- J・G・バラード James Graham Ballard -

<最初で最後の自伝>
 2006年6月、前立腺癌が明らかになり、余命が長くないことを知ったJ・G・バラードは、自伝の執筆を始めました。「太陽の帝国」とその続編「女たちのやさしさ」の二作により、フィクションとはいえ自らの人生をふり返って作品化していた彼にとって、自らの死を前に与えられた時間は、最初で最後の人生をふり返るチャンスとなり、それがラスト・エッセイ集「人生の奇跡」という作品を生むことになりました。
 前述の二作によって、それまでの彼の作品に描かれていた終末世界の原風景が戦時中、戦後の上海の街だったことはSFファンを驚かせました。しかし、その自伝では、その原風景のさらなる原点となった彼の記憶(内宇宙)が明らかにされています。
 シュルレアリスム的な発想によって生み出されたとされていた数々の名作の原点が、世界大戦の真っ只中にぽっかりと生まれた異世界「上海」だった理由がやっと理解できた気がします。作家はその広大な内宇宙をどこまでも掘り起こし、描き出すことができるか?そのためには様々な方法があるでしょう。
 より多くの小説を読む。これは当たり前のことです。
 より多くの文章を書き、技術をみがく。
 より多くのことを学ぶこと、これも当然必要なこと。
 しかし、もし人々の想像の枠を超えた世界を体験することができたら、それは作家としてたいへんなアドバンテージになるでしょう。もちろん、そのためにはその異世界から無事に生きて帰らなければなりません。そして、そこでの体験をしっかりと心の中に焼き付ける感受性が必要とされるでしょう。幸いにして、彼は無事に戦争を生き抜きました。そして、怖いもの知らずの少年だったがゆえに多くのことを見て、聞いて、体感し心も刻み込むことができました。
 それでは彼の作品の秘密に、その生い立ちから迫ってみたいと思います。

<上海に生まれて>
 ジェイムス・グラハム・バラード James Graham Ballard は、1930年11月15日中国の上海にあった上海国際共同租界と呼ばれる特殊な地域に生まれました。そこは上海に住む多くの外国人たちが住む地域でまわりの中国人が住む世界とはまったく異なる街でした。
「・・・上海は、今もそうであるように、当時世界最大の大都市であり、90パーセントが中国的で100パーセントアメリカナイズされていた。奇怪な広告ディスプレイ - 映画「ノートルダムのせむし男」のプレミア会場前に中国人のせむし仗兵が50人整列した光景は今でも記憶に残っている - は上海の日常だったが、わたしはそもそも上海に日常的現実など存在しないのではないか、などと思ったものだった。
 あらゆる言語の新聞と多数のラジオ局を抱えた上海は時代にはるか先んじたメディアとしであり、東洋のパリ、あるいは『世界でいちばん邪悪な都市』だった。・・・」


 そして、この上海の街こそ、後に彼が生み出す未来世界、終末世界の原点となるのです。

「・・・・さまざまな意味で、そこは舞台のセットのようだったが、あのときにはそれが現実だった。秋がフィクションの大きな部分は、あの上海を記憶以外の方法で呼び起こそうとする試みなのかもしれない。」

 上海という街の特殊性、そしてそこで暮らす閉鎖的な英国人社会の特殊性が彼の中国での少年時代を特殊なものにしてゆきました。その街で生きる英国人がすでに消滅している大英帝国の栄光を背負ったまま、まるでアフリカ、マダガスカル沖のシーラカンスのように生き延びていたというのが、まず意外でした。

「・・・引退を口にする時、行く先はコッツウォルズではなく安い使用人をふんだんに使える南アフリカだた。おそらく自分たちでも理解はしていなかったのだろうが、彼らは上海のせいで国際化していたのであり、彼らが思うノエル・カワードの『大英帝国行進曲』的英国はノスタルジックな記憶の中にしかないものだった。
 おそらくこのことが、日本との戦争が近づいているのがあきらかだったにもかかわらず、多くの英国人が上海に残った理由でもある。・・・・・」


