日本スポーツ界伝説の快挙に迫る |
<スポーツ界の謎>
以前から、気になっていたいくつかの謎があります。スポーツの歴史を振り返ると、過去になぜこんな快挙があり得たのだろう?と思える記録のことです。
例えば、男子サッカーにおけるメキシコ・オリンピックでの銅メダルは、今思えば本当に奇跡的な快挙でした。その原因は、釜本という天才ストライカーの存在だけで説明できるとは思えません。
1932年のロサンゼルス・オリンピックで日本はホッケーで銀メダルを獲得していますが、これも奇跡的な快挙でしょう。それは参加国がわずか3チームだったおかげだったのかもしれませんが、当時の日本はけっして弱くはなかったようです。
アルペン・スキーにおける未だ唯一のメダリスト猪谷千春の快挙もまた、なぜ1956年という昔になぜ可能だったのでしょう?これもまた不思議です。
1920年アントワープ・オリンピックでの男子テニスでのシングル、ダブルスでの銀メダルの獲得もまた大変な快挙でした。しかし、実はそれは当然ともいえる結果だったのかもしれません。
そんな特異点的な日本人選手の過去の伝説的活躍について、調べてみました。
男子テニス熊谷一弥の快挙 <テニス界の伝説>
錦織の活躍により、日本でもテニスは人気スポーツとなり、今後も日本人の活躍が期待されるスポーツになりそうです。しかし、これまで日本にとって、テニスは世界レベルではまったく通用しないスポーツの一つでした。ところが、遥かな昔1920年のアントワープ・オリンピックで日本人テニス・プレイヤーの熊谷一弥が銀メダルを獲得しているのです!それは今から100年近く前のことなのですから本当に驚きです!
いったいなぜ日本人選手がそんな良い成績を残せたのでしょうか?
選手が何かの理由で少なかったから?
それともまぐれが重なった?
当時、日本でテニスは完全にマイナー・スポーツでした。そのうえ日本におけるテニスは、軟式が主流で硬式はほとんどプレーされていませんでした。そんな中、いち早く硬式テニスに移行した慶応大学に入学した熊谷は、そこで硬式テニスと出会います。慶応大学はいち早く硬式テニスへと移行したことから、日本における硬式テニスの発展をリードすることになり、その後も多くの一流選手を生み出しています。
1913年に慶応大学を卒業した彼は三菱合資会社に就職し、ニューヨーク支店勤務となりましたが、そこで彼は恵まれた環境の中、再びテニスを始めます。
仕事の傍らでありながら、彼はテニスの練習に励み、1918年全米選手権に出場すると見事ベスト4に入ります。そして翌1919年にはなんと全米ランキングの3位となりました。
<アントワープ・オリンピックにて>
そして、熊谷は1920年のベルギー、アントワープで開催されたオリンピックに出場すると順当に勝ち進み、決勝に進出。1-3で南アフリカのルイス・レイモンドに破れて銀メダルとなりましたが、世界ランクからすれば、ある意味それは驚くような結果ではなかったのかもしれません。そのうえ、彼は柏尾誠一郎とペアを組みダブルスにも出場すると、こちらも決勝まで勝ち上がり、銀メダルを獲得しています。これは、もうまぐれでも、クジ運の良さのせいでもないでしょう。
彼とコンビを組んだ柏尾もまた同じように海外組のエリート選手でした。彼は東京高等商業(現在の一橋大学)を卒業後、三井物産に入社。熊谷と同じようにニューヨーク駐在となり、そこで熊谷と共にテニスに熱中。二人は、ライバルであり、仲間でもある存在としてお互いを助け合うことで、見事な成績を収めることができたのでした。
<私立大学が生んだ世界的な選手たち>
慶應出身の一流テニス・プレーヤーには、原田武一、山岸二郎、藤倉五郎、隅丸次郎、石黒修などがいますが、彼らはみな世界的な選手として評価されています。
原田武一は、1926年の全米ランキングで3位、世界ランキングでも7位にランクインしている名選手です。彼は慶応からハーバード大学にテニス留学しているイケメン選手で、アメリカでも人気者だったようです。
