<想像力を失った世界を生きるために>
1945年〜2011年

「戦後思想を考える」 日高六郎(著)

「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」 森達也(著)

<歴史の節目>
 歴史には様々な節目が存在します。東日本大震災があった2011年は、日本にとってそんな節目の年として歴史に名前を刻まれることになるでしょう。
 では20世紀という時代を語る時、そうした節目節目で日本という国はどう変化してきたのか。それは日本の歴史について語る時、最も重要な部分かもしれません。先日、そうした日本の歴史的な変化について書かれた本を続けて3冊読みました。
 1冊は、このサイトの読者の方がわざわざ送って下さった「戦後思想を考える」(日高六郎著)。そこには、1945年太平洋戦争終戦の前後と1960年日米安保自動延長の前後、二つの節目について書かれていました。2冊目は、1970年全共闘運動のピーク前後の時代を描いた川本三郎の「マイ・バック・ページ」。さらに3冊目が、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件前後の日本の変化を追い続けるドキュメンタリー作家、森達郎の「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」です。
 たまたま続けてこれらの本を読んだことから、2011年の終わりに改めて日本の20世紀をふり返ることにしました。

<1945年以降、民主主義国家へ>(太平洋戦争終結)
 日本が太平洋戦争へと突き進んでいった過程と敗戦までの軌跡については、このサイト内のページ「悲劇の戦争、太平洋戦争へと至る道(前編)」「サラリーマン軍団の大いなる誤算(後編)」に詳しく書いています。ここでは先ず1945年終戦によって日本がどう変わったのか?どう変わらなかったのか?についてから始めたいと思います。
「冷戦の激化のなかで、私は鮮明にその意味を理解した。児玉、笹川、岸は、釈放されるべくして釈放された。つまり釈放することのほうが、アメリカの世界戦略の本筋だったのである。東条らの処刑は、終戦処理のための象徴的儀式にすぎなかったのである。・・・東条らの処刑よりも、岸らの釈放のほうが、歴史的に重要な事件だったのいかもしれない・・・。」

 戦争によって、日本は全体主義国家から民主主義国家へと一気に変わった。そう一般的には認識されていますが、実はそうではなかったのかもしれません。国政、街並み、国土など日本の見た目は大きく変わったものの、日本人の気質や政治家の体質など重要な部分の変化はほとんどなかったのかもしれません。
 それは政治の世界において、ほとんどの政治家が戦争責任を追及されることなく政界に居座ったことでも明らかです。それに経済界やマスコミも同様に戦時中の責任を問われることなく、ほとんどが変わらず活動を続けることになりました。同じ敗戦国でも、ドイツではヒトラーに協力した新聞社などは完全に廃刊に追い込まれたと言われていますが、日本ではそうしたことはありませんでした。ドイツと日本において、戦争責任についての考え方が早くから違い、日本の政財界に今でも中国の植民地化は中国のためだったなどと言う人間がいるのとは大違いです。

「・・・戦争中の新聞の中心人物が、戦後になって、日本の新聞は大勢の従業員をかかえる大企業となっていたため、当時の政府の方針に協力せざるをえなかったという意味のことを語った。従業員が路頭に迷うことを心配して言論を放棄するのならば、それは言論機関ではなく慈善団体である。・・・」

 アメリカは本質的に日本を民主化してしまうことは自分たちにとって決して得ではない。そう判断したともいえます。(そんな終戦時の混沌とした日本を描いた小説「Tokyo Year Zero」はお奨めです!)
 日本がアメリカの文化、政治を敗戦国として嫌々ながら受け入れた時点で、その変化は表面的なものにならざるを得なかったのかもしれません。皮肉なことに本質的な日本の変化は、その後、アメリによる直接統治が終わってから訪れることになります。それは政治ではなく経済において日本がアメリカ化してゆくことで高度経済成長の流れに乗ってからのことになります。

<1960年以降、経済優先主義国家へ>(60年日米安全保障条約の延長)
 嫌々ながらに始めた日本のアメリカ化は、1950年代に入り日本全体に広がって行きました。日本人は自分たちの生活を豊かにするため再び一丸となって働き始めていました。もちろん、すべての日本人がそうしたアメリカ化、資本主義化を望んでいたわけではありません。それに対する反発も大きくなり、そのピークが1960年の日米安保条約の延長時に訪れることになりました。しかし、この時の日本は政治的に反米ではありましたが、経済的にはすでにアメリカ以上にアメリカ的資本主義を追求する国家になりつつありました。しかし、それはアメリカが進めていた民主化ではなく、経済優先主義化というべき方向への変化でした。