 驚くべきことに、彼も含めた上海の英国人の多くは本場の中華料理を食べたことがなかったといいます。

「危険きわまりない自転車遠征を繰り替えしていたにもかかわらず、わたしはほぼ完璧に中国人生活から隔離されていた。わたしは上海で十五年暮らしたが、中国語は一言も覚えられなかった。父は多数の中国人労働者を使っており、中国語のレッスンを受けていたことさえあったが、使用人に中国語で話しかけたことは一度もなかった。中華料理も、自宅でも、両親やその友人たちに連れられていった多くのホテルいやレストランでも、一度も食べなかった。・・・・・」
(ということは、インドでも英国人はカレーを食べていなかったのか?)

 しかし、その特殊性は中国の文化からの隔離だけによるものではありませんでした。その世界はあらゆる犯罪や娯楽、そして薬物やSEXが反乱する危険に満ちたワンダーランドでもあったからです。それは非日常が日常化した世界でした。

「上海では、ほとんどの人にとって頭の中にしか存在しない驚異がまわりに満ちあふれていた。今にして思えば、少年時代のわたしは、もっぱら空想の山の中から現実を見つけだそうとしていた。ある意味では、戦後英国に戻ってきてからも、現実的すぎる世界に放り込まれたわたしはそれと同じことを続けたのだといえる。わたしは作家として、奇妙なフィクションの世界のように英国をとらえ、そこから真実を引き出すことこそが自分の仕事だと考えた。・・・」

 幸いなことに、彼はそんな危険な世界に生きていたものの企業経営者として活躍する上流階級英国人の子息として守られ、何不自由なく生きることができました。しかし、彼の場合、そうした自分のおかれた立場など理解することもなく好奇心の赴くまま、自転車で街中を駆け回り冒険を繰り広げていました。そして、そんな彼の楽しい少年時代に終わりを告げる出来事が起こります。太平洋戦争が始まると、日本軍は上海を占領。そのため、上海に住む外国人の多くが収容所に入れられることになったのです。
 しかし、彼らにとって幸いなことに、上海の街には世界中から外国人がやってきていたこともあり日本軍は国際法を遵守せざるをえませんでした。そのため、他の地域に比べるとそこに住む人々への扱いは、緩やかなものだったようです。そのおかげで、彼は1943年から1945年までの間、上海市内に作られた龍華収容所で2千人の英国人や外国人とともに、命の危険に出会わずに過ごすことになりました。

<龍華収容所にて>
 収容所での生活は、彼にもうひとつの新しい世界を体験させてくらました。そこで彼は家族と初めて生活をともにすることになり、様々な人々とも関わることになり、それまで知らなかった英国人社会について知ることになりました。実は、それまでの彼は普通の英国人として生きていたわけではなく、帰国後も自分は普通の英国人として生きることはできないかもしれない。そのことに、彼はやっと気づいて始めたようです。

「当時は理解していなかったが、そこでわたしは、それまで上海での生活においては隔離されていた幅広い層の大人たちと出会っていた。英国的な意味での階級とは異なるが、戦前の上海のバーやロビーにはさまざまにうさんくさく不道徳な輩が集まってきており、彼は一緒にいれば楽しく、たいていはしみったれな英国国教会の宣教師よりもはるかに気前の良い連中だった。・・・・・」

 実際には悲惨な出来事も多かったはずですが、それでもまだ恵まれた環境だった収容所での生活を彼はけっして不幸な時代とは思っておませんでした。

「龍華収容所は一種の監獄だったが、その監獄で、わたしは自由を見出した。両親は手の届くところにいたのえ、頭に浮かんだことはなんでもその場で聞けた - 」

「・・・最後の年の深刻な食糧不足、厳冬(我々が暮らしていたのは暖房のないコンクリートの建物だった)、不確かな未来にもかかわらず、わたしは結婚して子供を持つまで、収容所時代よりも幸せだったことはなかった。・・・・・」

