「褐色の弾丸」の栄光と悲劇


- ジェシー・オーエンス Jesse Owens -
<伝説的黒人ランナー>
 アメリカのスポーツ史と黒人選手の活躍の歴史は切っても切れない関係にあり、それぞれの競技において歴史を変えた伝説的英雄がいます。野球界のジャッキー・ロビンソン、ボクシング界のモハメド・アリは、その活躍の偉大さと同時に差別との闘いという意味で、他の選手以上に語られる存在ですが、二人に匹敵する存在として伝説的ランナーであり「褐色の弾丸」ことジェシー・オーエンスも忘れるわけにはゆきません。
 まだアメリカでは黒人への差別が当たり前だった1930年代に現れたジェシー・オーエンスはアメリカで最初に英雄となった黒人アスリートです。そして、カール・ルイスの登場までは、アメリカの陸上界最大の英雄といえば間違いなくジェシー・オーエンスでした。もちろん彼もまたアメリカでは様々な差別を受けましたが、それでもオリンピックにおいて彼には活躍のチャンスが与えられました。それが、ナチス・ドイツのプロパガンダの場として有名なベルリン・オリンピックだったのには、それなりの理由がありました。そんな時代背景抜きには、スポーツについて語れない時代だったともいえます。そんな激動の時代でも、その実力を発揮できた彼は、誰よりも速く走る能力だけでなく、差別にも緊張感にも負けない精神力の持ち主でもありました。
 ジェシー・オーエンスとはいかなる人物だったのか?そこから話を始めたいと思います。

<差別の中を走る>
 ジェシー・オーエンスことジェームズ・クリーヴランド・オーエンス James Cleveland "Jesse" Owensは、1913年9月12日、アメリカ南部アラバマ州オークビルの貧しい黒人家庭に生まれました。綿花の農園で小作人として働く父親のもと、10人兄弟の末っ子だったため、子供のころから農園で仕事を手伝っていました。兄たちに置いて行かれないようにと、彼は人一倍走るのが早くなったようです。
 20世紀の初め、産業構造の変化と共に、アメリカでは黒人労働者たちの多くが、より給料が高い工場での働き口を求めて、北部の都市部へと移住し始めます。(「アフロ・アメリカン北へ」参照)彼の父親も家族と共に北部の街、クリーブランドへ引っ越します。幸いなことに、彼は転校した中学で陸上部のコーチをしていたチャールズ・ライリーという人物と出会うことで運命の道を切り開くことになりました。授業中に行われた徒競走でジェシーが出したタイムに衝撃を受けたライリーは、すぐに彼を陸上部に勧誘します。しかし、彼は大家族の家計を支えるために早く帰って働かなければなりませんでした。そのため放課後の部活には参加できないと誘いを断ります。すると、ライリーは、彼のために早朝練習の時間を設け、自分がその時に直接教えると提案します。(それなら夕方はバイトが可能)そうしたコーチの配慮によって、彼は働きながら学びながら陸上ができる環境を与えられることになりました。
 そんなある日、彼は再び人生を変える人物と出会います。彼が通う中学に、アントワープ・オリンピック(1920年)100mで優勝した白人ランナー、チャールズ・パドックがやって来たのです。そして、彼は学内でも有名だったランナーのオーエンスに、「君は素晴らしい素質を持っているそうじゃないか。これからも、しっかりとトレーニングを積んで努力するんだ。君に期待しているよ」と声をかけてくれました。黒人の彼を差別することなく激励してくれた偉大な選手から言葉に彼は勇気をもらい決意を新たにしました。
 高校に進学した彼はあらゆる大会で敵なしの強さを発揮。1933年の全米高校競技会の100ヤード(約90m)では、当時の世界記録となる9秒4で優勝。続く全米選手権では、彼は走り幅跳びで7m48cmの記録で優勝します。
 第一次世界大戦後、アメリカでは黒人にも白人が通う大学に入学する権利が与えられることになりました。もちろん、大学が合格を認めるかどうかは、その大学の方針しだいだったので、そう簡単に黒人が入学できるようになったわけではありませんでした。残念ながら当時、多くの大学は、黒人の入学に消極的もしくは反対でした。そんな中、彼は進学先として選んだのは、オハイオ州立大学でした。彼がその大学を選んだのは、陸上競技部にラリー・スナイダーという優秀なコーチがいたからでした。北部の大学だったとはいえ、当時、彼は学生食堂にも入れず、住む場所も差別され、シャワーも白人選手と一緒に入ることは許されませんでした。たとえ実力的に高い評価を得ていたとしても、そこまで屈辱的な扱いを受けては、まともに練習できるのが不思議なくらいです。
 そのうえ、差別を覚悟して入学した彼の行動に対し、同胞である黒人側の新聞であるシカゴ・ディフェンダーは、「なぜ差別を専門にしている機関の宣伝に手を貸すのか」と批判的記事を書いたと言います。あえて厳しい選択をした彼は、そのおかげでより強い精神の持ち主となりました。こうして、彼は全米選手権の走り幅跳びで世界記録を更新。その勢いで彼は1936年のベルリン・オリンピックに出場します。

