「新学期操行ゼロ Zero de conduite」

- ジャン・ヴィゴ Jean Vigo -

<幻の映画、伝説の監督>
 この映画を見たのは、1980年代前半?この映画が幻の映画として初公開された時だったと思います。伝説的な作品という噂は知っていましたが、ほとんど事前情報はありませんでした。ネットで調べることもできない時代です。それだけに見てびっくりの映画でした。白黒映像とは思えない美しさと過激な思想性に衝撃を受けました。なぜ、1933年という時代に、これほど反体制的な映画が撮られたのか?どんな人物がこの映画を撮ったのか?疑問符だらけのまま、30年以上の時が過ぎてしまいました。
 その謎が、中条省平氏の「フランス映画史の誘惑」のおかげで少しだけ解けました。この映画の監督ジャン・ヴィゴとはいかなる人物だったのか?わかったことをご紹介させていただきます。

<売国奴の息子>
 この映画の監督ジャン・ヴィゴ Jean Vigoは、1905年4月26日パリに生まれています。父親はアナキストの活動家で、彼はその仲間たちが集まる屋根裏部屋に生まれ育ったといいます。そのグループの中心人物だった父親は何度も警察に逮捕され、ついにはスパイ容疑で留置されていた独房内で縊死体となって発見されてしまいます。公式には、自殺とされましたが、警察によって拷問され殺されたとも言われています。こうして、12歳で父親を失った彼は、まわりから「売国奴の息子」と呼ばれて差別されることになりました。その後、彼は親戚の家にあずけられ偽名を使って寄宿学校に入学させられます。この生い立ちからして、すでにアナーキーそのものです。

<アナキズムAnarchism>
 アナキズムの思想は日本語では「無政府主義」と訳されます。しかし、その思想は、「社会を無政府状態にすること」を目的にしているわけではありません。広い意味で、「国家や権力の集中を否定する思想」と呼ぶべきでしょう。その思想の原点となったのは、ジャン・ヴィゴと同じフランス人の思想家プルードンです。
 ピエール・ジョゼフ・プルードン(1809年1月15日〜1865年1月19日)は、醸造職人の子として生まれた後、独学で神学や哲学を学び、思想家ジャーナリストとして執筆活動をするようになります。彼は自著「財産とは何か」(1840年)の中で「財産、それは盗奪である」と書くなど、過激な反権力思想を広める存在となり、政府による検閲をうける存在とになりました。
 1848年の二月革命に参加した彼は、ジャーナリストとして大統領になったルイ・ナポレオンを名指しで「反動者」と批判し投獄されてしまいます。マルクスのようにアカデミックな学問を基礎とした知的な思想を作り上げたわけではないため、彼の思想はその後様々な面から批判されることになります。
 その思想をフランスで受け継ぎ発展させたのがジョルジュ・ソレルです。彼はアナキズムの思想に基づき、その実現に向けて暴力を用いることも認めます。そして、その思想のもとで権力者の暗殺というテロ活動がヨーロッパ各地で行われることになります。
 19世紀後半にアナキズムは、反帝国主義、反王政、反資本主義、共産主義などの思想と結びつくことで、ヨーロッパ各地に住む労働者や知識階級の若者たちに急速に広まります。もちろん、フランスはそうした思想の母国だったわけですが、アナキストは政府にも一般大衆にも受け入れられる存在ではありませんでした。ジャン・ヴィゴの家はそんなアナキスト・グループの根城だったわけです。

<映画の世界へ>
 20歳になった彼はパリに出て、パリ大学のソルボンヌ校に入学し、哲学を専攻します。(どうやら彼はかなり頭が良かったようです)学生時代に、映画にはまりだした彼は、映画界で働くことを目指すようになりますが、その前に子供の頃にかかっていた持病の結核が悪化、ピレネー山中にあるサナトリウムでの療養生活を余儀なくされます。この時、同じ療養所に入院していたエリザベートと恋に落ち、二人で南仏のニースに向かいます。彼はニースにあったラ・ヴィクトリーヌ・スタジオでカメラマンの助手をしながら映画製作のノウハウを学びます。
 そして、この頃、彼はその後彼とコンビを組みカメラマンを担当することになるボリス・カウフマンと出会っています。ロシア(現在のポーランド)出身のボリスは、ヴィゴの死後、アメリカに渡り、カメラマンとしてニューヨーク派の監督たちとともに数多くの名作を生み出すことになります。エリア・カザンの「波止場」(1954年)「草原の輝き」(1961年)、シドニー・ルメットの「十二人の怒れる男」(1957年)「質屋」(1964年)「グループ」(1966年)などの名作は、彼が撮ったものです。