 もちろんこうした感想は彼がその時代を生き延び、さらにそれから半世紀を生きた後に過去を懐かしくふり返ることが可能になったからこその感想なのかもしれません。しかし、彼にとって本当に怖かったのは戦争中ではなく、終戦後、しばらく続いた価値観なき混乱の時代でした。

「・・・ある意味、日本兵たちは無意識のうちに自分がすでに戦闘で死に、現世での暮らしはかりそめの借り物でしかないと感じていたのではないかと思う。それが日本兵にあんなに邪悪で残酷なふるまいをさせたのだ。・・・・・」

「わたしは日だまりで待ち続けた。歌うような声が徐々にかぼそくなっていくのを聞きながら、日本人に殺される中国人を見たのははじめてではない。だが戦争状態は1937年からずっと続いていた。今ようやく揚子江の河口に平和が訪れたはずだったのだ。この日本の敗残兵たちは、すでに生も死も問題にならない場所まで行ってしまっていた。日本兵たちは自分たちの命も今にも終わるかもしれず、なんでもやりたいことができ、誰にも苦痛を与えるのも自由だった。平和は戦争よりはるかに恐ろしいものだった。いかに邪悪なものであったにせよ、戦争を維持していたルールが停止されたからである。・・・・・」

<第二の故郷、英国>
 戦後、無事に生き延びたバラード一家は上海で仕事を続けることになった父親だけを残して、英国へと戻りました。しかし、上海で生まれ、その特殊な社会で育った彼にとって寒くて雨が多く、何より閉鎖的で保守的な英国という国が居心地の良い土地なわけはありませんでした。その上、戦勝国であるはずの英国は、その栄光をソ連とアメリカに奪われただけでなく、経済的にも過去の栄光を失っていました。そして、国民全体が明日への希望を失いかけていたといいます。

「・・・わたしたちは『少女たちのやさしさ』に、英国人は戦争に勝ったと言いながら、負けたかのように行動すると書いた。彼らはあきらかに戦争に疲れきっており、未来にほとんぼ希望を抱いていなかった。・・・・・」

「・・・わたしたちが出会った英国人の大人あっちはほぼ全員、英国は独力で戦争に勝ったのであり、アメリカ人とロシア人はわずかに手を差し伸べてくれただけであり、たいていは邪魔をしただけだったと心から信じていた。実際には、我々は大変な損害を受け、疲弊して貧困に沈み、ノスタルジア以外にすがりつくものは何も残っていないありさまだったのに。・・・・・」

 こうした英国の状況を見た彼は自分がいかにその国においてアウトサイダーならではの視点から未来を描く新しい文学スタイルを生み出す原点となるのです。

「要するに、英国人は人生ほとんどすべての土台ともなっている自己欺瞞のシステムを維持するために、怖ろしい代償を払ってしまったのではないだろうか?その疑問ははじめて訪れた英国でわたしを迎えてくれたうらぶれた通りと爆撃クレーターから直接発せられ、英国に落ち着こうとしたときに感じた最大の障害となった。そのせいで自分のアイデンティティはさらに混乱し、わたしは生涯アウトサイダーであり一匹狼だと信じるようになった。おそらくはそのせいでわたしは予言を伝え、可能ならば変化を引きおこしたいと考える作家となった。変化こそ、何よりも英国に必要なものだとそのころわたしは感じたし、今も感じている。」

 英国に帰国後、彼はパブリック・スクールのレイズ校に入学。英国独特の寄宿学校での生活は、彼にとって楽しいものではなかったようですが、そこで様々な種類の本と出会い、さらにそこでシュルレアリスムの絵画(キリコ、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリらの作品)とも出会います。そして、この新しい芸術スタイルが彼の人生に大きな影響を与えるだけでなく、後の「ニューウェーブSF」のヒントを彼に与えることにもなります。

「・・・1948年までには毛沢東率いる中国共産党の勝利は明白になり、自分は二度と上海には戻れないのだとわかった。龍華収容所と共同租界は消え去るだろう。英国こそが未来永劫自分の故郷となり、出入り口の鍵は取り替えられてしまったのだ。
 だがシュルレアリスムと精神分析はそこからの脱出口を開いてくれた。・・・」


