20世紀事件簿 (日本編)

<時代を映し出す事件の数々>
 ここには、20世紀を代表する大事件を年代順に並べてあります。まだまだ不十分ですが、これから少しずつ増やしてゆきます。他にも、小さめの事件については年表に書き込んでいるので、そちらも合わせてご覧ください。
 「歌は世につれ、世は歌につれ」と昔はよく言いました。同じように時代を映し出す「事件」も数多くありました。ただし、大きな事件ほど未解明のものが多く、たとえ犯人が逮捕されていても、その人物が本当に犯人だったのか?共犯者や指示を与えた者はいなかったのか?犯行の動機は何だったのか?など謎はいくらでもあります。時を経て真相が明らかになる場合もありますが、時を経て犯人が無実になる場合もあります。なので今後、ここに書かれている内容が大きく変わる場合もあるでしょう。
 それと、ここでもうひとつ書いておきたいのは、ここに書かれた事件とは別に「犯罪」として扱われない「大事件」があり、その中にはどんな凶悪犯罪よりも罪深い事件が存在していることも忘れてはいけないということです。
 たとえば、「戦争犯罪」です。太平洋戦争へと日本を向かわせた巨大な犯罪の犯人は誰なのか?「東京裁判」で裁かれた人々だけが犯人ではないはずです。
 「水俣病」「イタイタイ病」もまた大掛かりな殺人・傷害事件でした。「薬害エイズ」もまた医師・薬品メーカーによる大量殺人事件です。そして、「東日本大震災」における東電と原発推進に関わった政治家、役人、研究者たちの責任もまた許せません。これほど大掛かりで長きに渡る非人道的な犯罪は歴史上類をみません。
 さらに忘れてはならない犯罪があります。
 自衛隊の海外派兵を可能にした小泉元総理大臣。そして、特定秘密保護法案を強引に成立させ、憲法改正により「積極的平和主義」という名の侵略戦争を可能にしようとしている安倍総理の行為もまた巨大な犯罪行為といえます。たとえ彼らの行為が法的に間違っていなくても、歴史的には究極の大量殺人への第一章の幕を上げたことと同じことなのです。
 第二章となるであろう憲法改正の前に、彼らは太平洋戦争における日本の戦争犯罪の記録を書き換えようとするでしょう。そしてその時、同じ時代の「ポップの歴史」もまた改変されてしまうのでしょう。
「人々はどんな歌を歌い、どんな本を読み、どんなことを考えていたのか」そんな些細なことにも真実は隠されているからです。
どんな歴史も、時代とは切っても切り離せないのですから。
 そんなちょっとばかり大それたことを考えつつこのサイトを続けてゆこうと思います。
1930年代  阿部定事件             
1940年代  戦後日本の民主化と吉田茂 昭和電工疑獄 帝銀事件 東京裁判 下山事件 「三鷹事件」「松川事件」    
1950年代 水俣病             
1960年代 60年安保と学生運動 東京オリンピック 三億円事件 天皇パチンコ攻撃事件       
1970年代  三島由紀夫割腹自殺 浅間山荘事件と総括  金大中事件 ロッキード事件       
1980年代 グリコ・森永事件 豊田商事事件 朝日新聞阪神支局襲撃事件 リクルート事件  宮崎勤幼女誘拐殺人事件    
1990年代 住専問題  佐川急便事件  オウム真理教(地下鉄サリン事件)    証券・金融スキャンダル 桶川ストーカー殺人事件  和歌山毒物カレー事件 酒鬼薔薇事件 
2010年代 福島原発事故             
「阿部定事件」(1936年)
 5月18日、東京尾久の待合(現在でいうとラブ・ホテル)の一室で料亭従業員・阿部定(31歳)が一緒に泊まっていた料亭経営者の石田吉蔵(52歳)を絞殺。その後、被害者の局部を切り取って自分の局部に差込み、石田のシャツを身につけて逃亡した。現場には血文字で「定吉二人キリ」と書かれていた。定は1905年東京神田の生まれで、10代の時、大学生に暴行され、その事件により人生を狂わされた。男性遍歴を重ねた結果、父親に300円で芸者に売られた。
 その後、高級娼婦となった彼女は石田と知り合い愛し合うようになった。しかし、石田には妻がいたことから別れ話を持ち出され、殺害し自分も自殺するつもりだった。逮捕時彼女は石田の一物をハトロン紙に包んで持ち歩いていた。殺害後、自分も死のうしたが、その前に逮捕される。懲役6年の刑となった彼女は出所後、1970年代まで生きたがその後は行方不明となった。当時は、彼女の愛の表現に対し、「サディズム」ならぬ「サダイズム」という言葉も生まれた。
 大島渚が後にこの事件を映画化。「愛のコリーダ」(1976年)として公開され、世界中で高い評価を得ることになります。(シカゴ映画祭審査員特別賞、英国映画批評家外国語映画賞受賞)
「戦後日本の民主化と吉田茂」(1945年~)
「昭電疑獄」(1948年)
 1948年4月、衆議院不当財産取引調査特別委員会が取り上げたことから始まった贈収賄事件。
