- ジェファーソン・スターシップ Jefferson Airplane -

<追記2003年12月5日>

<アメリカン・ウェイ>
 ニール・ヤングが、アメリカの歴史の流れの中で、ウッドストック世代の生き方を苦悩しながらも貫き通した貴重なアーティストとするなら、ジェファーソン・エアプレインは、時代の流れに適応すべく、音楽スタイルやメンバーの入れ替えどころか、バンド名すらも変えてしまった得意なバンドだったと言えるでしょう。
 ほとんどのバンドが、例え音楽スタイルが変化しても、メンバーが変わっても、同じ名前にこだわり続けるのに対し、彼らはある種潔いくらいにバンド名を変えてしまい、その音楽性の変化をアピールしてみせました。そして、この変化は、アメリカの国民の多くに好感をもって向かえられたと言えるでしょう。
 それは、彼らの行った方向転換が、アメリカという国全体、もしくは彼らの同世代の価値観の転換と見事に一致していたということなのかもしれません。良い意味でも、悪い意味でも・・・

<TAKE OFF 離陸>(2003年12月5日追記)
 バンドのスタートは、1965年のことでした。ザ・タウン・クライアーズというフォーク・グループのメンバーだったマーティ・ベイリンがサンフランシスコでポール・カントナーと出会いフォーク・ロックのバンドを結成、それがジェファーソンの始まりでした。
 オリジナル・メンバーは、マーティ・ベイリン(Vo)、ポール・カントナー(G.Vo)、ヨーマ・カウコネン(G.Vo)、スキップ・スペンス(Dr.)、シグニ・アンダーソン(Vo)、ボブ・ハーヴェイ(B.)。但し、ボブ・ハーヴェイは、すぐにジャック・キャサディと交代しています。
 結成当初はまだバンドとしての完成度にはほど遠かったのですが、まわりが彼らの存在を持ち上げ、人気者にしてしまいました。彼らはある意味「作られたスター」だったわけですが、それだけで終わらなかったのが彼らの偉大さだったのです。
「一介のヒッピー集団にすぎなかった僕たちが、いきなりアメリカのビートルズなんてことを言われるようになった。きっかけは、ライフ誌が組んだサンフランシスコの特集記事がきっかけでね・・・」
ビル・トンプソン(当時のジェファーソンのマネージャー)

<伝説のライブ・ハウス「Matrix」>
 この年、マーティ・ベイリンはサンフランシスコに、ライブハウス「マトリックス」をオープンさせ、ジェファーソンはその店を活動の拠点としてスタートを切りました。当時マトリックスには、後にシスコのフラワー・ムーブメントの中心となるバンドが次々と出演していました。そして、その中には、グレイス・スリックが所属するバンド、グレイト・ソサエティもありました。

<離陸、そして上昇気流に乗る>
 ジェファーソンの評判はすぐに広まり、シスコのバンドとしては始めて、メジャー・レーベルのRCAが彼らと契約をかわすことになりました。そして1966年、彼らのデビュー・アルバム"Jefferson Airplane Takes Off"が発売されました。
 翌1967年2月には彼らの代表作であり、60年代サイケデリック・ロックの代表作ともなったアルバム「シュール・レアリスティック・ピロー」が発売されます。この時からヴォーカルとしてグレイス・スリックが参加(シグニ・アンダーソンは脱退)、 二枚のシングル「あなただけを」「ホワイト・ラビット」のヒットもあり、見事ゴールド・ディスクに輝いきました。特に、「ホワイト・ラビット」は、マリファナやLSDによるトリップ感覚にあふれた名曲で、いよいよ彼らはフラワー・ムーブメントの花形バンドになって行きます。

<バンド外活動の活発化>
 1970年、早くも彼らのベスト・アルバム「ワースト・オブ・ジェファーソン・エアプレイン」が発売されます。この頃からバンドの各メンバーによる独自の活動が始まります。
 先ず、元々ブルース・マニアだったジャック・キャサディとヨーマ・カウコネンがホット・ツナを結成し、デビュー・アルバム「ホット・ツナ」を発表。
 ポール・カントナーは、グレイス・スリックとともに「ジェファーソン・スターシップ」というプロジェクトを始め、アルバム「造反の美学」を発表しました。(このプロジェクトは、後のジャファーソン・スターシップとはもちろん別。ジェリー・ガルシアデビッド・クロスビーグラハム・ナッシュら、外部の大物たちとのセッションでした)

<コミューンの設立>
 彼らは1968年、サンフランシスコ市内に豪邸を購入、そこをバンドとその仲間たちのコミューンとして開放します。そこには、1971年彼らのレーベル「グラント」の事務所も置かれ、彼らの根城となりました。
 この事務所は、1985年までその場所に置かれ、彼らはレコード会社という営利企業と非営利のコミューンを同時に運営して行くことになります。そしてこのことは、彼らの音楽に何らかの影響をもたらしたはずです。

<メンバーの変遷>
 そんな中、しだいに存在感が薄くなってきたマーティ・ベイリンは1971年ついにバンドを脱退。代わりに、ジェファーソンと同じシスコを代表するバンド、クイックシルバー・メッセンジャー・サーヴィスのヴァーカリスト、デヴィッド・フライバーグが参加することになりました。(前代未聞のライバル・バンドからの移籍は、いかに当時の音楽シーンが一つのコミュニティーとなっていたかを証明するものでしょう)
 他にも新たな参加者がありました。1970年この後バンドに大きな影響を与えることになる人物、エレクトリック・バイオリンの天才、パパ・ジョン・クリーチがジャファーソンの演奏に参加、正式メンバーとなりました。(翌年、彼はソロ・アルバムも発表しています)