 さらに、1950年代に彼はフランシス・ベーコンの絵画と出会い、そこに描かれている暴力的世界観にも大きな影響を受けることになります。

<心理学、医学を学ぶ>
 シュルレアリスムとその運動に大きな影響を与えたフロイトやユングらによる心理学の新しい流れを知った彼はキングス・カレッジに入学。そこで、心理学者になるために医学を学び始めます。その中で彼が学んだ解剖学の授業は、単に人体の機能についての知識を彼にもたらしただけでなく、「生と死」という重要な概念の意味を彼に教えてくれることになりました。

「あれから六十年近くたった今でも、二年間の解剖学実習は自分の全人生でもっとも重要な時間であり、我が想像力の大枠を形作る力となったと感じている。・・・」

「・・・学期の最終日、実験助手主任を探していて、解剖室の先の準備室に入りこんでしまたことがある。大きなテーブルには金属の大皿が一ダースばかり並び、それぞれにタグがつけられた医師たちの遺骸がのっていた。わたしも相伴にあずかった神秘の晩餐会だった。ある意味では彼らは死を超越したのだ、とわたしはこのとき感じたし、今も感じている。遺体を解剖する生徒たちの指の間で、ほんの短い時間であっても、そのアイデンティティが最後の吐息をつく。」

「解剖室で過ごした時間はわたしに重要なことを教えてくれた。死は決定的な終わりかもしれないが、人間の想像力と意志は自分自身の消滅をも超越できるのだ。様々なかたちで、わたしの全小説は上海とその後戦後世界で目撃した深層病理、核戦争の脅威からケネディ大統領の暗殺、妻の死から二十世紀最後の数十年のエンターテイメント文化の底流となる暴力までを解剖しようとしたものだ。あるいは解剖室での二年間は、上海をそれ以外の方法で生き続けさせようとする無意識の試みだったのかもしれない。」


 こうして、医学、科学、心理学を学んだ彼は医師や心理学者になろうとしていたわけではありませんでした。この頃、すでに彼は作家になること目指していて、心理学の勉強もそのためのものでした。しかし、当時の彼は自分がどんな作品を書くべきなのか?そのスタイルも題材も見出せずにいました。彼は食べてゆくために、大学卒業後、コピーライターとして働き出しますが、その仕事に生きがいを見出すことはできず、小説も書き出せないままになります。

<英国空軍のパイロットとして>
 今後の行き先に迷っていた彼は英国空軍が短期の兵役を募集していることを知り、それに応募します。小説「太陽の帝国」でも描かれていたように彼は、少年時代から飛行機乗りに憧れていただけに、それは長年の夢をかなえることでもありました。ところが、カナダで冬に行われた飛行訓練は悪天候が多く休日ばかりとなり、その暇な時間をつぶすため、彼は本を読もうと田舎町の売店で売っていたSF雑誌を購入。彼の父親はH・G・ウェルズのファンだったらしいものの、彼自身はSFをほとんど読んだことはありませんでした。しかし、初めて読んだSF小説に彼は一気にひきこまれました。
 なぜなら、そこには多くの文学作品には登場しない飛行機や核兵器やロケットだけでなくスーパーマーケットやハイウェイなど、現代社会もしくは近未来社会が具体的に描かれていたからです。さらに新しい文学ジャンルだったSF(サイエンス・フィクション)には決まったスタイルというものがなく、作者にはすべての面で自由が与えられていたのです。

「何よりもSFというジャンル自体に活気があった。いまだに行動計画は何もなかったが、わたしはこれこそが自分の進むべき分野だと決めた。SFはオリジナリティに重きを置き、作家に大きな自由を与えてくれる文学形式であり、作家たちの多くは独自のスタイルで主題へアプローチしていた。SFには活気こそあったが、一方でSF雑誌は『もし、・・・だったら?』式アプローチに縛られすぎており、ジャンルそのものがひっくりかえるべきとまでは言わずとも、変化の機は熟していると感じずにはいられなかった。わたしはむしろ『もし今・・・なら?』的アプローチに興味があったのだ。国境までの日帰り旅行でわたしが見たのはカナダとアメリカに急速に訪れつつある変化だったが、その変化はいずれ英国にも到達するだろう。わたしはSFを内面化し、消費社会とTVランドスケープと核軍拡競争、フィクション的可能性の未踏大陸に潜む病理を見出すだろう。わたしはそう信じた。沈黙の飛行場、純白の雪に包まれた無限へ延びてゆく空っぽの滑走路を見つめながら。」

