうじて「鮫肌男と桃尻女」の有効性なのではないだろうか、
と私は考えをあらためさせられたりもする。ところが・・・
 ズタボロにされたはずの映画は、物語が終盤へとさしかかるにつれて、まったく不思議なことに浅野忠信という無色透明な人間によって、
みごとに映画として成立してしまうのである。
 まず分断されたイメージたちが、浅野を媒介することでなぜかひとつの確たる空間を作り出しはじめるのだ。能面のように表情にとぼしい浅野の顔が画面を横切るたびに、
ほうぼうに散らばったアイデアや挑戦的な試みはブラックホールに吸い込まれる星屑のように浅野忠信の存在へと吸収されてゆくのである。
映画は意図しないままに、浅野忠信という「スター」を輝かせるための装置となり、ほとんど内面を描かれることのなかった浅野=鮫肌男の内面が
絢爛豪華に浮き上がってくるのである。

田中英司「現代・日本・映画」より
渥美清(俳優) 
「男はつらいよ」(1969年)〜「男はつらいよ 寅次郎紅の花」(1995年)、「拝啓天皇陛下様」(1963年)
淡島千景(俳優) 
「夫婦善哉」 、「麦秋」、「にごりえ」、「駅前団地」シリーズ
石井克人Katuhiko Ishi 
「鮫肌男と桃尻女」(1998年)1966年新潟県生まれ。1991年に東北新社入社後、1993年にCディレクターとしてデビュー。
アスパラドリンク、スカイパーフェクTVなどのCMを手がける。1995年初監督作「8月の約束」でゆうばりファンタスティック映画祭ビデオ部門グランプリを獲得
石井聰互Sougo Ishi 
「狂い咲きサンダーロード」(1980年)、「爆裂都市 Burst City」(1982年)、「五条霊戦記」(2000年)1957年福岡県生まれ。日大芸術学部在学中に8ミリ映画「高校大パニック」(1978年)が話題となり、それが劇場用にリメイクされる際、共同監督に抜擢。
「逆噴射家族」(1984年)イタリア・サルソ映画祭グランプリ、「エンジェル・ダスト」(1994年)バーミンガム映画祭グランプリ、
「ユメノ銀河」(1997年)オスロ映画祭グランプリと海外での評価が高い監督でもあります。 この石井聰互の奇妙な映画とは、物語のつじつまや破綻を恐れず、映画が呪術かなにかのように、
わけのわからぬエネルギーの塊であることを目的とした映画なのではないだろうか?登場人物たちが常に「迫って」くるように演出されているのも、
見方によれば、熱気を帯びた人間が膨張してゆくプロセスのリアルな記録であるとも考えられるのでは?

 今のところ、この「巨匠のキャンバス」をまったく手に入れようとしていないにもかかわらず、かといってカルト作家としてこじんまりとまとまることもなく、
ほとんどの人が知らないだろうが、海外の映画祭でも3度グランプリを獲り、激しくもひっそりと「巨匠のキャンバス」を手に入れてしまいつつある幸運な映画作家として、
へんてこな光を放ちつづけているのが、石井聰互という人だ。

田中英司「現代・日本・映画」より
伊丹十三
「お葬式」(1984年)、「タンポポ」(1985年)、「マルサの女」(1987年)、「マルタイの女」(1992年)、「ミンボーの女」(1997年)
市川準 
「つぐみ TUGUMI」(1990年)、「東京兄妹」(1995年)、「トキワ荘の青春」(1996年)、「東京夜曲」(1997年)、「トニー滝谷」(2004年)、「あしたの私のつくり方」(2007年)
井筒和幸 
「ガキ帝国」(1981年)、「パッチギ!」(2005年)
今井正 
「にごりえ」(1953年)、「青い山脈」(1949年)、「また逢う日まで」(1950年)、「ひめゆりの塔」(1953年)
市川崑 
「おとうと」(1960年)、「東京オリンピック」(1965年)、「破壊」(1962年)、「私は二歳」(1962年)、「犬神家の一族」(1976年)、「細雪」(1983年)
稲垣浩 
「無法松の一生」(1958年)、「宮本武蔵三部作」(1954〜1956年)、「風林火山」(1969年)
今村昌平 
「豚と軍艦」(1961年)、「赤い殺意」(1964年)、「人間蒸発」(1967年)、「神々の深き欲望」(1968年)、「復讐するは我にあり」(1979年)、「楢山節考」(1983年)、「ええじゃないか」(1981年)、「うなぎ」(1997年)
岩井俊二 
「Love Letter」(1995年)、「スワロウテイル」(1996年)、「式日」(2000年)、「リリィ・シュシュのすべて」(2001年)、「花とアリス」(2004年)
1963年宮城県生まれ。大学卒業後、音楽ビデオとCATVの仕事につき桑田佳祐のプロモーションビデオでデビュー
TVドラマ「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」で1994年映画監督協会新人賞受賞
元々は少女漫画家になりたかった理系少年だったらしい・・・。 キャメラが動き、人物が動けば、私たち観客は当然、運動への参加を余儀なくされて、ときには反吐が出そうになりながらも、
運動に遅れてはならないとばかりに、無意識のうちに画面に集中することになるだろう。・・・
 ここで重要なのは、手持ちカメラの揺れ動く映像が、自由を切望しているという点だ。・・・
 小津において「わかりやすいもの」として積み上げられていたワンカットが、岩井においては「インパクト」として羅列されることになる。・・・
 私たちは岩井俊二の映像を見ながら、さまざまな記憶の中でどのようなイメージに生まれ変わるのかが未知なものとして、ただそこに設定されているのであり、
それらの映像たちは最終的に、観客が映画として完成させてゆくのである。