 戦後の復興費用を低利で貸し付ける政府系金融機関「復興金融公庫」から有利な融資を引き出そうと考えた昭和電工が多くの政治家や官僚に賄賂を贈ったというもの。
 警視庁は昭和電工社長の日野原節三を逮捕。続いて受け取った側として、後の首相、福田赳夫、栗栖赳夫、前副総理で社会党幹部の西尾末広ら64人を逮捕・検挙しました。前副総理の逮捕により、芦田均内閣は総辞職に追い込まれ、12月には芦田総理自身も逮捕されます。しかし、最終的に有罪となったのは、日野原ら数人のみでほとんどの政治家は無罪となりました。
 この事件には裏があったと言われています。
 「復興金融公庫」を事実上動かしていた占領軍の民政局(GS)次長ケーディスの汚職告発が直接のきっかけでしたが、他にも政界に存在した対立の構図の中で利害の一致があり、そこから仕掛けが始まったといわれています。
(1)GHQ内における民政局(GS)次長ケーディスと情報機関、総参謀第二部(G-2)部長チャールズ・ウィロビーの対立。
(2)内閣トップの芦田総理大臣とその失脚を狙っていたといわれる吉田茂とその右腕、白洲次郎
(3)昭電のトップから降ろされた創業者に借りがある反共工作秘密機関「キャノン機関」の下部組織「矢板機関」トップ矢板玄が昭電経営陣への復讐
 ケーディスはこの事件により逮捕はされなかったものの更迭されて本国に戻されました。
「帝銀事件」(1948年)
 1948年1月26日午後3時ごろ、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で事件は起きました。
「東京都防疫消毒班」と書かれた腕章を巻いた厚生省の厚生部委員、松井蔚(しげる)と名乗る男が、そこにいた16人を集め「近くの民家で集団赤痢は発生したので、GHQが防疫を行なっています。私はその係官です。その家の者がここに来たようなので、みなさんには予防薬を飲んでいただきます」
 彼は2種類の薬を出し、最初の薬を飲んだ後、1分ほど間を置いて、次を飲みなさい」と指示し、先ずは自分が飲んでみせました。すぐにその場の全員も薬を飲みますが、次々に倒れてゆきました。その間に犯人は現金16万4400円と小切手1万7450円を持って逃走。16人のうち12人が死亡するという史上最悪の強盗事件として衝撃を与えました。死亡原因は青酸ソーダによるものでした。
 捜査が始まると、すぐに同様の事件がそれ以前にも2回あり、いずれも失敗に終わっていたことがわかりました。1件目は、品川区の安田銀行荏原支店。この時は薬を飲んでも症状がでず、犯人はそのまま逃走していました。2件目は新宿区の三井銀行中井支店。この時は犯人の行動を疑った指示に従わず、やはり犯人は逃走していました。
 先ず最初に疑われたのは、銀行で出された名刺の人物「松井」でした。実は名刺の「松井」という人物は実在しており、薬物にも詳しいことがわかりました。しかし、本人のアリバイが証明されたため、彼の名刺を受け取ったことのある人物の追跡調査が行われ、そこから北海道小樽市に住む平沢貞通という人物が浮上してきました。
 平沢が疑われたのは、彼に詐欺師としての前科があったこと。犯行現場周辺の土地勘があったこと。アリバイがなかったこと。そして、彼が事件直後に13万4000円という大金を銀行に入金していたことが重要な決め手となっていました。ただし、彼には青酸ソーダのような毒物に関する知識はまったくなく、彼を有罪にできたのは下山総裁事件でも活躍することになる刑事、「落としの八兵衛」こと平塚八兵衛が自供を引き出した結果でした。
 平沢はその後、証言を否定し無罪を主張。その後、長く裁判は続くことになります。実際、犯人が平沢ではないという説は早くからありました。本物の「松井」が戦時中あの有名な生物兵器開発チーム「731部隊」に関わりがある部隊に所属していたこともわかっていました。旧満州で悪魔の人体実験を行っていた「7321部隊」ならば技術的にもその残虐な手口からも犯人の可能性は高いはずでした。しかし、当時「731部隊」の人材や研究結果の多くは占領軍によって厳重に管理され、極秘扱いになっていました。もし、犯人が関係者の中にいたとしたら、捜査の段階で「731部隊」や日本軍が行っていた生物兵器開発の詳細が暴露される可能性がありました。実際、「松井」近辺の捜査はその後行われておらず、事件の3年後に彼はこの世を去っています。
 無実の罪であると主張し続けていた平沢は実に18回もの再審請求を行い、40年間に渡って検察と闘い続け1987年八王子の医療刑務所で息を引き取りました。
「東京裁判」(1946年~1948年)
「下山事件」(1949年)
 昭電疑獄の原因のひとつでもあったGHQ民生局と情報局G-2の対立は、その後さらに激しくなります。しかし、米ソの対立が深まる中、左派的な改革を行っていた民生局の改革が日本で組合活動を活発化させ、政権を揺り動かす力を持ち始めたことでアメリカ政府の方針はG-2寄りの右派路線に変化し始めます。そのために公職追放令が解除され、保守系政治家や右翼活動家が再び世に放たれることになr、彼らは反共活動の先導役となります。