<飛行機から宇宙船へ>
 1972年、ホット・ツナを結成していた二人は、その活動に専念するため、ジェファーソンを脱退しました。さらに、1974年になると、グレイス・スリックが初のソロ・アルバムを発表した後、ジェファーソン・エアプレインはバンド名をジェファーソン・スターシップに変更します。彼らは、バンド名の変更によって、バンドとしての方向性の変更を宣言したといってよいでしょう。
 この時点のメンバーは以下のようになっています。
グレイス・スリック(Vo)、ポール・カントナー(Vo,G)、ジョン・バーベイタ(Dr.)、クレイグ・チャキーソ(G)、パパ・ジョン・クリーチ(EVio.)、デヴィッド・フライバーグ(Vo)、ピート・シアーズ(B.)こうして、このメンバーでデビュー・アルバム「ドラゴン・フライ」が発表され、翌年には70年代を代表するメガ・ヒット・アルバム「レッド・オクトパス」が発売されました。(但し、日本では今ひとつ売れませんでした)このアルバムは、全米チャートにおいて3ヶ月の間に4度1位に輝くという離れ業を成し遂げ、200万枚以上の売上を記録しました。(当時としては驚異的な売上です)

<変化を続けたバンド>
 この後もバンドはメンバーの激しい入れ替えを繰り替えしました。マーティ・ベイリンもバンドに一時復帰しますが、再びソロとなり、1981年には「ハート悲しく」を大ヒットさせるなどポップス・シーンで活躍をしてゆきます。
 グレイス・スリックも、一時バンドを離れますが、1981年には復帰し、1985年にはよりポップ路線を追求するバンドとしての方向転換を図り、バンド名を「スターシップ」と改めます。
 こうして、彼らは60年代から、21世紀までアメリカのトップ・グループとしての地位を守り続けました。しかし、その音楽スタイルは、バンド名の変遷とともに変化し続けます。
 「ジェファーソン・エアプレイン」は、サイケデリック・ロックにおける再先鋭の存在であり、東洋のイメージやドラッグの影響を表看板とする反体制派の代表的バンドでした。さらに、彼らはサイケデリックなライティングや自前のコミューンを創設するなど、60年代文化のトレンド・リーダー的存在でもありました。
 「ジェファーソン・スターシップ」になると、彼らはコミューンの運営と企業経営を意識した音づくりを行うようになったと言えるでしょう。そして、それが「レッド・オクトパス」という大ヒットを生んだのです。そして、このヒットは70年代に訪れたメガ・ヒット・アルバム時代の先駆けともなりました。
 この流れをさらに押し進めたのが「スターシップ」というバンドだったということになります。

<ジェファーソンの魅力>
 しかし、こうした変化を続けながら、長い間彼らの人気が落ちなかったのは、やはりバンドの基本的な力によるところが大きいでしょう。グレイス・スリックを中心とする男女三人による素晴らしいヴァーカル・ハーモニーは、間違いなくロック随一のものだったし、パパ・ジョン・クリーチというワン・アンド・オンリーのバイオリニストをメンバーに加えたこともまた大きかった。しかし、何より彼らが変化を積極的に進めたことが、一番重要だったのかもしれません。時代に合わせてメンバーを変え、音楽スタイルを変えて行く、まるでエイリアンのような生き方、この実にアメリカ的と言える姿勢こそジェファーソンらしさの基本だったのかもしれません。彼らの音楽がアメリカ以外で今ひとつ受け入れられなかったのも、そのアメリカ的過ぎる姿勢のせいだったのかもしれません。
 もうひとつ、彼らの重要な魅力は、メンバーそれぞれの多彩な個性にあります。実際、バンドの全盛期とも言える60年代から70年代にかけての時期は、バンド自体の活動は当然のこと、それ以外の活動でも素晴らしい作品を数多く残しています。
 ホット・ツナの作品やプロジェクト「ジェファーソン・スターシップ」が発表した「造反の美学」「トルブース公爵と尼僧ローム」、それにパパ・ジョン・クリーチ、グレイス・スリックのソロ・アルバムなど、実に多彩な作品が生み出されています。

<ライト兄弟からNASAまで>
 考えてみると、彼らは「ライト兄弟の飛行機から、NASAのスペース・シャトル」というアメリカを象徴する宇宙空間への挑戦をそのままバンド名にしてしまったことになります。アポロ計画がいよいよ月に人を向かわせようとしていた1960年代末、宇宙計画は最もロマンにあふれた時代でした。そして、同じようにジェファーソンも未知のサウンドの発見に向かい最も魅力にあふれていた時代だったのではないでしょうか?

<締めのお言葉>
「銀河系におこった大文明の歴史をみるに、いずれも明白に次ぎの三段階を通過する傾向がある-すなわち、生存、疑問、世間慣れの三段階だ。”どうやって、なぜ、どこで”の三段階とも呼ばれている。例をあげよう。第一段階は”いかに喰うか?”という疑問で象徴される。第二段階は”なぜ食べるのか?”であり、第三段階は”どこで昼食をとろう?”である」
ダグラス・アダムス著「銀河ヒッチハイク・ガイド」より

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