田中英司「現代・日本・映画」より
「花とアリス殺人事件」(アニメ)(2015年)、「リップバンウィンクルの花嫁」(2016年)、「ラストレター」(2019年)どれも大好きです!
「ハルフウェイ」(2008年)撮影で小樽に来た際、事務所を借りるお世話をした際にお礼でもらったサインは大事な宝です!
浦山桐郎 
「キューポラのある街」(1962年)、「非行少女」(1963年)、「私が棄てた女」(1969年)、「青春の門・自立編」(1976年)
 
柄本明 
「セーラー服と機関銃」(1981年)、「幻の光」(1995年)、「悪人」(2010年)、「岸辺の旅」(2015年)、「ある船頭の話」(2019年)  
大島渚 
「戦場のメリー・クリスマス」(1983年)、「白昼の通り魔」(1966年)、「忍者武芸帳」(1967年)、「絞死刑」(1968年)、「新宿泥棒日記」(1969年)、「少年」(1969年)
「儀式」(1971年)、「愛のコリーダ」(1976年)、「愛の亡霊」(1978年)、「御法度」(1999年)
大林宣彦 
「HOUSE/ハウス」(1977年)、「ねらわれた学園」(1981年)、「転校生」(1982年)、「時をかける少女」(1983年)、「廃市」(1984年)、「さびしんぼう」(1985年)、「彼のオートバイ、彼女の島」(1986年)、「野ゆき山ゆき海べゆき」(1986年)、「漂流教室」(1987年)、「異人たちの夏」(1988年)、「北京的西瓜」(1989年)、「ふたり」(1991年)、「青春デンデケデケデケ」(1992年)、「はるか、ノスタルジイ」(1993年)、「SADA 戯作・阿部定の生涯」(1998年)、「理由」(2004年)、「野のなななのか」(2014年)、「花筐/HANAGATAMI」(2017年)、「海辺の映画館 キネマの玉手箱」(2020年)
岡本喜八 
「独立愚連隊」(1959年)、「肉弾」(1968年)、「日本のいちばん長い日」(1967年)、「ジャズ大名」(1986年)、「大誘拐/RAINBOW KIDS」(1991年)
小川紳介 
「学校で視聴覚教育んまんて言われるとね、スクリーンが学校の黒板になってしまう。
 でも、僕は絶対にそうじゃないと思うんですよ。スクリーンは窓ですからね」

「三里塚闘争」に参加して
「歴史の中に一人一人の自分史がないということを痛感した。たくさんの厚い自分史の層があって、そこから縦の歴史が生まれるのならいいんだけど、今のようにそれが希薄になっちゃって、縦だけが先行するというのが僕は嫌いなんだ。僕が民俗学に興味があったせいもあるけど。歴史にいま一番欠けているのは、個人個人がもっと自分史を作っていくこと、それが最も大切だということです。歴史というのは自分につながってくる時に時に初めて生きてくるという、そういうことを村の古老たちはみな持っているのですね。そういう村人たちの考えに共鳴していった。そして三里塚闘争にはそういう人たちの考えが、どこか深く戦術なんかに反映しているんだな。そういうところから、日本人のことを考えるようになってしまったのです」