山岸二郎もまた1938年に世界ランキング8位にまで入った選手です。
藤倉五郎と隅丸次郎は、世界的な実力がありながら活躍時期が太平洋戦争に重なったため、海外での活躍どころかテニス自体ができなくなった悲劇の選手です。
その後は、慶応ではなく早稲田大学からも名選手が現れます。特に佐藤二郎は有名です。彼は1933年には世界ランクの3位にまでいった選手で、1932年のウィンブルドンではベスト4に進出しています。ところが、船旅の途中、マラッカ海峡で謎の投身自殺を遂げました。彼は自分は命をかけて戦っていると公言していたようです。当時のテニス・プレイヤーの多くはお坊ちゃま学生だったようなので、彼のように命がけというモチベーションの選手は、きっと珍しかったはずです。
<奇跡を起こせた時代>
優れた選手が集まった慶応大学は、テニスの名門としてライバルたちがお互いに力を伸ばすことができる最高の練習の場であり、その後の友情をはぐくむ場所でもありました。そして、熊谷と柏尾は、テニスがより身近にあるアメリカ、それもニューヨークでその腕を磨くことができたのです。それは錦織がアメリカ留学で成長したのに近かったのでしょう。
テニスというスポーツは、元々は貴族のスポーツとして限られた階級の人々だけが楽しむものでした。日本でも、当初は大学生とお金持ちのためのスポーツだったといえます。(ゴルフもそうでしたが・・・)ただし、そうした限られた人のスポーツという条件は海外でも同様だったため、選手層はけっして厚くはなかったと考えられます。黒人選手もいないし、プロでもないためハングリー精神とも無縁でした。ある意味、お坊ちゃまが相手の試合だったともいえます。そんな条件下で、命がけで戦う選手がいれば、モチベーション的には確かに有利だったのかもしれません。
当時、日本は欧米諸国に追いつけ追い越せと国全体が走り続けていました。海外でその最前線に立つ日本人は、その象徴でしたが、熊谷はその勢いをスポーツのジャンルで見事に生かしたといえそうです。
がんばり続けたスイマー前畑秀子 <がんばる日本の象徴>
日本女子初の金メダリスト前畑秀子といえば、「前畑がんばれ!前畑がんばれ!」のラジオ放送の連呼で有名です。しかし、彼女自身の人生もまた同じように周囲から「前畑がんばれ!」の連呼を受け続ける波乱万丈の苦難の連続でした。そして、その「がんばれ!」の掛け声は当時の日本人の生き様を象徴するものでした。
<生い立ち>
前畑秀子は、1914年5月20日和歌山県の橋本町(現橋本市)の豆腐店の次女として生まれました。幼い頃、病気ばかりする身体の弱い子だったため、母親は高野山の金剛峰寺で「秀子が五つになるまで髪の毛を切って男の子のように育てますから、どうぞ丈夫な子にしてやってください」と祈ったといいます。
こうして男の子のように育てられた少女は、いつの間にか丈夫な子に育つことになりました。彼女が住む街には紀の川が流れていて、その流れの弱い部分に小学校のプールが作られました。(川底に杭を打ち込み、飛び込み台やターニング台などを作ったもの)そして、水泳部が作られると泳ぎだ大好きだった彼女はすぐに入部。自ら種目を平泳ぎに決めた彼女は、関西水泳連盟主催の学童水泳大会で学童記録を出していきなり優勝。6年生になると平泳ぎの100mで1分38秒の日本新記録を出して優勝します。しかし、家が経済的に厳しかったことから、卒業後、彼女は実家の豆腐屋で働くつもりでした。
日本代表どころか世界と戦える逸材を引退させるわけにはゆかないと考えた校長は、両親を説得し、彼女を高等科に進学させます。高等科2年になった彼女は、ハワイで開催される汎太平洋女子オリンピックの出場メンバー選考会に出場。当時、競技種目に平泳ぎは200mしかなかったので、そこで彼女は初めて200mに挑戦し、見事に日本新記録を出して優勝。まだ15歳という若さで彼女は海外の大会に参戦することになり、そこでも世界記録保持者のヒントンに次ぐ第2位となりました。