「私は、戦後日本の民衆が味わったちょっぴりした快適の習慣は、けっして意味の小さいものではないと信じている。一度快適を知ったものは、それを自発的には放棄しにくい。・・・
 快適の哲学は、哲学に終わらなかった。それは確実に、日本財界によって民衆に現物供与された。それには労働組合も革新政党も異を唱えにくい。」


 快適を知り、さらなる快適を求める喜びを知った日本人は欲望を満足させることを人生の目標にし始めたのです。しかし、そうした生き方は、人生の喜び自体を見失わせる可能性もある危険なものでもあります。

「かりたてられた欲望によって支配されることは、かえって彼の生活の喜びと生の解放感をそこなう」
ジョルジュ・フリードマン(フランスの思想家)

「この『必要な対象』と『欲望の対象』とを区別することのむずかしさは、それがたんに財の量と質の問題に還元できないところにある。それは生活態度という、精神的心理的領域の問題とからんでくる。つまり現在の消費や快楽への資本のがわからの無限のいざないにたいして、個人が自立的に自分の生活の仕方をつくりだすことができるかどうかという問題であるい。」

 この時代、世界に先駆けて日本は経済優先の国家体制を確立。アメリカのおかげで軍隊をもたない国となった日本は、軍事費を抑えられる分、国家予算を経済政策にかけることが可能になります。そして、経済界を中心とした「経済優先主義国家」日本が誕生することになります。それは資本主義国家でもなく、民主主義国家でもない「国益」という名の経済的利益のために国民が生きるという新しいタイプの全体主義国家でした。

「理念を捨てた『自由』主義体制の『支持』が、利潤追求第一主義となるのと同様に、人民が主権者となることの意識をすてた民主主義体制の『支持』は、生活の向上と快適が配給されることを望む受益主義になるだろう。財界は、『人民による、人民のための』民主主義ではなく、『財界による財界のための』民主主義を、一部人民にも配給することに努力し、ある程度成功した。」

 「財界による財界のための」社会には政治家は不要となり、保守も革新もどちらでもよいことになります。実際、日本の政治家は1960年代以降、どんどんその力を失い今ではどの政党が政権をとっても、誰が総理大臣になっても、大差ない時代になってしまいました。

「それゆえいまの危機は、たんなる政治危機でも経済不安でもなく、ましてや革命の危機ではないか。全体的な自己崩壊のおそろしさは、責任をとるものが誰ひとりとしていないままに、ゆったりと、もたれあいながら、退廃への道を歩んでいくところにある。日中戦争から太平洋戦争に入るときがそうだった。・・・・・
 いま私たちは、民主主義から、得たいのしれない管理主義的全体主義へのなだらかな道を歩いているのかもしれない。下降していくことの気楽さに気づかないほどのスピードで。」


 1960年日米安保条約の自動延長が決まり、日本はさらなる高度経済成長の時代に突入します。国民は経済的な安定と引き換えに安保条約を受け入れ、国内の収入格差にも目をつぶる選択をしたともいえます。21世紀に入った頃の中国のような状況がこうして生まれました。
 1960年代に入ると、国内全体の収入が伸びていることから労働運動はしだいに勢いを失い始めます。その代わり、彼ら労働者の息子たちが新たな政治運動の中心になり始め、1970年の日米安保条約の延長に反対する学生運動が盛り上がりをみせることになります。(ちなみに、このあたりから、やっと僕にとって覚えのある時代となります)しかし、1970年をピークにその運動はその勢いを失ってゆきます。東大安田講堂の陥落、成田空港の建設に反対した三里塚闘争、浅間山荘立てこもり事件、赤軍派によるリンチ殺人事件と運動が暴力的、破壊的なテロ活動へと変わる中で、その中心となっていた全共闘のメンバーは孤立、分裂し運動は崩壊してゆきました。
 彼らの運動は確かに「正義」のための運動でしたが、「組織としての正義」を追求することで「個人」の存在を無視するようになってゆきました。