 個人個人の自分史がないから、現代文明が暴威をふるう、農民たちの人間的な心情を無視して、空港建設が強行されようとする。日本という国の文明の本質が、そこに最もはっきりと露呈しているのではないだろうか。そういう闘争の記録を通して、小川は記録映画の概念について次のように述べるのだ。
「記録映画というのは理屈言うわけじゃないけど、事実を記録するものでなくて、つくるものだと思いますね。極論すれば、記録映画も一つの虚構ではないかとさえ思う。たとえば人との出会いを記録するわけでしょ。となるとそこで分かち難く自分の思いと混じっちゃってくるんですよ。『辺田部部落』だって、あれは全部ぼくたちが設定したシチュエーションであって、ニュース的にむこうにあるものを撮ったというのはワン・カットぐらいしかないです。『第二砦』もそうです。現実を動かすというもの、一本撮るために一年間村の人たちと一緒に生活して、彼らと話して、一緒にどうにかなっていくという過程でしょ。その意味で、僕は記録映画の中に隠れることはできないので、自分の心の反射ということのほうが、むしろ怖いですね」

田山力哉「日本の映画作家たち 創作の秘密」より
小栗康平 
「泥の河」(1981年)、「伽耶子のために」(1984年)、「死の棘」(1990年)、「眠る男」(1996年)、「FOUJITA」(2015年)
押井守 
「うる星やつら(オンリー・ユー)」(1983年)、「攻殻機動隊 Ghost in the Shell」(1998年)、「イノセンス Innocence」(2004年)
小津安二郎 
「東京物語」(1953年)、「麦秋」(1951年)、「お茶漬けの味」(1952年)、「秋日和」(1960年)、「小早川家の秋」(1961年)、「秋刀魚の味」(1962年)
川島雄三  
「幕末太陽伝」(1957年)、「わが町」(1956年)、「青べか物語」(1962年)、「雁の寺」「しとやかな獣」(1962年)
川本三郎(評論家) 
映画評論家、「マイ・バック・ページ」
樹木希林 
「万引き家族」「歩いても歩いても」「そして父になる」「寺内貫太郎一家」「ムー一族」
北野武 
「HANA-BI」(1997年)、「3−4X10月」(1990年)、「あの夏、いちばん静かな海」(1991年)、「ソナチネ」(1993年)、「キッズ・リターン」(1996年)、「座頭市」(2003年)
衣笠貞之助 
「狂った一頁」(1926年)、「雪之丞変化」(1935年)、「地獄門」(1953年)
木下恵介 
「二十四の瞳」(1954年) 
熊井啓 
「海と毒薬」(1986年)、「日本列島」(1965年)、「黒部の太陽」(1968年)、「地の群れ」(1970年)、「千利休 本覺坊遺文」(1989年)
神代辰巳 
「一条さゆり・濡れた欲情」、「四畳半襖の上張り」、「青春の蹉跌」、「恋文」、「噛む女」・・・
黒木和雄 
「美しい夏キリシマ」(2003年)、「竜馬暗殺」(1974年)、「祭り準備」(1975年)、「TOMORROW / 明日」(1988年)、「父と暮らせば」(2004年)、「紙屋悦子の青春」(2006年)
黒澤明 
「七人の侍」(1954年)「羅生門」(1950年)、「姿三四郎」(1943年)、「酔いどれ天使」(1948年)、「生きる」(1952年)、「用心棒」(1961年)、「椿三十郎」(1962年)、「天国と地獄」(1963年)、「デルス・ウザーラ」(1975年)、「影武者」(1980年)、「乱」(1985年)
黒沢清 
「トウキョウソナタ」(2008年)、「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(1985年)、「CURE/キュア」(1997年)、「カリスマ」(1999年)、「回路」(2001年)、「アカルイミライ」(2002年)
 小林正樹
「人間の条件(第一部・第二部)」、「東京裁判」(1983年)、「切腹」(1962年)、「怪談」(1964年)、「上意討ち 拝領書始末」(1967年)
是枝裕和 
「誰も知らない」(2004年)、「幻の光」(1995年)、「ワンダフルライフ」(1999年)、「DISTANCE/ ディスタンス」(2001年)
サ行
斉藤耕一 
「津軽じょんがら節」、「約束」、「旅の重さ」
阪本順治 
「どついたるねん」(1989年)、「鉄拳」(1990年)、「王手」(1991年)、「トカレフ」(1994年)、「ビリケン」(1996年)、「傷だらけの天使」(1997年)、「顔」(2000年)、「新・仁義なき戦い」(2000年)、「KT」(2002年)、「闇の子供たち」(2008年)、「エルネスト」(2017年)
1958年大阪生まれ。1982年石井聰互の「爆裂都市」に美術助手として参加。1989年「どついたるねん」で劇場映画デビュー。
下積み時代が長かったこともあり、どんなタイプの作品も器用にこなせる監督。それだけに、「これぞ最高傑作!」というものがほしい。
「大鹿村騒動記」(2011年)は、原田芳雄の遺作ともなった傑作でした。現在のところの代表作かな?
 「どついたるねん」から「トカレフ」までの阪本はアクションやサスペンスなどを「対決」というキーワードのもとに描いていた。
それらは勧善懲悪のバトルショーというわけではなく、善も悪もなくただひとつの人間模様として一歩も二歩も下がった、
リングサイドのようなところから「眺めて」いるところに不思議な面白さが発生していたものである。