<苦難の始まり>
高等科の卒業を前にして再び彼女にお呼びがかかります。女子の体育教育を重視して、屋内プールを作ったばかりの名古屋の椙山高等女学校から学費を免除するから是非来てほしいと連絡が来たのです。こうして、彼女はさらに充実した環境のもとで、よいよ本格的にオリンピックのメダルを目指すことになります。ところが、順調だった彼女の人生に突然大きな問題が生じます。彼女の母親が脳溢血で突然亡くなり、その後を追うように父親までもが急死してしまったのです。長男と弟二人だけになった家を、唯一の女手である自分が助けなければならない。そう考えた彼女は急ぎ実家に戻る決意を固めます。
このままではメダルを狙えるはずの逸材が失われてしまう。学校関係者ら多くの人々が、彼女を助けるため、募金活動を始め、実家の家事を任せられるように、長男には嫁が迎えられることになりました。(長男夫婦は幸せになれたか少々心配ですが・・・)
こうして、彼女は再び水泳に人生を賭けることができることになりましたが、自分の活躍を見てもらえるはずの両親はもうこの世にいませんでした。そしてそんな彼女の心の支えとなり、助言を与えてくれるような指導者はいませんでした。そのため彼女は自分一人で練習プログラムを考え、精神的なリハビリの暇もなくロサンゼルス・オリンピックに向けた準備を開始することになりました。しかし、彼女にできることは、自らを体力の限界にまで追いこむことだけでした。彼女にとっては、誰よりも「がんばる」ことしかできなかったのです。
<がんばる理由>
こうして、精神的なスランプを脱した彼女は、オリンピックの選手選考会で三年前に自分が出した日本記録と同じタイムを出して優勝。そして、1932年、彼女はロサンゼルスで開催されたオリンピックの200m平泳ぎに出場し、見事。銀メダルを獲得します。金メダルを獲得した選手との差はまずか0.1秒でした。それでも彼女は自分ができる最大限の力を出し切ったと思っていて、これで悔いなく引退できると考えていたようです。ところが、帰国後、彼女の思いとは裏腹に周囲は「次こそ金メダルだ!」と騒ぎたてました。東京市長、永田秀次郎は彼女にこう言ったそうです。
「前畑さん、あんたはなぜ金メダルを取ってこなかったんだね。わたしはそれが口惜しくてたまらないんだよ。十分の一秒の差じゃないか。いいか、前畑さん、この口惜しさを忘れずに、四年後のベルリン・オリンピックでがんばってくれよ」
やれやれ「じゃあ、お前が行けよ!」って言いたいですよね。ところが、彼女はそんな理不尽な要求にも答えようとします。なんと、夢枕に立った彼女の亡き母親が「最後までやりとおせ」と言ってくれたといいます。やれやれ、それって夢の中にまで周囲のプレッシャーが着ていたということのようにも思えるのですが・・・。とはいえ、その状況では彼女に選択の余地などありませんでした。自分に出来ることはなんでもやろうと決意した彼女は、タイムを縮めるために様々な練習を取り込みました。例えば、飛び込み台をより強く蹴ろうとした彼女は、繰り返し飛び込みの練習を続け、ついには足の裏にタコができてしまったといいます。こうして迷いなく練習に打ち込むようになった彼女は、1935年の東京での競技会でついに世界新記録をたたき出します。そして、次なるオリンピックの開催地ベルリンへと向かいます。
<ベルリンにて>
1936年、彼女はベルリン・オリンピックに出場しました。再び200m平泳ぎでのエントリーでした。
「時刻は刻々と迫ってまいりますが、この200mブレストの決勝だけは、是非入れたいと思っております。すこしくらい時間がのびましても、是非入れたいと思います。・・・
切らないで下さい。スイッチを切らないで下さい。そのまま待って下さい。・・・・」