 さらに、それまでの社会主義的な経済政策も改められ、ジョセフ・ドッジによって、超緊縮財政による経済安定化政策(ドッジライン)が導入されます。この方針転換により、公務員の大幅削減が行われることになり、鉄道省(国鉄)は10万人のリストラが実施されることになりました。
 1949年7月5日、国鉄の初代総裁、下山定則が出勤途中に行方不明となり、翌6日午前0時25分ごろ足立区の常磐線北千住-綾瀬間の線路上で轢死体となって発見されました。自殺か他殺か、警視庁捜査一課は自殺と判断しますが、東京地検と捜査二課は他殺として捜査を進めます。彼らが犯人と疑ったのは国鉄のリストラに反対する労組関係者でした。しかし、当時すでにリストラは止められないところまで進んでいて総裁を殺すことは何の意味もなかったはずです。そのため、捜査一課の担当のひとりで名刑事と言われた平塚八兵衛は早々に自殺と断定していたようです。
 では総裁はわざわざ真夜中に愛する鉄道んみ身を投げたのか?最近になって浮上してきた説はこうです。
 GHQの反共工作組織である「キャノン機関」の下で働く日本人の反共スパイ組織「矢板機関」が総裁を誘拐し殺害後に列車に轢かせたというものです。殺害の理由として考えられるのは、国鉄の電化に関わる巨額の利権問題にあるとも言われていて、労使の対立問題は隠れ蓑に使われただけだったようです。だとすれば、その後、続け様に起きた三鷹事件と松川事件もまた労組の過激派によるテロと見せかけた陰謀と考えるのが自然な見方と考えられます。
 初めから共産党員や左派労組関係者しか捜査対象にしていなかった警察が事件を解決できなかったのは当然かもしれません。
「三鷹事件」「松川事件」(1949年)
<三鷹事件>
 1949年7月15日、東京三鷹駅で無人の電車が暴走し、近所の住人など二人が死亡。
 国鉄の大量解雇に反対する共同謀議による犯罪として警察は、労組関係の11人を検挙。しかし、竹内景助の単独犯として10人は無罪となります。その竹内自身も犯行を認めないまま留置され、獄中で死亡しています。
<松川事件>
 1949年8月17日、東北本線の松川駅で上野行列車が脱線。機関士一人と助手二人が死亡。
 東芝松川工場の労組と国鉄労組が共闘し線路のクギを抜いて事故を起こしたとして、両労組から計20名が逮捕されました。しかし、1963年全員が無罪となります。
「水俣病」(1954年~)
「60年安保と学生運動」(1960年)
「東京オリンピック」(1964年)
「三億円事件」(1968年)
 1968年12月10日午前9時20分、東京都府中市の路上で東芝府中工場の従業員4525人分のボーナス2億9430万円を積んだ現金輸送車が白バイ警官に停止を命じられました。彼は車の下から煙が出ているのを示し、「ダイナマイトが爆発する。逃げるんだ」と運転手らを避難させました。しかし、ダイナマイトは爆発せず、運転手が戻った時、すでに現金が収められたジュラルミンケースとともに白バイ警官は消えていました。この事件には伏線がありました。事件の四日前、日本信託銀行国分寺支店に300万円を払わなければ支店長宅に爆弾を仕掛けるという脅迫電話が届いていて、その情報が運転手たちをあわてさせたのでした。
 この事件には、すぐに見つかった逃走用の車など様々な証拠品があり、犯人のモンタージュ写真が公表されたことで、解決は早いのではと思われました。ところが、事件当日が大雨だったことでタイヤや靴の跡が不完全だったこと、モンタージュが信頼性が薄かったことなどの問題点があり、しだに捜査は暗礁に乗り上げることになりました。最大の誤算は、犯人グループの一人と思われていた現職警察官の息子が自殺してしまったことでした。(モンタージュ写真は彼に似せて作られたともいわれています)
 時効までの7年間、17万人の捜査員と10億円もの捜査費用をかけながら結局、捜査本部は犯人を逮捕することができませんでした。名刑事と呼ばれた平塚八兵衛もこの事件を解決できないまま警察を退職しています。この事件のおかげで科学捜査の様々な進歩があったという意味でも、日本の警察にとって重要な事件だったといえます。
 犯行現場が米軍基地に近かったことなどから、米軍もしくは米兵との関わりや3億円がアメリカへ渡ったのではないか?という説など、様々な謎がまったく未解決なままになっています。
 現役警察官の息子を犯人と仮定した漫画・テレビの「クロコーチ」は実に面白い作品でした。当時の3億円は今なら30億円以上の価値があるはずです。したがって、そのお金があれば警察組織を変えることも可能だったのかもしれません。
 1975年12月10日刑事時効成立
「天皇パチンコ攻撃事件」(1969年)
 1969年1月2日天皇陛下一般参賀の朝、バルコニーに現れた天皇陛下を元日本軍兵士、奥崎謙三がパチンコで攻撃。