「正しさとやさしさとが結びつくとき、それは人びとを感動させる。正義の旗のもとで、やさしさは欠けるとき、人びとはせいぜい尊敬しながら、遠ざかろうとする。・・・
 正しさとやさしさとにおいて人間を理解しなければ、全体として人間を理解したことにはならない。・・・」


<1970年以降、経済大国日本へ>(70年日米安全保障条約の延長)
 1970年、加藤和彦が出演するCMで「モーレツからビューティフルへ」というキャッチ・コピーが使われました。時代は、それまでの「熱い時代」から「シラケの時代」へと変わりつつあったのです。人びとは経済優先の仕事第一の生き方から、それぞれのライフ・スタイルを求めるワンランク上の快適な生活を求める生き方へと方向転換をし始めたのでした。しかし、そうした方向転換は日本人の心を豊かにする方向だったのでしょうか?

「多くの人びとが価値観の多様化を言うけれども、それは、ボーナスを自家用車の頭金に使うか、海外旅行に使うか、貯金にまわすか、といった程度の選択の可能性でしかない。生活水準と生活様式の維持拡大への執着と言う点では、価値観の画一化こそが、意識の深部で進行している。」

 こうして、いよいよ複雑化していった経済優先の日本では1970年代初めにほころびが見え始めます。さまざまな公害問題が表面化し、多くの人びとが犠牲になっていたのがこの時期でした。

「経済主義は、三つの大きな問題を浮上させた。
 第一に、それは人間と環境、とくに自然との関係を破壊した。
 第二に、人間と人間との関係を破壊した。
 第三に、日本と発展途上国のあいだに、とくにアジアの諸国とのあいだに、潜在的顕在的矛盾をつくりだした。」


 さらに経済優先を目的とする社会は、そいの目標を達成するため、かつて太平洋戦争に向かう大日本帝国がそうだったように国全体が管理社会への道を歩み出し始めます。

<管理社会化を進める流れ>
(1)利益誘導
 莫大な、あるいはささやかな利益の提供によって、大衆を権力の構造の中へ吸収することを考える。大衆自身が「買収」されることを期待している。
(2)「おしきせ」
 「おしきせ生活」「おしきせ文化」「おしきせ教育」の中に大衆をはめこむ。流行を追いかける人々は、「おしきせ、流行におしきられることに大きな幸福を感じる。
(3)差別と格差の温存
 学歴差別、男女差別、部落差別、宗教差別、収入格差による差別などを温存することで、政治的支配、経済的支配の構図を保つ。
(4)疎外と排除
 管理体制に異議を唱えるものをシステムから排除する「1984年」的世界の構築
(5)ナショナリズム
 国内での差別に対し、国外に敵をつくることにより政治的支配体制を固める。

「その境界線をはっきりと引くことができないというあいまいさが、管理社会化の「利点」であり、つけめである。それは露骨な政治的弾圧や経済的搾取が引きおこしやすい批判や攻撃から身をかくすことができる。『1984年』はだれの眼から見ても嫌悪すべき存在である。しかし、『第七体育学校』の校長は微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない。」
(注)「第七体育学校」・・・コマネチら、優れたオリンピック選手を生んだ共産主義国家時代のルーマニアの体育専門の学校

「政治的支配、経済的搾取、社会的差別だけが日本の現代社会の骨格を支えているのではない。生活の管理化、教育の統制化、文化の画一化、思想の受動化、要するにすべての局面におけるおしきせ性がその骨格を支えている。そのおしきせ性に異を唱えることは、めぐりめぐって自分の生活設計に不利になるという構造がしつらえられている。」

 こうして、経済主義社会は国益を守るために必要な人材を育て、そうでない人材をはじき出す管理社会を確立し始めます。しかし、その変化は小説「1984年」のように権力機構によって強制されたものではありませんでした。皮肉なことに国民ひとりひとりによる自発的な参加による変化だったのです。そうした自発的に管理されることを求める傾向は、小学校、中学校、高校での管理教育の徹底によって、ごく当たり前のことになってゆきます。

「現代において管理社会がこうも大規模に成立し機能しているのは、ただたんに管理者が弾圧的であるからでもなく、管理の技術が発達しているからでもない。不思議なことに、<自由>を求めていたはずの青年たちが、自発的に(深層心理的にはニセの自発性なのだが)管理されたがっているからである。」