当時現地からのラジオ中継は、日本時間の夜中12時をもって終了することになっていたため、アナウンサーは聴取者ではなく、中継を管理する放送関係者に対して放送を終わらせないように語ったのではないかと言われています。
そして、同じ頃、決勝を前にした彼女は届けられた電報の束を見めながら、その中にあった紙のお守りを取り出し、それを水につけて飲み込んでいました。スタートが20分遅れとなり、プールサイドに押し寄せた観客の地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルへの応援はさらに盛り上がっていました。大会前から優勝候補の筆頭とされていたゲネンゲルの金メダルを確信して、ナチス・ドイツの総統ヒトラーも会場に顔を見せていました。彼の登場に会場全体から「ハイル、ハイル!」の大歓声が響いていました。
こうして始まった決勝のレースで最後まで競り合った前畑は、わずか0.6秒差で今度こそ金メダルを獲得しました。
<金メダルを取ったのに・・・>
見事に金メダルを獲得して帰国した彼女は、今度こそ選手生活を終わらせるとお見合い結婚で名古屋医科大学の助手と結婚。二人の男の子も授かり、家庭も円満に・・というはずでした。ところが、まだ45歳の若さで彼女の夫が脳溢血で急死してしまったのです。(働き過ぎでしょうかね)子育てどころではなく生活するために働かなくてはならなくなった彼女は、母校の椙山女子学校で医務室助手兼水泳コーチとして働き始めます。さらに様々なスイミングスクールや学校から講演を依頼されるようになります。しかし、あまりにも外部の仕事が増えてしまい、学校での業務が続けられなくなってしまいます。
それでも彼女は水泳との関りを続けようと、地元名古屋市のプールで水泳教室を開けるよう役所に訴え、優秀な選手ではなく幼児や小学生に水泳を教えるための水泳教室をスタートさせます。その後はそうしたタマゴの中から優秀な選手を選抜して育てるための瑞穂スイミングスクールを立ち上げ、次なるオリンピック選手を育て始めます。そうした努力も認められ、1981年彼女にオリンピック功労賞が授与され、日本人女性として初めて「水泳の殿堂」入りの名誉が与えられました。しかし、彼女はこの後もなお「がんばる」ことを求められます。
1983年4月、ママさん水泳教室での指導中に、彼女は突然自らが脳溢血で倒れてしまったのです。一時は生死の境をさまよいますが、全国から「前畑がんばれ」の声が寄せられる中、見事に彼女は蘇り、リハビリの後、プールへと帰ってきました。
彼女がこの世を去ったのは、1995年2月24日。80年の生涯を終えて、ついに彼女はその「がんばり」を終えたのでした。「がんばる」ことこそが美徳であった時代、その象徴となって「がんばり」続けた彼女の人生は、あまりのプレッシャーに自殺を遂げた円谷選手とは違うものとなりましたが、一歩間違えば彼女もまたそうなる可能性がありました。
21世紀の今、選手たちはかつてのように面と向かって「がんばれ!金メダルを取ってこい!」とは言われませんが、様々なかたちでプレッシャーを与えられていることに変りはないかもしれません。逆にそうしたプレッシャーをパフォーマンスの向上に生かすぐらいの選手でなければ成功しない時代になったとも言えそうです。
アルペン唯一のメダリスト猪谷千春 <アルペンでの快挙はなぜ?>
冬季オリンピックのアルペン競技における日本人唯一のメダリスト。それは、1956年イタリアのコルチアで開催された第7回大会のスラロームで銀メダルを獲得した猪谷千春です。その後のオリンピックでもメダルに近づいた選手はいましたが、世界選手権ではなくオリンピックとなると、誰もがメダルには手が届かずに終わっています。優秀な選手を選抜し、ヨーロッパやアメリカでの大会に参戦させることで、若い頃から育てることができるようになった今とは違い、当時は海外遠征ですら困難な時代でした。どうやって彼は海外の一流選手のレベルに達することができたのでしょう?