「おい山崎!早津!天皇をピストルで撃て!」と4、5回叫んだ後、「暴行罪」で逮捕される。その後、懲役1年6カ月の有罪判決を受けた。出所後、1972年に彼は自伝的な作品「ヤマザキ、天皇を撃て!」(三一書房)を発表。

「なぜ天皇をパチンコで撃ったかというと、天皇個人に対するささやかな怨念だけじゃないんです。天皇はむかしから利用されていると、私も思っている。ただ、ああいうことをやって、天皇というのはどういう存在か、ホントに関心をもっていただくためだったんです。
 パチンコを使ったのは、傷つけるのが目的ではありませんし、手っ取りばやい道具だった。それにパチンコ玉は日本人に身近で、ある愚劣さを象徴しているもんでしょう。愚劣なもので天皇を撃つというのは理にかなっていると思ったからです。
 あのとき、山崎、早津、ピストルで天皇を撃て、と大声でさけんだわけですが、そのわけはひとつには、山崎も早津もニューギニアで死んだ私の戦友で、もし彼らが生きていれば、のうのうといまでも生きている戦争責任者の天皇に対して、撃とうという気持ちに絶対なるはずだ、と思ったからです」
奥崎謙三「週刊文春」より

「出征する前に、私は天皇の写真がのっている新聞紙を便所の中に持ち込み、尻を拭くことで、先生が神よりも偉いといったことに対するささやかな反抗をしました。・・・」
「三島由紀夫割腹自殺」(1970年)
11月25日作家三島由紀夫と彼が主催する「楯の会」幹部4人が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地に侵入。益田兼利東部方面総監を人質に立てこもり、クーデターを呼びかけた。しかし、受け入れられず。
「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」
という辞世の歌を残して切腹、自決した。
時代は三島の美学を時代錯誤とみる方向へと変化しており、彼の死は大衆の覚醒とは結びつかなかった。首が写った新聞写真は衝撃的で、マンガ「夕焼け番長」で三島に対するオマージュが捧げられたのにも驚ろかされました。
「肉体の外に人間は出られないということを精神は一度でも自覚したことがあるだろうか、これは私がいつも考えてきたことであります。・・・そして私自身の存在というものは、自分の肉体の皮膚の外へたった1mmも自我を拡張することができない。・・・」
三島由紀夫
「三島由紀夫の自決。割腹によって内臓まで見えたその現場はまさに凄惨そのものだ。けれどぼくにはそれが肉体をさらにつづけた男の命をかけた露出だったように見えなくもない。ふんどし一丁になったうえ、自分の内臓までも開陳する。あっぱれなヌードではあるまいか」
坪内祐三「一九七二 『はじまりのおわりと』と『おわりのはじまり』」より
「浅間山荘事件と総括」(1972年)
「金大中事件」(1973年)
1973年8月8日、来日中だった韓国の野党党首、金大中(キム・デジュン)が滞在先のホテル・グランドパレスから拉致され、5日後の13日、ソウル市内にある自宅近くで解放されるという事件が起きました。
 警視庁は韓国の情報機関KCIA(韓国中央情報部)の工作員による可能性が高いとみていました。拉致現場に残された犯人らしき人物の指紋の中に駐日韓国大使館の一等書記官、金東雲(キム・ドンウン)のものが確認されましたが、事件の10日後には彼は韓国に帰国していました。当然、日本政府は韓国政府に説明を求めるべきでしたが、事件から1年後、警視庁は捜査を早々と終了してしまいました。日韓の間で事件を『これ以上追及しないという合意がなされたと思われます。
 いったい金大中事件とは何の目的で行われたものだったのか?闇に葬られるはずだったこの事件の真相が、1998年突如明らかになりました。それは事件の被害者だった金大中氏が韓国の大統領に就任したことによるものでした。
<真相>
 事件の実行犯はやはりKCIAでした。それもKCIAの部長、李厚洛(イ・フラク)自らが立てた計画をKCIAと海外工作部隊のメンバーら25人の要員によって実行した大掛かりな作戦でした。
 事件当日、午後1時19分、ホテル・グランドパレスの22階スイートルーム前の廊下で麻酔薬を使って金大中を捕えた後、エレベーターで地下駐車場に移動。そこから車で名神高速道路を走った後、神戸市内の隠れ家へ。4時間後、車で大阪港に移動したグループは、そこから偽装貨物船「龍金号」で釜山に上陸し、彼を自宅近くで解放しました。

 しかし、彼らはなぜ金大中を拉致した後、韓国に連れ戻ったのでしょうか?どうやら当初、作戦では金大中を釜山へ向かう船から落として溺死させるという可能性もあったようです。その方がわかりやすいと言えます。次期大統領候補として人気が高かった金大中は当時の朴政権にとってはまさに天敵だったのですから。カリスマ性のある敵を消すことができれば、政権にとって有利なはずです。ところが作戦は中止されました。それはなぜだったのか?