 彼はSF小説にポップアートとシュルレアリスムを導入することで、まったく新しいSF「ニューウェーブSF」を確立してゆくことになります。それは「ロケットによる宇宙の旅」ではなく「心理学による内宇宙の旅」でした。「内宇宙」とは、人間の心の中に存在するもうひとつの世界のことですが、それは無限の広がりをもち、もしかすると物理学的宇宙ともつながっている可能性もあります。

「全体としてのサイエンス・フィクションには多くの不備があるが、60年代初頭は面白い時代だった。雑誌に毎号短編小説を載せることができ、個々の短編で新しいアイデアを試せる最高の練習場だったのだ。今では、多くの作家が、準備ができていないにもかかわらず、いきなり長編を書かなければならない。わたしは当時映画、テレビ、広告、消費デザインから強い影響を受けたサイエンスフィクションこそが二十世紀の真の文学だと思っていたし、今もそう思っている。未来が生きているのはもはやサイエンスフィクションの中だけだ。過去がテレビ時代劇の中でしか生きていないように。」

 「ニューウェーブSF」の登場は世界中で一大ブームとなりましたが、彼の作品はけっしてシュルレアリスム的な前衛性だけを売りにしているわけではありません。彼は医学や心理学を学んだだけではなく、一時期科学雑誌の編集に携わり、そこで最新の科学知識を吸収していた時期もありました。

「ポップアートとシュルレアリスムは勇気を与えてくれたが、<ケミストリー&インダストリー>誌での仕事は最新の科学的発見への知見を与えてくれた。権威ある科学雑誌の元にはプレスリリース、会議の報告書、世界中の有力研究施設からの年次報告書、「原子力平和利用」など国連の科学研究機関のの出版物が次々と送られできた。わたしは新しい向精神性薬物、核兵器研究、最新世代コンピューターの応用などについての記事を手にとり、生の素材に読みふけった。」

 しかし、彼がもっともテーマとして重要視していたのは、「時」だといえるかもしれません。
「時間はすべてのSF小説にとっての大きなテーマであり、わたし自身の作品のほとんどを支配するものでもある。タイムマシンそのものを例外とすれば、なんのガジェットも必要とせず、そしてその中でも最良のもの、レイ・ブラッドベリやリチャード・マシスンの小説は、日時計のようにシンプルで謎めいているのである」
短編小説「時間の庭」(1962年)についての記述より

<作家人生のスタートと妻との別れ>
 小説家としてデビューしたばかりの作品である短編小説「集中都市」(1957年)について、彼は後にこう書いています。
「この作品が世に出たのは1957年で、スプートニク1号が打ち上げられ、宇宙時代が夜明けを迎えた年であった。そのニュースを聞いて、だれもが体のなかを興奮のおののきが突き抜けていくのを感じたものだ。その興奮は、後年アームストロングが月面を踏んだときよりも、ずっと強烈なものであったことを記憶している。そんなときに駆け出しの作家であった私は、宇宙ものに背を向け、宇宙の果てをのぞくのを終わりにして、視線をこんどは人間の内部に向け、心のなかや神秘的な時間の問題というまったく新しい方向に出発した。無謀であったにちがいない。しかし、小説を書き始めた頃からずっと(この作品は3作目)、SFが文学の世界に生き残るためには、現実をつねに一歩先行することが必要だと、私は確信していた。もし宇宙時代が過去に実現していたとすれば、SF作家にとって宇宙時代は題材とならなかったはずである」