<監督デビューから死まで>
 ヴィゴとカウフマンは共同で脚本を執筆。カウフマンがカメラマンとなって、ヴィゴの処女作品となった中編ドキュメンタリー映画「ニースについて」(1929年)と完成させます。ニースに集まるブルジョワの避暑客と旧市街に住む貧しい人々を対照的に撮り、風刺をきかせて描いたこの作品は、実験的で反体制的なドキュメンタリー映画として高い評価を受けることになりました。
 次に彼は本格的なスポーツ・ドキュメンタリー作品「水泳王ジャン・タリス」(1931年)を撮り、スローモーションの多用により水中を動く肉体の美しさを見事に映像化しました。
 そして、1933年、彼は初のフィクション作品となった中編映画「新学期操行ゼロ Zero de conduite」を撮ります。彼の子供時代の寄宿生活がもとになったアナーキーな学園ドラマで、子供たちは学園という権力機構に反旗を翻します。
 学園祭の日に教師たちへの反抗を企てた生徒たちは、校舎に立てこもり屋根の上から教師たちに攻撃を加えます。夜、白い寝巻き姿の子供たちが羽枕の羽根を撒き散らしながらベッドの上を跳ね回る場面のスローモーション撮影は映画史に残る名場面といえます。(この場面は、鳥肌が立つほど美しいので必見です!)
 すべての権威に対する反抗の意思表示ともとれるこの作品は、当時の政府によって上映禁止とされ、第二次世界大戦が終わるまで公開されることはありませんでした。それでも彼は、結核の悪化による自分の死を意識していたのでしょう。すぐに彼にとって唯一の長編映画となる「アタランタ号」の撮影に入ります。
 セーヌ河に浮かぶ艀で暮らす夫婦を主人公とする悲劇的なラブストーリー「アタランタ号」(1934年)は、美しく幻想的な映像とユーモア感覚にあふれた作品でしたが、配給側のゴーモン社は、公開を前に長すぎるとしてかってに20分もカットしてしまいます。さらには、当時大ヒットしていたシャンソン「過ぎゆく艀」(歌はリス・ゴーティ)を映画の挿入歌として使用しただけでなく、映画のタイトルも勝手に「過ぎゆく艀」として公開してしまいました。なんという暴挙!
 アナーキーなジャン・ヴィゴはその仕打ちにどんな行動に出たのか?と気になるところですが、もうその頃彼は死の間際にいたのです。こうしてズタズタにされた映画は、わずか2週間しか公開されずに消えてしまったのですが、その悲劇の作品を目にすることもなく、彼は敗血症で倒れ、1934年10月5日、29歳という若さでこの世を去ってしまいました。それはあまりに悲劇的な最後でした。

<アナーキー・イン・パリス>
 たった一度だけ、すいぶん昔に見た作品にも関わらず、彼の映画の印象は未だに尾を引いています。1930年代の初めにすでに1950年代のヌーヴェルバーグや1960年代末のニューシネマそして1970年代のパンク・ロックのイメージを先取りしていたジャン・ヴィゴの映像は、今なお多くの人に衝撃を与え続けているようです。ネットで調べてみると、彼の映画に対する書き込みの「熱さ」は半端じゃありません。
 もちろん彼の故国であるフランスでの彼の評価はその後どんどん高まり、1953年、新人監督のための賞「ジャン・ヴィゴ賞」が創設されています。授与されるのは、単純に新人監督のヒット作品というわけではなく、コマーシャリズムには乗りにくい斬新な作品が選ばれていることはもちろんです。
 ちなみに歴代の受賞作には以下の作品があります。彼の作品がヌーヴェルバーグの監督たちに与えた影響は明らかでしょう。
 クロード・シャブロル監督の「美しきセルジュ」、ロベール・アンリコ監督の「美しき人生」、ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」、アラン・レネ監督の「夜と霧」などです。残念ながら最近の受賞作品は日本で公開されない場合が多いようです。

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