 ひとつには、彼を暗殺しようとしていた政権側、朴大統領の義理の弟、金鐘泌(キム・ビョンピル)が当初から反対だった作戦を止めようと日本政府に連絡をとったようです。
 さらに自衛隊の調査部の下請け会社(そんなのがあるんですね)が韓国側からの依頼を受け、金大中の行動をすべてチェックしていたために拉致についてもすべて把握していたことが後にわかっています。そのため、自衛隊は金大中を乗せた船を追跡し殺害を止めることに成功したとも考えられます。(初めから殺すつもりはなかったという可能性もあるのですが・・・)
 日本という国がスパイ天国だということは有名ですが、まるでスパイ小説のような事件が実際に起きていたわけです。この事件をひとつの説に基づいて再現した映画「KT」(阪本順治)は見ごたえがあります。
「ロッキード事件」(1976年)
「グリコ・森永事件」(1984年~)
 1984年3月に起きた江崎グリコ社長誘拐事件から始まった一連のグリコ・森永事件は、数ある未解決事件の中でもスケールの大きな劇場型犯罪として忘れられない存在です。
 1984年3月18日午後9時すぎ、兵庫県西宮市の江崎グリコ社長、江崎勝久(42歳)宅に覆面をした二人の男が侵入。家族を縛り上げてから入浴中だった江崎社長にバスタオルを巻いて手錠をかけました。この時、「お金ならいくらでもさしあげますから・・・」という妻の言葉に犯人は「カネはいらん!」とにらみつけたといいます。車で待っていた男と二人の共犯者は、すぐに江崎社長を連れて車で逃亡。大阪府摂津市にある治水組合所有の水防倉庫に閉じ込めました。
 犯人はその後、すぐに身代金を要求。3億円を積んだ車(白いカローラ)を用意させると指定の場所に駐車させました。ところが、そこに犯人は現れず、まったく別の人間が車を取りに来て逮捕されました。犯人は待ち伏せされていることを予測していたのです。車を取りに来たのは、大阪寝屋川市の淀川沿いでデート中だった青年で、彼は彼女を人質に取られ犯人に車を取りに行くよう指示されていたのです。ここまで用意周到だったはずが、人質になっていたはずの江崎社長は自力で脱出に成功していました。
 当初、犯人は身代金として現金10億円と金塊100kgを要求していました。しかし、なぜ金塊100kgという扱いに困るようなものを要求したのか?なぜ人質は逃げられたのか?身代金は裏で支払われていたのではないのか?様々な憶測がマスコミをにぎわす中、「かい人21面相」を名乗る犯人グループは、その後も次々と事件を起こして行きます。
<グリコ事件のオマケ>
 同じ大阪の企業である丸大食品に「江崎勝久」名で5000万円を要求する脅迫状が届きます。ここで犯人は電車を用いて、そこから現金入りのバッグを投げさせるという映画「天国と地獄」などの手法を用い、警察も万全な準備を行いますが、受け渡し時の犯人逮捕に失敗しています。(この時に目撃されたのが「キツネ目の男」です)
 同年11月には大阪のハウス食品が脅迫され、今度は現金1億円を積んだトラックを名神高速に向かわせ、草津のパーキングエリアで受け渡しをすることになっていましたが、ここでも「キツネ目の男」が目撃されたものの逮捕はできませんでした。
 犯人グループは他にも森永製菓、不二家、駿河屋にも脅迫状を送り、マスコミや警察には挑戦状を送りつけています。さらには青酸入りの製品をばら撒くという脅迫を行い、実際に関西のスーパーで青酸入りの菓子が発見され、事件は一企業への脅迫から国民全体を人質にとったかのような大掛かりな事件へと発展します。
 当然、それだけの事件を一人の人間が起こせるとは考えられず、脅迫のテープなどの声や目撃された犯人の特徴などから、犯人グループは少なくとも7人(もしかすると子供と女性も含んでいます)はいたと考えられます。
 捜査本部が時効前に迫った犯人は、事件当時グリコから取引を打ち切られた食肉業者とその周辺のヤクザグループでした。江崎グリコは、かつて旧満州でも広く営業・生産活動を行っており、その時代から朝鮮との関わりが深くありました。グリコが実際に所有していたらしい金塊の出所はどこだったのか?犯人グループは過去のグリコの歴史の裏側について何らかの脅迫を行ったのではないか?
犯人グループが「グリコを許したる」と和解宣言をしたのは何かの取引が成立したからではないのか?結局、犯人グループは表面上は得をしたと思えないにも関わらず、事件を終結させたのはなぜか?