「重荷を負いすぎた男 The Overoaded Man」(1961年)
 妻や社会からのプレッシャーにより押しつぶされ、ついには目の前の世界を消し去る能力を開眼させてしまうという不思議な小説。宇宙とは別にバラードの描く世界は早くも世界の終末へ、内宇宙へと向かいつつあったようです。それが精神的なストレスによるものというのもまたバラードらしいのかもしれません。
「作家の書くものはどこまで自伝的なのか?『重荷を負いすぎた男』は、わたしが現代の結婚をかなりの点でリアリスティックに描写したもので、後の作品に登場する男女間の関係を予告している。妻はこの小説に描写されている結婚は、どれもわたしの現実生活とはまったく関係がない。それにしても、攻撃的な女性と、自分自身の心に逃避するその夫というしばしば繰り返される、ほとんど強迫的なイメージを生み出したどんな経験を、わたしは忘れているのだろう?」

「砂の檻 The Cage of Sand」(1962年)
 1971年アメリカ大統領J・F・ケネディは、1960年代中に人間を月に立たせると宣言。米ソが宇宙競争を激化させる中、バラードはそんな「宇宙ブーム」の行き着く先を予測していました。
「・・・宇宙時代がはじまる前から、わたしにはそれが長くは続かない予感があった - 主としてNASAとロシア人たちが宇宙から想像力を追い出してしまったからだ。SF作家もその過ちだけは犯さなかった。70年代の頭までには、わたしの予言は成就した。宇宙時代は実質的に終わっていた。広々としたケープケネディhが遺棄されて錆びつき、打ち上げ台は見捨てられ、ヒトのいないスーパーやモーテルには<売ります>の看板がさがっている。だが、そこはいまだに魔法の土地だ」

「アルファケンタウリへの十三人 Thirteen to Centaurus」(1962年)
 この短編小説でバラードは、長期間にわたる宇宙空間で生活が宇宙飛行士たちにどんな影響を与えるのかを描いています。当時は、まだ人類は宇宙空間に出たばかりで月面着陸もまだ先のことでした。彼の視野は、早くも内宇宙から外宇宙へと向かっていたといえそうです。
「1962年までには最初の有人宇宙飛行がおこなわれ、数年内には人類は月に着陸するのはあきらかになり、これからの数世紀で太陽系のすべての惑星に我々を連れて行くはずの旅が始まった。当時、わたしが興味をもっており、だがNASAの計画者たちは無視しているように思われたことが、宇宙船内での完全な監禁状態と自己没入が、経験不足んば心理学的衝動にしたがった場合どうなるかという点だった。
 興味深いことだが、近年になって、多くのアポロ宇宙飛行士のその後の人生から、宇宙旅行の隠された影響が垣間見えるようになった」


「無意識の人間 The Subliminal Man」(1963年)
 彼の内宇宙へのこだわりは、当然、心理学的な分野へも向かいました。当時はまだ日本ではまったく未知の存在だった「サブリミナル効果」についても、彼はいち早くテーマとして取り上げていました。企業や国家が「サブリミナル効果」を利用する未来をいち早く描いた「無意識の人間」はまさにその先駆的作品でした。
「現代消費社会の貪欲な欲求をふまえれば、小売業者が我々に追いつこうとする努力を責められようか?『無意識の人間』の中で描いた心理的強制給餌も、わたしが三人の幼児の喉に高級ペットフードとも見えるものをがっつり押し込んだのとさして変わるわけでもない。もっとも過激な手段でさえも、結局は、彼らのためなのである。もっとも過激な手段でさえも、結局は、彼らのためなのである。こうしたことを書くのは、この物語の主人公が完全な犠牲者であるとわたしには思えないからだ」

