
- ジェローム・ロビンス Jerome Robbins -
<同性愛イン・ハリウッド>
2009年、映画「ミルク」でショーン・ペンがアカデミー主演男優賞を受賞しました。その映画で彼が演じたハーベイ・ミルクという人物は、1970年代に同性愛者に対する差別と闘った英雄的な人物です。この授賞式には、本物の同性愛者で知られている「ロード・オブ・ザ・リング」のガンダルフや「X-メン」のマグニートウ役で知られるイアン・マッカランが恋人の男性と出席していました。彼は自ら同性愛者であることをカミングアウトしただけでなく、彼らのための権利獲得運動にも積極的に関わっているとのことです。ハリウッドでは、同性愛が認められるようになってきたことは確かなようです。しかし、かつてはハリウッドでも同性愛はけっして明かしてはならないタブーでした。それもほんのわずか前までは。「ミルク」の主人公、ハーヴェイ・ミルクが活躍した1970年代以前、同性愛者に対する差別は今では考えられないものだったようです。(その点日本は、意外に同性愛に寛大?かもしれません)
映画界には、昔から同性愛らしい人物はけっこういたようです。公になっている例では、映画音楽の巨匠コール・ポーターやレナード・バーンスタイン。俳優では、ロバート・デ・ニーロとハーヴェイ・カイテルの関係やアル・パチーノとジョン・カザールの関係も有名です。たとえ結婚はしていてもバイ・セクシャルの場合も多いようです。ジェームス・ディーンもそうですが、数え上げたらきりがないかもしれません。しかし、かつてそれをカミングアウトすることはそのまま映画界からの追放を意味しました。それは、事実であるとたとえ誰もが知っていてもなお、公表されてはならないことだったのです。
そのことは、かつてハリウッドで吹き荒れた「赤狩り」の嵐を思い起こさせるかもしれません。実際、それは多くの映画人を苦しめ、彼らを場合によっては自殺にまで追い込みました。「同性愛者への差別」と「赤狩り」、その両方の差別にによって苦しめられたアーティストも当然いたようです。そのひとりが、あの「ウエストサイド・ストーリー」の演出、振り付けを行った人物だったとは!先日、以前から読みたかった津野海太郎さんの「ジェローム・ロビンスが死んだ
- ミュージカルと赤狩り -」を読み改めて驚かされました。
そんなわけで、「ウエストサイド・ストーリー」というミュージカルの歴史を変えた作品の生みの親である振付師、演出家、俳優であるジェローム・ロビンスの人生に迫ってみたいと思います。
<天才ダンサー誕生>
ジェローム・ロビンスは、本名をジェローム・ウィルソン・ラビノウィッツといい、1918年10月11日にニューヨーク、ロワーイーストサイドに生まれています。両親はロシアからの移民でユダヤ系。貧しい移民のユダヤ人として、彼は生まれた時から差別される人生を歩みだしたといえます。ニュージャージー州のウォーホーケンという町に引っ越した彼の家はコルセット工場を営みながら、なんとか食べていくことができるようになりました。しかし、彼が11歳の時、アメリカはあの大恐慌に襲われてしまいます。当然、彼の家のコルセット工場も傾き、彼はそれまで通っていたニューヨーク大学を中退せざるをえなくなります。しかし、彼にとってそれは幸いなことでした、そのおかげで父親がけっして許してくれなかったダンスの道を歩みだすことができるようになったのですから。
もともと、彼の母方の一族にはダンサーやサーカスの芸人などが多く、彼の妹ソフィアは子供の頃から天才少女ダンサーとして活躍していました。その後、彼女は1928年にあの「裸足のイサドラ」として有名なイサドラ・ダンカンの直弟子イルマ・ダンカンが主催する少女舞踏団に参加。本格的にダンサーとして活躍するようになります。そんな姉に憧れて、ジェローム少年もダンスを習うようになりますが、経営者としての自分の後を継いで欲しいと考えていた彼の父親は、ダンサーになることを許してくれなかったのです。典型的なユダヤ人経営者の彼の父にとって、金にもならないダンサーなど言語道断だったのです。
しかし、大恐慌はそんな彼に、自由に人生を歩むチャンスをもたらしてくれたのでした。
<連邦演劇プロジェクト>