 この事件は、複雑すぎるのか、裏側の闇の部分が深すぎるのか、最近はほとんど振り返られなくなりました。しかし、この事件以後、警察に挑戦するかのようなメッセージを発信する劇場型犯罪は明らかに増えています。
<英雄?と後継者たち>
 「かい人21面相」は、日本全体を劇場にしただけでなく、自分たちが去った後にも舞台上に多くのフォロワーを引き上げたことになります。もしかすると、そこまで彼らは考えていち早く舞台を降りたのかもしれません。実際、彼らの残した関西弁のセリフの数々とともに彼らをヒーロー視する気分が当時はありました。
「プロやったら わしら つかまえてみろ」
「なんでわしらをつかまえてくれへんねん わしらもテレビにでてみたい」
「わしらはだれでしょう あるときは警さつかん あるときはぼう力団」
 この後、彼らに続く犯罪者たちはもっともっと残虐で不気味な犯行を行っており、到底英雄とは思えないことだけは確かです。
「豊田商事事件」(1985年)
 実際は所有していない金を売り、実物の代わりに「純金ファミリー契約証券」という紙切れを渡す。その名のとうり「ペーパー商法」が巨額の詐欺を実行した事件は、その後の「おれおれ詐欺」などの高齢者を狙った悪徳詐欺商法の原点で、この事件の犯人グループの中から多くの後継者が育ったとも言われています。
 1981年4月に会社を設立し、4年ほどの間に3万人から2000億円以上を集め、それをリゾート開発や商品相場に投資。しかし、しだいにその勧誘の強引さがトラブルを起こし始め、マスコミをにぎわすようになると豊田商事はあっさりと破綻してしまいます。債務総額は1154億円で122億円を被害者に返せたものの焼け石に水でした。そのうえ、会長の永野一男(32歳という若さ)が1985年6月18日に自宅マンションでメディアの目の前で刺殺されてしまい事件の全容は謎のまま残されることになりました。
 パートを含めると5000人ものセールスマンを使い、それぞれに役割を与えることでチームで次々と高齢者の資産を奪って行きました。さらに豊田商事は千昌夫をゲストに金の延べ棒を並べた船上で大規模なパーティーを開催するなど、スケールの大きさでもそれまでの詐欺商法とは大違いでした。バブルの時代がそうしたスケールの大きな犯罪を産んだともいえますが、それは同じくスケールの大きな新興宗教オウムの誕生も同様でした。
 ただし、2000億円という巨額のお金はどこに消えたのでしょうか?なぜ永野は殺されたのでしょうか?ここには大きな疑問があります。
豊田商事がヤクザ組織と関わっていたことはわかっています。そして、豊田商事が巨額の資金をヤミ献金として政治家たちにばら撒いていたこともわかっています。永野が殺されたのは、そうしたヤクザ、政治家との関係が明らかになることを恐れた何ものかによる暗殺だったのではないか?そう考えるのが当然だと思われます。
「朝日新聞阪神支局襲撃事件」(1987年)
 1987年1月24日朝日新聞東京本社に散弾銃が2発撃ちこまれました。それが警告であり序章でした。
 同年5月3日午後8時15分、西宮市にある朝日新聞阪神支局2階の編集室に一人の男が現れると散弾銃を持ち出し、二人の記者に発砲。小尻知博氏が死亡。犬飼兵衛氏は3か月の重傷を負いました。その間、犯人は一言も発せず発砲し、そのまま逃亡しました。この日、共同、時事通信社に「赤報隊一同」という名で犯行声明文が届きました。
「われわれは ほかの心ある日本人とおなじように この日本の国土・文化・伝統を愛する。それゆえにこの日本を肯定するものを許さない・・・・・すべての朝日社員に死刑を言い渡す・・・反日分子には極刑あるのみである。われわれは最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」
 予告どおり犯行は、これだけは終わらず、9月24日には名古屋の朝日新聞社員寮にも散弾銃が発射され、1988年の3月11日には朝日新聞静岡支局に時限式のピ-ス缶爆弾が仕掛けられています。(不発だった)この時には、前首相の中曽根康弘、当時の首相、竹下登宛で靖国公式参拝や歴史教科書問題への対応が弱腰であるという批判文が送られてきました。
 1988年8月10日には、リクルート疑惑の真っただ中にあった前リクルート社長、江副浩正宅にも散弾銃が撃ち込まれました。
 1990年5月17日、在日大韓民国愛知県地方本部が入る愛知韓国人会館の玄関が放火されています。
 「赤報隊」は極右のテログループと考えられ、様々な右翼団体に疑いがかかりましたが、その正体は明らかになっていません。しかし、本当に右翼組織のメンバーだったのか?まったく証拠を残さず、迷いなく仕事を終える手際のよい仕事ぶりから、犯人はプロのヒットマンだったのではないか?という説もあります。問題は誰が依頼したかということになります。
「リクルート事件」(1988年)
 1988年6月、神奈川県川崎市の助役に対するリクルート社からの1億円利益供与疑惑が事件の発端でした。