 大学生になって得られる一時的な「自由」を目標に子供たちは「不自由」に耐えますが、大学に入って「自由」を獲得しても、彼らには自由に生きてゆくための能力が不足したままです。「自由」から得られる喜びよりも、「自由」がもたらす不安の方が彼らの心には重くのしかかっているのです。その上、彼らには大学を出ると再び社会人として「不自由」な日々が待っているのです。

「<不自由>から<自由>へ、<自由>から<不自由>への環境の微妙な変化は、管理社会に従順に従っていく青年たちの大量生産のために、たいへん巧妙に用意されたメカニズムである。」

 ジョージ・オーウェルの究極の管理社会「1984年」の中で、国民の思想管理の手法として取り締まるべき概念を示す言語を社会から消し去るというものがありました。それは強引に書物からもマスコミ用語からもその言葉を消し去ることで国民の概念からも消去しようというかなり無理のあるやり方でした。
 しかし、現在の日本ではそれとい同じことが、ごく自然に「自主規制」という名目で行われています。例えば、放送界における「放送禁止歌」の存在があります。法律的には何の根拠もなく、どんな歌詞の曲でも放送する自由は存在しているにも関わらず、なぜか放送の世界ではタブー扱いされ電波に乗ることのない曲というものが存在します。それは放送局がスポンサーや視聴者などからのクレームを予め予想し、問題が起きないようにと勝手に選んだ曲でした。(かつて、そうした要注意曲のリストは存在していましたが、それはもう過去のものでした)放送局はスポンサー料という収益を優先することで自ら管理されることを望んでいるわけです。こうして日本の社会は企業も個人もすべて経済的利益のために自ら管理されることを求めるようになっていったのです。

「『ゆきすぎ』と『ゆきすぎではない』との境界線があいまいであるということは、言葉のあいまいさに現れる。じつは、言葉それ自体の管理が、現代の特徴である。」

<1995年以降、想像力を失った社会へ>オウム真理教地下鉄サリン事件
 こうした管理されることを望む傾向は、1995年あのオウム真理教による地下鉄サリン事件以後、さらなる展開を迎えることになります。ドキュメンタリー映画「A」を撮った森達也のノンンフィクション作品「A」。残念ながら僕は映画を見ていないのですが、本の方は「A2」の公開に合わせて発表された「世界はもっと豊か出し、人はもっと優しい」も読ませていただきました。彼が「A」、「A2」で描き出したかったこと、それはオウム真理教信者たちの真実の姿ではなく彼らを取り囲み、裁き、阻害する日本人の姿です。それは、オウムの人びとが住む地域の一般市民だったり、市の職員だったり、警察官だったり、マスコミだったり様々ですが、その本質は共通しています。それは誰もがオウム真理教の信者がどんな人間でどんな思いを持っているのか、そのことを知ろうとしていないというこいとです。

「『信じる』ことと『信じない』ことのあいだには、深い亀裂がある。翻訳は簡単じゃない。喩えて言えば恋心だ。A子に身も心も捧げて失恋したB級の悲哀と絶望は、永遠に誰にも共有できない。女なんか他にいくらでもいるじゃないかと慰めても、『A子の素晴らしさはおまえにはわからない』と言われれば反駁する術はない。しかし共有はできないが想像はできる。恋心なら誰にでもある。理解はできなくとも演繹はできる。人には本来それだけの想像力が与えられている。歴史の縦軸を見ても世界の横軸を見ても、人はそうやって宗教と共存してきたはずだ。しかしオウム以降、日本ではこの想像力が停止した。」

 先ずは嫌悪ありき、そこで思考は停止し、彼らについての想像力が働くことはないのです。当然、彼らについての想像力が働くことはないのです。当然、彼らがなぜあの事件を起こしたのかを知ることはできず、再発を防ぐこともできないでしょう。オウム事件以降、様々な猟奇的な殺人事件が起きても、結局は理解不能のまま犯人を罰することしかできないのも当然です。

「それほどにこの六年間、日本社会は急激に変質した。猟奇的事件や動機が不明瞭な凶悪事件が頻発し、国旗国家法や通信傍受法やガイドラインや住民基本台帳法がまともな論議もないままに成立し、東京都知事が銀座を装甲車で走り、アジア太平洋戦争は過ちではなかったと主張するグループが教科書を作り、左右両陣営のバランスは崩れ、リベラルはこれ以上ないほどに弱体化し、憲法改正も目前だ。・・・今に始まったことではない。ファナティックな輩はいつの時代にもいた。この六年間で増加したわけではない。彼らを僕らが支持しだしたのだ。変質したのは僕ら自身なのだ。」