1935年、彼はダンスセンターのオーディションに合格。いよいよダンサーとしての道を歩み始めることになります。ところが大不況真っ只中の当時、ダンサーとして食べてゆくことは大変なことでした。そんな食えないアーティストたちを救うプロジェクトがなければ、彼はもしかするとダンサーになれず、振付師にも当然ならずに終わったかもしれません。
それがルーズヴェルト大統領によるニューディール政策の中で始まったWPA(雇用促進局)による「連邦演劇プロジェクト」(FTP)です。そこで企画された大人向けサマー・キャンプのための付属劇場「タミメント・プレイハウス」にダンサー、振付師として彼は参加。いよいよダンスの世界でプロとして食べて行くことになりました。この企画のおかげで彼以外にも多くのアーティストたちが救われ、アーティストとしての人生を歩むことが可能になりました。
演劇界ではエリア・カザンやヴィンセント・ミネリ、絵画の世界ではジャクソン・ポロックやデ・クーニング、その他にもミュージシャン、彫刻家、文学者、歴史家など、多くのジャンルに関わるアーティスト、学者たちがルーズヴェルトの政策のおかげで救われました。そのやり方は、限りなく社会主義国の芸術活動に近いものでしたが、そのおかげでアメリカは独自の芸術文化をその後、発展させることができたのかもしれません。(例えば、芸術におけるポップアートや音楽界におけるブルース・リバイバルなど、・・・)
しかし、この時の政策によってチャンスをつかみ成功をつかんだアーティストたちは、その後「赤狩り」の時代になると右派の政治家たちに共産主義者として疑われ、追及されることになります。ジェローム・ロビンスもまたそうした追求される側に立たされることになります。
<アメリカン・バレエ・シアター>
1939年、21歳の時、彼は前述のキャンプ・タミメントでスペイン内戦を描いたダンス・パフォーマンス「王党派の死」を企画、振り付けそして出演を果たします。スペイン内戦には、当時アメリカからも多くの志願兵が参加。フランコ率いるファシスト政権と闘うために共産党系のアメリカ人が作った義勇部隊、リンカーン大隊は特に有名ですが、彼の姉ソニアはそのリンカーン大隊のメンバーと結婚していました。したがって、この頃すでに彼は共産党との関わりをもっていたのでしょう。
1940年、彼は創立されたばかりの「バレエ・シアター」(のちの「アメリカン・バレエ・シアター」)に参加します。俳優組合にも参加した彼は、ミュージカルにダンサーとして出演するようになりダンサーそしての人気を獲得し始めます。
1943年、彼は、この年、アメリカ共産党に入党。このことが後に彼の運命を大きく狂わせることになります。
1944年、26歳の時、彼は自らの企画、振り付けによるダンス・パフォーマンス「ファンシー・フリー」をメトロポリタン歌劇場で上演。大成功をおさめ、一躍その名を知られることになりました。台詞なしのこのダンス・ドラマは、アメリカ海軍の軍艦に乗る水兵が24時間の休暇をもらいニューヨークの街で短い恋の物語を繰り広げるというストーリーです。音楽を担当したのは、彼と同じ年でやはりまだ無名に近かったレナード・バーンスタインでした。
エンターテイメントと芸術の要素を取り入れた「ファンシー・フリー」は予想外の大ヒットとなり、その年すぐにミュージカル化されブロードウェイで上演されることになりました。しかし、当時ブロードウェイは今よりも娯楽的な作品ばかりが上演される場所で、芸術的な作品は求められていませんでした。それだけに、彼とスタッフたちは「ファンシー・フリー」のミュージカル版「踊る大紐育」を新たなミュージカル・スタイルの創造ととらえ、高い芸術性とエンターテイメントとしての娯楽性を併せ持つ作品にしようと考えていました。後に彼はこの時の心境をこう語っています。
「劇作家や小説家やシナリオ・ライターにおとらず、振付師もまた、バレエというものを自分自身やわれわれの世界について核心的なことをいう手段と考えている。それはあたりまえのことだ。観客は観客で、演劇や小説や映画にもとめるのと同じだけのものをバレエにもとめて劇場にやってくる。バレエと演劇がたがいにもっと近づいていけば、ミュージカルにかぎらず、いきいきとしたアイデアにみちた劇場作品がドラマとダンスと音楽をそれぞれの利益のために結びつけるという、胸おどる可能性がひらけるに違いない」