 リクルート社がグループ企業「リクルート・コスモス」の未公開株を株式公開前に譲渡。お金の代わりに確実に値上がりする株で大儲けさせたわけです。ところが、事件が明らかになり出すと、この株式譲渡先は他に100人程度に及ぶことが明らかになりました。しかもその中には中曽根康弘(総理大臣)をはじめ、安倍晋太郎、竹下登、宮澤喜一(大蔵大臣)、藤波孝生(官房長官)、渡辺美智雄、加藤紘一、森喜朗らの大物政治家が混じっていたのです。
 さらにこの事件が衝撃的だったのは、国会で「爆弾質問男」として恐れられていた社民連の衆院議員、楢崎弥之助が「コスモス社」社長室長から直接現金500万円を渡され、国会での質問を抑えようとする場面が隠し撮りされテレビで放映されたことでした。
 この事件によってリクルート社への批判は一気に高まり、社長室長が逮捕されただけでなく、宮澤蔵相、藤波長官らが辞任に追いやられ、リクルート社の社長、江副浩正の逮捕へと進んでゆくことになりました。しかし、リクルート社から政治家たちへの「裏献金リスト」は見つからず、その後、総理となった竹下登の秘書が1989年4月に自殺してしまったことで、事件の全容は解明されないまま捜査は終了することになりました。
 ある意味、ロッキード事件よりも規模が大きな事件となったはずですが、検察の追及はそこまでの迫力かけていたのかもしれません。それとも敵があまりにも多すぎたのかもしれません。
「宮崎勤幼女誘拐殺人事件」(1989年)
 7月23日東京都八王子市の山林で6歳の幼女が裸にされ写真を撮られていた現場をその娘の父親が発見。26歳に男が逮捕された。
 最初の犯行は1988年8月4歳の幼女を誘拐、奥多摩山中で絞殺した後、遺体を撮影し衣服などを持ち帰った。翌年、被害者宅に幼女の骨や歯が入った段ボール箱を置き「所沢・今田勇子」名で犯行声明文や遺体の写真を郵送。
 1988年10月には飯能市で小1(7歳)を誘拐して殺害。12月には川越市で幼稚園児(4歳)を車内で絞殺。1989年6月都内江東区の公園で幼稚園児(5歳)を誘拐して殺害。遺体をビデオで撮影したり、切断後、一部を食べるなど、犯行の異常さは衝撃を与えました。ただし、彼は犯行の際、性的な興奮を得てはいなかった。
 彼が大量のビデオを所有する映像「オタク」だったことから、「オタク」=「ロリコン」=「性的倒錯者」というイメージがこの事件によってつくられたともいえます。意外なことに、彼が所有していたビデオには「エロ・グロ」ものの作品はほとんどなかったそうです。
「住専問題」(1991年~)
 「住専」とは「住宅金融専門会社」の略。1990年3月に大蔵省はバブル経済の異常に盛り上がりを抑制するため、不動産向け融資の総量規制などを打ち出しました。ところが、その規制の対象外となった「住専」には、巨額の資金が集中。「住専」経由で迂回融資を行うことで不動産投機が行われたことで、住専は巨額の利益を得るとともに、大量の債権を抱えることになりました。しかし、1991年バブルの崩壊により、その債権が一気に不良債権に変わってしまい、「住専」はどこも経営危機に陥ることになりました。
 その中「共和」という鉄骨資材メーカーは住専2社から73億円もの資金を引き出した後、不動産投機で失敗し倒産してしまいました。ところが、その中の使途不明金20億円のうち10数億円がヤミ献金として永田町に流れていたことを東京地検がつきとめました。するとそこには宮澤首相の派閥に属する自民党の国会議員の名前があがります。受託収賄容疑で逮捕された阿部文男から当時の官房長官、加藤紘一までもが限りなく黒であることがわかりました。(結局、加藤は逮捕されることはありませんでしたが・・・)
「佐川急便事件」(1992年)
 1991年、佐川急便社長、渡辺広康が債務保証(借金の肩代わり)を行うという方法で数千万円もの資金を自社から流出させた事件。当然それは佐川急便に巨額の損失を与えた特別背任容疑にあたり、東京地検特捜部は渡辺ら4人を逮捕しました。しかし、すでに回収不能となっていた1000億円余りの資金は暴力団稲川会などへと渡っており、政界にも30億円近くが流れていたことが明らかになりました。
 政界に関しては、最も大きな金額である5億円を受け取ったとされた「政界のドン」金丸信の名前があり、その責任をとって金丸が党副総裁を辞任することになりました。金丸への捜査で明らかになった佐川急便と稲川会との関係もまた衝撃的でした。
<政界のドン:金丸信>
 1980年代後半、長期に渡って政権を維持した中曽根内閣が退陣し、ポスト中曽根の主役の座をめぐり安倍晋太郎と宮澤喜一、竹下登が争った時期がありました。この時、香川県の右翼団体「日本皇民党が「次の総理には金儲けの上手い竹下さんを選びましょう!」と各地で宣伝活動を繰り広げました。それは、当時流行語にもなった「ほめ殺し」作戦でした。そこで竹下の盟友、金丸は佐川急便の渡辺社長に相談。渡辺から稲川会会長の石井進に話が行き、石井が皇民党を抑え宣伝活動をやめさせたのでした。しかし、その時の貸しが渡辺を稲川会の巨額債務保証へと引きづこむきっかけになったと考えられます。
