ロック界の火の玉小僧は何度死ぬ?


- ジェリー・リー・ルイス Jerry Lee Lewis -
<Mr.ロックンロール>
 1955年に始まったロックンロールの世界的ブームは、実はわずか数年で終りを迎えています。その理由は、いくつかありますが、ブームの立役者あったミュージシャンたちの多くが表舞台から消えてしまった影響は大きかったと言われます。チャック・ベリーは逮捕され、リトル・リチャードはゴスペルに転向し、エルヴィスは軍隊に入り、それぞれ表舞台から去りました。そして、ジェリー・リー・ルイスもまたスキャンダルによって、トップの座を失ったミュージシャンの一人です。
 1970年代のセックス・ピストルズクラッシュによるパンクロックは、ロックも持つ破壊衝動をそのまま音楽として表現したことで多くの若者たちの心をつかみました。それ以前には、ザ・フーのキース・ムーンは、ドラムセットを破壊して話題になり、ジミ・ヘンドリックスはギターに火をつけました。では、そうしたロックにおける「破壊衝動」の原点は、誰なのか?
 1950年代にそんな破壊衝動を演奏だけでなく生き様として表現したミュージシャンとして、「Killer」と綽名をつけられたのが、白人のボーカル&ピアニスト、ジェリー・リー・ルイスです。エルヴィス・プレスリーは、腰の振り方が犯罪的とされたでしたが、ジェリー・リー・ルイスに比べればかわいいもの。演奏中に自身が演奏するピアノの椅子を蹴り、ピアノの上に乗って踊るなどの行為は彼が始めたと言われます。ついにはピアノに火をつけたとの伝説まで生まれました。(本人は否定しています)
 プライベートはさらに問題がありました。生涯に7回結婚し、その間に何度も重婚、さらには未成年者との結婚があり、大きなスキャンダルとなりました。こうした事件により、彼は一度は音楽業界から消えましたが、それで終わらなかったのも彼の凄さです。
 薬物とアルコール依存により身体を壊し、2度も死の淵を彷徨いましたが、そこから帰還しています。「火の玉ロック」と呼ばれた彼の音楽のパワーが、彼の命を救ったのかもしれません。ロックの原点となったジェリー・リー・ルイスとは何者だったのでしょうか?

<生い立ち>
 ジェリー・リー・ルイス Jerry Lee Lewis は、1935年9月29日、アメリカ南部ルイジアナ州フェリディに生まれています。南部アメリカの豊かな音楽環境で育った彼は、早くから音楽的才能を発揮。その才能に賭けようと、両親はオンボロの家を担保にして借りたお金でピアノを購入。それをトラックの荷台に乗せて、父と息子は近隣で開催されるコンサートに出かけては、そこで演奏を披露。早くからステージでの演奏を始めていました。
 さらに音楽の専門的知識を身につけるため、彼はテキサス州ウォクサハチーにあるキリスト教原理主義のアセンブリ―・オブ・ゴッド専門学校に入学します。ところが、彼は学校で神聖なゴスペル曲をブギブギ調に変えて演奏するなどの問題を起こし、退学させられてしまいます。しかし、彼はそのまま音楽活動を開始し、プロのミュージシャンを目指します。