こうした革新的な作品作りは、彼が担当した振り付けだけにいえることではありません。このミュージカルには4人の黒人ダンサーと日系人の女性ダンサーも出演しており、ブロードウェイのミュージカルとしては初といってよい人種混合の作品になっていました。この作品における革新性は、この後、1949年に公開されることになるジーン・ケリー主演の映画版「踊る紐育」でも発揮されています。
当時、ミュージカル映画はどの作品もスタジオにつくられたセットで撮影されていました。しかし、ニューヨークの街を舞台としたこの作品は、街自体が重要な登場人物でもあるだけに撮影を実際の街中で行うというロケーション撮影が初めて行われたのです。ただし、映画会社はそうした作品作りは従来の観客に受け入れられないと考えたため、こく一部のみしか実現しませんでした。
この時、実現しなかったミュージカル映画を街で撮るという試みは、1961年「ウエストサイド・ストーリー」映画化の際、ついに果たされ、大ヒットを記録することになります。ただし、ミュージカルを屋外で撮ることで生まれた傑作「ウエストサイド・ストーリー」の誕生によって、ミュージカル映画はひとつの頂点をきわめてしまい、ひとつの時代を終えてしまうことになるのですが・・・。
<赤狩りと同性愛差別>
1949年、彼はニューヨーク・シティ・バレーの副芸術監督となり、この後ダンサーとしてではなく振付師としての仕事に専念するようになります。しかし、いよいよ新進気鋭の振付師として売り出そうとした矢先、反共雑誌のひとつ「カウンター・アタック」がジェローム・ロビンスは赤である、という記事を掲載します。そのことを知った有名な芸能ライターであり、テレビの大人気番組「エド・サリヴァン・ショー」の司会者でもあるエド・サリヴァンは番組への出演をキャンセルしただけでなく、彼に公に公表し謝罪するように脅迫します。(ニクソン以上の悪人面のエド・サリヴァンは心の中までその顔同様に悪人だったようです。人は見かけによることも確かにあるのです)
1951年「赤狩り」の恐怖におびえながらも、彼はニューヨーク・シティ・バレーでレナード・バーンスタインの「不安の時代」、ストラビンスキーの「檻」などの振り付けを担当。さらにミュージカル界最高の人気コンビ、ロジャース&ハマースタイン2世の作品「王様と私」の振り付けも担当し、いよいよ彼はトップクラスの振付師としてその地位を確立しました。
しかし、その間にも「赤狩り」による映画界の犠牲者は少しづつ増えており、彼もいつ召還されるかわからないという状況でフロイト派の精神医の助言によってかろうじて精神のバランスをとる日々が続いていました。もし、召還された場合、自分はどうしたらよいのか?すでに共産党員ではなかった彼は、共産主義を否定することを躊躇する必要はありませんでした。しかし、問題は委員会が聴聞会で質問してくる仲間の共産党員の名を明かすべきかどうかでした。委員会は、どんなに召還者が共産主義者であることを否定したとしても、仲間の名前を明かせない者は信用できないとしていたのです。そのため、多くの映画人は自ら委員会に協力することで、その後映画界を追われることを逃れる道を選びました。(アドルフ・マンジュー、ロバート・テイラー、ゲイリー・クーパー、ロナルド・レーガン、スターリング・ヘイドン、ホセ・ファーラー、エドワード・G・ロビンソン、リー・J・コッブ、エリア・カザンなど・・・)
ただし、彼の場合、共産主義者ではないことを証明するだけでは済まされない、もうひとつの秘密、同性愛の問題がありました。
芸術家の世界では同性愛は昔からそう珍しい存在ではありませんでした。しかし、同性愛はあらゆる宗教において忌むべき存在として昔から否定されていたため、社会的にはけっして許されない存在とされてきた歴史があります。それは黒人であること、ユダヤ人であること、障害者であること、共産主義者であることなど数々存在してきた被差別者の中でも最上位に位置する存在かもしれませんでした。なぜなら、それらの差別されてきた人々の中でも、同性愛者であることは、さらなる差別の対象となっていたからです。