 初期の「男根的」作品群が、映画でなくとも劇画や、小説、アニメ、テレビドラマであったとしても十分に代替可能なものであるのに対して、
「顔」は映画固有の言語によってしか成立しえないものであり、ここには映画と俳優、映画とキャメラ、映画と映画監督のほほえましくも残酷なバトルがある。
困難な課題をあえて設定し、それを乗り越えようとする山男の鼻息がある。

田中英司「現代・日本・映画」より 
白石和彌 
「凶悪」(2013年)、「日本で一番悪い奴ら」(2016年)、「火花」(TVドラマ)(2016年)、「孤狼の血」(2017年)、「止められるか、俺たちを」(2018年)
新藤兼人 
「愛妻物語」(1951年)、「原爆の子」(1952年)、「裸の島」(1960年)、「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975年)、「竹山ひとり旅」(1977年)
「絞殺」(1979年)、「墨東綺譚 」(1992年)、「午後の遺言状」(1995年)
周坊正行 
「ファンシイダンス」(1989年)、「シコふんじゃった」(1992年)、「Shall we ダンス?」(1996年)、「それでもボクはやってない」 2007年
鈴木清順 
「けんかえれじい」(1966年)、「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)、「陽炎座」(1981年)、「夢二」(1991年)
相米慎二 
「翔んだカップル」(1980年)、「セーラー服と機関銃」(1981年)、「ションベン・ライダー」(1983年)、「台風クラブ」(1985年)、「東京上空いらっしゃいませ」(1990年)、「お引越し」(1993年)、「あ、春」(1998年)、「風花」(2001年)
タ行
高倉健 
「幸福の黄色いハンカチ」、「君よ憤怒の河を渉れ」、「遥かなる山の呼び声」、「新幹線大爆破」、「鉄道員」・・・
高峰秀子
浮雲」、「二十四の瞳」、「喜びも悲しみも幾年月」、「女が階段を上る時」、「馬」、「綴方教室」、「衝動殺人 息子よ」、「恍惚の人」、「カルメン故郷に帰る」
滝田洋二郎 
「コミック雑誌なんかいらない」(1986年)、「木村家の人々」(1988年)、「病院へ行こう」(1990年)、「僕らはみんな生きている」(1993年)、「陰陽師」(2001年)、「壬生義士伝」(2003年)、「バッテリー」(2007年)「おくりびと」(2008年)
竹中直人(俳優・監督) 
「無能の人」(1991年)、「119」(1994年)、「東京日和」(1997年)
田中絹代
「宗方姉妹」「おかあさん」「サンダカン八番娼館・望郷」「西鶴一代女」「山椒大夫」「乳房よ永遠なれ」「月は上りぬ」 
つかこうへい 
「蒲田行進曲」(脚本)
塚本晋也(監督・脚本・俳優)
「野火」(2014年) 
堤幸彦 
「BECK」(2010年)、「バカヤロー!私、怒ってます」(1988年)、「猿岩石 愛と笑いの珍道中」(1997年)、「金田一少年の事件簿 上海人魚伝説」(1997年)、「ケイゾク/映画」(2000年)、「トリック劇場版」(2002年)、「明日の記憶」(2006年)
寺山修司 
「書を捨てよ町へ出よう」(1971年)、「田園に死す」(1974年)、「ボクサー」(1977年)、「草迷宮」(1978年)、「上海異人娼館」(1981年)、「さらば箱舟」(1982年)、「サード」(1978年脚本)