<波乱の人生がスタート>
 1952年、16歳で早くも牧師の娘と結婚。さらに翌年には2度目の結婚をしますが、最初の奥さんとは別れていなかったため、重婚だったことが後に明らかになります。こうした女性問題は、アメリカ各地を旅してまわるミュージシャンたちには、よく起る問題ではありました。しかし、彼の場合、こうした問題が生涯に渡って続くことになります。
 そんな生き方と並行しつつ、彼は自分の音楽スタイルを確立して行きます。そして、その発表の場として、エルヴィス・プレスリーが所属するサン・レコードを選択。父親と二人でメンフィスに向かうと、スタジオの目の前でキャンプ生活をしながら、サム・フィリップスに録音のチャンスをもらおうと粘りました。
 1956年、幸い彼の曲はサム・フィリップスに気に入られ、デビュー曲となった「Whole Lottta Shakin' Going on」と「Crazy Arms」が録音・発売されます。ところが、この曲は発売されてすぐに歌詞が猥褻であるとして、発売中止に追い込まれてしまいました。時代はまだロックンロールに厳しかったのです。
 当時、サン・レコードには、ロックン・ロール、カントリーの大物が集まっていて、12月には彼らエルヴィス・プレスリー、カール・パーキンス、ジョニー・キャッシュ、そしてジェリーがスタジオでのセッションが実現。この録音は、発売される予定でしたが、最後になってカントリー界の大御所ジョニー・キャッシュが発売を拒否し、幻の企画になりました。同じようにプライベートでの問題が多かったジョニー・キャッシュとの関係は、映画「ウォーク・ザ・ライン 君につづく道」に描かれています。

<ロックンロールのブレイクと共に>
 1957年、ロックンロールのブームは大人たちが止められないほど勢いを増しました。発売中止に追い込まれていた「Whole Lotta Shakin' Going on」でしたが、この年の7月に彼はこの曲を人気テレビ番組「スティーブ・アレン・ショー」で歌うチャンスに恵まれます。するとこの曲はあっという間にチャートを駆けあがり、全米3位となり、売り上げ枚数は600万枚に達しました。その後、1958年の「火の玉ロック」は全米2位となり500万枚。同年3月発売の「ブレスレス」も7位まで上昇するヒットになりました。こうして時代の寵児となった彼ですが、その頂点の時期は実に短いものでした。

<スキャンダル発覚>
 彼が再婚した妻マイラの年齢が13歳であることがマスコミによって暴露され、彼への風向きが変わり始めます。アメリカ中の放送局が彼の曲を放送禁止にしたため、彼の曲のプロモーション活動が困難になります。最後まで彼を支持していた人気DJのアラン・フリードまでもが「ペイオラ・スキャンダル」により、放送界を追放されたため、いよいよ彼の音楽活動は困難になりました。こうして、彼はロックの歴史から一気に消えてゆくことになりましたが、このままでは終わらなかったのが、彼の凄さでした。

<カントリー界への転身>
 1968年、とっくに終わっていたロックンロールでの栄光を捨てた彼は、カントリー音楽の世界で再起を目指します。そして、「Another Place, Another Time」「To Make of Sweeter for You」「Middle Age Crazy」などの曲を次々とヒットさせました。
 ただし、この間も彼は数人の妻から訴えられ、アルコールと薬物の依存に苦しみ、何度も暴行事件や脅迫の罪で逮捕されています。そうした影響もあったのでしょう。1981年彼は潰瘍が悪化して大量の出血により、死の淵を彷徨うことになりました。しかし、彼はそこから見事に復活し、4か月後にはツアーに復帰しています。
 1971年に離婚したかつての幼な妻マイラが、この頃彼の伝記「火の玉ロック」を発表し、元夫を痛烈に批判。ただし、そうしたスキャンダルにより、彼の知名度は復活し、彼の伝説が再び世に知られることになります。
 1983年、彼の5番目の妻が謎の死を遂げます。マスコミは当然のごとく彼が妻の死に関わっているのではないか?とスキャンダラスに書きたてました。さらに彼は国税局から脱税の罪で訴えられます。(結局、彼は脱税も無罪となり、妻の死についても法的には問題になりませんでした)
 1985年、再び彼は潰瘍が悪化し入院。しかし、ここでも復活を果たします。
 1986年、彼はこの年に設立された「ロックの殿堂」に最初の10名と共に殿堂入り。「ロックの聖人」に選ばれました。
 トラブルとスキャンダルに繰り返し襲われながら、しぶとく生き続けた彼は、この後も21世紀まで活躍。ロックン・ロール・レジェンドの最後の生き残りとなりました。
「憎まれっ子世に憚る」とは良く言ったものです。

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