<ベルリンにて>
 ベルリンでは、世界各国の選手たちを迎える前に、国際世論を意識して反ユダヤの看板を一時的に撤去されましたが、ナチスの差別はユダヤ人だけでなく黒人など有色人種全体に対しても共通していました。特に黒人に対しては、ヒトラーはサルと人間の中間の生物とみなしていました。
 ただし、ドイツには黒人奴隷が存在しなかったこともあり、一般市民に差別意識はなく、逆にオーエンスを含めた17人の黒人選手たちはベルリンで大歓迎されることになりました。ドイツ国内のマスコミも、政府からの指示により黒人選手への差別的な記事はひかえられえいました。彼らにとって、ベルリンでの日々はアメリカ国内での差別意識を忘れさせてくれる幸福な日々となりました。(これは、多くの黒人ジャズ・ミュージシャンたちが同じように感じていたことでもあります)彼らは思いの他気分よく競技にのぞむことができました。
 100mの決勝で彼は10秒3の世界タイ記録を出して優勝。10万にの大観衆からの拍手は彼にとって生まれて初めての体験となりました。表彰台に上がったオーエンスはヒトラーに一礼。ヒトラーはそれに対して敬礼で答えましたが、その時、ヒトラーの心中は屈辱感で切れかかっていたようです。
 その後、オーエンスは200mの予選を通過し、その足で走り幅跳びの予選に向かいました。ところが、彼はあわてていたために本番の跳躍が始まっていたことに気づかず、一回目の跳躍を練習と勘違いして跳んでしまいます。自分の勘違いに気づくとさらに焦った彼は、2回目の跳躍をファウルにしてしまいます。残された跳躍は一回だけとなり、一気に彼は追い込まれてしまいました。この時、彼のところにやって来たのはドイツ代表のライバル、ルッツ・ロングでした。彼は片言の英語と身振りでオーエンスにこう言いました。
「焦らなくても、君の実力なら踏切板なんて気にせず跳んでも予選ラインはこえられるよ・・・」
 この言葉にリラックスさせられたオーエンスは、無事に3回目の跳躍で予選ラインを越えることができ、決勝では完全に勢いを取り戻し、人類が未だ越えたことがなかった8mの壁を越える8m6cmで優勝します。この記録はこの後、24年間誰にも越えられることがありませんでした。
 200m走でも彼はオリンピック記録の20秒7で優勝し、彼はこの大会を終えるはずでした。ところが、ここで彼に意外な形でもうひとつのメダルがもたらされることになります。もともと彼が走る予定ではなかった400mリレーに急遽メンバー入りすることになったのです。当初、走る予定だったストーラーとグリックマンの二人がメンバーからはずされたのです。なぜ、二人がはずされたのか?彼ら二人はユダヤ人で、アメリカ政府がここでユダヤ人二人を走らせることにより、ドイツとの関係を悪化させることを恐れたのです。白人を黒人に変えて まで、ドイツに気を使ったのは、なぜだったのでしょう?
 アメリカでは黒人への差別が当たり前だったように、かつてはユダヤ人への差別が当たり前でした。さらにフォードの社長ヘンリー・フォードのように経済界には、反ユダヤのドイツ系移民も多く、名目上勝利優先のメンバー変更と言えば、逆にドイツや国内のドイツ系移民に良い印象を与えられると判断したのでしょう。
 こうして、オーエンスは400mリレーにも出場し、見事に優勝。4つめの金メダルを獲得することになりました。ヒトラーの思惑に反し、アメリカからやって来た黒人ランナーがベルリン大会における最大の英雄となりました。