豊田四郎 
夫婦善哉(1955年)、「雁」(1953年)、「恍惚の人」(1973年)
ナ行
中原俊  
「桜の園」(1990年)、「十二人の優しい日本人」(1991年)、「コキーユ 貝殻」(1999年)
「十二人の優しい日本人」(1991年)
(監)中原俊(脚)三谷幸喜(出)塩見三省、林美智子、梶原善、豊川悦司、二瓶鮫一、山下容莉枝、相島一之、加藤善博、上田耕一、中村まり子、大河内浩、村松克己
 三谷の劇団東京サンシャイン・ボーイズのための書き下ろし作品を映画化したもの。三谷の映画進出第一弾作品でもあります。シドニー・ルメットの傑作「十二人の怒れる男」のコメディーリメイク。
当時、日本には陪審員制がなかったが時代が変わり、リアリティーをよりもつようになった。オリジナル版がヘンリー・フォンダが主人公だったのに対し、三谷版は全員が主人公とも言える展開。アメリカによって戦後日本に持ち込まれた「民主主義」究極の形ともいえる裁判劇。
リーダー中心に動くアメリカとその逆とも言える日本の違いが出ているともいえます。そう考えながら、ロシアのリメイク作であるニキータ・ミハルコフ版を見るとさらに面白いかもしれません。
 中原監督は「桜の園」でも限られた空間での集団ドラマを見事に名作に仕上げています。 
中平康 
「狂った果実」(1956年)、「紅の翼」(1958年)、「泥だらけの純情」(1963年)、「変奏曲」(1976年)
(1926年〜1978年)1948年に東大を中退して松竹に入社。川島雄三、黒澤明らの助監督を務めた後、日活に移籍。
石原慎太郎原作の「狂った果実」で国内外から高い評価を得て、ヌーヴェルバーグにも大きな影響を与えたとも言われる存在 
成瀬巳喜男 
「浮雲」(1955年)、「おかあさん」(1952年)、「めし」(1951年)、「稲妻」(1952年)、「晩菊」(1954年)、「放浪記」(1962年)
西岡善信(美術) 
地獄門」(1953年)、「炎上」(1958年)、「利休」(1989年)、「たそがれ清兵衛」(2002年)
根岸吉太郎 
「遠雷」(1981年)、「ウホッホ探検隊」(1986年)、「雪に願うこと」(2006年)、「サイドカーに犬」(2007年)、「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜」(2009年)
ハ行
橋口亮輔  
「二十二才の微熱」(1992年)、「渚のシンドバッド」(1995年)、「ハッシュ!」(2001年)、「ぐるりのこと。」(2008年)
長谷川一夫(林長二郎)
日本映画の黄金時代に活躍したカリスマ・イケメン・スター。その栄光と悲劇の記録。
地獄門」、「雪之丞変化」、「近松物語」、「源氏物語」、「銭形平次」
濱口竜介 
「ドライブ・マイ・カー」(2021年) 
早川雪舟(俳優) 
 今でこそ日本人俳優が数多くハリウッドや海外の映画で活躍していますが、20世紀中はハリウッド映画の日本人役のほとんどは日系アメリカ人か中国系アメリカ人の俳優が演じていました。どうやらそれには理由があったようです。
 そのきっかけとなったのは、1915年のハリウッド映画「チート」(セシル・B・デミル監督)という作品でした。この映画で日本人俳優、早川雪舟は白人女性を暴力的に誘惑する危険な日本人を演じました。その演技にアメリカでは高く評価され彼はその後アメリカで活躍することになりますが、逆に日本での彼の評価は、「日本人の間違ったイメージ」を植えつけた国賊とされてしまいます。そのため、彼は日本に帰国して活躍すいることができなくなりました。(その後、彼は「戦場にかける橋」などの大作でも活躍する名優として高い評価を受けることになります)