 知らぬ間に国益のために一丸となった日本人は、マスコミやインターネットを通じて、その意識(世論)を明確に示すようになりました。それは多様性とはほど遠く、感情的、直情的に多数派のい仲間入りをし、弱者である少数派を排除してゆくというシステムの完成でもあります。

「今の日本における本当の強者は、市民社会が紡ぐ『世論』だ。圧倒的なチャンピオンだ。欧米流に言えばTax Payer、マジョリティという名の民意と言い換えてもいい。弱者である市民(正義)が、強者である国家や大企業といいう名の悪に対峙するという構図は、古き良き時代に紡がれた左翼的思想の残滓でしかない。『A』において描写されたメディアや警察の思考の停止は、彼らが徹底的に民意に寄り添ってきた帰結の姿なのだ。戦後半世紀余りを経過して、日本に移植された民主主義は、ひとつの究極の形で成熟し定着した。もう一度言う。全てを決定しているのは僕らなのだ。・・・」

 人を憎むのにその人について知ることは妨げになることです。相手のことを人間と思わなければ、いくらでもその人を憎むことが可能になり、殺人ですら可能になる。それはオウム真理教の信者たちが地下鉄内でサリンをまいたのと同じ心理だといえます。
 そして、今まさにそれと同じことが日本人全体によって行われるようになった。その引き金となったのがオウムによる一連の事件だったのです。

<2001年以降、疑いと憎しみの世界へ>(アメリカ同時多発テロ事件)
 同じように想像力を停止することで罪もない人々を平気で殺すことを世論が認めた例、それも世界規模の想像することの停止状態。それは9・11同時多発テロ事件の後に訪れました。

「日本がオウムによって剥きだしになったように、世界は9・11によって剥きだしになった。アフガニスタンに暮らす人びとの日々の営みにほんの少しでも思いを馳せれば、誤爆が頻発する空爆などできないはずだ。・・・こうして歴史は、倦むことなく繰り返される。」

 インターネットの登場は、そうした「世論」の動きを一気に加速させたのいかもしれません。それは時に、3・11東日本大震災の日本へ暖かな支援をもたらすこともあるし、「アラブの春」や中国における大衆による情報公開のツールになるなど、良い面もありました。しかし、世界が国益もしくは個人の経済的幸福を目的に動く経済優先のシステムに従う限り、優しいはずの世界が顔を見せるのはごくたまにのことでしょう。
 その意味では、3・11の震災が日本人にとって、改めて「優しさ」と「想像力」の大切さを見つめなおす転換点になればと思います。

「オウムには河野義行さんがいた。でも今回の拉致被害者の家族や遺族の中には、まだそんな人は現れない。自分の子供を思う気持ちと同様に、北朝鮮で飢えて死ぬ子供たちをまず助けましょうと言える人はまだ現れない。
 彼らは憎む。当たり前だ。自分の子供や兄弟が理不尽な命を奪われたのだ。僕だって半狂乱になる。・・・
 でももう憎悪の便乗はやめよう。哀しい振りもやめよう。スーパーの前で無力な従業員を恫喝する市民から目を背けてはならない。彼らは今の僕らの姿そのものなのだ。」


「人類という地球上の旅人も同じようなものだと思う。絶対に安全でかしこい道を指し示すおkとはむずかしい。しかし、あらましの認識は認識をもたないよりすぐれている。平和・民主・人権という価値を大切にしたいという希望をもつことは、なんの理念ももたないよりもまさっている。自分たちの生活と幸福を守ろうとする意識があることは、無気力であるよりはいい。とにかく人間は、手持ちの主観的世界のうえに立って行動をはじめるのであって、完全な現地調査が終わってから出発することはしない。またそれはできない。」

<参考>
「戦後思想を考える」
 1980年
日高六郎(著)
岩波新書

「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」 2003年
森達也 Tatsuya Mori(著)
晶文社

(追記)
このコーナーの元になった「戦後思想を考える」をわざわざ送ってくださった。蜂谷さんにこの場を借りてお礼を申し上げます!ありがとうございました

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