<悲劇の英雄>
 ところが、彼の偉業に対しアメリカ本国からの対応は冷たいものでした。当時の大統領フランクリン・ルーズベルトは南部の保守派に気を使いオーエンスへの祝電を打たず、彼をホワイトハウスに招待することもしなかったのです。クイーンメリー号に乗りアメリカに帰国した彼は、チームメイトたちと共にマンハッタンでの優勝パレードに参加し、盛大な歓迎を受けました。記念パーティーが開かれたニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルで、彼と妻が会場に行くために乗せられたのは、荷物を運搬するためのエレベーターだったといいます。
 それどころか、帰国を前にしたスウェーデンでの競技大会に疲労を理由に参加しなかったことから、彼は全米アマチュア競技連盟からアマチュア資格を剥奪されてしまいます。そのため、彼は帰国後、陸上競技会に出場できなくなります。食べて行くため、彼はキューバのハバナで馬と競争したり、クリーニング会社を設立してその経営に失敗したり、大学に通っては成績不振で中退したり、自動車販売店の営業マンになったり、スポーツ店を経営したりしますが、どれも上手く行きませんでした。
 1950年代に入り、人種差別への批判が高まることで、やっと彼のオリンピックでの活躍が再評価されるようになります。そのおかげで、記録映画への出演や講演、コーチとして仕事の依頼が来るようになります。1974年に全米陸上競技の殿堂入りを果たした彼は、1976年にはオリンピックから40年遅れてフォード大統領から大統領自由勲章を授与されました。
 しかし、やっと栄光をつかんで4年後、1980年3月31日、彼は66歳でこの世を去りました。彼にとって、母国での栄光の日々はあまりにも短すぎました。

 2016年、彼のベルリン・オリンピックでの活躍を再現した映画「栄光のランナー 1936ベルリン」が公開されました。

映画「栄光のランナー/1936ベルリン」 2016年
(監)(製)スティーブ・ホプキンス
(脚)ジョー・シュラップネル、アナ・ウォーターハウス
(撮)ピーター・レヴィ
(衣)マリオ・タヴィニョン
(編)ジョン・スミス
(音)レイチェル・ポートマン
(出)ステファン・ジェームズ、ジェイソン・サダイキス、ジェレミー・アイアンズ(アヴェリー・ブランデージ)、ウィリアム・ハート
カリス・ファンハウテン(レニ・リーフェンシュタール)、シャニース・バントン
 オーエンスについての有名なエピソードを網羅して作り上げた伝記映画です。リアリズムに徹し、史実にのっとったストーリーに関心するものの、それ以上の驚きがないもの残念。なんといっても、「走る」シーンに魅力がないのが残念です。そう考えると、この映画のさらに過去「パリ・オリンピック」での陸上競技を描いた名作「炎のランナー」の美しさ、力強さは素晴らしかった。

<参考>
「近代オリンピックのヒーローとヒロイン」 2016年
(著)池井優
慶應義塾大学出版局

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