試合当日、自然や偶然が彼に味方したのでしょうか?
猪谷千春というスキーヤーが唯一無二の天才だったのでしょうか?
先ずは、猪谷千春という人物の生い立ちから始めましょう。
<猪谷千春>
猪谷千春は、1931年5月20日、現在はロシア領となっている国後島で生まれました。彼の父親は群馬県赤城山の旅館の長男で、1914年、偶然山で目にした外国人スキーヤーのはくスキーを手作りで再現。それを使って自己流で滑り始めた、元祖スキーヤーともいえる人物でした。その後、スキーの魅力に取りつかれた父親は、同じくスキーの魅力にはまり、女性ジャンパーの草分けとなった女性、定子と結婚。スキーができる場所を求めて、妻と共に北海道や樺太を渡り歩き、その途中、千島列島の国後島で暮らしていた春に千春が生まれたのでした。「千春」の名前は、「千島の春」からつけられた名前です。
当然、そんな二人の子供ですから千春は早くからスキーの英才教育を受けることになりました。三歳でスキーをはき、8歳の時、大人のスキー大会に出場して早くも入賞しています。父親がジャンプ台の製作を担当した栃木県で開催された「明治神宮大会兼全日本スキー選手権大会」では、彼はまだ小学5年生だったにも関わらず、大人の優勝者よりも6秒も早い記録を出し、日本中を驚かせました。父親と共に雪を求めて移動しながら暮らしていた彼は、高校生の時、その後の運命を大きく変えることになる出会いをすることになりました。
<運命の出会い>
東京数寄屋橋の運動具店でスキー板を見ていたアメリカ人男性が、板の反発性を見ようと曲げていて、それを折ってしまいました。彼はすぐに店主に板の代金を弁償すると話ましたが、それは簡単に折れる板を売っている店の責任だと答えます。アメリカ人男性がそんな店の対応に感心してしまい、その店主と打ち解けて話始めると、そこに現れたのが千春少年でした。店主は、そのアメリカ人男性に千春を紹介。彼が日本スキー界の期待の星で、オスロ・オリンピックに出場することにもなっていると説明しました。
するとその説明を聞いていたアメリカ人男性は、オリンピックは1月に始まるのに、11月の終わりになってまだ日本にいていいのか?と質問。アメリカのチームはもうとっくにヨーロッパに入って練習を始めているはずだといいます。それに対し、店主は残念ながら日本のスキー界はそれほどお金もないし、選手への国民の期待も大きくないのだと説明。1952年と言えば、まだ日本はアメリカの占領下にあり、急速な経済発展はまだまだ先のことでした。スキー合宿どころか、海外旅行すら一般人にはまだ困難な時代でした。そんな店主の説明を聞いていたアメリカ人男性は、明日、私のところに彼を連れてきてくれないかと言い店を出て行きました。
<海外武者修行の始まり>
翌日、彼らは再びそのアメリカ人男性と会い、彼が世界的な保険会社AIUのCEOコーネリアス・スターという人物であることを知ります。彼は偶然知り合った千春少年に、自腹を切って、ヨーロッパに連れて行こうと申し出ました。早く現地に入り、オリンピックに向けた練習を始めようというのです。それだけではありません。彼は当時簡単に入手することができなかったパスポートとビザを米軍のトップに依頼してスピード入手。12月中に、彼らはオーストリアのスキー場に到着し、最新のスキー用具まで提供されていました。
1952年こうしていち早く練習を開始して出場したオスロ・オリンピックで、猪谷は大回転で20位、滑降が24位、回転では11位という成績を収めました。彼の成績と素早い動きが、現地でも高く評価され、彼には「ブラック・キャット」という綽名がつけられたといいます。その結果に気を良くしたスター社長は、さらに上の成績を狙わせようと、千春に次なる提案を持ちかけます。千春ともう一人若手のスキーヤーは、ヨーロッパから日本に帰らずにアメリカに渡り、そこでさらに練習を積ませたのです。そして、彼を全米スキー選手権に出場させるとなんと彼は得意の回転で見事2位になったのです。