 当時、アメリカでは日本人移民の増加と成功に対するバッシングが強まっていたことあり、日本人を悪役として描く傾向もありました。その後、アメリカに渡った日本人俳優たちは日本人の名誉を傷つけることを恐れるあめり、中国人や「謎のアジア人」を演じるようになってしまったわけです。
 本気で海外で俳優をやろうと挑むのは、1980年代の松田優作あたりからになり、それまではゲストとして出演するぐらいのことになります。
原一男 
「ゆきゆきて、神軍」(1987年)(出)奥崎謙三(ドキュメンタリー)
 これほどドラマチックな映画はフィクションでも見たことがない!逆にドキュメンタリーであるとわかっているからこその衝撃でした。この作品を見ることで、あなたの映画の見方がきっと変わるはずです。
「神軍平等兵」こと奥崎謙三が天皇の軍隊だった日本軍が犯した罪を追及し、犠牲者の霊を慰めようと生きる姿を5年間にわたって追い続けた超大作。
 奥崎が所属した独立工兵第36連隊は英国領ニューギニアのジャングルで敗走。千数百人いた隊員のうち生き残ったのはわずか30人ほどでした。その上、日本の敗戦が明らかになった後、上官により2名の兵士が銃殺刑になりました。なぜ、二人は終戦後に殺されなければならなかったのか?
 戦場で上司を平気で殴り、不正を正し続けていた彼は、終戦後もその事件の真相を求めて生き残った同僚たちを訪ね歩きます。彼の訪問を受ける元兵士たちは、死んだ同僚たちの亡霊を迎えるかのように恐怖におびえます。
 1969年、皇居での一般参賀で戦友の名前を叫びながら昭和天皇に向けてパチンコ玉を発射して逮捕されます。
 彼の行動を追うカメラはただ単に記録を残しているだけではありません。いつしかカメラもまた奥崎の共犯者となり、いっしょになって元兵士たちを追求することになります。 
「この映画の監督は原さんじゃないですよ」と奥崎は言った。「この映画の監督は神なんです」
原一男「踏み越えるキャメラ」より
 奥崎謙三は、21世紀まで生き続け、2005年、85歳でこの世を去りました。
「全身小説家」(1994年)も必見の作品です!
原節子(俳優) 
東京物語」(1953年)、「青い山脈」(1949年)、「麦秋」(1951年)、「めし」(1951年)、「わが青春に悔いなし」(1946年)
原田眞人 
「復讐の天使 KAMIKAZE TAXI」(1994年)、「バウンス」(1997年)、「金融腐食列島・呪縛」(1999年)、「突入せよ!あさま山荘事件」(2002年)、「クライマーズ・ハイ」(2008年) 
1949年静岡県生まれ。自主制作映画出身で、アメリカン・ニューシネマに憧れた世代。デビュー作は「さらば映画の友よ インディアンサマー」(1979年)
 原田は、セリフの意味よりも俳優のスポンタニティー(自発性)を重視し、画面の整合性だの、物語上の無駄の排除だのといった固定観念を壊しにかかり、
登場人物の感情を前面に押し出して、意味よりも感覚を重視したカサベテスをはじめとするアメリカン・ニューシネマを手本としていると語る。・・・
 原田は感情が暴走した先にめまぐるしく状況が変化するエンターテイメントの冒険を設定している点であり、その果敢な試みは賞賛されるべきものだ。