したがって、芸能界において同性愛であること自体は許容されることでしたが、それが外に世界にもれることは絶対に許されないことでした。そのため、未だに映画界や音楽界においては、カミングアウトしたごくごく一部のアーティストだけが同性愛者として知られているもおの、その多くは噂の範囲でしかわからないままです。それを公言することは、1970年代以前は、不可能に近いことだったのです。
(コール・ポーターがそうだったように当時のアーティストの中には、同性愛者であることについて同意の上で結婚する人もいました。ロビンスも何度か結婚しようとしますが結局うまくゆきませんでした。その点では理解ある女性に恵まれたコール・ポーターは幸福だったといえるでしょう)
当時、彼が同性愛者であることは、業界内ではかなり知られており、モンゴメリー・クリフトをはじめ何人かの俳優たちと恋愛関係にあったことも後に明らかになります。当然、彼を追及する人々は、そのことをネタに仲間の名を明かすように迫ってきたようです。彼にとっては、共産主義者であると書かれることよりも、同性愛者であることを暴露されることのほうが芸能人としては致命的なことでした。こうして、彼は委員会の要求に答えるしかない立場に追い込まれていったのです。
1953年5月5日、非米活動委員会に召還された彼は、ニューヨーク連邦裁判所の公聴会で8人の知人の名前を明かしてしまいました。こうして「踏み絵」を踏んだことで、彼は委員会からの追求を逃れ、その後、芸能界から追放されずにすんだのです。
<その後の日々>
1957年、彼の最高傑作とも言われるミュージカル「ウエストサイド・ストーリー」が初演を迎え、大成功をおさめます。その後、彼は1961年には「ウエストサイド・ストーリー」の映画版でも振り付けを担当。アカデミー賞を獲得します。1964年には「ファニー・ガール」の演出、振り付けを担当。「屋根の上のバイオリン弾き」ではトニー賞の演出賞、振り付け賞を受賞。その後も、ミュージカルとバレエの世界を中心に活躍しますが、彼の心の中には常に自分の過去の行ないに対する後悔の念が存在していました。1991年には、そんな自分の思いを自伝劇「パッパ・ピース」として上演しようと考えましたが、結局それも完成させることができませんでした。追い込まれた自分に非はないと言いたかったものの、責任がないとは言い切れない。そんな複雑な思いが彼に言い訳をさせなかったのかもしれません。
1998年7月29日、彼は80歳で静かにこの世を去ってゆきました。
<21世紀にまで続く差別の構図>
ユダヤ人であることで差別され、共産主義者であることで差別され、同性愛者であることで差別されることは、21世紀の今、かつてほどの重荷にはならないかもしれません。しかし、現在でもエイズ感染者であることで差別され、黒人であることで差別されるなど、相変わらず差別され続けている人が地球上に数多く存在します。映画「ミルク」でショーン・ペンがアカデミー主演男優賞を受賞した時も、会場の外ではゲイの人々に対する批難のデモが行なわれていました。未だにアメリカでは同性愛はタブーなのです。
同時多発テロ事件以後、世界は20世紀とは異なる対立構造が強まり、そこから新たな差別が生まれつつあります。あの名作「ウエストサイド・ストーリー」で描かれた人種の坩堝、ニューヨークの高層ビルが同時多発テロ事件によって破壊されたのは、かつても今もそこが人種的経済的な対立を象徴する場所だからかもしれません。この映画の音楽を担当したレナード・バーンスタインも実は元共産主義者であり、ユダヤ人で同性愛というロビンスと同じ条件にありました。しあkし、彼はクラシック畑のアーティストで世間的な注目もまだ浴びていなかったこともあり、「赤狩り」のターゲットからお目こぼしされたようです。異なる人種の対立を描いた「ウエストサイド・ストーリー」は、差別され密告者と指差されて苦しみ続けた彼の心の苦しみから生まれた作品だったともいえそうです。
アカデミー賞9部門受賞の歴史的傑作を生み出した人々は、監督のロバート・ワイズも含め、職人的なエンターテイメントの作り手ではなく、それぞれが語りきれない苦悩を抱えるアーティストだったと考えれば、あの息を呑むような傑作が誕生したことも納得できるのではないでしょうか。名作には名作を生み出すに値する努力や苦悩が必ずあるものなのです。
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