 彼は作家としてデビューした時からすでに「内宇宙」に目を向けていたのです。こうして彼はSFの新しい流れの中心人物として、そのキャリアをスタートさせてゆくことになります。1962年、初の長編SF「狂風世界」でデビューを飾った彼は、1963年の「沈んだ世界」が高い評価をえたことを機に小説家に専念するため、それまで勤めていた<ケミストリー&インダストリー>を退社します。それは作家としてデビューする前に結婚し3人の子供の母親となっていた愛妻メアリーのすすめによるものでした。ところが、その年彼女は原因不明の感染症にかかり命を落としてしまいました。それはあまりにも早すぎる死でした。こうして彼は、まだ小さな子供だったフェイ、ジム、ビアトリスの三人を男で一つで育てながら、作家生活をスタートさせたのでした。
 英国の上流階級家庭の子供として両親から直接の愛情を受けることなく育った彼は、それとはまったく異なり自らの手で子供たちを育てるという体験をすることになり、そこから多くの幸せと刺激を得ることになりました。

「・・・あるいは、わたしは家族の健康と幸福が自分自身の精神的満足の重要な指標となった最初の世代に属していたのかもしれない。家族とその中の感情は、人のよりよきものを引きだしてくれる。・・・」

「まちがいなく、わたしはこの年月に大きく変わった。一方で、わたしは子供たちときわめて近い関係になった。子供たちの幸せ以上に重要なことなどなく、作家としての成功などさしたる問題ではなかった。同時に、自然はメアリーと子供たちに怖ろしい罪をかしたとも感じていた。
 なぜなのか?その答えの出ない問いを、わたしはそれから何十年ものあいだ考え続けた。」


 人類の終末世界を描き続けた作家が家族を愛し、家族とテレビを見ながらスコッチを傾けるのが唯一の楽しみだったというのは驚きです。しかし、あまりにも不条理な愛妻の死が彼に負わせた心の傷の深さは、3人の子供がいなければ彼を自殺へと追い込みかねないほどのものです。その心の傷が彼に人類の滅亡をクールかつ美しく描いた名作「結晶世界」(1966年)などの作品を生み出させる原動力になったのかもしれません。彼の代表作の一つ「残虐行為展覧会」もまた、そうした彼の精神的背景なしには生まれなかったのかもしれません。さらに後にデヴィッド・クローネンバーグによって映画化され大きな話題となった異色の作品「クラッシュ」(1973年)もまた彼の中の心の闇が生み出した小説でした。

「『残虐行為展覧会』が納骨堂にしかけた花火のようなものだとすれば、『クラッシュ』は現実で炸裂する千ポンド級爆弾だった。・・・」

<社会が向かいつつある未来の文学>
 彼は「内宇宙」にこだわり、「終末世界」にこだわる小説から、より近未来、よりリアルな未来社会を描く方向へと進み始めます。「クラッシュ」はその先駆作でした。
「ここにあるのは実際に現在を扱い、ときにはほとんどカフカのように簡潔で両義的な小説だった。SFは消費広告に支配された世界、広報活動に変容を遂げた民主政府の存在を認識していた。それは我々が実際に生きている自動車、オフィス、ハイウェイ、飛行機、スーパーマーケットの世界だが、純文学からはきれいさっぱり抜け落ちているものでもあった…モダニズムの中心には「自己」が横たわっていたが、今そこには強力なライバル、日常世界があった。それは「自己」と同じように心理的構築物で、同じように謎に満ち、ときに精神病質の衝動をしめす。この禍々しき領域、気が向けが次のアウシュヴィッツ、次のヒロシマへと日帰り旅行に出かけるやもしれぬ消費社会こそ、サイエンス・フィクションが探求しているものだった」

 こうした彼の変化を可能にしたのは、単に物語を作る作家だというだけでない、彼のもつ社会に対する他人と違う観察眼によるものでもありました。

「私は昔から、私が『不可視の文献』と呼ぶものの貪欲な読者である - 科学雑誌、テクニカル・マニュアル、製薬会社のパンフレット、シンクタンクの内部資料、広告会社のポジション・ペーパー。これらは、教養人の大半が目にすることはないが、想像力に最良の肥料となる出版物の宇宙の一部分だ」
「読書の快楽」より