田中英司「現代・日本・映画」より
東陽一 
サード」(1978年)
深作欣二
Hukasaku Kinji 
「仁義なき戦い」(1973年)、「蒲田行進曲」(1982年)、「火宅の人」(1986年)、「いつかギラギラする日」(1992年)、「忠臣蔵外伝・四谷怪談」(1994年)、「バトルロワイヤル」(2000年) 
 キャリアをデザインしようとなどというせせこましい考えを持たず、巨匠になろうという功名心も持たず、明日死ぬかもしれないという感覚の中でやるべきことはやり、
いえるべきことはすべて今日の内にいってしまおう、というギラギラしたサービス精神のパッチワークこそが、深作欣二の映画の本質なのだと私は考える。
なぜなら、深作欣二が力を発揮すればするほど、映画はバランスを狂わせることになり、と同時に、説明のしようもない不思議なパワーをみなぎらせる要因となっているからだ。

田中英司「現代・日本・映画」より 
「蒲田行進曲」(1982年)
(監)深作欣二(脚)(原)ついかこうへい(出)松坂慶子、風間杜夫、平田満、高見知佳、原田大二郎、酒井敏也
 劇団つかこうへい事務所が1980年に初演した舞台劇の映画化。この時、銀ちゃん役は加藤健一、小夏役は根岸季依、ヤス役は柄本明でした。
 僕が見たのは、同劇団によるダブル・キャスト公演の時で、銀ちゃんは風間&加藤健一でヤスは平田満でした。演劇界が熱かった時代を代表する作品を原作者のつかさんが自ら脚本化。
 舞台のエネルギーを映画に持ち込み、映画界屈指のパワフルな監督が映像化。映画の黄金時代をスクリーン上に復活させることに成功しました。
 ラストの階段落ちは、映画史に残る名場面。ただし、舞台版を見た人には生の迫力には足りず不満足かもしれません。お芝居は高校生の芝居でも生で見ると迫力があるものです。(実は、高校時代演劇部でした)
 その後、弟が銀粉蝶、片桐はいりで有名な「ブリキの自発団」に所属していたこともあり、つかこうへい事務所、状況劇場、劇団天上桟敷、夢の遊眠社、東京ヴォードビルショーなどを見ることができました。今思えば、凄い役者さんばかりが舞台の上にいたものです。
 ちなみにテーマ曲でもある「蒲田行進曲」は、五所平之助監督作品「親父とその子」の主題歌としてヒットし、その後、松竹蒲田撮影所の所歌になりました。
藤田敏八 
「八月の濡れた砂」、「帰らざる日々」、「赤いちょうちん」、「もっとしなやかにもっとしたたかに」、「リボルバー」
本多猪四郎 
ゴジラ」(1954年)、「空の大怪獣ラドン」(1956年)、「大怪獣バラン」(1958年)、「モスラ」(1961年)、「妖星ゴラス」(1962年)、「マタンゴ」(1963年)、「緯度0大作戦」(1969年)
本多省三(撮影) 
「薄桜記」(1959年)、「斬る」(1962年)、「新撰組始末記」(1963年)など
マ行
増村保造  
「私は情緒をきらう。何故なら、日本映画における情緒とは抑制であり、調和であり、諦めであり、哀しみであり、敗北であり、逃走だからである。ダイナミックな躍動や対立や死斗や勝利や喜びや追撃は、日本人にとっては情緒とは思われない。情緒とは本来emotionであり、すべての感情の昂揚を指していい筈であるが、日本人はいつからか、否定的な消極的な感情のみを情緒というようになった。
 愛を果敢に要求する女性と、控え目に訴える女性と、どちらに「情緒」を感じるのか。率直な愛の表現が美しく感動的か、抑制だれた愛の表現が好感をもたれるか。」

増村保造
松田優作(俳優) 
家族ゲーム」(1983年)、「野獣死すべし」(1980年)、「ブラック・レイン」(1989年)
三池崇史Takashi Miike 
「俺たちは天使じゃない」Vシネマ(1993年)、「中国の鳥人」(1998年)、「サラリーマン金太郎」(1999年)、「十三人の刺客」(2010年)
1960年大阪府生まれ。横浜放送専門学校(現・日本映画学校)卒業。今村昌平の「ええじゃないか」(1981年)、「女衒」(1987年)などに助監督として参加。1991年Vシネマ「突風!ミニパト隊 アイキャッチ・ジャンクション」で監督デビュー。劇場用映画のデビュー作は、1995年の「第三の極道」。師匠の今村昌平のもつドギツさを娯楽映画のジャンルに持ち込み、どんなタイプも自分のものにする21世紀初めの邦画を代表する存在。 
 三池のいくつかの代表作から感じられるのは、ヤケクソともいえる「ハメはずし」、いいかえるなら「過剰さ」というようなものだ。
グロテスク、エロス、バイオレンス、センチメンタル、ノスタルジックなどの娯楽の古典的な栄養素(適量を無視して)を大量に投入することで、
あとあとえらいことになってしまったとしても、とりあえずこの映画が今すぐシャキッと元気になればいい・・・と、そんなことを考えているのではないかと思えるほど、
三池の映画にはカミカぜの臭いがたちこめている。つまり、日本映画が娯楽のゲリラ戦だとするなら、三池がやっているのは「死ぬ気のゲリラ戦」であり、
映画を勝利にみちびくためならどんなことをしても厭わないという心がまえが、その作品のあちらこちらにみなぎっているのである。