 佐川急便事件により、こうした金丸と暴力団との関係が明らかになったため、金丸は議員辞職に追い込まれました。さらに1993年金丸を所得税法違反容疑で逮捕した東京地検は金丸事務所の金庫から無刻印の金の延べ棒を発見。その出所は、刻印がないことから北朝鮮であると考えられます。(正式に流通している金には必ずロンドン金市場の刻印があるはずです)
 金丸は1990年に国会議員団の団長として訪朝。当時の主席、金日成(キム・イルソン)と意気投合。北朝鮮に関する利権を一手に握っていたのが金丸だったといわれています。(金丸の後、この北朝鮮との利権を引き継いだのが加藤紘一だったといわれています)
オウム真理教(1995年)
「証券・金融スキャンダル」(1997年)
 1997年5月総会屋の小池隆一は野村など4つの大手証券会社と第一勧業銀行の株主総会を平穏に仕切るために自分や自分の親族の会社に不正な融資をさせたり、株式などの損失補てんを行わせていました。たった一人の総会屋に支払われた10年間の返す必要のない融資額は総額で460億円におよんだといわれます。
 こうした事実をつきとめた東京地検は小池と彼に利益供与させていた企業の関係者11人を逮捕します。すると野村証券から押収した資料の中から自民党の若手議員、新井将敬の名前が浮上します。彼は衆院予算委員会の参考人質疑で自らの無実を訴えますが、東京地検特捜部は1998年2月18日、逮捕状を請求。逮捕されることを知った彼は、翌19日に品川のホテルで首を吊って自殺してしまいました。
 他にも政治家の名前はあがっていたはずが、なぜ彼だけが犠牲になったのか?彼が朝鮮系だったせいなのか?単に彼ひとりをトカゲのしっぽのように切ることで、他の議員への疑いをそらせただけなのか?彼は他の政治家の名前が書かれた資料をもっていたらしいのですが、それが日の目を見ることはありませんでした。
「酒鬼薔薇事件」(1997年)
 5月27日神戸市須磨区市立中学の正門前に切断された男児の頭部が置かれていました。そしてその口には「酒鬼薔薇聖斗」の名前で犯行声明文が入れられていました。
「さあ、ゲームの始まりです/愚鈍な警察諸君、/ボクを止めてみたまえ/ボクは殺人が愉快でたまらない/人の死が見たくてしょうがない/汚い野菜共に死の制裁を!!/積年の大怨に流血の裁きを!!
SHOOLL KILL
学校殺死の酒鬼薔薇」

 兵庫県警は6月28日に同じ中学校の3年生A(14歳)を逮捕しました。以前、学校近くで猫を殺しているところを目撃されていたことが逮捕のきっかけになった。彼は少年を殺す時、首を校門前に置く時、ともに性的興奮から射精していたといいます。サディスティックな行為に快感を覚える点で宮崎勤とはまったく異なる犯人だったといえます。
 さらに彼は2月から3月にかけて小学生4人が通り魔的に襲われ10歳の少女が死亡した事件の犯人でもあった。神戸地裁は「責任能力はあるが、成人の人格障害に相当する行為障害であり、長期的な医療措置が必要である」と医療少年院送致処分となった。
 2005年に退院し社会復帰しているという・・・。
「和歌山毒物カレー事件」(1998年)
 7月25日和歌山市園部地区自治会主催の夏祭りで67人がカレーを食べて後、次々に倒れて病院に搬送され、自治会長を含む男女4人が死亡した。その後、林真須美(37歳)がカレーに亜ヒ酸を混入させたとして逮捕された。事件以前に林家に出入りしていた二人の男性が2億円以上の保険金をかけられた上、入院していた。さらにそれ以前にも従業員や母親、そして夫もまたヒ素を飲まされた可能性があった。(夫はすでに歩けない状態だった)本人も保険金詐欺事件への関与は認めている。しかし、毒入りカレー事件に関しては関与を否定している。確かにこの事件で彼女が得られるものはなかったといえる。
 かつて彼女は大手保険会社のセールス・ウーマンだった。16年間で契約させた保険は130件26億円分にのぼった。受取額は6億1000万円。無職でありながら豪華な暮らしをする林家は当初から疑われていた。しつこく付きまとう取材陣への水撒き映像により、彼女は「悪女」のレッテルを貼られ、有罪が免れない状況に追い込まれて行きました。
「桶川ストーカー殺人事件」(1999年) 
 10日26日埼玉県桶川市桶川駅前の路上で21歳の女子大生が男に刃物で刺され出血多量で死亡。ゲームセンターで知り合った風俗店店長(27歳)から交際を迫られ、一時は付き合ったが暴力をふるうために別れた。ところが、男は兄(消防士)とともに迷惑料として500万円を要求。女子大生は父親とともに警察に相談するが相手にされませんでした。その後はさらに兄弟による脅迫や誹謗中傷ビラなどをまくストーカー行為が激化。しかし、県警は女子大生の告訴を取り下げさせようとするなど、問題意識もなく被害届の改ざんまで行っていました。
 この事件では、殺人犯以上に捜査を放棄し被害者に死をもたらした警察の無責任さが批判されることになりました。翌年11月、その反省のもとにストーカー規制法が制定されることになりました。しかし、この後もストーカー被害は増え続けることになります。
「福島原発事故」(2011年) 

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