 コアなSFファンの中でJ・G・バラードを高く評価する人は意外に少ないかもしれません。ハードSFが好きなファンよりも、前衛的な文学、例えば中南米の文学(マルケスやマルエル・プイグ、バルガス・リョサなど)を好む人の方がバラード作品を評価しているはずです。さらに彼の作品もまた当初のSFからしだいにその描く枠組みを広げ、「クラッシュ」「太陽の帝国」「楽園への疾走」など、一般文学?へと変化しています。実は、その変化は現代社会が急激に変化し続け、それを追い続けたバラードが必然的に描くことになっただけのことかもしれません。こうした変化は、ある意味SFという文学が、その枠組みを広げ、それ以外の文学者たちへと広がっていった20世紀後半の歴史ともダブっていたともいえます。村上春樹(「1Q84」)、カズオ・イシグロ(「わたしを離さないで」)、コーマック・マッカーシー(「ザ・ロード」)、マイケル・カニンガム(「星々の生まれるところ」)らの作家が普通にSFといえるジャンルの作品を書いていることからも、今やSFが単なるジャンルの枠を超えていることは明らかでしょう。
 SF小説出身のため、彼の作品がそれらの作家に比べて評価が低い気がするのは気のせいでしょうか?とはいっても、バラード本人は自分の作品が高い評価を受けることよりも、愛する妻に代わって子供たちが幸福な人生を送ってくれることこそが最優先だったのでしょう。

「今でも自分は子供たちに育ててもらったと思っている。子供たちが成長してゆく過程の副産物として。我々は揃って幼年期から抜けだした。子供たちは幸せで自信たっぷりなティーンエイジャーへと、そしてわたしはいとけない幼児が自分自身の考えと希望を持つしっかりした人間に変わるのを目の当たりにする経験で豊かにしてもらった二度目の成人期へと。ほとんどの父親はこの特別なプロセス、自然の営みの中でもっとも重要なものを目撃しないし、多くの母親は悲しいことに家庭と家族の些事を片付けることに追われて、自分のまわりで毎日起こっている数知れぬ奇跡にほとんど気づけずにいる。自分はたいそう幸運だった。・・・」
 もしかすると、世界の終末を描き続けた「残虐行為展覧会」の作者が誰よりも子供を愛するマイホームパパだった、というのは自らの死を覚悟したからこそできた究極の種明かしとなったかもしれません。(ちなみに、映画化もされた小説「ザ・ロード」で世界の終末を描いたコーマック・マッカーシーは、その作品のアイデアを息子とメキシコを旅をしている途中で思いついたそうです。子供のために何が父親にできるのか?それを究極の形で描いた小説が「ザ・ロード」という作品になったのでした)
 作家J・G・バラードにとって、愛する妻の早すぎる死は世界の終末に匹敵する事件であり、その事件が上海での収容所体験と結びつくことで、あの美しく絶望的な世界観を生み出すことになったのではないでしょうか。ただし、彼には愛する妻が残してくれた素晴らしい子供たちがいました。それが彼にとって最大の救いでした。
 2009年4月19日、作家J・G・バラードは前立腺癌の合併症によりこの世を去りました。幸いにして、彼は人類の滅亡を目にすることはなく、彼の子供たちもそうはならないかもしれません。願わくば、終末世界が人類の過ちによって生み出されることにはならないように・・・。

「虚構と現実のバランスは劇的に変わってしまったように思える。その二つの役割は逆転しつつある。我々はあらゆる種類の虚構に支配された世界に住んでいる - 大量販売、広告、その一分野に過ぎない政治、ただちに通俗的想像力に翻訳されるサイエンスとテクノロジー、消費財の中でますます曖昧に混ざり合ってゆくアイデンティティ、経験に対する自由な、想像力豊かな独自の反応を先取りして封じ込めるテレビのスクリーン。我々は巨大な小説の中に住んでいる」
「クラッシュ」序文より

<参考&引用>
「人生の奇跡 Miracle of Life」 2008年
(著)J・G・バラード J.G.Ballard
(訳)柳下毅一郎
東京創元社
「J・G・バラード短編全集1 時の声」 2016年
「J・G・バラード短編全集2 歌う彫刻」 2016年
(監)柳下毅一郎
(訳)浅倉久志ほか

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