1952年秋、スター社長は再び来日すると、千春と彼の父親にアメリカのダートマス大学に留学することを提案します。もちろん、そのための渡航費用や滞在費、授業料は、自分が出すというものでした。もちろん親子はその提案を受け入れ、彼はアイビーリーグに属する名門私立大学に留学。そこで学びながら、大学の近くにあるスター社長が所有するスキー場で練習で思う存分練習できました。
そのうえ、名門のダートマス大学はスポーツだけやれば良いという学校ではなかったので、彼は留学中、スキーと英語だけでなく人一倍学業に励むことになりました。当然、彼はこの間に完璧な英語力と会話力と身に着けることができました。彼が選手を引退した後、IOCの委員に選ばれ、その重責を果たすことができたのはこの時代に身に着けた英語力と人脈のおかげだったといえます。彼は自分が運に恵まれていることを知っていたからこそ、さらに人一倍努力することでその期待に応えようとしました。
もうひとつ重要なのは、彼には誰よりも優秀で勉強熱心なコーチでもある父親がいたことです。ヨーロッパ最先端の技術を研究し、それをいち早く取り入れることで、ヨーロッパの選手たちに負けないフォームを獲得していたのでした。
こうして彼は現在の日本の代表選手並みの練習環境を得て、いよいよオリンピック本番に臨むことになりました。
<オリンピック本番>
1956年イタリアのコルチナで開催された冬季オリンピックの回転で、彼はトニー・ザイラーと競り合い、惜しくも2位となり銀メダルを獲得しました。当時、トニー・ザイラーは世界最強のスキーヤーで、コルチナでは大回転、回転、滑降の3種目すべて金メダルという快挙を成し遂げています!
イケメンでもあった彼の人気は映画のスター並みで、引退前に映画に出演。ところがそれがアマチュア規定に違反するとされ、22歳の若さで引退してしまいます。その飛びぬけた実力から考えて、あと2回はオリンピックでメダルを獲れたかもしれません。そう考えると、そこまで幸運に恵まれてきた猪谷千春の人生で、唯一のツキがなかったが、オリンピックでトニー・ザイラーと闘わなければならなかったことかもしれません。
<その後も続くオリンピックと人生>
オリンピックの後、再びダートマス大学にもどると彼はスキー部のキャプテンとなり、1958年オーストリア、バドガンシュタインで開催された世界選手権の回転で銅メダルを獲得。しかし、大学卒業後は、スター社長からの誘いでAIUの日本支社に就職。日本での業績を大きく伸ばしビジネスマンとしても活躍します。しかし、スキー選手としての練習時間が取れなくなり、1960年に引退を発表しました。ところが、彼のオリンピックでの活躍はそれで終わることはありませんでした。ビジネスマンとしての成功とオリンピックでの活躍、そして英語力を買われた彼はIOCの委員を任されます。その後も長くIOCで活躍し、2005年には副会長にまで上り詰めています。
日本人として唯一のアルペンのメダリストは、運と才能を兼ね備えていただけでなく組織を束ねるリーダーとしての能力にも優れていたようです。思えば、彼が初めてスター社長と出会った日、アメリカを代表する企業のトップは彼の中の「人間力」に気づいたからこそ、援助を申し出たのかもしれません。「この男ならものになる」そう思わせる何かを感じたのではないでしょうか?