田中英司「現代・日本・映画」より 
溝口健二
世界的な巨匠として、多くの海外の監督にも影響を与えた日本映画を代表する存在
「元禄忠臣蔵」、「西鶴一代女」、「近松物語」、「雨月物語」、「山椒大夫」・・・
三谷幸喜 
「ラヂオの時間」(監)(脚)三谷幸喜(撮)高間賢治(音)服部隆之(出)唐沢寿明、鈴木京香、西村雅彦、戸田恵子
監督デビュー作。自身が率いる東京サンシャインボーイズの舞台劇を映画化したもの。群像密室推理コメディーの傑作であり、映画と上映時間を同期させた異色の作品でもある。舞台劇ならではの展開だからこそ生み出せる臨場感とスピード感が楽しい。 
三船敏郎 
七人の侍」「用心棒」「黒部の太陽」「上意討ち」「羅生門」「無法松の一生」「レッド・サン」「日本の一番長い日」「風林火山」「天国と地獄」・・・
宮崎駿 
「未来少年コナン」(1978年)、「風の谷のナウシカ」(1981年)、「天空の城ラピュタ」(1986年)、「崖の上のポニョ」(2008年)、「風立ちぬ」(2013年)
森崎東 
「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」(1985年)、「喜劇・女は男のふるさとヨ」(1971年)、「時代屋の女房」(1983年)、「釣りバカ日誌スペシャル」(1994年)
 森田芳光
「家族ゲーム」(1983年)、「の・ようなもの」(1981年)、「バカヤロー」シリーズ、「キッチン」(1989年)、「(ハル)」(1996年)
ヤ行
薬師丸ひろ子(俳優) 
「野生の証明」(1978年)、「翔んだカップル」(1980年)、「セーラー服と機関銃」(1981年)、「Wの悲劇」(1984年)、「Always 三丁目の夕日」(2005年)
役所広司(俳優) 
「・・・そうだなあ・・・たとえば即興劇をやったりするとしますよね。達者な人はアドリブがポンポン出てきたりで、観てる方としては”上手いなあ、よくそんなに出てくるなあ”と思うでしょうけど、その中にひとり、そういうものがなにも出てこないで、しどろもどろになってる人がいたら、観客は立て板に水を流すようにつるつるセリフが出てくる人よりも、そっちの方をつい観たくなるんじゃないかって気がするんですよね。そういう意味での引っ掛かり・・・
 新人だったら、そういう引っ掛かりみたいな部分は夢中にやってるだけで出てくるし、当然、新鮮さもありますよ。でも何年もやってる人が新鮮な感じを出そうとしたら、なにか作戦を練らなきゃいけんまいんじゃないかと思うんです。・・・・・」
役所広司「21 世紀を超える神々たち」金子達仁
矢口史靖Shinobu Yaguchi 
「アドレナリン・ドライブ」(1999年)、「ウォーター・ボーイズ」(2001年)、「スウィング・ガールズ」(2004年)、「WOOD JOB!」(2014年) 
1967年神奈川県生まれ。1990年に8ミリ映画「雨女」がぴあフィルムフェスティバルでグランプリを受賞。
1992年「裸足のピクニック」で劇場映画デビュー。一貫して、複数の主人公による娯楽映画を獲り続ける異色の監督。
 運命であろうが、努力であろうが、茶番であろうが、矢口はきっと映画そのものが躍動していればいいと考えているのだ。躍動の極みとは「走る」ことである。
だから、矢口の映画の登場人物たちは走り、それを追いかける映画は、いつもドライブ感とスピードに憧れているのである。
そして、ドライブ感とスピードが映画の中で作り出せるのならば、
現実が歪められようと、映画的、芸術的であることをないがしろにしようと構わないと思っているのではないだろうか?
 第三作となる「ウォーターボーイズ」を見た私は、映画として少々カッコ悪かろうと観客を楽しませることに腐心している矢口の姿を見て「そんなんだよ!」と、
叫びたい気持ちにかられたものだ。
映画はどんどん活用されるべきだ。矢口のように映画を金もうけの道具にすればいい。そして映画がいつか豊富な「金」によって、
より人々の感覚を刺激するメディアに立ち返ったとき、
「思い出」を媒介して偶然のように映し出されてしまう「芸術性」をなんとなく待ちわびればいいのである。

田中英司「現代・日本・映画」より 
山下敦宏 Atuhiro Yamashita
「マイ・バック・ページ」(2013年)
山田洋次 
「男はつらいよ」(1969年)、「家族」(1970年)、「たそがれ清兵衛」(2000年)、「隠し剣鬼の爪」(2004年)、「武士の一分」(2006年) 
山中貞雄 
「人情紙風船」(1937年)、「丹下左膳・百万両の壺」(1935年)、「河内山宗俊」(1936年)
湯浅政明 
「日本沈没」「夜明け告げるルーの歌」「四畳半神話大系」「ピンポン」「映像研には手を出すな」「夜は短し歩けよ乙女」「デビルマン クライベイビー」・・・ 
淀川長治(評論家) 
映画評論家(映画解説者)
若松孝二
実録・連合赤軍あさま山荘への道程」(2007年)、「水のないプール」(1982年)、「キャタピラー」(2010年)

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